第3章 夢の中の損なわれた男
第3章 夢の中の損なわれた男
真由美が走って家に着いたのはちょうど4時30分ごろだった。玄関で靴を脱ぎ居間のほうに行くと真由美のお母さんの由香里が、晩御飯の準備をしていた。
エプロンをつけて唐揚げを揚げている由香里は一旦作業を止め、振り向きながら言った。
「あら、帰ってきたの。映画はどうだった?」
「あー、あれね。うん。おもしろかったよ。」
真由美は息を荒くしていた。博和と別れた後、家まで全速力で走ってきたからだった。額から汗が噴き出ている。
「なんでそんなに息が荒いの?あらら、汗も出てるじゃないの。」
真由美はソファーに座り、荒く息をしている。
「うん。あのね。はぁ、ここまで走ってきたの。家まで。」
「こんなに暑いのにわざわざ走る必要なんてないでしょ。」
由香里は呆れたように言った。そして振り返り、から揚げを揚げる作業にもどった。
「ねえ、ほかにはどうだった?博和君といろいろやっちゃった?」
「いろいろってなによ。」
「もう!どうせわかってるんでしょう?」
「はいはい。わかんないですよ。」
「ふーん。まあいいわ」
真由美はまだ息が荒かった。家の外のほうから小学生の子供の笑い声が聞こえている。窓からは夕日が家の中に差し込んでいた。
真由美はソファーから立ち上がり大の字になってごろんと床に寝転んだ。クーラーが効いていて涼しかった。
真由美が顔を横に向けると、そこには綺麗にたたんで積み重ねてあるタオルがあった。洗剤のいいにおいがした。
「ねえ、このタオル一枚使っていい?汗拭きたいんだけど。」
「それよりシャワーしてきなさいよ。そのほうが気持ちいいよ。さっぱりするし。」
真由美は大の字の状態から動きたくなかったが、ぬるま湯でシャワーするのも結構気持ちよさそうだろうなと思い、立ちあがった
「あっねえ、着がえの服持ってきてくれない?」
「わかった。洗濯機の上に置いとくからね。」
「それとさあ、私の部屋のクーラーつけておいてくれない?さっぱりした気分で部屋に入ったら暑苦しいなんて嫌だからさ。」
「はいはい。わかったから。さっさとシャワーに行ってらっしゃい。」
風呂場に行くと真由美は着ているものを脱ぎ洗濯機の中に入れた。そして扉をあけて中に入った。
シャワーの温度をぬるい目くらいに調整してから真由美はシャワーを浴びる。
水が飛び出し、真由美の体に当たる。
「あはー。気持ちいい。」
自然とそんな言葉が漏れてくる。息が荒いのはもうすでに収まっていた
真由美は立ったままシャワーを浴び今日の出来事を思い出す。
頭には電車の中に一人で本を開いたり閉じたりする老人のことが引っかかっていた。老人が強く本をパンと閉じてからは一度も老人のほうを振り向いていなかった。その老人がいつ電車から降りたかもわからなかった。真由美はシャワーを頭から浴びながら考えたが、そんなことを考えても無駄だと思った。あの老人とたぶんもう会うこともないだろうと思った。第一真由美は老人がどんな姿をしていたのかも思い出せなかった。
シャワーを終えて着替えて真由美は自分の部屋に上がった。真由美の部屋は二階にあり、階段をあがったところに部屋がある。
部屋に入ると冷房が効いていて涼しかった。真由美はベットに寝転んで、枕の横にある携帯電話を開いた。
真由美は今日、博和とデートに行ったが携帯を忘れていった。行きの電車のなかで忘れてきたことに気付いた。いまさらとりに帰るのも無理だな、と思いそのままでいた。時刻は五時を過ぎたところだった。不在着信が1件入っていた。電話をかけてきたのは、真由美の小学校からの友達で同じクラスの森山春奈からだった。電話が来たのは4時48分だった。ちょうどシャワーを浴びていた頃だ。
真由美は電話をかけようかとも思ったが眠かったのでやめることにした。真由美はそのまま目を閉じ少しの間の浅い眠りについた。
真由美は由香里に体を揺らされて起きた。
「寝てたのね。ご飯だから下りてきなさい。」
真由美は時計を見た。時計の針は6時35分を回ったところだった。
お母さんが階段を下りて行ってすぐにベットから出る気にはなれず、真由美はまた目を閉じ眠りについた。
真由美は夢を見た。男に追いかけられてナイフで刺されるという夢だった。真由美はその男から逃げ自分の家の近くまで来たが、男に捕まえられて心臓の辺りを刺された。そのときの男の顔はまったく知らない顔だった。一つわかることは、追いかけてきた男は真由美と同い年くらいの男の子だということだった。綺麗で端整な顔立ちをしていた。
「お前は俺をひどく損なってくれた。だから俺もお前を損なってやる。俺以上に損なってやる。」
その男は刺す前にこう言った。そして刺される。刺された瞬間に目が覚める。
目が覚めてもしばらく真由美は、天井をじっと見つめていた。男の言った言葉が頭の中で響いている。
冷房は切れていて、部屋は暑かった。真由美は誰かを損なった覚えなどなかった。「損なう」というものが、どういうものなのか今の真由美には見当がつかなかった。
そこまで考えて夢であったということを思い出す。すべては夢であったことであって、この現実世界には関係のないことなんだと真由美は自分に言い聞かせた。
「夢なんだよ。ねっ深く考えることはないよ。」
真由美はわざと口に出していってみる。その言葉は暗い部屋の天井に吸い込まれていった。
時計を見ると9時を回ったところだった。真由美はゆっくりとベッドを下り、ゆっくりと階段を下りた。下の居間に降りると由香里は座ってテレビを見ているところだった。
由香里が真由美を見上げながら言った。
「よく寝てたわね。お腹空いてるでしょう?晩御飯残してあるからね。今食べる?」
その由香里の言葉を聴いて真由美は現実に戻ってきた気がした。さきほどの夢に対する思考回路を停止させる。由香里の横に座りながら、
「うん。食べる。」
と言った。起きたばかりで居間の電気の光が眩しく感じられた。
テレビのニュースでは中学生が自殺をしたということを放送していた。
「よく簡単に命が捨てられるわねぇ。」
由香里が顔をしかめながら言った。
「でも自殺するってのは相当な決意がないとできないだろうね。死ぬ決意かぁ。真由美はそんなこと考えちゃ駄目よ。」
「考えることになるかもしれないよ?」
真由美が笑いながら言った。
由香里はしばらくずっとテレビを見ていた。そしてこう言った。
「そのときは私が殴ってでも、首絞めてでもその考えを止めてあげるわ。」
「絞め殺してしまわないようにね。」
「気をつけるわよ。あっ晩御飯の準備ね。お腹空いてるんでしょう。」
ご飯を食べ終わって真由美は二階の自分の部屋に上がった。真由美は机に座り読みかけの本を読んだ。
気付いたときには時計の針は11時57分くらいだった。すこし読みふけりすぎたなと真由美は思った。
そのとき携帯電話が鳴った。博和からだった。