前編
「あのう。私、彼氏いますから、木川さんとお付き合いできませんよ」
「それは、残念だな。…不愉快だった様だね。お詫びに食事でもどうかな。それなら、浮気にならないと思うけれど」
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from:松本
sub:同好会の食事会
香山さんが、また!おせんべいにお酢をかけて食べていました。
彼女はどうしようもない、味音痴ですね。
話は変わりますが、佐藤さんがまた集まりましょうといっています。
すみませんね。
佐藤さんという方は、幽霊会員で、あったこともありませんね。
茶色のショートカットで、目元にほくろがあります。
彼女の魅力はそこでしょうね。
ちなみに、Bは自称89ですって!
羨ましいわ!
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「木川さん。困ります」
廊下の隅っこ。
資料室から出てきた佐藤魅羽は、そこで会いたくも無い人物を鉢合わせてしまった。
木川鷹人。
第一営業部でトップを誇る営業マン。
俳優のような整った顔立ちと、引き締まった身体で会社中の女子社員に絶えず注目されている。
彼と立ち話をするだけで噂になるのだ。
しかも、今。
彼の小憎らしいほど整った指先が、自分の髪をいじっているのだ。
「すみません。急いでいるんで」
さりげなく一歩進むことで、彼から逃れる。
それでも、髪の毛に残る彼の感触に、自然と頬が照っきた。
「すまないね。足止めをして。それなら、魅羽さんにこれを上げるよ。そのために、探していたんだし」
私を?
胸が高まる。
彼が差し出したのは、小さな青紫の花だった。
魅羽のデスクにもいけられるように、小さなブーケになっている。
「ラベンダーですか。良い匂いですね」
「佐藤さんのイメージなんだ。この花は」
「え…」
言葉に詰まりながら、そっと小さなブーケを受け取った。
その壊れ物を扱うような彼女の仕草に、木川の顔も思わずほころんだ。
見慣れたエリート営業マンとは違う笑みに、魅羽の胸の高まりがますます強くなった。
駄目。私には、隆がいる。
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from:松本
sub:同好会の会員
佐藤さんて、髪の毛を触られるのが好きみたい。
この前、香山さんと一緒にお茶を飲んでいたら、
香山さん、佐藤さんの髪の毛のこと、良い匂いって言っていましたよ。
佐藤さんは、一応嫌がっていましたけど。
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「松尾さん、木川さんの噂を知ってる?」
「噂。坂本さんとの噂ですか」
ファッション雑誌をめくりながら、松尾は興味深そうに聞き返した。
この休憩室では、自分と鈴木しかいない。
シフトの関係とはいえ、苦手意識のある彼女と一緒になるのが嫌になるのはこういうときだ。
大抵、社内の噂の発生源は彼女なのだから。
「木川さんね。どうも、彼女に狙いをつけたようなのよ」
「へえ。木川さんて、三回断られたらあきらめるほうだと思っていました」
椋山良花は、木川が好みではないらしく、近づくたびに露骨に嫌な顔をしている。
「違うわよ」
勝ち誇ったように、鈴木は否定した。
「佐藤魅羽よ」
「佐藤魅羽…さんて、経理課ですよね。今度はソコの人にモーションをかけてるんですか?」
「まあ、今度は言ってきた中で、可愛いほうだしね」
三十代の女の顔に巧妙に隠された嫉妬を見て取った松尾は、さりげなく視線を伏せた。、
「でも、信じられませんよね。たしか、彼って結婚してるのに」
「へえ。寺尾さん。木川さんの魅力にやられたほう?」
「そりゃ、彼ほど魅力的なら。軽そうでいて、仕事はバリバリできるといったら」
本当は、心底軽蔑するタイプだが…。
うきうきと木川の良い点を並べる彼女を、内心ひややかに見つめながら寺尾は賛同の笑顔を浮かべた。
「そういえば、みました?佐藤さんて、ブレスレットしてましたよ。それも、シャネルの。もしかして…」
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from:松本
sub:同好会の会員
佐藤さんて、電波系なんです。
シャネルのブレスレットを、ひけらかして。
きいてみても、笑ってばかりで。
ちっとも、話してくれません。
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「…すまない。今日は、相手さんと食べて帰るよ。……ああ。悪かったよ。今度の日曜日は、智子と海に行こう。……もちろんだ。…週末には終わるよ。…おやすみ」
電話を切るなり、木川は車のシートにぐったりともたれかかった。
これから食べに行くのは、本当だ。
ただし、一人で。
会社と家庭。
どちらにも関係なく、開放感を味わい、リフレッシュするのには必要なことだった。
このごろ、家に帰ると妻の視線が痛い。
電話での会話さえ、気を使う。
なにせこの頃は、微妙なところで浮気がばれてしまう。
しんどいな。
会社で、俺がどれだけ頭を下げているのかわかっているのだろうか。
家に帰れば帰れば、うるさい妻と娘がいる。
うるさいだけの家に帰るのに、どれだけ俺が勇気を振り絞っているのか。
朋美は分っていない。
とはいえ、そのことを真正面から言えば更に小うるさくいってくるだろう。
家のほうが、会社より煩わしいことが多すぎる。
そんなしがらみを、忘れられる存在がいる。
佐藤魅羽。
栗色のショートヘアが、彼女に良く似合っている。
目元のホクロを目立たせるようなメイクといい、センスもいい。
それとなく誘いをかけているが、まんざらでもないようだ。
先日あげたブーケは机の上に、いけられていた。
シャネルのブレスレットは、会社でも身につけているようだ。
後一押しだ。
花に、贈り物。
となれば、次は食事だろうか。
そこでさりげなくキスをすれば、俺のものになる。
彼女の唇は、どれほど美味しいだろう。
その感触を想像するだけで、下半身が熱くなっていく。