目覚めのコーヒー 別れのコーヒー
目が覚めた時、私の目に飛び込んできたのは白い壁と白い天井。染み一つない、清浄な、狭い狭い白い箱。
……ああ、私は死んだのだ。
そう思ったとたん、温かい液体が私の目を滑り落ちて耳を濡らした。悲しみではない。肩の荷が下りたのだ。目からあふれるこの液体は、喜びの涙である。
ああ、成功したのだ。
私は、自ら命を絶ったのだ。
白い箱が小さく揺れたのは、いつのことだろうか。目覚めて直ぐ私は再び昏倒したらしい。その地鳴りで、二度目の目覚めとなる。
ごうごうと鳴るその音は、まさに地鳴りだ。私は思わず、身を起こす。
肘を突いて起きた瞬間、腕に軽くしびれが走った。その感覚に私は軽く絶望する。
痛みとは生だ。つまり、私はまだ生きている。
……それなら、ここは、どこだ。
「やあ」
私が目覚めたこの部屋は、壁面も天井も床も白い。出口も入り口もどこにもない。しかし、不思議なことに声が聞こえた。
「おはよう。いや、おやすみ? んー……おかえり?」
白の壁がぼう、と歪むとそこに人の影がぼんやりと写り込む。それは靄のような薄色から、だんだんと具現化した。
まるで音をたてるように、影はやがて一人の姿となる。
「……ま。なんだっていいや。ねえ、斉藤さん」
それは、高い声で、ふざけるように言い放った。
「あれ、名前違った? 斉藤さん、だよね?」
唐突に目の前に現れたのは、一人の少女だ。
長い髪をひとつにまとめ、体には白い着物に濃紫の袴。
あげく、小さな顔には狐の面を着けている。目元と口元ばかりが赤い、不気味な狐の面である。
仮面のせいで顔は分からないが、その細い体は明らかにまだ幼い。
妻も子供もいない私なので、子供の年齢など見ただけでは分からない。それでも幼さは分かる。まだ中学生にもなっていないだろう。
彼女は小さな盆を持ち、その上にはカップひとつ、湯気を立てていた。
「……おまえは……?」
こんな子供相手に怯えてしまったそのわけは、綺麗に伸びた背筋と子供らしからぬ落ち着いた雰囲気のせいだ。面のせいで顔もみえない。不気味だ。そして、理不尽だ。
私はそもそも、理不尽なものが嫌いだ。
「お前は……」
「神だよ」
誰だ。と問いかける前に、まるで心を読んだように彼女は言い放った。まるで、せせら笑うように。
「は?」
「死に神でも狐さまでも、あなた様でもおまえ様でも。なんとでも好きに呼ぶといいよ。私には名前がなくってね。いや、あるにはあるんだけど、随分長くて呼びにくい。だから忘れた。合理的でしょ?」
畳みかけるように少女はいう。私は得体のしれない恐怖に半腰のまま固まった。情けのない話だが、こんな少女の声に、私は怯えている。
「ここは……どこだ、お前……」
「どうしても名前が無くて不便っていうなら、ウカって呼んでよ」
私の膝は意思に関係なくがくがく震え、無意識のうちに手がポケットを漁った。いつもはそこに入っているものが、無い。それは私に絶望を与えた。
「そんなに怖い? 怖がらないでよ、傷つくなあ」
ウカの体は作り物のように白い。この部屋と同じ白さだ。
この少女は地鳴りとともに外からきた。外があるということは、そこには彼女以外の人間がいる可能性がある。
死んだはずなのに生きていること、見知らぬ少女が唐突に現れたこと、その背景が何も見えないこと。
全てが恐ろしかった。
予測がつかない。何も分からない。
それが一番恐ろしい。
私は理不尽が嫌いだ。そして理不尽の次に嫌いなのは、予測の付かない事態である。
「君は、死んだ」
ウカは静かに言った。
その声にあわれみも、恐怖もないようだ。
「……俺もさっきまでは、そのつもりだった」
私は自分の手を見つめる。ごつごつとした、齢50の指である。
手だけは幼い頃から今まで形がかわっていない。子供の頃から関節ばかりが太い指であった。
この長年の友ともいえる指で、私は縄をつかんだ。神社の木にかけた。輪をつくり、そこに首を差し込んだ。
そして、飛んだ。
「……が、死んでない」
脳に一瞬の快楽と痛みが走ったことを覚えている。胃の腑と心臓が最後の足掻きとばかりに、激しく動いたことも覚えている。
人間とは、心が死んでも体は最後まで死にたがらない。生きようと足掻く体に死のうと足掻く心のせめぎ合いを、私はこの体で感じた。
確かに、死んだのだ。あの太い枝が折れるはずはない。事前に、幾度も確認した。
望み通り、私は死ねたはずなのだ。
ウカは真っ直ぐ私を見ている。狐の面に阻まれて表情などひとつも見えないが、なぜか仮面の下にある目は私を見つめている、と感じた。
「俺をこんなところに閉じこめて、どうするつもりだ」
「……食事を」
ウカはこくん。と首を傾げた。髪がさらさらと音をたてて流れる。
「おなか、すいてない? だからご飯を食べさせてあげたい、それだけ」
一歩、ウカが進む。
一歩、私は退いた。
その様をみて彼女は幾分かショックを受けたように、ぴたりと足を止める。
「まあ起き抜けだから、いきなり食べ物っていうのもね……コーヒーなんてどうかなって、そう思って持ってきた」
彼女は私のそばに盆をおくと、すばやく後ろに引き下がる。まるで逃げる猫に接するような態度だ。彼女は私のそばからできるだけの距離をとって、正座した。
「はい。たんと召し上がれ」
と、ウカは嗤う。いや、顔は見えていない。しかしそれは、毒を含んだ笑みだ。恐ろしい笑みが、仮面の下にあるのだ。
「……」
すぐ目の前におかれた盆の上には、小さなカップが乗せられていた。この部屋には似合わない、アンティークなカップである。
中には、黒い液体が揺れていた。
そっと覗き込めば、コーヒーの苦い香りが鼻をついた。黒の鏡面に見えるのは、やつれた中年の顔……私の顔だ。
輝くように黒いコーヒーはこの白い部屋の中で異質だった。映る私の顔も異質だった。
(俺の顔は、こんな、顔だったか)
もう、思い出せない。
(……長く鏡なんて、みていない)
心が死んでからというもの、鏡を覗くのを止めた。50歳を超えた辺りから自分の年も忘れた。やつれきった、青白いその顔はまるで、亡霊のようではないか。
「毒を心配してる? 死にたいなら、いいんじゃない? 飲めば死ねるかもよ?」
ウカはふざけるように、言った。
「それともこの成りで接待されるのは、あんまり楽しくないかな。この姿は軽くてすごく過ごしやすいんだけどね」
ふ。と風を感じた。まるで小さな竜巻だ。目を閉じて、再び開けばそこに一人の女があった。
「まあ私はどんなに姿を変えたところで私だから、この性格ばかりは許してほしい」
……はっと目を見張るような美しい女がそこにいた。
背はすらりと高く、体つきは成熟しきっている。ただ紫の袴と黒の髪、そして狐の面だけはウカとかわらない。そして、その声も。
「お……おまえは、何者だ」
「だから言ってるでしょ。神。人間は神様っていう」
再び小さな風が起きたかと思えば、そこには小さな猫の姿。
狐の面を頭に乗せた、生後半年ほどの子猫がウカと同じ声でにゃあと鳴く。
そして、三度目の風。目をあければ、そこには先ほどと同じ、少女の姿のウカがいた。
「ふん。やっぱり、この姿が一番しっくりと来る」
「……夢か」
腰を抜かしたように、私は呆然とつぶやく。
このようなことが実際に起きるはずがない。少女が目の前で様々なものに姿を変える。そんなもの、現実にあるはずがない。
夢だ。夢だとすれば、どこからが夢だ。首をくくったあとからか、それとも首をくくる前か。
「……夢だな」
私は指をかみしめる。血がにじむほど、強く。痛みが走るが、目は覚めない。
「コーヒー、飲まないの? やだな。冷めちゃう」
ウカは私の声など聞こえてもいないようだ。悲しそうにつぶやくと盆に近づきカップを撫でる。
柔らかい煙が彼女の額を撫でた。
そして、いかにも不服そうにつぶやくのだ。
「にがい香り。よくこんなもの、飲めるよね」
ウカがふうとコーヒーを吹くと、湯気が私の顔にかかった。その香りは確かに苦い。その香りをかいだとたん、私は不意に思い出した。
(コーヒー……)
私も遙か昔はコーヒーなんて一口も飲めやしなかったのだ。情けのない話だが、飲めるようになったのは随分大人になってからだ。
男が社会に出る際に大事なことはいくつもある。その中でも優先順位の高い「大事なこと」は、コーヒーを飲めるようになることだ。
学生時代と違って大人になれば飲む機会が格段に増えるし、飲まざるを得ない機会も増える。
そして、酒と違って飲めないという言い訳がきかない。
それでも若い頃は無理をして飲んでいたように思える。
いつまでも口の中にねちねちと残る苦みと酸味。鼻をつく、焦げたような香り。どろどろと黒の味わい。そして必ず飲んだ後、胃を痛めた。
飲み始めてなお、美味しいとは思えなかった。美味しいと、心底思ったのは数年前のことだ。
そのとき、私は一人の女と別れたのである。
「コーヒーに、思い出が?」
「……っ!」
ウカの狐面がすぐそばにあり、私は悲鳴をかみ殺す。
コーヒーのカップを挟むように、二人は見つめ合っていたのである。
「失礼だな。君から近づいてきたくせに」
あわてて身を退ければ、その反動で指が盆に触れる。その衝撃に、盆が浮き、カップが浮き上がり、中身が盛大にこぼれた。
かしゃん。と異質な音とともに転がったカップは、割れこそしなかったものの中身はすべて白い床にまき散らされた。
真っ白な床に、黒い染み。まるで濁流のように、それは一気に広がった。ウカと私の間に、黒い川が生まれた。
「あっもったいなーい」
ウカは残念そうに、床を見つめる。その香りは今や部屋の中を浸食する。
焦げた豆の香りだ。
(あのときも)
……そうだ、あの時もそうだった。
私は再び思い出す。
記憶の底から引きずり出したその風景は、古くさい純喫茶であった。
こんな喫茶店がまだあるのかと思うほどの古い、古い喫茶店。コーヒーと煙草の香りが染みこんだ、茶色の壁に椅子。
観葉植物に囲まれた木のテーブルに、私は女と向かい合わせに座っていた。確か店内には静かなクラシックでも流れていたようである。もう、曲名も思い出せない。
ただ思い出すのは女のことばかりだ。
美しい女だった。綺麗なワンピースが似合っていた。袖のないワンピースだったので、季節は夏だったのだろう。
そんな暑い季節に、ホットコーヒーを二人で頼んだ。
目的はただの別れ話だ。一瞬で終わるのに、私たちはいつまでも黙ってカップを見つめ続けた。
別れはやがて一言で終わり、女はうろたえることなく頷いた。
悲しくはないのかと、つい聞いてしまったのは私の未練である。
女は再び頷いた。そして、「それであなたが救われるのなら」と、言った。
女は目が見えない。つまり盲目である。
彼女は私を求めるように手のひらを宙に彷徨わせた。白く細長い指。手の甲には薄い一本の傷跡が残るが、それ以外は透き通るように美しい。
私は宙に浮かせた彼女の手を掴むことができなかった。掴めばきっと、未練に絆されてしまうとそう思ったからだ。
行き場のない手でカップをつかみ、私は一息でコーヒーをあおった。
その時、はじめて私はコーヒーをうまいと感じたのである。
喉を通る苦みはさわやかさとなり、粘りつく酸味は私の目を覚まさせる。
目の前に座る女の涙は、湯気のおかげでよく見えない。
私は彼女に贈るためのリングを、空いたカップの底に沈めた。
確か、その時のカップも美しいアンティークなコーヒーカップだったように思う。
「これを美味しいと思えるのは、きっと人間だけだね」
ウカの声で私は急に現実に引き戻される。
いや、これは現実なのか。それとも、あの夏の喫茶店が現実なのか。どちらも夢なのか。
「こんなものに思い出を刻むなんて」
ウカはまるで笑うように、転がったカップをのぞき込む。そしてそのカップの底をそっと、こちらに向けた。
「意外に君はロマンチストらしい」
丸いカップの底には、まるで映し込まれたようにリング型の染みが滲んでいた。