ミノタウロス
剛の連撃に、人の動きが交差する。
ミノタウロスに魔術の砲撃は通用しない。やはり神話にある通り、刃物での攻撃でなければ通らない――のではなく、単純に躱されている。
体格に似合わない俊敏さ。ついて行くだけで精一杯だ。
「くそ……っ」
何度目かの無駄。好き放題は阻止しようと、大人しく魔術を行使する。
が、そんな願いと敵の行動は裏腹だった。牛男は突き進む。人一人を吹き飛ばすような衝撃でも、力に訴えて寄せ付けない。
せいぜい足の動きが鈍る程度。時間稼ぎも夢見ごとだ。
挽肉にしようと、鉄塊にしか見えない斧が振り下ろされる。
「っ――!」
腕に砲撃を叩き込めば、多少の妨害は成立した。その間に斬撃の圏内から離脱する。
振り下ろされたのは直後のこと。衝撃に晒された石造りの床は、遭えなく爆砕四散するだけ。細切れになった礫が頬を掠める。
ミノタウロスは追撃の手を諦めず、即座に斧を引き抜いた。雄叫びと共に、獣染みた殺意が襲ってくる。
小さい影が斧の軌跡を変えたのは、直後だった。
「はっ!」
金属音が軌道を逸らす。
正面へ割り込んだスズリに疲労はない。真っ直ぐ伸びた背筋で、前衛役を見事に果たしている。
直後の剣戟。介入お断りの速さで、双方の衝撃が飛散する。
打ち合いを制したのはスズリだった。
がら空きになった胴体へ、剣を振り抜いた勢いでの蹴りが炸裂する。強化された筋力は、確かに幻獣を吹き飛ばした。
「こちらです!」
二人は反転し、脱兎の如く逃走する。
姿勢を立て直し、即座に追ってくるミノタウロス。小さな一歩でも常人には大股だ。必死に開けた数メートルの乖離も、秒を刻む度に減っていく。
迷宮の曲がり角を進んだ、直後のこと。
小部屋の入口が二人には見えていた。木製の扉だが、攻撃をやり過ごすには十分。猛追する轟音に胆を冷やしながら、全速力で向かっていく。
扉を突き破り、ようやく中の部屋に入った。
入口の高さはよくて二メートル辺り。ミノタウロスは当然立ち往生。天井から細かな礫が落ちてくるのも、やや後の出来事だった。
「壊すつもりですか……」
「他に対策がないだろうからな。急いで向かい側の出口に抜けるぞ」
ええ、と頷く少女を見て、思わず哲心は感心していた。
彼女は呼吸一つ乱してすらいない。確実に自身の役割をこなし、生き延びることに貢献している。ミノタウロスに遭遇してこのかた、弱音の一つも漏らしていない。
覚悟を決めたと、そういうことなのだろう。
崩壊が約束された部屋を抜け、向かい側の通路を走る。
迷宮には幾つかの小部屋が用意されていた。ミノタウロスの進行を止める役割だが、当然破壊は逃れられない。脱走者は次の休息地を探して一直線。
「隙を用意してくれたのは、やはり良心の呵責からですの!?」
「……」
走りながらの会話に、スズリの余裕を感じ取る。
哲心はもちろん答えたくないが、無視し通すのも失礼な気がした。
「違う。現実のクレタ島に迷宮型の遺跡があって、そこに小部屋が何個か設えてあったんだと。それの真似だろうさ」
「成程。あくまでルールの――」
うち、と締まる筈が、後方の破砕音に呑まれていた。
牛男は食糧に対する歓喜からか、再び雄叫びを練り上げる。走る勢いを上げる哲心達だったが、向こうにすれば雀の涙ほどの差異だろう。
「は、っ――」
少しだけ息が上がる。命の危機に差し掛かっていようと、体力には限界があるのだ。
二つ目の必死は思考の中。厳哲から聞かされた、テセウスのエピソードを思い返す。
彼がミノタウロスと戦う羽目になったのは、生贄にされる人々を救うためだった。迷宮に入る前に出会ったのが、王女アリアドネ。彼女から赤い毛玉とナイフを託され、テセウスはみごと難事を成し遂げる。
だったら、それに見合う再現とは何か。
いざ考えを纏めようとするが、猛追する敵に意識が向く。
「先に行け!」
「え……」
目を丸くしたスズリに構わず、哲心はミノタウロスへ突貫した。
このままではいずれ追い付かれる。条件を満たしている可能性は限りなく低いが、衝突もまた避けられない。
魔方陣の連結が意思の現れ。枚数は二枚ずつ。半数に減る砲門だが、威力と射程は数倍と見積もって有り余る。
「っ――!」
踏み砕かれる足場。一対一を好機とばかりに、敵は逡巡すら挟まない。
二門が迎撃の引き金を引く。――が、同じ結果が繰り返されるだけだ。
怪物は変化もなく、馬鹿の一つ覚えのように袈裟切りを叩き込む。
飛び退く哲心。うちの一門を敵の脇、外側に向けて滑らせる。
完全に的外れな砲撃は、壁に触れて霧散した。
中に、巨大な瓦礫を混ぜて。
「っ!?」
ミノタウロスは異変を察知するが、手遅れだ。壁はゆっくりと内側に倒れてくる。
動こうとした矢先には魔砲の洗礼を。脚力さえ妨害できれば今は事足りる。
余った方では、もう一方も破壊した。
左右からの挟撃。哲心は放射を続けながら退避する。
とっくに人外の体躯は影の下。防ごうにも、魔砲を堪えているために構えが取れない。
しかし瓦礫が散らばる直前。どうにか動き出した巨躯は、ついに魔術を弾き飛ばした。
それでも優位は変わらない。哲心は崩落の余波を逃れられる位置にいる。ここでミノタウロスが何をしようと、刹那の間に下敷きだ。
故に、敵は飛ばしてくる。
握った斧を、力の限りで投擲してきたのだ。
一瞬で顔色を替える哲心だったが、こちらも時既に遅し。
「ぐ……っ!」
斬撃が脇腹を深く抉る。
一方で無事にミノタウロスは封殺された。五十メートルから直撃した瓦礫は、岩雪崩として迷宮を連打する。
舞い上がる煙。山のように積み重なって、彼らは己の最後を誇っていた。
無論、これで撃破したわけではあるまい。時間が経てば復帰するだろう。明確な対処を熟慮する時間は、それが最初で最後になる。
「――け、怪我をしているではありませんか!」
戻ってきたスズリは、比喩も不要なほど顔色を青くしていた。
だが哲心はそれ以上。魔力の消費も重なって、強烈な疲労感に襲われている。傷の方も冗談で済む範囲を超えていた。
「私の肩を借りてください。頼りないかもしれませんが、あるだけマシでしょう」
「済まん……」
「謝る必要などありません」
埋まった嵐に背を向けて、二人は休息の場所に急ぐ。
振り向いた先では、未だ生物の気配があった。
「まったく、こんな負傷をするなんて。先に行け、と格好つけた意味がありませんわ」
「被害者は俺なんだから、別に問題ないだろ。女の子の腹が裂かれるよりはな」
「――」
呆然とした表情は、嘆息を告げて締め括った。
怪我の方は一先ずの応急処置。制服を千切って包帯の代わりにしている。ミノタウロスが健在である以上、しっかりした治療は受けたかったが。
休息はまさに嵐の前触れ。崩落現場から距離を取った小部屋だが、妙な静寂が逆に怖い。
激痛を引き摺りつつ、哲心はどうにか腰を上げる。少女の向ける杞憂の目が辛い。大したことではないと、せめて弁明してやりたかった。
しかし無論、肉体は現実を理解している。意地を張ったところで隠せるものではない。
理性で支えられるのは、折れ掛かっている心だけだ。
「大丈夫ですの?」
怪我人を気遣ってか、スズリも一緒に立ち上がる。
否定も肯定もなく、荒い呼吸だけが症状を語っていた。
「……それよりも、先に考えるべきは敵のことだ。このままじゃ、打つ手なしで死ぬだけだぞ」
「倒すための――傷を与えるルールを満たしていないと、そういうことですわね。件の神話とやらに続きはないのですか?」
「他は……帰国途中にアリアドネと別れたり、船の帆を間違えて父親が死んだりする。が、迷宮と直接的な関わりはない。まあそのエピソードを組み込んでいる可能性はあるが」
「なら、何が欠けて……」
喉を鳴らして思案する。焦ってしまうのは良くないだろうが、記憶は必死に解答を求めていた。
「結界の仕組みが変更された、という線は有り得ないでしょうか? 発動したのは厳哲氏ではなく、第三者の筈。その段階で手が加わっている可能性は?」
「低いな。以前に俺が見た結界と、内容そのものは変わらない。他人の魔術を変更するなんて、洗脳同然の話だしな。祖父の魔術相手には無理だろう」
「むむ」
スズリは再び考察の顔付きへ。
一方の哲心は、小部屋の外を眺めたまま微動だにしない。第三者が見れば力尽きているようにも映ったろう。それだけ余力が残されていない。
外は静寂で、空気の流れさえ映りそうだ。
胸の早鐘は速度を変えない。急かされているような気分になるが、実際にその通りだ。誤魔化したところでどうにもならない。
「……ものは試しだな。スズリ、ちょっとそこでじっとしててくれ」
「は、はあ?」
考えは率直、シンプルイズザベスト。誤魔化しや妥協を介さない方が、真実を突いているかもしれない。
果たして、結果は想像通りだった。
スズリの身体が透けている。結界の在り方に沿い、退場への準備が始まった。
「ちょ、ちょっと! これはどういう――」
「動くな」
指先一つで、彼女を魔方陣が包囲する。
しかし得心がいった様子はない。刻一刻と存在感を無くしていく身体に、一抹の恐怖さえ感じているようだった。
「ミノタウロスに遭った時、生贄は怯えて何一つしなかったらしいからな。まあそこをストレートに汲んで、試してみたわけだよ」
「だ、だからって、どうするつもりですの!? 負傷した状態で勝てるとお思いですか!?」
「出来る出来ないじゃない。これは役割の問題だ」
法則上、あの幻獣にトドメを刺せるのは哲心だけ。スズリが残っていたところで、盾か囮の役割しかない。
そもそも、ミノタウロスを一体倒しただけで結界が解除される保証はない。発生源に干渉するのが一番確実だ。
スズリが自由を得てしまうのは百も承知。が、ここにいたって彼女の目的には沿ってしまう。なら一か八か、善意の欠片に頼った方がいい。
「――なので、後は宜しく頼む。家の方にまで行って、結界の機能を止めるだけだ」
「と、止めるなんて、どうすれば……」
「行けば分かる。……領内の人間に手を出すようなら、地獄から這い
出てやるからな。ああいや、天国か地獄かは知らんけど」
「ちょ、ちょっと――」
言葉はそこで途切れた。いや、まだ小言を吐いているようではあったが、結界から隔離されたため伝わってこない。
それでも希薄な輪郭は、目で送るだけの価値があった。
ふと、何かを吹き飛ばすような騒音が聞こえる。引き籠りを部屋から連れ出す、お節介な化物の音が。
「はあ……」
軋む肉体と格闘しながら、哲心は深々と息を零した。
別に痛みへ根を上げたわけではない。明らかな敵に甘さを捨てられない、自分自身へ呆れただけだ。
祖父や要、妹や両親にも指摘されたことではある。何度も修正を試みているが、上手くいった試しは一度もない。数秒後に忘れていることだって度々だ。
それでも、危害を加える側へ回りたくはなかった。
因果応報であるならまだ分かる。
文明の発展が生む闇、あまりに巨大な集団を作る意味。こうなって当然だ、と自身が納得できるモノには、どんな結末が訪れようと冷酷でいられる。外道と呼ばれても、当然の帰結だと納得する。
しかし他の感情を取り扱うなら、哲心は善人寄りの人間だ。思考回路は最小単位で。この場に彼女と自分しかいないなら、お互いに出来ることをするまでと。
――本音を言うなら、女性を身代わり同然に扱いたくなかったかもしれない。
自己矛盾とはまさにこれだ。小さい単位で考えろと言っておきながら、知り合って一日の少女を優先しようとしている。もっと長く、親しい付き合いのある領民を危険に晒して。
「もう少し、立ち位置は定めないとまずいんだがなあ……」
相手がその場で悪意を示さないと、これ以上なくやり辛い。
さっきだって、もっとベストな選択肢はあったのだ。離脱の条件が静止であれば尚のこと。砲撃の一発でも叩き込んで、無理矢理行動を奪えばいい。気絶すればなお良しだ。
戦力も削ぎ落せて一石二鳥。ヒトクイの被害に、出来るだけの抵抗を施せる。
「――」
もちろん過ぎた事だ。部屋を出ながら、悔む理屈もないと――肩の力を抜いていく。
戦力自体の差は否定できない。向こうの身体能力だって、人間を遥かに上回っている。
しかしやらねばならない。彼女が結界を解除するにしても、それまでの時間は生き残る必要がある。
右も左も命懸け。だったら、手短に済む方へ賭けるだけだ。
哲心の行き先は崩落させた壁の下。
ようやく出てきた牛男の輪郭。喉は食欲を抑えきれずに唸り、眼光は赤く血走っている。まるで点火した爆発物だ。
お互い様か、と自嘲の笑みが頬に来る。
しかし余裕はそれだけのこと。全身を蹂躙する痛覚は、魔術の行使にさえ影響を与えかねない。精神の産物である以上、己を掻き乱す五感は最大の敵だからだ。
とは言え、男は出した拳を引っ込める思考がない生き物。
面倒だとか死にたくないとか、くだらない保身は理想でもって呑み込んだ。
「――第一から第四階層、展開。全層連結」
言霊に沿って、普段通りに起動する魔術。中にはブレているものもあるが、華麗に目を背けて対処とする。
重なった四つの陣は、長銃に似たシルエット。突き出した腕を覆うように成立した。
ミノタウロスは、全身をバネのように。
直後の猛進に備え、哲心は双眸へ力を込める。三度目の正直か、仏の顔も三度までか。
どの道、
「倒す……!」
魔力による砲撃を、手袋代わりに叩き付ける。