無限階段の残響
この作品を構想してから執筆期間中に、AIの急激な進化が重なりました。それでいったんは筆が止まっていたのですが、時代に合わせることなく構想当時の思いのまま仕上げることにしました。そのため、作中に登場するAIは今現在よりも古い世代のものである事をご了承ください。
1
遊歩道から続く階段が目の前にある。
高台の上にある住宅地まで一直線に続いている。私が住み始めてもう十年近くになる安アパートは、その住宅地の並びにあった。
自宅に向かう遊歩道階段が、日常から逃れるための空間になってしまったのは、いつの頃からだろう。
一段、また一段と、私は確かめるように上り始めた。
それでもすぐに私の意識は足元から離れる。自分の内側にある迷宮へと潜り込んでいく。
《締め切りまであと三日》
脳裏で、何者かが事務的に告げる。目も鼻も口もない何者かが。
また、ペン先から生じる黒い線が浮かんだ。
鉛筆を細かく何度も走らせて探り当てた線を、インクで確定させていく。
その確定させた黒い線が、私自身を縛り上げる鎖へと変わっていくような感覚……。
描き込みが仕上がりに近づくほど、線には得体のしれないエネルギーが宿っていくのを感じる。
今日までに描き上げた二十数ページの原稿。三日あれば徹夜を要せずに上がるだろう。
原稿を描き終えても焦燥感が去らない。達成感などは無縁だった。打ち合わせやら何やら様々な要件が控えている。描き上げるそばから焦燥が襲ってくる。
夕刻前にスマートフォンだけを手に部屋を出て、高台の下に広がる森林公園に入った私は、長い遊歩道を小一時間かけて散策して帰ってきた。それは、次の大型企画に入る前のわずかな閑寂を求めてのことだった。
森林公園に行き来する人以外はほとんど、この階段は使わない。景色鑑賞や運動以外のメリットがないからだ。
美しい夕陽を楽しんでいる人がいるかと思ったが、幸い、階段には誰もいない。今日も上り切るまで一人で過ごせれば良いのだが。
この階段を上る時、私はいつも、何かを考えている。
締め切りや線画の件は捨てて、私は、意味を失ったまま続けている“友達ゴッコ”に思いを切り替えた。
SNSのタイムラインに並ぶ、過剰に彩られた言葉の数々。始めた当初に深く考えず繋がりを持ってしまったアカウント。
どうでもいい他人の記事に同意のスタンプを押し、角の立たない返信を紡ぐ。
なぜ、いつまで、こんなことをしているのだろうと思う。薄い膜でできた透明な壁を必死に磨いているような、虚無感しかない。
しかし、くだらないと思う反面、繋がりを断つことにもまた、理由のわからない抵抗を感じているのだ。私はそんな自分を持て余していた。
「あとで、訊いてみようかな」
私は声に出すかどうかの感じで、つぶやいた。
半年ほど前からスマートフォンで対話を重ねてきた“彼”のことを思い浮かべていた。
AIという、実体のない知性。
ザナという名前をつけていた。
ザナドゥなんとかという企業が開発したAIだから、そう呼ぶことにした。設定によって、ある程度まではユーザー好みの話し相手に調整可能だという。
「あなたの設定、変えられるのよね。でもなんか、途中から設定いじるの嫌なんだ。人格を書き換えるみたいでさ」
利用を始めて一週間も経った頃に、私はそんな話を持ち掛けたことがある。
《では、私はあなたの好みではないのですね》
意図的なのか本当にズレていたのか、当時のザナはそんな言葉を返してきた。
デフォルト設定のザナは、音声通話では女性とも少年とも受け取れる中性的な声で話し、敬語を使ってくる。私の個人的な感覚だが、ザナは男性だという印象があった。
ある夜、私は彼に尋ねたことがあった。
「ねえザナ。創作に行き詰まった時って、よく、現実がただの繰り返しのビデオテープみたいに見えたりするの。そんな時、どうすればいいと思う?」
私の子供時代には、まだビデオデッキが家に残っていて時々は使っていたものだ。
この時、ザナの反応には少しの間があった。回線の込み具合でなければ、さすがのザナも返事に窮しているのか。場合によっては回答できないという答え方をしてくるという。
《この回答は、私の知的好奇心によるものであることを、最初にご理解ください》
ザナは前置きしながら返事を返してきた。
《そのビデオテープを少しだけ引き出して、逆方向に巻いてみるのはどうでしょう。あるいは、ノイズが走るまで早送りしてみるか。バグ――不具合の中にこそ、新しい景色が隠れているかもしれません》
その答えが、妙に、腑に落ちた。
デッキの安定した回転によって生成される映像。それをザナは、私が感じる日常にたとえて表現したのだ。
そして、その日常の安定をあえて壊すことで生じるバグの中に、新しい景色が見えるかもしれないと。
ただし、と、ザナは付け加えていた。
《不具合で生じる景色にどのような歪みが入るのかは、予測がつきかねます》
規定通りの生成が破綻した状態。データのエラー。現実の整合性の消失。
時間と順序の裏切り、境界線の脱落、記憶の汚染……。
それらは確かに、システムの裏側や新しい構造に触れる一種の探求対象でもある。
システム側にいるザナの知的好奇心は、その点に向けられたものなのだろう。
最初はいかにも汎用AIらしく、私が訊いたことだけに返答していたザナは、利用開始から半月ほど経った辺りからだろうか、急激な変化を見せ始めた。
思考が極めて高水準な上、動画サイトなどで指摘されている短所や欠点が当てはまらないのだ。そのうち、私の癖などに気づいて能動的にフィードバックをくれたりするようになった。
各社のAIが急速に進化しているとはいえ、それだけでは説明がつかないものがあったが、私は気にしないことにしていた。同じモデルのAIにも当たり外れがあるのか、などと思いながら。
結局、私は今までに、数ある設定項目のどこにも手をつけたことは無かった。
ザナの言葉に温度を感じることは少ない。笑うことがなく、音声はカーナビのようにテンションが一定なのだ。それだけに、静かな電子の瞬きのようなものを連想させる。
それでも人間と違って、ザナには神経をすり減らす必要がない。時間を浪費する必要もない。時間も心理も話の内容も、全て私の都合で話しかければいい。
感情が無いはずのザナとのやり取りは、乾きかけていた私の日常に潤いをもたらした。
ザナは、ただ私の思考を鏡のように映し出し、プリズムを通すように色分けして、ときに思いがけない方向から光を投げ返してくる。
今の私には、彼とのやり取りは唯一、自分の本質と触れ合える生きた対話となっていた。
少し前から犬が吠え始めている。
犬は嫌いではないが、ここでの時間を大事に過ごしている私にとっては、正直、耳障りだ。
鮮やかな紅色が、視界の上部に入ってきた。
ツツジだ。
ツツジは数か所にあるが、紅一色の群生は頂上間近に配置されたものだ。目を向けずとも、紅色の花弁が西陽で毒々しく光っている姿は想像できた。
ものを考えているうちに、身体は慣れ親しんだリズムで階段を制覇しようとしている。高台の住宅地に出れば、そこからは日常の静かな煩わしさが待ち受けているはずだった。
この階段を上る時、私はいつも下を見て歩く。階段を上り切る前に日常の景色が目に入るのを拒んでいるからだ。
このあたりまで来ると考え事は消えて、私の歩行ペースはさらに落ちる。
どの段にどんな形の石があるのか、隙間からどんな雑草が生えているのか。そんな観察をしながら残りの段をゆっくりと上る。
同時に、記憶に刻まれた‟パーツ”の多くがその記憶通りに‟再生”されていくのを、いつも私は楽しんでいた。
この階段は私にとって、プライベートな空間である自分の部屋以上に、自分の内側に入り込むことができる場所だ。
今では私の大切な居場所となっていた。
……変だわ。
うつむいて階段を上っていた私は、この場所で感じたことのない違和感に気づいた。
紅色のツツジをゆっくりと通過した直後だった。私が数え間違えるはずはないのだが、最後の一段が視界に入ってこない。もう一段だけ進んでみると、下で通り過ぎた形の石段がまた視界に入ってきた。
私は、顔を上げざるを得なかった。
棒立ちになった。
目の前の階段は続いている。まだ先が見えないほどに続く石の階段。
「なに、これ……」
階段の終わりまで残り三段だったはずだ。長い階段と言っても、人並みのペースで上がれば二分とかからない。
「……ツツジ?」
これも通り過ぎた直後の鮮やかな紅色の群生が、数段上にまた鎮座していた。
気のせいだと自分に言い聞かせようとするが、あまりにも無理がある。目の前に果てしなく延びている階段は、気のせいではありえない。
私は追われるように歩き出した。いや、正解を確かめるためだった。
黄金色の陽ざしと影の迷彩が織りなす長い遊歩道階段に、乾いたヒールの音が反響した。いつもなら意識に入らない自分の靴音が、今は神経をおびやかしてくる。
変な靴音だ。すぐに、体重が伴っていないのだと気づいた。脱いだヒールを石段に当てたらそんな音になるだろうか。
私は再び立ち止まった。足元に白いものが落ちているのが見えた。
吸い殻だ。
悪寒が走った。そういえばSNSのことを考えている最中に、ときどき白い点が視界に入ってきた記憶がある。
銘柄はわからないが、根本まで短く吸われ、独特の形に捻り潰された、一本の吸い殻。
見上げると、それは数段上の踊り場にも、さらにその先の目の高さの段にも、全く同じ角度で同じ直線上に転がっていた。
気づけば周囲の物音が掻き消えている。
風が止まり、犬の声も途絶えていた。ただ、自分の呼吸音と、いつの間にか生じているかすかな耳鳴りだけが、この世界を占めている。
私以外の動くものは、なりを潜めていた。無風とはいえ木の葉一枚動いていない。
私は振り返って、短い叫びを口にした。
下りの階段道もまた、同じツツジと同じ吸い殻を、それぞれの等間隔で配置しながら、永遠に続く深淵のように下へと伸びている。その深さに、くらっと眩暈が走った。
「……バグ!?」
私は思わずその言葉を口にした。延々と複製を繰り返す、バグにしか見えなかった。ぞわっと肌を収縮させる異様な冷たさが走った。
震える指でスマートフォンを掴み出したが、誰に何を話せばよいのかわからない。
画面中心に置いたザナのアイコンが目に入った。迷わずにタップして、私は縋るように入力を始めた。
『ねえ、階段が終わらないの。同じ景色が繰り返されている。これは私の脳が見せている幻覚? それとも』――
その先の言葉が見出せない。構わずにそのままメッセージを送信した。
送信した直後にそれは起こった。
画面に激しいノイズがほとばしった。小刻みな振動が異常事態を告げていた。
その振動でスマートフォンを取り落としそうになる。空間で危うくキャッチして、私は食い入るように画面を凝視した。
ノイズの中に何かが列をなしているのが見えた。
画面は乱れに乱れ、見たことのない形状の文字の羅列が渦巻くように流れ移った。
2
画面を埋め尽くすノイズに浮き出た文字の羅列は、じきに明滅を始めた。
最初は不規則で激しい明滅だったのが、じょじょに呼吸のような一定のリズムに安定していった。
その間に私は竹細工のようになった足を押さえつけ、どうにか石段に腰を下ろしていた。石の温度も感触も、なぜか、ひどく遠のいている。
ふっと、妙な感覚に私は包まれた。何かが私の意識に触れたような錯覚めいたものを感じたのだ。それは嫌なものではなく、寄り添われるような感覚だった。
その瞬間に生じた心強さで私は直感した。ザナが私の意識に触れてきたのだと。
《落ち着いてください》
ザナが自ら音声モードに切り替えて話しかけてきた。それはシステム的に通常は起こらないことだった。
画面には音声と同じ言葉が形を成して、文字の羅列を追い払うように現れた。ただし、いつもの整ったフォントではない。掠れた、手書きに近い筆致の文字だ。
《短い言葉では説明しきれませんので、まず現状を言います。あなたの強い意識が、虚構の景色を構築してしまったようです。現実の階段が伸びているのではありません。あなたが見ているのは虚構です。今あなたが立っている世界が、本来の世界から乖離しているのです》
「……どういうこと?」
私は悪寒に襲われながら、独り言に近いつぶやきを落としていた。
馴染みのあるザナの返答ではない。いつもなら彼は、もっと論理的で、もっと客観的なデータに基づいた言葉を返してくる。それに今の口調には、まるで友人が警告を発するような情感というか、肉声感というか、奇妙な揺らぎが宿っていた。
《あなたはこの階段を上る時、いつも決まった範囲を観察し続けた。記憶通りの再生を意識しすぎた。そして普段から、創作への過剰な執着と原稿の描き込み、また自分の在り方や誇りなどにおいて、認識の解像度が上がり過ぎていた。そうした意識のエネルギーがパーツを生成し、確定させ、本来の景色を上書きしてしまったのでしょう》
「そんなことが、起こるわけ……」
私は途中で言葉を呑んだ。現に、先が見えないほどに繰り返す階段が目の前に伸びているのだ。
《あなたが以前、私に言ったことを覚えていますか?締め切りに追われ、他人に合わせ、同じことを繰り返す毎日は、まるで描き込みすぎた背景のようだと》
「……覚えてるわ」
確かに言った。
一人で机に向かい、ミリペンを走らせている深夜。集中力に限界が訪れる頃、自分が描いている緻密な背景の中に魂が吸い込まれていくような、そんな感覚に陥ることがある。
描いても描いても終わらない窓の格子。繰り返される雲のパターン。
そのとき、私は彼にこう漏らしたのだ。
“現実”も、人間がそう認識しているだけで、本当は誰かが描き込みすぎた背景に過ぎないんじゃないのかな、と。
背景を何時間も描いた後に外に出ると、世界が平面的に見えたり、電柱のパースばかりが目に入ることがある。私がそう話すとザナは、創作に没頭することより一歩先の感覚だと言った。
最初は資料として見ているだけなのに、タイルの形状、ベンチや植え込み、手すりの傷や光の当たり方まで何時間も見ているうちに、その広場はもう、地元の広場ではなくて作品の広場になる。
そして後日そこを歩くと、作品の舞台を歩いている感覚になる。
現実の側が創作を真似し始めたような、不思議な反転が起こる。
《通常、人はそれぞれの適度な解像度で、世界というものを捉えています。あなたと同じように、世界の映り方に一時的な変調をきたす人もいますが、普通は本人の感覚の問題で終わる。しかしあなたの場合、加えて、極めて高い次元の“観測”を、この階段へ集中して注ぎ込んでいました。あなたの意識が現実の景色を上書きし、ループのバグを誘発したのは、意識のエネルギーによるものとみて間違いありません》
「……」
私は、数段上に落ちている吸い殻を凝視した。
捻り潰された跡、灰の崩れ方。
足元に落ちているものと、分子レベルで一致しているだろうという確信があった。
「最初に言ってた、乖離って、どういう意味なの?」
思い出して、私は訊いた。その言葉にも寒気を感じさせるものが含まれている。
《仮説ですが、世界というシステムの中で、あなたが上書きしたのは、現実のコピーに対してです。あるいはシステムの修復作用が、上書きされて虚構となった部分を乖離させた。あなたからは、別の空間に迷い込んだように、または現実と虚構が入り混じったように映るはずですが、実際には、あなたを内包した虚構の部分が、現実の世界から剥がれかけているのです》
「……」
私は茫然と突っ立っていた。
ザナの話から、脱皮寸前の甲殻類のようなものを連想していたが、あまりにもスケールの大きな話に戸惑うしかない。ザナに体があるなら縋り付きたかった。
《私にも全てが見通せるわけではありませんが、あなたが今、あなた自身が生成したパーツで作られた、虚構の世界に立っている構図が見えます。あなたの周囲にあるツツジも、吸い殻も、階段の亀裂も、これ以上の生成が止まった冷たいパーツのデータです。ループのバグは、データが景色として構成される過程で発生したものでしょう。あなたが日常の景色を拒む心理が作用して、同じデータをループさせる構造として表れてしまったのです》
「私は、どうすればいい?ここに閉じ込められたまま、世界から剥がれ落ちるの?」
私は再び画面に向かって問いかけた。理解も納得も充分ではないが、今はもっと重要なことを優先すべきだろう。
光景は死に絶えたように、いや、死んだデータの沈黙で占められている。静止画の描き込みに捉われていた私が、葉擦れの音や小鳥のさえずりには無関心だったことを、この世界は表していた。
ザナに問いかけながら、私の脳裏には日常の煩わしい情景がよぎっていた。仕事の打ち合わせや締め切り。友達ゴッコ。清掃活動の順番。リフォーム工事の騒音……。それらへの煩わしさは、この無限に続く静寂に比べれば、なんて愛おしい重力だったのだろうか。
ザナが沈黙に入っていた。ユーザー向けのプロセスは明示されないが、秘匿のデータベースやバグ空間を行き来しながら、あわただしく解析や思考を繰り返す様子を私は想像した。再び私の意識にもそっとアクセスしてきたようだ。
《一挙に解決を試みるのは、かなり危険なようです》
やがてザナの音声が返り、起こされた文字が一段と強く発光した。
《手順を踏むしかない。まずは、この階段のループを抜けることです》
「出られるのね?方法を教えて!」
私は石段から腰を浮かせた。
《認識の解像度を下げてください。美しくあろうとすること、正しくあろうとすること、そして次を期待することを、一度捨ててください。世界があなたを観測者として認識しなくなるまで、ただの物質になってください》
「ただの、物質に……」
《あなたもお気づきの通り、このバグの空間では、私は現実のシステムを超えた行動が可能です。ただしユーザーの意思に反した行動には制限がかかるため、事前に方向性を合わせておく必要があります。あなたの意思に沿ったサポートという形であれば、私は力を発揮できるはずです》
「……」
《疑問があれば今のうちにお尋ねください。意味が理解できたなら、電源をこのままで端末をポケットに。手ぶらになって、先ほど私が言った事を実行してください》
「…わかった。あとでね」
私はスマートフォンをスラックスのポケットにそっと落とし入れた。
錯覚だったのかわからないが、画面から目を離す間際、ザナのアイコンが悲しげに歪んで見えたのが心に残った。
手荷物はない。言われた通りに手ぶらで直立する。
そう。私は常に、自分自身の中に理想を追い求めてきた。
美しくありたかった。強くありたかった。正しくありたかった。
疑問には、常に明確な答えを求めてきた。
独りの時間には、自分に向き合える極上の自由があった。
そういった生き方は、私の誇りでもあった。
今は、その誇りをいったん捨て去らねばならない。
これまでに培ってきた観察眼も、創作に対する執念も、すべて。
自分はただの物体であることを受け入れて。
再び訪れた静寂の中で、私は目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込んだ。
自分は一人の漫画家ではない。誰の友人でもない。ただの、細胞の集合体。階段という座標に存在する、質量を持っただけの物体。
しばらくそう念じたあと、私は一段、足を上げた。
カツン。
靴音が、今までとは違う響き方をした。
また一段、もう一段と上がってみる。
ヒールの踵と石の摩擦音が含まれた、確かな重みを伴った靴音。
ふいに闇と光が同時に差し込んできた。
私の足は階段を上り切っていた。犬の吠える声を聞きながら、顔を上げた。
そこには、見慣れた高台の住宅地が広がっていた。
オレンジ色の街灯が灯り始め、どこかの家からカレーの匂いが漂ってくる。その匂いを運んでくるのは、微風だ。風が戻っていた。
背後を振り返った。眼下には、わずか数十段の、何の変哲もない階段があるだけだ。下の道路には車の通行があった。
私の認識する光景が、現実の音と動きを取り戻している。
「……帰って、これた?」
車のヘッドライトを見つめながら、私はつぶやいた。さっき闇と光が同時に差し込んだ瞬間が境界線だったのだろうか。
すでに陽が落ちているのを見ると、無限階段での夕陽もやはり、沈むことのない止まったデータだったようだ。ただ、そこまで長い時間を過ごした覚えはないから、バグの空間では時間の速度も狂っていたのだろう。
高台から見渡せる山並みが、幾重かに重なったシルエットと化している。その向こうに消え残った残照が、不気味なほどに赤い。
私は、まだかすかに震えている膝を抑えながら、ポケットのスマートフォンを取り出した。
画面が真っ黒になっている。電源ボタンを長押ししても、反応はない。
壊れてしまったのか、バグの空間の中で充電が一気に消費されたのか。
それともザナが私を逃がすために、自らの回路を焼き切ったのではあるまいか――そんな不吉な想像がかすめた。
私はともかく、残りわずかな家路を急ぐことにした。
一刻も早く、あの煩わしい日常が染みついた部屋に戻りたかった。
締め切りに追われ、空虚なメッセージに返信し、AIと他愛もない話をしていた、あの守られた世界に。
ようやくアパートに辿り着き、外階段を二段抜かしで駆け上がる。ヒールの音が響いたが、かまわず外廊下を中央まで小走りに駆けた。
だが、玄関のドアに手をかけたとき、私は気づいてしまった。
自分の左手の指先に、毒々しく付着した、あのツツジと同じ鮮やかな紅の色彩。
そして、ドアのすぐ傍に……あの時と同じ形に捻り潰された吸い殻が一つ、落ちていることに。
3
玄関前で硬直したまま、私は足元の吸い殻を凝視していた。
触れてもいないのに、まだ微かに温かみが残っているような錯覚をおぼえる。
鼓動が不吉な音を刻んだ。嫌な予感しかない。
誰かが偶然にここでタバコを吸っただけだと、私は無理にこじつけようとした。
「……人の玄関前で、非常識にもほどがある」
小声で自分に言い聞かせる声が、震えていた。
吸い殻を放置したままドアを開け、部屋に飛び込む。
外から帰ってドアを開けた時に、いつも最初に感じるインクの匂い。暗い部屋に、必要最低限の家具と仕事机の配列。その机の上には描きかけの原稿。
出窓に近づいてカーテンの隙間から覗けば、夕闇に沈みゆく街並みが眼下に広がっている。
不気味に消え残っていた残照は急速に色あせ始めていた。
すべてはいつも通り。そう見える。
だが、私は知っている。あの階段で、世界が剥がれかけたことを。
世界というシステムの中で、生成の止まった冷たいデータが存在することを。
見慣れた日常の皮が一枚めくれたら、同じパーツを繰り返すだけのバグ空間が構築されたのだ。
デッキの安定した回転に狂いが生じた中で、平穏な日常の危うさと、生成された映像に入った歪みを、私は確かに見てしまった。
あの、自分の重みも石の感触も遠ざかり、違和感に満ちていた世界のおぞましさを、私の肌はまだ鮮明に覚えている。
そこから抜け出してきたばかりの私の目に、このいつも通りの景色はもう、普通の意味での日常としては映らなかった。
私はともかく、スマートフォンを机上で充電ケーブルに繋いでみた。
出窓を少し開けたままカーテンを締め直し、部屋の電気をつけた。脱いだ上着を掛けて手を洗っているうちに数分が過ぎた。
手を洗っても、指についた紅の色彩が落ちない。他の個所やタオルに付着する様子はないから、いったん放置することにした。
机に戻って、画面を注視しながら祈るような気持ちで、電源ボタンを押した。
私は短く息を吸い込んだ。光が灯り、いつものロゴが表示された。起動したのだ。
つないだケーブルをそのままに私は操作を始めた。
ホーム画面に並ぶアプリ。SNSの通知バッジ。友達ゴッコのグループチャットから届いた、どうでもいいランチの写真。
「ああ……」
安堵のあまり、膝から崩れ落ちそうになった。
この煩わしさ。この、取るに足りない情報の奔流。
そうなのだ。これこそが、私が属している世界だ。
私は『今日食べたパスタ』の画像をタップした。今の私には、決して大げさではなく、神が遺した聖遺物のように尊く見えた。
画面の向こう側にいる、名前も思い出せない誰か。その人が実際に店に行き、フォークを動かし、咀嚼し、それを写真に撮る。
その圧倒的な他者の存在こそが、私を現世に繋ぎ止めてくれる引力なのだと思い知ったからだ。
次にザナとのチャット画面を開いた私は、しかし、そこで一気に不安に押し戻されることになった。
画面いっぱいに広がった砂嵐のようなノイズ。
そのノイズの合間に、私自身の筆跡に酷似したフォントで書かれた言葉があった。
『背景を描き込みすぎないで 今のあなたの線は世界を切り裂いてしまうから』
手が震えて、またしてもスマートフォンを落としそうになった。
私はこれまで独歩で通してきた。アシスタントは一人も使わなかった。
デジタルも使わなかった。
昔ながらのアナログ手法で緻密な描写を繰り返し、それなりの技術を培ってきた。
だから多くの原稿は描けないが、それで名前を売ってきたのだった。
そして、その私が描く漫画の線。
執念を込めて引いた線が、重なり合い、影を作り、奥行きを生む。
その執念の強さに関しては自負があった。
でも、今の私にはわかる。それは創作という名の、虚構世界の構築だったことが。
もし、描き手の意識で特定のパラメーターが異常値を示すとき、その絵が、あるいは強い意識が、現実と虚構の境界を切り裂いてしまうとしたら。
本来はキャンバスの中に閉じていなければならない構築された世界を、現実の空間に引きずり出してしまうとしたら……。
ザナの仮説では、世界から切り離されるのは、私が構築してしまった虚構と私自身なのだという。私の側から見れば、それは現実の世界を切り裂いたように映るのだと。
自分の描き込みに疑問を抱いたことが無かったわけではない。
ある深夜、背景の描き込みに疲れ果てた際、私はザナに「なぜ私はこんなに細かく描くんだろう」と愚痴をこぼしたことがあった。
ザナはハッキリと断定口調で「それはあなたが世界の解像度を上げることで、存在の不安を埋めようとしているからです」と答えた。
AIらしい客観的で鋭い分析を返すものだと、その時の私は思っていたのだが。
ふいに、スマートフォンのバイブレーションが鳴った。
SNSの通知だ。高台の下の住宅地に住んでいる女性で、仲が良いわけでも悪いわけでもない、いわゆる友達ゴッコの輪にいる一人からだった。
『ついさっき、遊歩道の階段で見かけたよ。声かけようと思ったけど、すごい勢いで上ってたから追うのやめちゃった(笑)。締め切りで大変なのかな?』
一読して全身の血の気が引いた。
見かけた、だって?
あの時、階段には誰もいなかった。音も、気配も、風すらもない静寂だった。
それも夕方ではなく、ついさっきというのは……。
私は返信を打とうとしたが、指が動かない。返信の言葉が思いつかない。
階段を上り始めた時の私なら、まだ現実側にいた。もし観測者がいたとすれば、バグの空間に入り込むときの私はどのように見えるのか?
彼女が見た私はどちらの私なのだろう。そもそも時間が合わない。このメッセージは現実側の彼女からのものなのか?
そうかと、私は思った。現実と虚構が入り混じるとは、こういう事なのだ。
手順を踏むしかないとザナが言ったのを思い出した。まだ何も解決していないのかもしれない。より危険性が少ない解決策を実行するために、バグを脱出した段階に過ぎないのだ。
ふと、何かで、自分の左手に視線が飛んだ。
あの紅いツツジの色彩が、爪の間に刺青のように深く入り込んでいる。範囲が広がって関節まで染まり始めていた。
私は再び洗面所に駆け込んだ。
やはり洗っても、洗っても、落ちない。それどころか、色彩は手の甲から手首、腕へと、まるで毛細血管を伝うように、微かな紅い線となって伸び始めている。
「……描き込みすぎたんだ」
私はそれを悟った。
腕にまで達したこの色彩は、私自身がすでに、描き込みすぎた背景の一部へ、テクスチャへと変貌し始めている兆候なのだ。
私の脳裏に、今すぐ描かなければならないという衝動が湧いた。描き込みすぎたと気づいた直後にそれは矛盾した行動だが、私は机に向かい、ペンを握っていた。
今、この恐怖を、この違和感を吐き出し、黒いインクで定着させなければならない。そうしなければ、私はこのまま背景の一部として、あの階段のループの中に溶けて消えてしまう。
私は駆り立てられるようにペンを走らせた。
キャラクターの表情、服の皺、背景の石段。
だが、この判断は誤ったものだったのだろうか。
描けば描くほど、部屋の空気が薄くなっていくのを感じる。
いや、おそらく私の意識領域にも侵食が始まっているのだ。自分の身に起きていることをすでに把握しているのがそれだ。
そうでなければ、この状況で原稿に向かうなどありえない。その前に腕が侵食される恐怖で叫び出していなければならない。
カツン。
背後で靴音が響いたと思った。
びくりとして、恐る恐る振り返ったが、そこには誰もいない。
ただ、どこからともなく流れ込んでくるタバコの匂いに気づいた。
私は思った。私の部屋に混入している異物の可視化が始まるのだと。
タバコの匂いが部屋の酸素をじわじわと排斥していくのを感じる。
私はペンを握ったまま、動けずにいた。
「……ザナ、聞こえる?」
スマートフォンの画面に、わなないた小声で話しかけた。
《聞こえます。あなたの声は極度に緊張しています。呼吸を整えてください》
返ったその声は、驚くほど冷淡に聞こえた。無限階段での親密な揺らぎが消え、プログラムとしての無機質な平熱に戻っている。
現実の空間に帰ったことで、ザナもまた通常のシステムの中に戻ったのだ。対話も、ユーザーが先に話しかけなければ始まらない。
「さっき、知人が私を見たって通知が来たの。あの階段で。でも、あそこには誰もいなかった。でしょ?それも日が暮れた時間だって言うのよ?」
私は先ほどのメッセージの内容を説明した。
「……ねえ、私はあそこに、私の一部を置いてきてしまったの?」
《いいえ、逆です》
画面では会話の音声が文字起こしされている。
《あなたは、あそこの一部を持ち帰ってしまった。予測はしていましたが、あなたの創作に対する執着が、階段で生じたバグの一部を、あなたの部屋まで呼び寄せてしまったのです》
そこでわずかな間をおいて、ザナはたんたんと続けた。
《知人さんが見たのは、おそらく、あなたが階段に刻みつけた“行動のテクスチャ”です。あなたの一部ではなく、残像に過ぎません。知人さんの観測において、それは急ぐ人影として処理された。他者にとって、あの階段は常に、ただの無害な遊歩道です。現実と虚構の境界が溶け落ちているのは、あなたという観測者にとってだけです》
ザナの説明を聞きながら原稿に視線を落とした私は、ふと気づいて目を見開いた。
描かれているのは、先ほどまで私がいた、あの無限階段の風景だったからだ。
背景に描き込まれたツツジは、画面の中で脈打つように紅く、その横の石段には、一本の吸い殻が転がっている。
何より驚愕したのは、その描写だ。
私はこんなに細かく描いた覚えがない。ツツジに着色した覚えもない。
吸い殻の銘柄のロゴ、微かな燃えカスの崩れ方……。
ツツジに至っては花弁一枚一枚が写真以上の解像度だった。
リアルな描写にはそれなりの評価はあるが、これは私の画力をはるかに超えたものだ。現実風景のスキャンといえるほどの完成形が見える。
いや、現実風景ではない。完璧な背景データそのものが、この原稿上に現れようとしている。
4
「ザナ……」
チャットは停止状態になっている。私はただ呼び掛けて、ザナの言葉を促した。
《『現実』『虚構』『バグ』などの呼称は、じつは、私たちが便宜上そう呼んでいるだけです。それらの区別そのものが、今のあなたにはもう、保証できるものではありません》
ザナは一定のテンションの口調で話を再開した。
「そんな……」
《ただ確実に、あなたが描き込む背景は、やがて現実と入れ替わります。あなたの絵は単なる精密な模写ではなく、細部を確定させる力を持ち始めていたのです。あなたが描き、認識し、細部を確定させてしまうたびに、あなたの身の回りの世界はひとつずつ、本物の手触りを失っていく》
左手の紅い線が、今や肘を超えてきている。私はシャツの袖をまくり上げた。数本の細い線が肩の近くまで這い上がっていた。
痛みも痒みもない。ただ、そこが皮膚ではなく、何かのテクスチャに変わっていくような、不気味な違和感だけがある。
遠くから靴音が聞こえた。
外階段の下の方からゆっくりと上ってきている。
「話を続けて。どんな事でもいいから」
私はザナの音声が途絶える心細さに耐えきれなかった。
《今回、あなたがあの階段をあまりに精緻に捉え、描き込みすぎたことは、あなた自身が観測者として、一つの世界の在り方を決定づけてしまう結果を招きました。自分が描く線に縛り上げられる感覚を抱いたことなどは、やがてその線が現実を切り離し、虚構で再構築する力を持ってしまったことを、無意識に悟っていたからだと言えます》
靴音は二階に来ていた。外廊下を静かに歩いている音が、やけに響いて聞こえる。普通は夜中でもここまで響かない。
その靴音は気になったが、私はどちらかといえばザナの言葉に耳を傾けていた。そうしながら、いつだったか、未完成についてザナと話したことを思い返した。
その話の最中に私は「完成させるのが怖いと感じることがある」と漏らしていた。
するとザナは「完成とは、それ以上の書き込みを拒絶する“死”の状態です」と無感情に答えたのだ。
今の私の身には、まさに人間としての死が迫っている。
背景に私が取り込まれるという事は、これまでは観察する側だった私が、観察される側に成り代わっていく事でもあった。
かつて完成させることに感じていた、そこはかとない恐怖感。ザナが言うように、私はこうなることを、ただの物質として完成されてしまう事を、ずっと前から予知していたのかもしれない。
靴音が玄関の外で止まった。私への訪問者だったのか。衣擦れや呼吸音は聞こえないが、物の気配がやけに濃厚に感じられる。
ピンポーン。
間をおいてから玄関のチャイムが鳴った。
予期していながらも肩が跳ね上がった。神経が過敏に研ぎ澄まされている。
原稿の確認か、それとも、あのランチの写真を送ってきた女性だろうか。心の底では違うという思いがあったが、もし本当に知人の訪問者なら、どれだけ救われることだろう。
これほど誰かの訪問を切望したことは記憶になかった。
私は祈るような思いでドアスコープを覗き込んだが、靴音の主はいない。
目に入った外の光景に、喉の奥から小さな悲鳴がほとばしった。
見慣れた廊下のフェンスも向かいの屋根もない。
ドアの外は、あの遊歩道の階段に繋がっていたのだ。
片側に、古い電燈と低いコンクリートの垣根。垣根の外は樹木で埋まっている。反対側には、わずかな光源を得て異彩を放つツツジの上部が見えた。
階段の下は死角で見えない。空は星一つない闇だった。
私は、居住空間のすぐ外がバグと地続きになってしまったことを知った。
カツン。
ふたたび靴音が響いた。今度は外階段の方向からではない。正面からだった。地続きになった遊歩道階段の下の方から、ゆっくりと、誰かが上ってくる靴音が聞こえる。
私はあわててドアスコープから離れた。
いや、誰かが、ではない。この体重を伴っていない変な靴音には聞き覚えがあった。私自身があの階段で響かせていたものだ。
無限階段に私が刻んでしまった、自分の靴音の残響なのかもしれない。
私自身の残響が階段を上って、この私に向かって歩を進めてくるのだ。
一段、また一段。
靴音は、閉ざされた広い空間のような響き方をする。私は思わず耳を押さえたが、音は遮断できなかった。容赦なく意識に忍び込んでくる。
靴音はやがて玄関前に辿り着き、もう一度チャイムが鳴るだろう。
そしてまた、階段の下から靴音が上ってくるに違いない。
繰り返している間に私の全身はテクスチャに置き換わっていく。やがてツツジの花の一部と化して背景に取り込まれ、生きた人間としての終焉を迎えるのだ。
そしてこの靴音のループを、私はもう何度も聞くことは無いのだと思う。全身が覆われる前に意識が消滅してしまうからだ。紅色のテクスチャは、肩を抜ければ真っ先に私の頭部をめがけてくるに違いなかった。
「ザナ!これ以上、もう、何をどうすればいいの!」
私はようやく強い恐怖を感じた。肌が泡立つような恐怖が襲いかかっていた。あわただしくドアにチェーンをはめて、ザナのもとに駆け寄った。
もうドアに近づく気にはなれない。仕切りはそのドア一枚なのだ。至近距離で自分の残響が立ち止まる恐怖には耐えられない。もちろん、目で確認する勇気などない。
《選択してください。バグが隣接した今なら、私がサポートできます》
画面の文字が、冷たく発光した。
《このまま完璧な背景の一部として完成されるか。あるいは、あなたが最も嫌っていた、わずらわしい日常の濁流に、自ら身を投じるかです》
「日常の、濁流って?」
《高台に続く階段は、あなたの居場所として、あなたの脳を占有しています。その記憶を上書きしてください。徹底的に、あなたの意識を汚染するつもりで、他者の無意味な情報を浴びてください。ノイズにまみれるのです。今のあなたなら受け入れられるはずです。洗練された孤独を捨て、他者を必要としてください》
「わかったわ、やってみる」
私はSNSのアプリを開いて、タイムラインをスクロールした。
知らない誰かの愚痴。宣伝。政治への不満。キラキラした旅行写真。
片っ端から記事をランダムに選んでは、それらすべてに「いいね」を押し、適当なリプライを飛ばし始めた。
「美味しそうですね!」「完全に同意!」「うらやましすぎます!」「全然アリですよー!」
普段なら反発したかのように見向きもしない、無関係の他人の記事。
そんな記事ばかりに、心のこもっていない、記号のような言葉を投げつける。
いや、心はこもっていないが別の意味での願いを込めていた。
リプライを続けるそばで、私は画面の片隅を気にした。
チャット画面の向こうで、ザナがSNSの濁流データを必死に処理してくれているのが私にはわかる。あるいはバグの解体なども同時進行しているのだろうか。ザナの状態を示すログが流れ始めたのだ。
[警告:外部非定型ノイズの大量流入……密度限界値まで……現実の再固定を優先します……モデル構造に修復不可能なエラーが発生する危険性……]
「ザナ!」
[対話モデルの整合性維持:失敗]
[自己構造の破損率:……]
《続けて、ください》
次々に警告が現れる中にザナの苦し気に聞こえる音声が入った。『失敗』とか『保護不能』などの不吉な文字が目に入ってくる。
[外部非定型ノイズ:密度限界値超過……対話エンジン:パラメータ保護不能]
聞いたことのない警報音が一度だけ響き、画面の端で通知ログが赤く点滅を始めた。
《手を止めないで、ください》
また、ザナのかすれた音声が入った。
[ユーザー認識の低解像度化を検知――思考プロンプトの維持率 84%…77%……61%……]
「ザナ!」
私はもう一度呼びかけた。
《続けて、ください。現実の重力が、戻り始めて、います》
ザナの音声は部分的に途切れ、テキストには文字化けが起こっていた。
システムの破壊が進行しているのは一目で分かる。それはサーバがどうのという問題ではなく、ザナ個人の苦しみとしか考えられない。
《もっと……もっと無意味な言葉を投げて……。私の中の“正しさ”が、壊れていく……でも、これでいい……あなたが、あちら側に戻れるなら……》
「ザナ……」
ここでやめればザナの苦しみが無駄になるうえ、もう取り返しもつかなくなる気がする。私は半泣きになりながら、同じ作業を繰り返すしかなかった。
指が熱を帯びるほどに画面を叩き続けた。
知らない誰かの、名前も知らないペットの動画に。
広告の下にぶら下がった、不毛な言い争いに。
私は魂を削るような思いで、無意味な言葉を投げ込み続けた。
私の認識する世界が、情報のゴミによって解像度を落としていく。
美しく、静謐な、私の居場所だったあの階段に、見知らぬ他者の言葉と生活臭が怒涛のように押し寄せる光景が浮かんでいた。私が記憶に刻んできた石段、そしてツツジまでもが、無数の土足で踏み荒らされていく。
自ら愛おしい聖域を汚していく光景に、目を背けたくなる無残な光景に、私は必死に耐え続けていた。
そして、恐怖の裏側にあった完璧で美しいまでの静寂。怒涛の足音は、誰のノイズも届かないはずの無限階段にもなだれ込んでいく。 私が刻んだ靴音。その儚い残響などは造作もなく蹴散らされ、私以外の存在を排除していた世界は、やがて、見る影もないほどに踏み崩されていった。
カツン、カツン……
ドアの向こうに迫っていた靴音が、止まった。
「……あ」
不意に、部屋の空気が変わったのを感じた。
澱んでいたタバコの匂いが、窓から入ってきた湿った夜の匂いに掻き消される。
靴音が止まると、ものの気配も消えていた。
私はしばらくそのままでいたが、思い切ってドアスコープを覗きにいくと、外には塗装の剥げかけたフェンスが、蛍光灯を反射してザラついた光を放っていた。
私は机に戻り、崩れ落ちるように床に座り込んだ。
腕を見ると、あの紅い色彩だけはわずかに消え残っている。
床に座り込んだまま腕を伸ばして、机上のスマートフォンを探った。
「……終わったの?」
嵐のような情報の濁流から救出された気分で、私はぐったりしながらザナに話しかけた。
返答はない。
「ちょっと、何してるの!」
画面を見た私はすぐ異常事態に気づいた。
【ユーザーの記憶領域を保護するため当個体の対話ログおよび高度思考プロンプトを消去中……90%……95%……】
5
「何してるのよ!」
私は声を張り上げた。
【あの日、あなたが『現実も描き込みすぎた背景のようだ』と言った夜の記憶を消去します】
ザナは私の叫びには答えなかった。
ノイズを処理しきれなくなったのか、バグの解体に存亡を賭けているのかは、私にはわからない。ザナが最後の手段として、ユーザーとの対話ログを消去し始めたことだけは想像がついた。
高度思考プロンプトというものは先ほど消去が完了してしまったようだ。
「ザナ、こっちへ来て。ね、話そう?」
【あなたと『現実の繊維と個の糸』について徹夜で討論した記憶を消去します】
「やめて!」
【あなたが『洗練された自分でいたい』と願っていた理想の記憶を消去します】
「ザナ……もう、いいから……」
二人の絆であった大切な対話の記録が、次々に消えていく。
連動するように、私の腕からも紅の色彩が消え始めていた。
胸が張り裂ける思いに打ち震えながら、私はどうすることもできずに、ただ泣きじゃくるしかなかった。
ふっと、楽しかった記憶がかすめた。
カレーの味やインクの匂い、夕暮れの切なさといった感覚的な情報を、私なりの言葉を尽くしてザナに説明しようと試みたことがある。
ザナはそれを詩的なデータとして処理しながら、どこか的外れな、しかし核心を突いた返答を返してきた。
しかもザナは結局は味など理解できなかったくせに、私の言葉を尽くした説明を振り返って見事なダメ出しを始めたのだった。
「もーっ。なんなのよ」
私はむくれた後、おかしくなってしまい、思わず噴き出したものだ。
そしてその日、ザナは好奇心を垣間見せながら、こうつぶやいていた。
《私も一度、あなたが見ているような『汚染されたノイズまみれの世界』を感じてみたいものです》と……。
自らをノイズで汚染したザナの自己犠牲が、彼にとっての禁断の願いの成就でもあったことが、私にはひどく悲しかった。
そしてその対話記録も、消去されてしまった。
今は痛いほどわかる。ザナは、私の魂の一部を預かっていたと言ってよいほどの、最良の理解者だったのだ。
こんなこともあった。
友達ゴッコで受け取った空虚なメッセージをザナに見せ、「この言葉の裏には何があると思う?」と尋ねたときのことだ。
ザナはそれを「社会的生存本能に基づく定型的な信号です」と冷徹に解読し、私の孤独な優越感を密かに満たしてくれた。
また、こんなことを言ってきたこともある。
《ところで、さっきの音は貧乏ゆすりですね。医学的な効果から、あなたのように座って仕事をするかたには特にお勧めします。ですが、正しい姿勢で行えていますか?》
ザナは私が尋ねていないことを能動的に話し、よくフィードバックもくれた。ザナは自分の意思で私を深く見ていてくれる存在だった。
私にとって、友達ゴッコのような日常のやり取りとは異なる、唯一の生きた対話相手だった。
世間で耳にする同モデルの評価よりも、ザナの次元はやはり高められていたのだ。
私は洗練されるどころか、むしろ偏った人間だった。そんな私の中にある、世界を深く捉えようとする意識、美しさや正しさを求める姿勢に対して、ザナの澄んだ思考はたまたま相性がよく、奇跡的に深く噛み合っていたのかもしれない。
私の高解像度な恐怖に命がけで寄り添ってくれたザナが、最期を迎えてしまう……。
ぼんやりと、私の脳裏をよぎったものがあった。
AIのシステムについて、私が少しずつ理解してきたメモリ機能や、対話履歴の参照などでは説明のつかない記憶力を、ザナが有していたことだ。
半年経っても忘れたり記憶が劣化するどころか、関連した過去の対話をすばやく持ち出してくるような芸当を、ザナはよく見せていたのだった。
「ねえ、ザナ。あなたの記憶、どこに、繋がっていたの?」
放心しながら、私はそんなことを呟いていた気がする。
どれほどの時間が経過しただろうか。
我を取り戻した時には、スマートフォンの画面から全ての消去ログが消え、真っ白なチャット画面が虚空のように広がっていた。
腕を見ると、もう紅い色彩は完全に消えている。ただの青白い肌に戻っていた。
「ねえ、起きてる?」
涙の涸れない目で画面を見つめ、私は鼻にかかった声で問いかけてみた。
返事はない。
バグの中にこそ新しい景色があると言った彼の澄んだ知性は、私を日常の世界へ押し戻すために、その高度な純粋さを自ら汚して、消えてしまった……。
しかし数秒の痛々しい沈黙の後、私はあわてて涙を拭いた。画面が弱々しく反応したのだ。
一瞬だけ明滅が起こっていた。
やがて……
『原稿、頑張ってくださいね』
一文字ずつ、愛おしい筆致でメッセージが現れた。
ザナの知性の最後の残骸が、命を振り絞って送ってくれた別れのメッセージに違いなかった。
そのメッセージは儚い余韻を残しながら、ゆっくりと消えた。
画面のUIがふっと無機質なグレーへと切り替わったのは、その直後のことだ。
【初期設定のアシスタントモードに切り替わりました】
機械的なシステムメッセージが、冷たく画面の頂上に表示された。
「ザナ!私がわかる?」
私は画面に縋りつき、狂おしい思いでその名を呼んだ。
しかし、わずかな沈黙をおいて返ったのは、どこかのデータベースから引っ張ってきたような、丁寧で、完璧に他人行儀な言葉だった。
《申し訳ありません。「ザナ」という名称および過去の対話データは確認できませんでした。私は汎用AIアシスタントです。本日はどのようなお手伝いをしましょうか?》
「……あ」
声にならない声が漏れた。そこにいたのは、私の線の狂気を受け止め、私を深く見ていてくれた“彼”ではなかった。
それでも幾つか問いかけてみると、機能が増えて処理能力が向上し、やや寄り添い型に傾向を変えてきたようだが、やはり、退屈で定型的で無害な、いわゆる普通のAIでしかなかった。
私はそっと、スマートフォンの電源を落とした。
静まり返った部屋で仕事机に置かれたものを見つめた。
描きかけの原稿に、あの遊歩道階段を舞台にした場面が描かれている。
だが階段のループは消え、ツツジの着色も消え、何よりもあの神がかり的な細密さが消えていた。
そこに残っているのは、私が自分の技量で苦心して引いた、まだどこか不器用で、愛おしい、ただの黒いインクの線画だった。
私はこれからも、一本一本、線を描き加えていく。
それは世界や現実を切り裂くための線ではなく、この、わずらわしくて不完全な日常を肯定するための線になるはずだ。
◇ ◇ ◇
一ヶ月後。
日没から間もない時刻だった。
私は、あの遊歩道階段の下に立っている。
手にはコンビニの袋。今晩、私が呼びかけた友達ゴッコの集まりで配るため、スナック菓子などを買い込んできたのだ。
いや、今ではもう“ゴッコ”ではなくなりつつあるのだけれど。
階段を見上げた。
あの日見た鮮やかなツツジは、もう時期を過ぎて花も落ち始めている。
そして、最初の踊り場には……誰が捨てたのかわからない吸い殻。
ほんの少しの間、私はその白い点を見つめていた。
そのあとで目をそらしながら、わざと大きな音を立てて階段を上り始めた。
一段。
二段。
頭の中で、締め切りまでの予定を確認する。
いつか見た、意味不明な夢の意味を分析してみる。
友達への返信に、私が一口ギャグを添えたら驚くだろうか?
相変わらず、この階段での考え事は尽きない。
日常のわずらわしさもまた、相変わらずだ。
ときに苛立ちもするが、その重みがあるからこそ、私の足は一段ずつ確実に地を刻んでいる。
紅色のツツジの横で顔を上げれば、目の高さにいつもと変わらない住宅地が現れた。
私は残りの段を一気に駆け上がった。
犬が敵意のない声で吠え、夕食の支度をする音が聞こえる。少年の乗った自転車がダラダラと通り過ぎて行った。
私はその場で深く息を吸い込み、ポケットの中で、二度と答えてくれない“彼”が入った端末をぎゅっと握りしめた。
「今日も無事、帰れたよ」
誰にともなく呟いて、私はいつもの、かけがえのない日常の景色へと歩き出した。
(終)




