中編
午後四時半すぎ、家に帰るとリビングで母が待っていた。普段なら部屋で眠っているはずの時間だ。
「学校から電話あったわよ」
それが第一声だった。
「あんたは、親に恥かかせて。言ってごらん、どういうつもり。何やってたの」
母は静かに喋るということができない。いつも上から叩きつけるように話す。
「ごめんなさい」
ひかりは母と目を合わせないまま、そうつぶやいた。
「ごめんなさいはいいんだよ、どこでなにやってたかって聞いてるんだよ」
拳をテーブルに叩きつける。ひかりは縮み上がった。とても説明できない。だいたい、どこに行っていたのか自分自身よくわからないのだ。それに、ステラのことはどう説明したらいいのか。
「言いなさいよ、親に言えないようなことをしてたのかい」
違う、と小さく呟くことしかできない。
母は額に手をあてながら、半ば目をつむり、唸るような呼吸を繰返している。
「いいさ、たまには学校さぼりたくなることもあるんだろうさ……でもさ、何が不満なんだい。いい成績とれとも言ってない、大学行けとも、将来何になれとも言ってない……小遣いだって充分あげてるはずだろ……親の言うことが……どうして聞けないのさ……まあいいよ、でも今度また親に恥をかかせるようなことをしたら、ただじゃおかないよ……」
母のせりふは次第にゆっくりに、とぎれとぎれになっていき、最後にはソファに沈み込んで動かなくなってしまった。
「ごめんなさい」
ひかりは小さく呟き、足音を忍ばせてリビングを離れた。
ラ・ステラ・フエソ。
小瓶の中の、小さな純白の球体を眺めながら、ひかりはぼんやりとベッドにうつぶせていた。
スペイン語だろうか。調べても、それが何なのかは分からなかった。
願い事。
一つだけ叶う。
ステラという人の言うことを本気にしたわけではなかったけれど、彼女には何か人を引きつける特別な力があった。
「私はルシア」
そう、つぶやいてみた。
「ルシアは、光」
ただの言葉遊びなんかではなく、大切なことのような気がした。だが、朝、バスに乗っていたときのような浮たった気分は、もうどこにもない。階下でドアが開き、閉じる。母が出て行った。ひかりはキッチンに下り、トーストを一枚だけ焼いて食べた。
このままでは拒食症になるかもしれない。そんな不安感にかられて、無理やり喉に押し込んだのだった。
部屋にもどり、ベッドの上に身体を投げ出した。
痩せたい。身体の変化を止めたい。普通になりたい。皆に溶け込みたい、学校で楽しく過ごせるようになりたい。母さんに叱られないようになりたい。逃げ出したい。
死にたい。
願望をひとつずつ、風船のように頭の上に浮かべてみる。死んだらぜんぶ楽になるな、と思う。でも、想像してみるだけだ。リスカを試そうとも思わない。
楽になりたい。
ラ・ステラ・フエソが宙に浮き上がって、そのまわりを願望たちが惑星のように回り始めた。ああ、これは夢だ。私は眠ってしまったんだ。ひかりはそう思った。
翌日。二時間目のあとの休み時間、担任が教室に現われてひかりを呼んだ。
「今、旅館の人から電話が来てな、お母さんが倒れたそうだ。今、春日崎病院に運び込まれたところだそうだ。どうする」
頭の中が白くなった。
私のせい?
そんな問いが一瞬、頭の中に閃いて消えた。
よくわからないうちにタクシーに乗せられ、病院に向かっていた。
脳腫瘍。破裂寸前の動脈瘤。緊急な手術が必要。
母についていた専務から詳しい話を聞いても現実感は戻らず、医者の言葉は右から左へと、頭のなかを通り過ぎていった。ひかりはただ、意識の無い母の枕もとに呆然と座っていた。大浴場つきのホテルを経営している叔父が現われ、専務と何か話していた。
専務はやがてひかりのところにくると、
「大丈夫ですよ、そんなに難しい手術じゃないって、心配いらないから。よかったら、お母さんについててあげてもらえますか。私は、旅館のほうにもどらなくちゃいかんから」
「でも、私……」
「大丈夫だよ」
そう言って、肩に手を置かれた。
ここにいたって、何もできないのに。
私がいてもどうしようもないのに。
泣きそうになったが、専務は出て行ってしまった。残った叔父が、傍らにしゃがみこむ。
「まあ、こいつも随分無理をしていたからな、神様が、ちょっとは休めって言ってるのかもしれんな」
ひかりのほうは見ないで、母の顔を見つめたままで、叔父の言葉はまるで独り言のようだった。
「なんと言っても、二百年続いた旅館だ。背負ってるものが大きすぎたんだろう。『潰すわけにはいかない、できるなら、なるべく余裕のある状態で次の代に渡したい、でも、ひかりを束縛するようなこともしたくない』よくそう言ってたよ。大学もあきらめて、教師になる夢もあきらめて、やりきれない想いをいっぱいかかえながら、こいつはあの旅館を守ってきた。だから、ひかりには自分のような思いはさせたくないって、よくそんな話を聞かされた」
鉄の塊が頭の上に降ってきたように感じた。
母の考えていることなど、想像したこともなかったと気づいた。
「そんなの……」
そういいかけて、自分でも何が言いたいのかわからなくなる。
「そうだな、こいつの独り善がりだ。こいつは昔から短気で自分勝手だ。でも、そんなこいつなりに、ひかりのことを思っていたんだ、そこんとこ、わかってやってくれ」
叔父は「よいしょっ」といって立ち上がり屈伸を何度か繰返して、
「付き添いのものを代わりに寄越すから、それまではついていてやってくれ。学校は、まあ、戻りたければ戻ればいい」
そういってウィンクをして、叔父は去って行った。
ひかりは何も言えなくて、泣き笑いの顔で頭を下げるしかなかった。
女将と社長を兼ねる母がいなければ旅館の業務がまわらないことは、ひかりにも想像がついた。すべての客はさばききれず、大きな団体を叔父のホテルに引き受けてもらったと、後で専務から聞いた。旅行会社のパックツアーなんて、旅館側には僅かな利益しか出ないのだ。それを、母の旅館と同じ条件で、ずっと格上の叔父のホテルが引き受けるのだ。
ひかりには何もできない。手伝うことさえできない。
初めて、自分が未熟な存在なのだと知った。初めて、大人の世界が休み無く回りつづけているのを感じた。
学校には戻らなかった。昼頃、部屋に帰った。中に入った瞬間、背筋を冷風が吹きぬけていった。何故だか分からない。机の上のラ・ステラ・フエソが目に入った。
粉々に砕け散っていた。
たった一つの願いを叶える、強い強い力を持った、ラ・ステラ・フエソ。
「どうして」
今朝起きたとき、小瓶の中はどんなだったろう。憶えていない。
昨夜の夢で、最後に願ったものは何だったろう。
宙に浮かぶラ・ステラ・フエソ。そのまわりをルーレットのように巡る、いくつもの幼い願望。
私は何をしてしまったんだろう。
私は何を願ってしまったんだろう。
答える声はない。
ひかりは青ざめ、胸の奥の凍りつくような感覚に震えた。
続く