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 異質も異形も、知ってしまえばありふれたもの。


梅雨が明けると、しばらくは暑い日が続く。僕は、未だに何となく日々を過ごしていた。土日は勉強したり休んだりを繰り返し、結局何をしたのか分からないまま月曜日の朝を迎える。進学先を見定めなければならない、という義務感に苛まれると、頭は何かを考えようと躍起になるばかりで、一向に具体的な指針が浮かんでこない。気付けば、好史の手首の傷のことばかりが気になった。あの日以来傷を目にする機会はなかったが、ここ最近、好史は更に痩せて見えた。

 「なあ、好史。お前やっぱり痩せたんじゃないのか」と、僕が訊いても、

 「気のせいじゃないか? 受験疲れかもな。勉強してないけど」と、上手くかわされてしまう。

流石にリストカットのことを直接尋ねるのは気が引けて、いつも結局核心に迫れないまま、普段通りの雑談に戻っていってしまうのだった。

 僕は、一人で進路室にいることが多くなった。好史は少しずつ、受験生のあるべき姿に相応しい学校生活を送るようになっていった。僕はなんとなく取り残されたような不安感に襲われて、加藤先生に心の安寧を求めていたのだった。

 「大丈夫、私も高3の頃は、何したらいいか分からなくて凄く焦ってた」と、加藤先生は元気付けるように言った。

 「そうなんですか。でも俺、まだ何も決めてないんですけど」と、僕は言った。

 「お前なあ、決める時間はいくらでもあっただろ」と、加藤先生は言い、少し考えるようにして「いや、でもそういう問題でもないんだろうな。決めるってのは時間があればできることでもないしな」と、付け加えた。

僕は進路について特別なこだわりがないばかりか、何々学部、何々学科という言葉を聞かされても、いまひとつピンとこなかった。いっそのこと、誰かが「ここを受けろ」と決めてくれれば楽なのに、と思った。

 「好きなこととか、何かないのか?」と、加藤先生は訊いた。

 「ゲームは好きですよ」と、僕は答えた。

 「それじゃ駄目だろ」と、先生は笑いながら言った。

僕も、それじゃ駄目なのは分かっていた。でも、ふざけているわけでもなんでもなく、そのくらいしか思い付かないのも事実だった。正直に言って、僕には進路が固まっている人の方が信じられなかった。今までみんな同じ勉強をしてきたんじゃないのか。就きたい職業があるから? 研究がしたいから? 一体どこにそんな契機があったっていうんだ。心底そう思った。

 「先生は何がきっかけで進路を決めたんですか?」と、僕は尋ねた。

加藤先生は少し考えてから、

 「私は中々決められなかったけど、結局学校が好きだったから教師になろうと思った」と言って頷いた。

僕は学校生活を振り返った。確かに、行事や日常は楽しいものだった。しかし、それが教師という職業を選択するきっかけになるんだろうか。そこまでの魅力は、感じられなかった。

 「あとは、高校の頃にお世話になった先生がいてな」と、加藤先生は再び話し始めた。「悩んでいる私を、最後まで見棄てずに励ましてくれたんだ。私もこんな人になりたい、とその時凄く思ったのを覚えてる」

僕は相槌を打った。僕にとって、加藤先生はそれに当たる人だと思った。確かに、加藤先生には毎日のようにお世話になっているし、感謝もしている。ただ、自分もそんな人になりたいのかと自問すれば、そんなこともないような気がした。

しばらく沈黙が流れた。窓の外には、放課後の夕焼け空が広がっている。僕は思わずその景色に気を取られた。

 「高橋はどうなんだ?」と、加藤先生が口を開いた。

 「あいつは、最近よく勉強してますよ」と、僕は上の空で答えた。

加藤先生は、「なんで上からなんだよ」と笑いながら、「高橋にも色々と聞いてみたらどうだ? 何か参考になるかもしれんぞ」と言った。

僕は、「そうですよね。確かに。なんで今まで何も聞いてなかったんだろう」と言ったが、既に話に集中する気持ちはなくなっていた。

 「じゃあ、もうそろそろ下校時刻になるし、今日は帰りなさい。自分から相談に来てると言っても、流石に疲れただろ」と、加藤先生は僕の気持ちを読んだかのように言った。僕は一礼すると、進路室を出た。

 進路室から玄関に向かう途中、村谷さんに会った。村谷さんは教室に忘れ物をしたのか、帰ろうとする僕とは反対の方向に歩いていた。僕はふと好史のことを思い出し、何か言ってやりたい気持ちになった。お前、好史を追い込んで何考えてるんだ。同じ受験生だろ? もっと気を遣えないのかよ。お前のせいで好史は――

 「小池君だよね」

 「え?」

不意に声をかけられ、僕は驚いて立ち止まった。

 「好史から色々と聞いてるよ」と、村谷さんは笑顔で付け加えた。

 「ああ、そうなんだ」と、僕は答えた。つい先程まで僕の中にあった悪感情は、呆然とした気持ちに変わってしまった。こちらは好史に色々と聞いているわけではないので、何を言っていいやら分からなかった。

 「村谷さんは、進路決まってるの?」と、僕は半ば無意識に言った。進路室での相談の疲れから、自然と出てきてしまったのだ。状況にそぐわない質問に村谷さんは少し戸惑ったようだったが、

 「私は、工学部に行こうかと思ってる」と答えた。

 「そうなんだ」と、僕は分かったような分からないような返事をした。

 「小池君はどこに行くの?」

 「いや、まだ決まってないんだ」

 「そうなんだ。今までやってきた事と違うことをやるのに、何の前情報もないんだもん。迷っても当然だよね」と、村谷さんは言った。

僕は、想像と異なる村谷さんの態度に、内心かなり慌てていた。今まで村谷さんを責めたてる言葉を考えていた事に、罪悪感すら覚えた。村谷さんは殺伐とした様子をしているどころか、好史よりもずっと余裕があるように見えた。

 「あのさ」――僕は言った。「好史とは上手くいってるの?」

 「え? あー、なんだか他の人に言うのは恥ずかしいんだけど」と、村谷さんは少し照れながら、「好史って凄く優しくて、私、いつも迷惑かけちゃってる」と言った。「だから、ついつい八つ当たりしちゃったりして。後で『ごめんね』って思うんだけど」

 「そうなんだ、上手くいってるならよかった。確かにあいつ、良い奴だからな」と、僕は心にもないことを言った。

言いながら、僕はなんともやりきれない気持ちになった。

 「――なら好史は、何に追い詰められているんだ?」

下校を促す放送が、人の減った校舎中に響いた。


 ここで、第五の場面は幕を閉じる。

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