学校
朝食のメニューは、目玉焼きにキャベツの千切り。それとパン。
ありふれた神谷家の朝だった。机を囲んでいる人数が二人というのは寂しいが、環境なんて三日で慣れる。静かな食卓も悪くないものだ。
「……爺さん、スズリは?」
「彼女なら、お前が帰ってくる少し前に出ていった。気付かんかったのか?」
「まったく」
どうりで静かだと思った。昨日は早く床に付いた筈だし、早めに起きたのだろう。
見送りが出来なかったのは残念だ。どれだけ相容れない事情を抱えていようと、客人は客人。また学校で、くらいの挨拶は交わしてやりたかった。
居間にはラジオの放送が聞こえている。
暇な時間はテレビを眺めている祖父だが、食事時ばかりはお預けだ。
ニュースの内容は、ついさっき意識不明の男性が発見された、というもの。
続報に興味を向ける厳哲だが、現場を見てきた哲心は食事を続ける。のんびりし過ぎると要に迷惑だ。集合時間には間に合うよう、余裕をもって外出したい。
「原因は不明、か。都会というのは物騒じゃのう」
「……これ、魔術師の仕業だったりするんかね?」
「そう疑うな。確かに可能性はあるじゃろうが、証拠があるわけでもない。続報を待つのが賢明かの」
「ですかねえ……ご馳走様」
一礼して、哲心は食器を食洗機にセットしていく。以前、祖父の衝動買いで犠牲になった品だ。水仕事は祖母が亡くなって以降厳哲の日課だったが、このようにサボり癖が付いている。
哲心は二階へ戻ると、鞄の中身を確認した。勉学に然程精は出していないが、最低限の真面目さは見せたい。――神谷哲心という学生の質は、概ねそんなところだった。
後はポケットに財布、携帯電話を突っ込むだけ。時間の方もちょうど良い。
「んじゃ、行ってきます!」
おう、と祖父の返事に背中を押され、森林地帯へと踏み込んでいく。
要との集合場所は今朝のランニングと同じだ。動物の気配がない神谷家の敷地を、そさくさと駆け足で下っていく。
境界の壁を抜け、歩道に出る直前。木々の間からは、制服を見事に着こなす少女がいた。
よ、と気楽に手を上げれば、向こうは敬礼の真似事で答えてくれる。
「おっす、お坊ちゃま。さっき以来だね」
「改めておはよう。しかし主人を自宅まで迎えに来ないとは、失礼な侍女がいたもんだ」
「ありゃりゃ、じゃあ減給かな? こりゃあ住み込みで働く日も近そうだねー」
本人はいたって冗談のつもりらしく、満面の笑みを浮かべている。
哲心としては一向に構わなかった。祖父も大喜びで歓迎するだろう。向こうの親御さんだって、反対の態度は示すまい。
「――」
発言が示唆するものに気付いたのか、要はみるみる赤面していく。
彼女は恋愛話や好意の表現へ遠慮がない癖に、初心な部分がまだ根強い。今のように、勢いで発言して後悔する、なんて日常茶飯事だった。
お陰で二人の関係について、学校では知名度が上がっている。目立つのは好き好めない哲心だが、こればかりは許容せざるを得なかった。見聞が一人歩きしているわけでもないのだ。クリスマスの不思議な告白も含め、恬淡とした既成事実。
今、横目には俯く彼女が映っている。穴があったら入りたい、と頬に書いてありそうだ。もう何回目になるのやら。
こっそり浮かべる哲心の微笑に、要はそのまま顔を上げる。
「ちょ、ちょっと、笑うところじゃないでしょ? こっちは本当に恥かしいんだってば……」
「でも、周りから言われることもあるんだろ? その時はどうしてるんだ」
「い、今と同じ反応で御座います。……にしても、噂ってどこから広がるんだろうねー。哲心は誰かに話した?」
「するわけないだろ。要こそどうなんだ?」
「……聞かれたから答えちゃった」
人の口に戸は立てられぬ、と言ったところか。
嘆息する哲心の横では、要の知り合いらしい女生徒が何人か挨拶してくる。中にはからかう様な声もあった。
そのどれにも少女は困惑気味。しかし声色からは、本人も楽しんでいる風情だった。
哲心はその様子を無言で、傍観者として眺めるだけ。口を突っ込みもしなければ、一緒に挨拶を返すわけでもない。彼女の幸いを、自分のこととして感じている。
知人達が離れると、要は哲心の隣りへ戻ってきた。
「さっきの続きだけどさ、一応あたしは釘刺したんだよ? 黙っといて、ってさ。それをどうして話すかなー」
「理由は色々あるだろうな。まあ、騒ぎ立てるだけなら可愛いもんだろ。架け橋になるー、なんて余計なお節介をされるよりはさ」
「ああ、確かにね。皆聞いてくるけど、最後の一歩は踏み込んでこない感じ」
「クリスマスのこともか?」
「うん」
信用されている、と考えるべきだろうか。
しかし、今考えても不思議なクリスマスだったと思う。気持ちは通じあっているが、付き合わない。恋愛に憧れを懐く高校生の態度ではない筈だ。
一方で妙な充足感があったのは覚えている。が、それはどちらでも同じだったろう。現に保留をしたいとの言葉を聞いた翌日、二人はいつも通りだった。
幼馴染という根底。覆すのは、どんな衝撃であろうと物足りない。
「あの日からさ、告白されるようなことも少なくなったんだよね。他校の生徒から手紙も渡されなくなったし」
「……そんなことあったのか?」
「うん。文通、かな? そういうのをしたい、って中学の同級生から。話さなかった?」
「触り程度には聞いたような……」
自分には関係ない、と昨日のように切り捨てていた気がする。
いや、あるいは記憶に留めたくなかったんだろうか。常に冷静を心がけているが、自分はひょっとしたら嫉妬深いのかもしれない。気をつけないと。
今朝も通り掛かった信号の前では、同じ制服の学生が羅列している。
事件のことを話している者は誰もいない。ただ要は気になっているようで、野次馬が集まっていた場所を注視している。
「あの人、どうなったんだろうね。ニュースでは意識不明、って言ってたけど」
「後の地方ニュース待ち、だな」
信号を渡りきった頃には、校舎の姿を目に捉える。
話し掛けてくる生徒もおらず、要は遠慮なく雑談を再開した。ネタは、この前彼女に貸した本。
流行りに強いわけではないが、哲心はライトノベルや小説など読書を好む。要のその影響を受けたらしく、ときどき互いの本を交換することもあった。
と言っても、今回貸した本はガリバー旅行記。現代の若者が読むような代物ではない。
「あれ、絵本になってるエピソード以外にもあったんだね。知らなかった」
「題材として扱いにくい部分があったんじゃないか? ……実際、一部と二部の内容を忠実に再現したら、児童書にはし難いだろうし」
「リアリティはあるもんねー。巨人の国なんて、絵にしたら年齢制限付きそうだよ」
「ちなみにどこまで読んだ?」
「バルニバービのとこ。ガリバーが研究所に向かうシーンだね」
だとすると、もう半分以上は終わったわけだ。貸したのは先週なのに、結構なペースである。
頑張ったよー、と握り拳を作る要。素直に褒めてやるだけで、子供のような笑みが溢れる。……こんな風に笑えるのなら、男子人気も納得だ。
二人は校門を潜って昇降口へ。クラスは別々のため、そこで一旦別れることになる。
三年生の教室は最上階だ。その間も趣味の話題を交わして、経過する時間を惜しむばかり。
最後の分かれ道に立って、哲心は軽く手を上げた。
一日の半分を占める学校生活が、今日も始まる。
「はぁ……」
スズリ・ファティナは苦悩していた。
左手には携帯電話、右手で頬杖。現頭首である父から送られたメールに、何十回と目を通していく。
曰く、危険だから大人しくしていなさい、と。
つまるところは戦力外通告だ。優しい父親だから、娘の気持ちに憂慮はしたのだろう。
無念に尽きる。
「おっすスズリー! ……あれ? 元気ない?」
「要……おはよう御座います」
「うん、こっちこそ。で、何か悩み事? あたしで良ければ、愚痴でも何でも聞いたげるけど?」
「――ふふ、有り難うございます」
だが相談するわけにはいかない。彼女が例え魔術師だろうと、これはファティナ家と名門派の問題だ。
もっとも、スズリの方からは確認したいことがある。
「いつも要が話している幼馴染とは、神谷哲心さんのことですか?」
「うん、そうだけど……あれ? 教えてなかった?」
「直接は聞いていませんわね」
ただ、二人で下校する姿を何度か見たことがある。彼と直接会ったのは昨日が初めてで、故に合点がいったわけだ。
となれば親友は、哲心へ接触する架け橋でもある。
拒まれたことについて、そう簡単に諦めることは出来ない。最善が協力関係の締結ではあるのだ。
なので要に仲介を――とまで考えたのは良かったが、友人を道具同然に扱うのは気が引ける。そんなに話したければ、自分からコンタクトを取れば良いだろうし。
それでも、確実性を直視すると避けられない手段ではあって。
「――一つ頼みたいことがあるのですが」
自信の無さと切迫感が、心のしこりを拭い落とした。
「哲心さんに相談したいことがありまして。彼を呼んできて頂けます?」
「そ、相談……!? 何の!?」
「お、親が同じ職場でして。そこで生じた問題について、意見交換をしたいというか」
「ふ、ふうん……」
訝しんでいる要だが、数秒の凝視を得て隣りのクラスへ。スズリはホッと胸を撫で下ろした。
しかし後になって、彼が応じる可能性は低いと思い直す。結局、もがきたかっただけなのだろうか。メールの文面を眺めながら、そっと身体をうつ伏せにした。
「っ!」
叱責するように、バイブレーションが動き出す。
一瞬で高鳴る胸の鼓動。恋なんて甘い情念ではなく、氷柱で刺されたような恐怖心に支配される。
だがディスプレイに映ったのは、クラフトの電話番号だった。
「な、何か?」
『もう少しまともな挨拶はないのかね?』
「す、済みません……」
相手の声色を探るのも忘れて、スズリは身振りつきの謝罪を送る。この時だけは教室の視線も忘れていた。
『君も学校だ、要件は手短に済ませよう。――昨夜、白い化け物と遭遇したそうだな?』
「ヒトクイのことですの?」
『その通り。ならばもう一つ踏み込んで問うが、倒してしまったかね?』
「え、ええ、哲心と協力して」
受話口から感謝が聞こえる――かと思えば、実際のところは吐息だけだ。肺の空気をすべて絞り出すような、失望に失望を重ねた音色。
晴れない気持ちのまま、スズリは耳を寄せ続けた。
『アレを撃退するなど言語道断だ。次はもっと面倒なことが起こるぞ』
「ど、どういうことですの? 説明を――」
『詳しくは神谷哲心にでも聞きたまえ』
ブツリと強引な音を立て、会話が途切れる。
訳が分からない。が、タイミング自体は悪くなかった。教室の入り口では、親友が手招きしながら立っている。
周囲の視線に気付きつつ一礼して、スズリは教室を出ることに。
「えっと、あたしは向こうに行った方が良い?」
「……お願いしますわ」
哲心の意見を聞いていないが、別段構うまいと納得した。
廊下の喧騒はまだまだ拡散の傾向にある。二人の会話は雑音に紛れるだろうが、極力音量は抑えよう。
「ヒトクイについて、少々尋ねたいのですけれど。宜しいですか?」
「……何でも答えられるほど博識じゃないが、可能な範囲でなら答えるぞ。何が気になるんだ?」
「アレを倒した結果、何が起こるか、です」
僅かに哲心の眉根が跳ねる。どうでもいい疑問、とは受け取らなかったらしい。
彼は逡巡を挟むと、壁に寄り掛かって話し始めた。
「昨日も説明したが、ヒトクイは自然的な概念の一部だ。厳密に言うと生死、輪廻転生を司ってる」
「では昨夜の出現は、人を殺すためだったと?」
「そう、餌だって言ったろ? ……奴らは一定の数を殺すまで現界し続ける。あのまま放っておけば祖父と俺は愚か、町の人間まで犠牲になってたかもな」
「……それを倒した結果、なぜ害を及ぼすのです?」
単純さ、と哲心は前置きを作った。
「概念的な生死に関わっている以上、奴らの殺人は絶対的でなきゃならない。――撃退すれば、確実に埋め合わせが生じる」
「か、代わりに別の人間が死ぬ、と?」
「ああ。それが一般人か魔術師かは不明だが……まあここ数日中に、誰か死人は出るだろうな」
「――」
淡々と、事務的な態度でもって事実を語る。
なるほどクラフトの苛立ちは最もだ。大勢の人が巻き込まれるなんて、真っ当な常識を持っていれば認めない。スズリもいま正に、良心の疚しさを感じている。
目は逸らせない。どうにかして、解決策を練らなければ。
「……情報、有り難うございました。このご恩はいつか必ず」
「気にするな。まあ、無理はしないように頑張れよ?」
向ける笑顔は、スズリに理解できない感情。
この男は一体何を考えているのかと、疑った二度目の瞬間だった。