第1章 光の中で
奇数章では中学三年生の夏を迎えた真由美の夏の物語。偶数章は「僕」が少し変わった世界で繰り広げる物語。二つの話はどこかでつながっています。。
第1章 光の中で
「あのね、ちょっと真剣な話があるんだ。」
坂下博和は少し驚いた顔をした。真由美が真剣な話を持ちかけてくるのは初めてだな、とでも思ったのだろうと隣にいる橘真由美は考えた。
博和とは同じ中学校で同じクラスだった。顔もよく、勉強ができてスポーツもできて、人を笑わす冗談も言える。どこの学校にも一人はいそうな男子だった。
「真剣な話?真由美が真剣な話をするなんて珍しいね。というより初めてだよ。」
「初めて?そうかな?ていうか珍しいってのはひどいよ。わたしだってそういうこと考えたりすることあるんだからね。少なからず。」
今日、七月の三十一日に二人はデートという形で映画を見に行った。今は帰りの電車の中にいる。冷房が効いていて、客はまったく乗っていなかった。窓の外から夕日が差し込んで二人を正面から照らしていた。
博和はざっと付き合った月を計算した。去年の7月から付き合い始めて、一年と一ヶ月になることを五秒ほどで計算した。
「付き合ってから十三ヵ月、一年と一ヶ月になるけど初めてだね。で、なんなの?真剣な話って。」
真由美は博和のほうを見た。夕日の光が博和の瞳の中に吸い込まれていき、反射して、光っているように見えた。
「うん。あのね付き合い始めた日のこと覚えてるよね。博和が私に告白した日、去年の七月の三日だよね。」
「あー、覚えてる覚えてる。で、その日がどうしたの?」
「その日の夜のことなんだけどね。あの、真剣に聞いてよ。本当のことなんだから。その夜に私の部屋に男が来たの。浮気とかそんなんじゃないからね。本当に男が来たの。知らない男がね。」
真由美はそこまで言うと、小さなため息をついた。隣の車両を見ると、七十歳はいってそうな老人が座っていた。老人の乗っている車両には、老人以外に誰も乗っていなかった。老人は本を持っていた。その本を開いたり閉じたりしていた。真由美には、その老人はその本を開いたり閉じたりするのが、何かの使命なのかという風に感じた。本を開いたり閉じたりする使命。そこまで考えたところで、老人は何の前触れもなしに、強く本を閉じた。ぱん!という気持ちいい音が電車の一両越しに無音の音として伝わってくる気がした。真由美は老人が強く本を閉じる動作を見て、老人に対する思考回路を停止させた。顔を正面の夕日に向け、次に話すべき言葉を捜す。
「夜の何時かは覚えてない。でも十二時以降だってことはわかるんだ。私は十二時に寝たから。それでね。突然目が覚めたの。目が覚めたっていっても、目は半目しか開かなかった。変だなって思ったよ。だって寝るときに電気を消したはずなのに点いてるんだよ。そしたらね、なんていうか、言い表しにくいな。うううぅぅっていう音がしたんだ。まるでね、世界の終わりの深い闇の淵から湧き上がった音みたいな感じ。もちろんベッドの上から起きて何なのか確かめようとも思ったけど、体が動かなかったの。」
真由美は肩にかかっている髪を少し払いのけた。さらさらとした髪が肩から下のほうへ落ちる。
「ここまで聞いて博和はさぁ、どう思う?」
博和はこめかみに右手の人差し指を当てて真面目な顔で考えていた。なにかを考えるときの博和の癖だった。
「誰かのイタズラの可能性もあるように思えるな。世界の終わり・・・なんたらの表現の仕方が、いまいちおれにはわからないな。」
「あなた馬鹿だからね。わからないのね。そういうの。」
「おれのほうが勉強の成績いいんだけど?」
「あのね。そういう馬鹿とか言ってるんじゃないのよ。たしかにあなたのほうが成績はいいよ。それはわたしも認める。でもね、勉強以外では充分馬鹿だと思うけどね。わたしは。」
「きつい言い方するなぁ。でも3年の学年なんてみんなそんな奴ばっかりだろ。勉強できても馬鹿な奴なんてうじゃうじゃいるよな。」
「博和は最高にマシなほうだと思うよ。本当にあそこは馬鹿な人間が多いからね。男子が。」
「同感だね。異議なし。」
博和は大げさに首を縦に振りながらうなずいた。
真由美は自分の胸に手を押し当てた。柔らかい感触が手に伝わってくる。いったん途切れた話の続きを考えたが、思いつかなかった。言うべき言葉が頭の中で漠然と浮かんでくるが、真由美にはそれを声に出して言えなかった。隣の車両を見ると、老人がまた本を開いたり閉じたりをしていた。
「ごめん。さっきの話の続きなんだけど。また今度でいいかな?」
「どうして?」
「今話したくないのよ。今話すと、とりあえず駄目だと思うの。何でかは、わかんないけど。」
「じゃあまた今度でいいよ。」
このような話を持ち出して博和がまったく驚いた顔をしないのが、真由美には不思議だった。そのことを聞こうかと考えたがやはり聞かないでいることにした。
「ごめん。ありがとうね。あの、この話を一通りして、話し終えても嫌いになったりしないでね。わたしのこと。」
「大丈夫だよ。何言ってんの。嫌いになるわけないよ。」
博和は隣に座っている真由美を抱き寄せた。真由美は誰かに守られているんだという感じがした。少なくとも今はそんな気がした。
終点の駅に着くまで二人はその抱き合ってる姿勢をまったく崩さなかった。
終点の駅に着いた。真由美と博和は同じ地域に住んでいて、家もそれほど離れていなかった。
駅から少し坂を下のほうへ行ったところにある交差点で二人は別れる。
「そういえば前貸してくれたあの本、何だっけ?」
「異邦人。」
「そうそれ。読み終わったよ。また今度返すね。」
真由美はそういって博和に抱きついてキスをした。その交差点には二人以外に人はいなかった。
「じゃあね。今日のデートは楽しかった。」
「じゃあな。ばいばい。」
二人は別れた。真由美は空にある夕日の光を見上げながらあるいた。
夕日はその淡い光を真由美を照らしていた。光が真由美を包み込む。
その遠く離れた別の人間をも照らしている淡い光はあと少しで命が尽きるような感じで存在しているように思えた。真由美はいずれ消え行く、光のことを考えた。
そのときだった。そのようなことをを考えていると、真由美は何かが体から抜けていく気がした。脱力感のようなものを感じた。体の中のありとあらゆるものが、その光の中に存在する何かによって奪われていく気がした。真由美は博和のことを考えた。心の中で「博和」と大声で叫ぶ。すると急に体の中が暖かくなりもとの正常な状態に戻ってきた。
「やれやれ・・・・・・。はぁ。」
発した言葉が空中に消えていく。
真由美は走り出した。風を切って、地面から伸び自分をを捕らえようとする触手から逃げ出すように、その場所から走り出した。本当に触手が伸びてきて捕まえようとしたかもしれない。しかしそのときの真由美にとってはそんなことはどうでもいいことだった。今は一刻も早く家に帰ったほうがいいと思った。
真由美を照らし、包み込んだ夕日はいつまでも、そこに、ずっと、何かの余韻のように漂っていた。