夢物語
近付いてくる巨影を前に、スズリは肩の力を抜く。
待ち伏せのため、今は廃墟の中に待機中だ。哲心の魔方陣は外にある、筈。死角になっていて直接の確認は出来ていない。
人によってはこの状況、一抹の不安が過ることもあろう。
しかしスズリの場合、面白い程に疑念は消えていた。まだ味方とは言い切れないだろうに、感覚的な繋がりを感じる。荒野を彷徨う中、数日ぶりに人間を見掛けた気持ちだ。
「もう少し近付いて頂けませんの……?」
焦点は窓ガラスの向こう。辺りを見回しているヒトクイへ、つい檄を飛ばしたくなる。
幸か不幸か敵は単独。一先ず片付ければ、状況には改善の余地が出る。
二人の作戦は不意打ちだ。逆にいま攻撃してしまえば、十メートル近くの間合いに身を晒すこととなる。もちろんスズリはその隙さえ埋めるつもりだったが、合流の危険や確実性を踏まえて廃案となった。
少しずつ敵は近付いている。もう数分我慢すれば、望む成果は目の前だ。
「え――」
不意の轟音に背筋が凍る。
肩越しに振り向けば、もう一体のヒトクイがいた。
「っ……!」
咄嗟に霊刀を振りかざすスズリだが、どうあっても先手は取れない。横薙ぎに迫ってくる腕が、いとも容易く身体を掬う。
「ぐ……!」
朽ちた木製の壁を突き破って、その身は外へと弾かれた。
咄嗟に受け身を取り、スズリはヒトクイと対峙する。が、もう一方も同じこと。避けていた二対一の状態が、ものの見事に成立している。
想定外への迷い。加えて挟み打ちの窮地。
しかし宙中に浮かぶ魔方陣は、即断即決で動いていた。
スズリを攻撃したヒトクイは建物の中。外に出ている一匹へ、四つの陣が殺到する。
射程が短いと口にしていた通り、分離状態での射撃は打撃に近かった。
辛うじて成立したのは足止め。彼の情報通り、先の一体よりも耐久が上がっている。
だがそれも、相方次第で有効だ。
「――!」
行け、と。雄弁な気配が背中を押した。
スズリは身を低く、大気を裂くような鋭さで突進する。冷たい双眸に捉えられているが、それで怖気づくような心変わりはしないつもりだ。
しかし。
「!?」
捉われているという表現は、現実に即していた。
突如として降下する視界。直後には轟音を伴って、スズリの身体が地面へ沈む。叩きつけられた重力の塊に、指先一本さえ動かない。
敵が魔術らしい魔術を使用していなかったことに、今更自分を責め立てる。
視界にどうにか収まるヒト型。自身の肉体から喪失した自由は、意思の自由で敗北を予想した。
拳を作って振り下ろされる巨腕。
どう受けたって死の一撃。突然に訪れた結末は、少女に悔恨しか抱かせず――
「っ!」
連結を用いたと思われる魔砲が、確かにヒトクイを怯ませた。
しかし攻撃は止まらない。魔術の解除を感覚は訴えるが、立ち上がる間に潰される。
哲心の腕は、その間隙を縫ってきた。
腰へ回された腕に連れられ、力の結論を背後から見る。砕け散った土塊が舞うばかりで、肉の一片も混じらなかった。
「危なかったな」
「え、ええ……」
左右を挟む二体の敵。不意打ちは功を成さず、小細工なしの激突になる。
獲物が増えたことにヒトクイ達は何の感慨ない。瞳は感情の色を宿さず、人を呑み込める口も閉ざしたまま。
哲心の傍らには魔方陣達が戻っている。四つとも分離したまま侵入者を睨み、我こそはと飛び掛かる気配を抑えない。
だが哲心は、うちの二つをスズリに渡した。
「外の一匹は任せる。頭の中で指示すりゃ動くから、好きに使え」
「わ、私一人でですか!? いくら何でも――」
無理だ。
そう締め括ろうとした時には、彼の姿も暗闇へ進んでいる。
直後、廃墟の中から閃光が飛び出した。弱音を吐いている場合じゃないと、スズリは堅く自覚する。
「ィ――」
溜め息だったろうか。
そもそも声が聞こえるとは思っておらず、スズリの興味が傾いていく。
「オカエ、リ」
今度は明確に聞こえてきた。
口を限界まで裂いて、捕食者は満面の笑みを見せる。
「――オカエリ」
また。
「オカエリ、オカエリお帰りオカエリ――!」
「っ……!」
気を取られたと言い訳すれば、紛れもなく的中していて。
大きく開いた牙の中、地獄への手招きが急迫する。
しかし超人的な反射神経が、時の体感さえ遅らせた。
寸前の脱出。逃れきれなかった黒い長髪は、その数房が主の代役を果たしていた。
不思議と死への恐怖はない。今ある感情は、寧ろ寂寥感に似ている。間違いなく敵だと認識しているのに、叫びの魔力で絆されそうになっている。
「行って!」
意味不明の感覚を振り切るように、与えられた魔方陣へ指示を下した。
縦横無尽。遊びも混ぜながら進む砲門は、しかし最低限を忘れない。
ヒトクイが閃光で包まれるものの、やはり外傷は見当らない。取るに足らぬ一撃だと悟ったように。
振り払うこともせず、ど真ん中を走ってくる。
獲物へ飛び掛かるハンター。――スズリの反射神経は、一瞬の活路を見出した。
振り下ろす両手は線の攻撃。横にずれてさえしまえが回避できる。
予測は結果に。流れるような立ち回りでもって、その懐へ一閃を叩き込む。
抜群の手応えだった。
動きはない。
ヒトクイは固まったまま、哲心の時と同じ現象を起こしていた。
あの言葉は、口が崩れる直前まで。
まるでスズリを同族だと言わんばかりの、一途な思いが耳に残る。
二対一とあって、残りの片方はあっさり決着がついた。
哲心は何か思うところがあったのか、敵意をすっかり収めている。無言で進む背中には、ついて来い、と書いてあるような気がしないでもなかった。
「……」
ヒトクイとの戦闘で、何だかんだと時間を使ったのだろう。辺りはすっかり日が落ちている。
しかし森を進んでいく度、木々の密度は薄れていた。今では満足に夜空を望める。少年の陰影についても、全体像がはっきりしていた。
一番驚いたのは、回収した制服が良歩高校の物だったこと。
しかしよく考えれば、そう驚くことではないかもしれない。あの高校は魔術師の関係者が多く在籍している。一族の長男が学友だとしても、自分達にとっては常識的なことだ。
「着いたぞ」
唐突に空間が開けた。
月明かりを満足に浴びる広場の中央。二階建ての屋敷が、静寂と共に佇んでいる。
スズリの実家に比べれば格段に小さいが、それでも立派な住まいだった。瓦の屋根や木で張られた縁側など、日本古来の建築を思わせる。
魔術師の家、と呼ぶには、些か適わない気もするが。
「祖父に用があるんだな?」
「え、ええ。近状の報告と、いくつか相談事が」
分かった、と彼は首肯するなり、小走りで玄関に向かっていく。使いの者が迎えに来る様子はない。我が家とは随分違う、なんて益体のない感想を掻き立てた。
彼が入る前から家の明りは灯っている。頭首である神谷厳哲は、招かれざる客をきちんと持て成してくれるだろうか。
無論、それは甘い期待だ。峻厳な態度で現れるのは想像に難くない。謝罪するだけ謝罪して、速やかに帰路へ付くのが最良だ。
「……」
季節が春とは言え、夜はまだ肌寒い。
下に何枚か着込むんだった――と考えたところで、家から哲心がやってくる。身振り手振りで示されたのは、好意的な対応だった。
警戒心から周囲を見回しつつ、玄関へ足を踏み入れる。
「お邪魔します……」
返事はない。先に上がった哲心も、無関心を装っていた。
直線に伸びた廊下の途中、襖の向こうから光が洩れている。雑多でクラフトの嫌いそうな音は、テレビのバラエティー番組だろうか。
「祖父さん、テレビ」
中へ入るなり、呆れ半分に哲心が祖父を叱る。
聞こえた返事は穏やかな印象だ。与り知らないところで無礼を働いた、なんて心配は無用らしい。
「失礼します」
「おお、いらっしゃい」
一礼と共に入った先は、何の変哲もない部屋だった。
テレビに机、それを囲む椅子。面倒で片付けていないのか、炬燵は出しっぱなしである。
そこに足を突っ込んでいるのは老人が一人。スズリを大事な客人と思っていないのか、呑気にミカンを頬張っている。
「……茶でも入れるか? このタイミングじゃ渋いだろうけど」
「うむ、折角だし頼もうか。お客人も喉が渇いたろう?」
「い、いえ、私は――」
「遠慮しなさんな」
厳哲と思わしき人物は、にこやかな表情を浮かべるばかり。緊張感は微塵もない。
台所で火の付く音と同時に、目前の老人は咳払い。
「では早速、君の要件を聞こうかの。――いや、その前に近状報告かね?」
「あ、えっと……はい。魔術同盟の近状について、幾つかご報告が」
ふむ、と頷いた厳哲は、手に取ろうとしたミカンを机の端へ。姿勢を正し、同様に眼差しも強くなった。
気押されそうになるスズリだったが、立場は自分の方が上。堂々と、しかし礼儀は忘れずに口を開く。
だが厳哲は、何かへ気付いたように目を見開いていた。
「哲心、話はお前が聞け」
「は? 何で俺が」
「ヒトクイが現れた以上、行動する機会はお主の方が増える。ワシから伝えるよりも、その場で質問が出来てお得じゃぞ?」
「い、いや爺さん、俺は向こうと手を組むのは――」
「このお嬢さんとであれば、まだ交渉の余地はある」
「……」
ややあって、彼は台所から足を運んだ。代わりに厳哲が茶の用意を整える。
様子はどこか不機嫌だった。とは言え祖父の提案には納得しているようで、心の葛藤を一息で捨てる。
「えっと、では――」
直後。
家の何処からか、鈴の音が響いてきた。
事の比喩が分からないスズリは、音の方向へ目を向けるだけ。座っている哲心、茶を運んできた厳哲は、正反対に真剣な面貌だった。
直ぐに席を立とうとする哲心だが、祖父は片手でそれを制した。
「大方、同盟のいちゃもんじゃろう。ワシが説明に行く」
「……了解」
意見を挟むこともせず、彼は再び腰を降ろす。
居間は直ぐに二人きりの空間と化した。呑気にお茶で喉を潤すものの、外で何が起こっているか気になって仕方ない。
「何だったんですの? さっきの」
閉まっていく玄関の音を聞きつつ、正面の関係者へ問い掛ける。
「外にある結界の前へ客が来た証拠だ。血縁者や領民には反応しないから、間違いなく部外者だろう」
「それが、魔術同盟の方々だと?」
「十中八九な。……同盟は今、名門派と革新派に分かれて争ってるって話だろ? 前者は君の実家であるファティナ家が代表。――多分来たのは革新派だろうな。君が寄越された仮の目的について、情報が漏れたりしたんだろう」
「……」
申し訳ない――と謝罪したところで無意味なだけだ。偽りにしたって、可能ならスズリは成し遂げるつもりでいる。
その理由と問題は、さっき哲心が話した通りだ。
魔術師の集まりである魔術同盟。その日本本部は、ファティナ家を中心にした家系が管理に当たっている。伝統によって積み重ねられた力を盾に、これまで安定した運営を行ってきた。
しかし権力は廃れるもの。必然的な変革の波が、今の同盟へ押し寄せている。
過去の維持を求めるのは名門派。それらを一切捨て去り、新秩序を求めるのは革新派。
「どうなってるんだ? 現状は」
「……今のところ、名門派が優勢です。基本的な戦力が異なりますから。ただこちらでは離反者も出ており……いつまで優勢を堅持できるか、分からない状態です」
「だから協力して欲しいと?」
「はい」
罪悪感と無力感が、スズリに苦い表情を作らせる。
中立を巻き込むのは、学校にいる間も躊躇していた。加えてファティナ家と神谷家では影響力の規模が違う。求められれば、断り辛い面も生じるだろう。
「喜んで拒否する」
彼らが頑固一徹な家系だとは、百も承知しているが。
「本部のいざこざについて、関わりは持たないと通達した筈だ。同意も当時に貰ってる」
「しかし仮に革新派が勝利すれば、中立への干渉が強まる可能性もあります。神谷家とて、それは望まない筈では?」
あくまでも強気に。志は同じ筈だと、スズリは信じて訴える。
だが哲心はかぶりを振った。能面のように固まった面貌からは、感情の起こりさえ伺えない。
「それは俺達に関係のない問題だ」
「な――」
「名門派と革新派の件について、こっちは基本的に部外者、あるいは被害者だ。何度か攻撃を受けた側なんだぞ。尻拭いでもさせるつもりか?」
「お、同じ国の本部に属する者同士、協力するのが当然ではありませんか?」
「……」
心底納得できない。腕を組んだ哲心からは、鉄の意思が溢れている。
それはスズリも同じこと。自分達が無関係だから関わらないなど、勝手にも程がある。組織の維持、同胞の必要性からこそ、神谷家は魔術同盟へ関わった筈なのに。
都合が悪いから切り捨てる。彼らの判断は、そういう意味しか持たなかった。
やはり厳哲が相手でなければ――守りに動き始めた思考を、直後にスズリは叱咤する。
神谷家の跡取りは哲心一人だ。長い付き合いになる以上、妥協案に頼っている場合ではない。
「度重なる衝突で、多数の負傷者が出ています。大勢の者が、貴方達の助力を頼りにしているのです」
「だから関係ないと言っただろう。俺に構うよりさっさと帰った方が、時間を有用に使えるぞ」
「っ……。その判断で、一体何人の方が亡くなると思うのです? 同盟の恒久平和が遠退くだけでは?」
「……」
煩い、邪魔だ――彼が作った一拍の時間に、否定的感情が培われている。
と、思ったのはスズリだけ。
次の瞬間に哲心が向けた目は、憤怒の念を微塵も蓄えていなかった。あるのは同情と憐憫だけ。痛々しい負傷者の姿を見るような、悔恨の念を隠さない。
「本気で考えてるのか? そんな夢物語みたいなものを」
「理想論なのは百も承知ですわ。しかし、それを描けずして何処に向かうのですか? 誰かが理想を認めなければ、人類の未来も閉ざされてしまいます!」
「……俺からすれば、いつまでたっても現実味がない話だと思うが? 一つ屋根の下、身内同士で争ってるんじゃな」
「――」
反論しようと意見を纏めるスズリ。しかし、彼の言葉が先に来る。
「だいだい君は、組織の融和に武力を使ってる。平和を語る以前に、そっちは平和を提供できていない、その態度が示せていない。自分で自分の理想を批判してるぞ」
「……それが止むを得ない手段です。交渉に時間を費やしていたのでは、無防備なところへ攻撃を受ける羽目になる」
「妥協の上に感情論か。どうしようもないな」
「で、ではどうしろと言うのです!?」
奔走する身内の苦労を知るからこそ、声には激情が乗ってしまう。
「私達には同志を守る義務があります! 無抵抗に殺され、組織の統一を望む者達の声を、貴方は聞いたことがあると!?」
「……まあ、聞いたことはない。でもそいつら、よっぽど妄信的だったんだな」
「何を……!?」
「そりゃあ争いの原因に、争わない期待を求めるからだよ」
冷笑か失笑か。道化を喜ぶ子供のように、声はスズリを嘲っていた。
理解できない結論ではない。が、それにしたって冷た過ぎる。攻撃だって先に革新派が仕掛けてきた。交渉も聞く耳持たず。仲間を守るために剣を取るのは、寧ろ必然的な展開ではないか。
無関係を、彼は頑なに言うけれど。
誰もが閉じこもったら共同体は保てない。苦難が訪れたら協力し合う。善意の応酬あって、組織は健全を取り戻す筈だ。
「ま、もう少し隣人のことを考えるんだな。組織の運用だって人付き合いと同じだぞ」
「弄られろと仰るんですか……?」
「正当防衛までは否定しないさ。ただ、名門派は攻撃する側に回ってる。その姿勢を本気にするなら、取り返しのつかない直前まで争うしかないんじゃないか?」
「責任はどうすると?」
「争い尽すのが責任だろう。……いや、正確にはきちんと学習するまで、か。痛みによる経験はその点、強烈な動機になると思うぞ」
「……」
止まらなかった時、滅びる以外に道は無いというのに?
彼の理論は許せないし、納得できなかった。叱ってやりたくもなる。跡取りとして、そんな甘い考えが許されるのかと。
「――」
緊迫し始める空気。少年の平静と少女の激情が、刃のように研ぎ澄まされていく。
「戻ったぞー」
そんな二人を弛緩させたのは、他でもない厳哲の声だった。
ドスドスと居間に戻ってくる彼は、達成感の笑みで部屋を見回す。緊迫感の名残には気付きもしない。
「どうだった? 爺さん」
「使者には穏便に帰ってもらったぞ。今後も中立は維持する、としてな」
「で、では……」
うむ、と厳哲は哲心の横へ坐った。
「此度は良い返事を返すことが出来ん。悪いが、向こうにはそう報告してくれ」
「……」
「まあ詫びと言ってはなんじゃが、今日は泊まっていくと良い。外には革新派の連中がうろついている故な」
「は、はい……」
予想通りの結論らしく、哲心は無言で席を離れていた。向けた一瞥には、やはりさっきと同じ感情。
スズリは歯を食い縛りながら、居間から出ていく彼を見送る。