③
変化は思わぬところから近付いてくるようだ。
5月になった。春特有の心地好いざわめきも止み、僕たちは昨年度までと変わらない日常に帰っていた。高校3年生にもなると、受験という単語がありとあらゆる方向から飛んできた。こうやって僕たちは、自分達でも気付かないうちに立派な受験生に仕立て上げられていくのだろう。朝のホームルームに現れる加藤先生の元気な姿が、妙に眩しく見えた。
「はい、今日は特に連絡事項も無いので、1時間目が始まるまで予習なり復習なり自由にしていて下さい」
先生のこの台詞は僕たちが1年生の頃から変わっていなかった。それでも、2年生までは談笑に費やしていた時間を、本当に予習復習に充てる人が日を追うごとに増え、僕はなんとなく静かな教室に居づらい感じがした。僕自身、時間を有効に使わなければならないはずなのだが、どうしてもそういった実感が湧かなかったのだ。それで、この空き時間にはいつでも何となく加藤先生のところに向かった。
「小池はマイペースで良いな」と、加藤先生は笑った。
「本当はなんかしなきゃと思うんですけど」と、僕は半分社交辞令で、半分本気で言った。
「その気持ちがありゃそのうちやるさ。誰にでも自分のペースがあるんだ。無理にこの時間を惜しむ必要はないでしょ」と、先生は言った。
僕は、「やりなさい」とか「この時間が大切なんだ」と口癖のように言っている他の先生と違って、プレッシャーを与えない先生の物言いが好きだった。軽い感じがして嫌だ、とこの性格をあまり好かない連中もいるようだが、僕のようにそもそも重圧に弱い人間にとっては、どんなに熱のこもった激励よりも、こっちの方が励みになった。
しばらく他愛もない話をしていると、好史がやってきた。
「小池またお前授業サボるつもりかよ」と、好史が言った。
「そうそう、こうやってまた先生と喋ってて1時間目に行かないつもりだったんだよ」と、僕は言った。実際は、そんな理由で授業を休んだ事は一度もなかった。
「あ、そうそう、高橋にはこの前返し忘れてた課題があるんだった」と、先生は言って、机の一番下の引き出しから問題集を引っ張り出した。先生の机は進路室の一番奥にあり、その更に奥には進路相談室が続いていた。進路相談室には赤本やセンターの問題集がびっしりと並べられた本棚が、周囲をめぐらすように置いてあり、部屋の真ん中には机を挟んだ2脚の椅子が置いてあった。この部屋は、先生が生徒の個人的な相談を聞くような時にも使われていた。
「うわ、先生の机の中って意外に綺麗なんですね」と、好史が言った。
「意外にってどういうこと?」先生は詰め寄るように聞いた。
「い、いえいえ、先生いつも元気なんでてっきり――」と、好史はおどおどしたような素振りを見せた。
「先生まだ結婚しないんですか?」と、僕は場の雰囲気に乗じて聞いた。
特に意味はなかった。ただ単にそういう空気感だった。
「仕方ない、この職場には出会いがないんだから。先生が合コンなんか行ってたら生徒に示しがつかんだろ? よほど見られないように気を付けないと」と、先生は唐突な質問にも笑いながら答えてくれた。
加藤先生はまだ20代で、特に結婚に慌てるような時期ではないと僕は思っていた。
「お、もしかして、小池お前先生狙ってるのか?」と、好史はにやにやしながら言った。
「そう、こうやって今フリーだっていう情報を何気なくつかんだわけだ」と、僕は言った。
そして、3人で笑った。何もかもいつも通りだった。
「さ、そろそろ授業が始まるから教室に戻りなさい」と、加藤先生は言った。
2人で進路室を後にして、教室に向かった。
「お前はさとちゃんとどうなんだ?」と、僕は好史に聞いた。
好史には1年生の頃から付き合っている彼女がいた。村谷香里は3年2組の生徒で、顔立ちが良く、周囲からはさとちゃんと呼ばれていた。
「それが最近随分と鬱モードでさ。あんまりちゃんと口もきいてくれないよ」と、好史は困ったような顔をした。
「あらあら、リア充も大変ですことね」と、僕はおどけた様子で言った。
好史はムッとしたような表情をして、
「お前なあ、結構マジでしんどいんだぜ」と言った。
「ああ、すまんすまん」と、僕は平謝りした。
「まあ、時期が時期だからな。でもこれがずっと続いたんじゃこっちが参っちまうな」と、好史は疲れたような顔をして言った。
僕たちが教室に戻ると、始業のチャイムはまだ鳴っていないのに、殆ど全員が各々の椅子に腰かけて教科書を開いていた。1時間目の数学はどうやら小テストらしかった。
ここで、第三の場面は幕を閉じる。