朝の出来事
夕食は出前寿司だった。
結構高い店だったらしいのだが、正直味までは覚えていない。実家への報告をどうするか、スズリの頭はそれだけで一杯になっている。
唯一印象的だったのは、配達人が直接家まで来たことだ。あの恐怖に震え切った顔は忘れられない。思わず声を掛けそうになったレベルで。
「はあ……」
風呂も借りてしまった現在。寝室の準備は哲心が行ったらしいが、今はスズリ一人の場所だ。
寝間着には妹の物だとする服を使っている。洗濯したばかりらしく、他人の使用感は感じない。厳密には、気にする気分ではないだけだが。
時刻は既に日を跨いだ後。布団の中で包まったまま、携帯電話の震動を待つ。
「っ!」
来た。
登録済みの番号はクラフトのそれ。どんな嫌味を言われるかの不安は、焦りながらの操作に繋がった。
「あっ」
鈍い音を立て、携帯電話が畳の上に落下する。
受話口からは男性の声。繰り返される憂慮の言葉は、果たして何が理由なのか。
「もしもし」
スズリはまったく同じ台詞を告げて、恐る恐る耳を当てた。
『ああ、ようやく出たか。交渉の方はどうだったかね?』
「……付け入る隙も有りませんでしたわ。自分達には関係ない、の一点張りで……。特に神谷哲心の方は、頑なに拒むつもりのようです」
『それは困ったな。こちらは猫の手でも借りたい程なのに』
「……」
抑揚だけで測るなら、クラフトの言葉は嘘だった。真逆に喜んですらいる。口実を見つけた悪童のように。
「そういえば、攻撃を受けましたわ」
『神谷家から、かね?』
「ええ。ちゃんと意思の疎通は行っていたんですの?」
無論だ、と即座に解答が寄越される。そこはかとなく侮蔑を混ぜて。
騙したのか――思いの通りに詰問すれば、彼は答えてくれるだろうか。
期待できない一方で、関係に亀裂を入れたくない自分がいる。これがもし、両親の指示だったとしたら? 名門派が求めている、結論の一つだとしたら?
実家に利用されるなら本望――と言いたいところだが、蟠りは確実に残る。向こうだって勘ぐってくるだろうし、スズリは然して理性的な人間ではない。忠誠で自分を騙すのにも限度がある。
なら今は、良い結果になると信じるしかない。
「――そちらの方では何か、御座いまして?」
『これと言った出来事はなかった。ちょっとした例外は出現したがね』
「……白い化け物ですの?」
『ふむ、そちらにもいたのか』
当り前か、と最後に彼は付け足した。
何が、なのかはさて置いて、報告すべき内容は終えている。明日はまた学校があるし、夜更かしして遅刻を決めるわけにはいかない。
「学校の荷物は、実家に届けた後ですのね?」
『ああ、心配する必要はない。明日は迎えでも出しておくかね?』
「いえ、自分の足で十分です。――それでは」
『くれぐれも、迷惑はかけぬようにな』
今更過ぎる忠告だった。
携帯電話の電源を切れば、即座に静寂の世界が戻ってくる。照明は頭上の蛍光灯一つ。頼りない光に、実家の寝室を比較していた。
小さく自分に挨拶して、膝立ちになったスズリは電気を消す。
あっと言う間に闇が生れた。町の明りがカーテンから入り込むこともない。ドアの隙間から辛うじて見える程度で、空気の色に変わりはなかった。
目を瞑れば、今日一日の光景が蘇る。
脳裏にこびり付いているのは、やはり哲心の台詞だった。関係ない。社会性を疑いたくなる発言に、怒りで眠気も覚めそうだ。
同様の理由で残っているのは、諌めようとする彼の顔。
「――?」
ふと、足音が聞こえた。
耳を済ませてみれば、音は右隣の部屋へ向かっていく。確か哲心の部屋だ。となれば順当に、廊下を歩いているのは彼だろう。
そこへ、もう一つの気配が上がってくる。
「あれで良かったのか?」
「……」
会話をすれば、必然的に聞こえてしまったりはするわけで。
問い掛けは厳哲から哲心へ向けたもの。しかし彼は、スズリへ対したように即答しない。
沈黙が破られたのは、一拍置いた跡だった。
「――妥当な判断じゃねえの? 連中に関わっても、碌なことにはならないだろうし」
「仇打ち、というわけか? 彼女は無関係じゃろうに」
「それぐらい分かってるし、そんなつもりはない。でも、だからって協力関係を結ぶわけにはいかないだろ? 人の意思は石ころみたいなもんだって、爺さんも言ってたじゃないか」
「まあ、確かにな。少しでも隙を見せれば、ずかずかと入ってくる。こちらも断り辛くなる。初志貫徹が一番じゃよ」
「なら万事オッケーだ。こっちはこっちで動いて、いざという時には共闘する。ヒトクイの問題は、ファティナ家だって関わってくる筈だ」
「主にはクラフトが、じゃがな。二年前のように」
「……」
後は階段を降りる音が続く。
尚も耳を立てているスズリは、お休み、と挨拶する声を聞いた。恐らくは哲心だろう。
一瞬、布団を抜け出したい気持ちに駆られる。二年前とは何のことか、クラフトとはどういう関係なのか。
しかし身体は動かない。
これ以上機嫌を損ねたくないと、下等な保身が身を縛る。
眠気に呑まれたのは、それから数分後のことだった。
神谷哲心の朝は、スイッチのように訪れた。
枕元のアナログ時計は短針を五、長針を六のところで止めている。つまり五時半。部活動があるわけでもない一般学生には、少々以上に早すぎる目覚めである。
身体の倦怠感は更なる睡眠を欲していた。が、意思の方は案外とサッパリしている。
「よし……」
哲心は迷わず布団を脱いだ。
動き出してしまえば、後はどうにか進んでくれる。ベッドの下に足を付き、スリッパを履いていざ進行。祖父は未だ布団の中だろう。
一番最初に向かうのは洗面所だ。洗顔、歯磨きと済ませて覚醒を後押しする。
通学の時間までは二時間近く。普通ならもうひと眠りと洒落込みたいが、生憎許すつもりはない。
部屋に戻った哲心が着るのは、学校指定のジャージだった。
前準備には一杯の水と軽い運動。完全な空腹状態は良くないし、肉体が眠ったままなのも好ましくない。
「――」
見送りの来ない玄関。今さら沸いてくる寂寥感に、思わず呆れたくなってしまう。
首の振りと共に過去を払い、靴を履いて朝の森へ。これからランニングに行くぞ、と今の装備は主張している。
使うルートは、昨日スズリがやってきた方向と逆方向だ。整備された道はそちらにあるある。コンクリートで固まっているわけではないが、草木に邪魔されなければ十分だ。
土を踏む音が心地良い。頬を撫でる冷気も、早朝の実感を強くする。
だが走るのは少し先だ。移動も準備運動の一つ。領地を囲っている壁も近いし、そう焦る必要はない。
「っと」
何の障害もなく擦り抜ける。
聞こえ始める町の起床。時間の問題はあるが、車も定期的に通っていた。
そこへ。
「おはよっ。今日も早いねー」
歩道に出るのと同じタイミングで、幼馴染の挨拶が来る。
右手側に立っている少女は、哲心と同じく学校のジャージを纏っていた。
「おはよう要。……しっかし、お前もよく付き合うもんだなあ」
「あたしだって運動したいんだもん。でもさ、自分一人だと怠けそうじゃん?」
「確かにな」
「うんうん――って、そこで同意しないでよ! あたしの努力を認めてください!」
「今更か? いつも先に来てるのに」
じゃ、と唐突に哲心が走り出せば、要も直ぐさま横に並んだ。
周囲には点々と、同じ目的の人々がいる。中には歩く姿もあった。さすがに顔は知られているのか、うち何人かが挨拶を送ってもくる。
「――しかし要、ダイエットの必要あるのか? 身体つきには問題ないと思うんだが」
「そういう油断が良くないのっ。哲心だって、太ってないのに走ってるじゃん。ダイエットだけが走る理由じゃないよ」
「……まあ、そうだな」
でしょ? と小首を傾げる要は、一人分の空白を置いて並んでいる。
彼女とこうして走っている期間は長い。中学に入学してからずっとだ。長続きしているのは、習慣の力だけに留まるまい。開始当時は、もっと遅い時間でのスタートだったし。
実際いまでも、もっと遅い時間に始めたって構わない。朝食は厳哲が用意するのだから、他に朝早く起きる理由はない。
原因は要に。何とこの幼馴染、男のために弁当を作ってくれる。
気持ちに気付かせる程の、熱心なサービスで。
「ところでさ、厳哲さん元気? あたし、最近顔見せてないからさー。いい加減挨拶にでも行こうかな、って思ってるんだけど……」
「? 何を気にしてるんだ?」
「えーっと、冷やかしかな。あ、あんまりさ、その、先のこと話されても困るじゃん?」
「……」
苦笑する要に対し、哲心は堅く口を結んでいる。
要との付き合いはそれこそ赤ん坊の頃からだ。親同士も顔見知り。それでわざわざ弁当を作ってくれる相手となれば、連想する答えは一つだろう。
しかしまだ、二人にその気持ちがあるわけではない。
恋愛という関係に対し、憧れは確かにある。要が他の男子生徒から告白を受ける度、苛立ちに似た感情が湧いていたのも事実だ。
でもまだ早い――それが、二人で出した結論だった。
付き合い始めたところで、関係が変わる予想がまったくない。気持ちの面で通じ合っているのは認知済みだ。なら、そう焦る必要は無いのではないか。
要に提案され、いざ哲心が気持ちを固めた去年の冬。クリスマスのお話である。
「今日は、何週走るの?」
「いつも通り三週だな。要だって準備があるだろ?」
「大体は昨日のうちに済ませてるから、大丈夫だよ。……まあその辺りが体力的には限界だから、あたしはそれで構わないけど」
「そうか」
哲心が先導する形で、曲がり角を曲がっていく。
一定間隔で奏でる足音のリズム。車や同好の士を除いてしまえば、町は完全な無人だった。隠れている気配もなく、警戒したくなる程の静謐で覆われている。
何の変哲もない、鉄塔が乱立するだけの場所。何処にでもあるビルの群れ。
神様がいるのなら、そんな辛辣なコメントを呟くかもしれない。
退屈と言えば、退屈な光景ではあるだろう。文明社会の中、人が集まっている場所を探せば、幾らでも類義品は見つけられる。刺激を求める人間には耐え難いかもしれない。
逆に哲心は、その退屈が好きだった。
年寄りくさいと言われようが、自身にとっては充足している。周囲に恵まれていなければ、こんな話は出来ないだろうけど。
――本当に続いてくれれば良いと思う。要とのランニングも、学校で友人と話す時間も。魔術を掘り進める余裕も。
「あ、あのさ哲心。忘れないでほしいんだけど、保留にしたんだかんね? 別に哲心のことが嫌いになったわけじゃ――」
「ほいほい、分かってる分かってる」
本当に? と頬を赤らめて問い返すのが可愛らしい。
細かな仕草で笑みを誘うのは、本当に彼女の才能だと思う。昔からの特技だった。お陰でいつも周りに人がいたし、性格の方も同じく騒がしい。
哲心には無い部分だ。それでいて自然体だから、安堵の量は倍増しになる。
彼女はいつも通りだと。不安なんて片隅に置いて、今を楽しむことが出来る。
このランニングだって同じことだ。昨日何があったかなんて、普通の人間である要には関係ない。
気付けば一周の折り返し地点へ。信号機の向こうに見える繁華街は、同情を誘うぐらいに無音だった。
そこへ。
「救急車……?」
白い車体に偽装した不幸の影が、静かな町並みを破っている。
集まってる野次馬の数は極僅か。担架で運ばれていくのが被害者だろう。
力無く下がった片腕に、魔術師の直感が死を連想する。
「……」
現場は信号機の手前。車が衝突した痕跡もない。切り替わるのを待っている間、不幸に見舞われたのだろうか。
ともあれ興味本位で眺める気はなかった。帰るぞ、と横向きに言おうとして、気付く。要が野次馬達へ聞き込みを開始していることに。
注意しようと考える哲心だが、その頃には彼女が戻ってきた。
「通報した時には、もう意識が無かったんだって。直ぐ傍に同僚の人がいたらしいんだけど、本当に唐突だったらしいよ」
「――気味が悪いな」
犯人に心当たりがあると、尚更そう思う。
救急車の出発と共に、人の集まりは重心を失った。元々極僅かだった分、散り際も手短に行われる。
哲心と要も、その流れに従った。