前編
ひかりが目覚めるとき、母はいつもいない。
なんだかだるくて、頭痛がした。熱もあるような気がした。
『身体の調子が悪い。学校に行けそうにない』
母に、そうメールを送り、出かける支度もせずにぼんやりと天井を眺めていた。十分ほど経って、携帯に母からのコール。食器が触れ合う音や、料理人たちの呼び交わす声におおいかぶさって、母の声。
「何バカなこと言ってんの、甘えてないで学校行きなさい、遅刻するわよ」
母はいつも怒鳴る。旅館の女将というのは忙しいのだ。朝は六時前から、出発する客を見送る十時過ぎまでは、息つく暇もないくらいだと聞いた。
ため息をついて、ベッドから降りた。顔を洗い、髪を梳き、制服に着替える。夏服は嫌いだった。ブラジャーが透けてしまうから。
男子生徒の視線が嫌だった。裏サイトでいろいろ書かれるのも嫌だった。
みんな一緒に成長すればいいのに。どうして個人差があるんだろう。どうして男と女がいるんだろう。
ブラウスの胸がきつい。また少し大きくなったみたいだ。空腹だったが朝食はとらなかった。痩せたかったから。胸も腰ももっと細くなりたかった。みんなと同じになりたかった。
だが、大人になるのは止められない。
ため息をついて、誰もいない家を出た。
入り組んだ海岸線に沿って古い旅館が並ぶ、温泉の町。家は高台にあって、温泉街全体を見渡せた。曇り空の下、いくつも立ち上る湯煙。閑散とした通りに、みやげ物屋が並ぶ。
バスを待った。いつもと同じバス。乗り会わせるいつもと同じ顔。それを思うと気が重くなった。別にいじめられているわけではない。だが、信じられる友達もいない。いつ的にされてもおかしくない、そんな日々がずっと続いている。
ふっと、逃げ出したくなった。
もしかしたら、朝起きたときからずっとその気でいたのかもしれない。反対車線に移り、行き先も確かめずに、最初に来たバスに乗った。
胸がどきどきした。本を読んでいるふりをして、ずっと顔を伏せていた。やがてバスが海沿いを離れ、川を渡ると、平野が広がった。一面、青々とした田んぼが続いている。バスでたった二十分走るだけで、景色がこんなに変わる。
不安も、罪の意識も、小さくなっていった。開放感に胸がはずんだ。
JRの駅のある町で降りて、はじめての町をあてもなくぶらついた。
駅前は寂れていた。アーケードのある商店街は薄暗く活気がなかった。明るく騒がしいのは二軒のパチンコ屋だけ、それ以外に人の出入りがあるのは消費者金融のCDコーナーだけだ。あとは、どの店もどの店もシャッターを下ろして、しんと静まり返って、パチンコ屋の流すBGMがどこまで歩いてもついてくる。沈み始めた気分を振り払おうと、ひかりはシャッター通りをはずれ、路地に入った。
誰かに見られたら困るという気持ちと、人のぬくもりがほしいという気持ちが錯綜していた。温かいものに包まれたかった。
このまま、この寂れた土地の、居心地の悪い学校と、誰もいない家の往復を繰返して、我慢して我慢してたどり着くのは、母の下で女将の修行をするという道だ。
まるで自分は、実験室の迷路を走るネズミのようだと思った。どんなに迷っても、必死で走っても、出口は一つしかなくて、しかもその出口も実験室という閉じた空間にしかつながっていないのだ。
「死にたいな」
ふっと口をついて出た言葉に、胸が冷たくなった。今のままも辛いし、大人になるまでの道のりも耐えがたいし、大人になった先には、何の救いもない。母みたいなぎすぎすした大人になって、きっと母みたいに、結婚した相手に出ていかれるのだ。
「死ねたらいいな」
今度は、意識してそう呟いてみる。
今までずっと、それを望んでいたような気がしてきた。願望はずっと胸の中にあって、ひかりが気づくのを待ち続けていたのかもしれない。
死。
お風呂にお湯を一杯ためて、ナイフで手首を切って、バスタブの中に浸す。眠るように死ねるだろう。
朝からのざわついた気分が凍りついたように鎮まり、変に落ち着いてしまった。バスで川を越えたときとはまた違った暗い快感に浸されたまま、見知らぬ町の誰もいない路地を、殆ど無遊状態で彷徨う。
ふと、ヴァイオリンの音に気づいた。
かすかに、でもそれほど遠くない場所から。 ヴァイオリンだけではない。ウッドベース。ピアノ。それにこれは、アコーディオン?
ラテン系の情熱的でアップテンポの、でも寝苦しい真夏の、いつまでも続く夜のような重く憂鬱な調べだった。音楽に惹かれて、ひかりは路地の奥へと導かれていった。
STERA。
流木でできた小さな看板には、白いペンキの素朴な文字でそう描かれていた。間口の狭い、小さな雑貨屋。バリや、ベトナムあたりで売っていそうな素朴で可愛らしい小物がウィンドウに並び、その隙間に貝殻でつくったブローチとか、しゃれたデザインの置物が並んでいた。窓の高いところには、乾いて白くなったヒトデとアンモナイトが、まるで月と星のように掲げられていた。
店の周囲には普通の民家や、昔風の喫茶店、金物屋、家並みの隙間からは青々とした水田が見えた。
ちょっとだけドアを開けて、店の中をのぞいて見る。あのラテン音楽が戸の隙間から溢れ出してくる。音の隙間に、定期的に呟きのようなノイズが混じる。きっとこれは、アナログディスク……そうだ、思い出した。いつか映画で見た、これはタンゴ。まるで極彩色の悪夢のように鮮やかで憂鬱で、そしてたまらなく切なくさせる、アルゼンチンタンゴ。
店内はずいぶん狭かった。一間の間口に奥行きが二間もないくらい。店の奥は住宅になっているらしくて、半ば開いた引き戸の奥に、階段が見えた。上がりかまちのところに女の人が腰掛け、本を膝の上に開いて、ひかりに微笑みかけていた。
「こ、こんにちは」
女の人は微笑を大きくするだけで何も言わなかった。髪は真っ白で、瞳が青空の色をしていた。肌は明るいチョコレート色で、つやつやとして、歳がいくつぐらいなのか、ちょっとわからない感じだった。三十歳から七十歳までの、いくつでもおかしくないような、そんな不思議な雰囲気の人だった。
「あの、音楽が、聞こえてきたから、その」
お店ではなくて個人の邸宅に上がりこんでしまったように感じて、しどろもどろになりながら言い訳をした。女の人は分かっているのか、いないのか、ひかりのせりふにひとつひとつ頷き、自分の胸に手をあてながら、
「わたし、ステラ」
ゆっくりとした発音でそう言った。
「え、あ、ああ、私はひかりです、水沢ひかりといいます。中学一年生です」
ステラさんは少し首をかしげ、左の耳を突き出すようにして、じっとひかりの話すことを聞いていた。そして何度か頷き、
「あなた、ひかりさん」
確かめるようにそう言ってにっこり笑った。
「ひかり、は、ルシア」
「は、はい?」
「ステラ、は、星」
何も理解できていないひかりに困ったような笑みを投げて、その人は言い直した。
「私は星、あなたは光。フシギの出会いね。でも、出会うのこと、必ずの出会いね」
五秒ほどかかって、やっとひかりにも意味がわかった。
「星は光のお母さんですね」
ちょっとずれたことを言ってしまったかもしれない。だが、ステラという人はふんふんと頷きながら、嬉しそうに笑うだけだ。
「ルシア、あなたに良いものある」
ステラは思いついたようにそう言い、身軽な動きで立ち上がった。流木や貝殻を加工したアクセサリーの並ぶ中から、親指ほどの大きさの小瓶を取り出してきて、ひかりの手に握らせた。
中には、小さな真っ白い球体。真珠のような光沢はないが、流線のような縞模様がかすかに刻まれていて、美しい。
「ラ・ステラ・フエソ。願い事かなう。とても強い強いの力ある」
「うわ、いや、ごめんなさい。私、今日お金もってきてないから」
「お金いらない。ステラとルシア出会うの事、必ずの事。ラ・ステラ・フエソ、強い力。
願うこと、一つだけ。よく選ぶこと。とても大事」
「ええ、困ったなあ、どうすればいいんだろ」
「もうすぐ雨ふる、急いで帰る」
「え?」
ステラは有無を言わせず、ひかりを追い出しにかかった。肩に手をかけられ後ろ向きにされ、そのまま出口まで押していかれる。
「さよなら、ルシア」
きいっと扉がきしんで、締め出されてしまった。確かに空を見上げると、雲が降りてきて、にわかに暗くなってきている。急いで駅前のバス停に走った。ステラからもらった小瓶を、しっかりと握り締めたまま。
続く