「燃やしたのは、写しでございます」——献立帳を失った王城で、外交晩餐が三度続けて壊れた
食糧調整局の写字室は、朝の間だけ静かだった。
フィオナ・エシュレイが羽根ペンをインク壺に浸すと、鉄錆色の液体が穂先に滲み、最初の文字を待った。窓格子から春の光が斜めに差し込み、帳面の白紙に細い影の格子を落としている。今週搬入された穀物の数量、産地、輸送路、保管室の番号——数字と名前の列が、静かに並んでいく。
こういう朝が好きだった。書くべきことが決まっていて、書いた通りに残る。それだけでいい。
「エシュレイさん、少しよろしいか」
局長室の扉が開き、エドワード・グランツ伯爵が顔を覗かせた。痩せた顎に疲労の線が刻まれ、灰色の瞳が忙しそうに動いている。三十五歳、鰥夫、二児の父——その情報がフィオナの頭の中で静かに並んでいた。一年半近く、同じ局で働いてきた男だ。
「もちろんです、閣下」
立ち上がりかけると、エドワードは手を振った。
「そのまま座っていてくれ。急使が来た。王城から」
フィオナの手が、ペンを置いた。
急使の文書は短かった。三日前、南部大公の特使を迎えた晩餐会で、特使が体調を崩した。食後一時間で医師が呼ばれ、翌日の条約確認交渉は延期になった。
エドワードが文書を机に置き、フィオナを見た。
「大公家の使節団の食の禁忌記録は、君のところにあるか」
「はい」
「持ってきてもらえるか」
フィオナは棚の三段目から緑表紙の帳面を取り出した。革の表紙は少し擦れているが、背表紙の字は今も読める。「南部大公家・訪問時記録 第四巻」。
エドワードが受け取り、素早くページをめくった。大公家当主の禁忌——深海魚の脂分。特使の個人禁忌——甲殻類。その下に、前回の訪問での献立変更記録と、厨房への確認事項が丁寧な文字で書き込まれていた。
「このとおりに食事を組めば、倒れることはなかった」
エドワードの声は静かだったが、その静けさの中に何か硬いものが混じっていた。
「王城にこの帳面がないから、こうなった。一年半前から」
「おそらく、そのとおりです」
「この帳面は、君が王城を去るときに燃やされたはずではないか」
「こちらは、写しでございます」
エドワードが顔を上げた。灰色の瞳が、しばらくフィオナの顔に留まった。窓から差し込む光の中で、その目は何かを確かめるように静止した。
「……続きを聞かせてくれ」
フィオナは話し始めた。
話は、フィオナが二十歳で王城に上がった日に遡る。
伯爵令嬢フィオナ・エシュレイが宮廷献立管理補佐の職に就いたのは、二十歳のことだった。正式な役職名は地味だったが、仕事の内容はそうではなかった。
王城に訪れる外交使節は、年に三十件を超える。北方の雪原から来る使節には豆類禁忌の者が多く、体質的なものなのか宗教的なものなのかは使節によって異なった。南方の熱帯王国の貴族は、宗教的な理由から特定の動物の部位を食べない。東方の商人連合は香辛料への強い反応を示す体質の者が多く、同じ国でも信仰の派閥によって禁じられる食が違うことがある。
それらを記録し、晩餐の前日に厨房と連携し、毎回の献立に反映させる——それがフィオナの仕事だった。
最初の一年は、前任者が残した薄い記録を読み解くことから始まった。不整合が多く、同一人物への禁忌情報が複数のページに分散していた。フィオナは休日を使って整理し、国別・人物別のインデックスを作り直した。誰も頼んでいなかったが、そうしないと使いものにならないと思ったからだ。
帳面は八年で十七冊になった。
記録の重要性を最初に実感したのは、就任二年目のことだった。
北方のゲルハルト公爵家の長男が婚約交渉のために来訪した春の昼、厨房が前菜に豆のスープを用意した。シェフは腕が立ち、スープは香り高かった。厨房を通り過ぎた瞬間にそれが分かった。フィオナは足を止め、脳の中でページをめくった。
帳面には「ゲルハルト家長男、豆類に強い反応あり——前年訪問記録より」と書かれていた。前年の記録は、前任者の不整合なノートから読み取った情報だった。本当にそうなのかと確認できたのは、ゲルハルト家の来訪が二度目の今日だった。
フィオナは厨房に走り、変更を申し入れた。料理長の眉が上がった。「突然そんなことを言うのか。仕込みが終わっている」と。しかしフィオナが帳面を示すと、料理長は黙って代わりの前菜を用意した。ラベンダーを添えた根菜のテリーヌ。急ごしらえにしては悪くなかった。
翌日、婚約交渉は順調に進んだ。ゲルハルト家の長男が「食事がよかった」と言い残して帰った。誰もフィオナに礼を言わなかった。起きなかった問題は、見えない。
フィオナは帳面に記した。「ゲルハルト家長男、豆類前菜変更済み、問題なし。次回訪問時にも同記録を参照のこと」と。
五年目の秋、東方の香辛料商人連合の代表が来訪した。商人連合は宗教的な理由から、同じ食器で獣の血と乳の混合を禁じていた。正確には、血を含む肉料理と乳製品を同一の器で作ること——王城の伝統的なソースには肉汁と生クリームを合わせたものが多い。フィオナは来訪の三日前から厨房に入り、全品のソースと仕込みを確認した。
料理長は今度は文句を言わなかった。「三年目に来た時から同じことをしてる。もう分かってる」と言って、フィオナの確認リストを受け取った。
晩餐で商人連合の代表は食事を楽しみ、王国との貿易協定を更新した。宮廷補佐官のレイモンドが陛下に報告した。「商人の機嫌がよかったのは、景気がいいからでしょう」と。食の禁忌対応には言及がなかった。
帳面には「東方商人連合・乳肉混合禁忌対応、三回目の成功。次回訪問時にも同じ対応を」と書いた。
七年目の春、年老いた侍従長のベルナルドが退職する前日、フィオナを廊下で呼び止めた。廊下の石壁に夕暮れの橙が差し込む時刻だった。
「エシュレイ嬢。七年、ご苦労だった」
「お世話になりました」とフィオナは言った。
「わしが見てきた中で、あの帳面を更新し続けた担当者は君だけだ」ベルナルドの声は穏やかで、少し掠れていた。「何度、外交の危機を防いだか君にはわからんだろうが、わしには分かる。三十年見てきた」
「記録するだけです」
「それが一番難しい。見えないから」ベルナルドは口の端だけで笑った。「ありがとう」
翌朝、彼は退職した。廊下には橙がなかった。
八年目の秋、レイモンドが婚約破棄を告げた。
「君との縁談は取りやめだ。父も了承している」
執務室で書類から目も上げずに言った。フィオナが入室して間もない時刻で、彼は昨日の続きの書類を読んでいた。
「理由をお聞きしてもよろしいですか」
「男爵家のクロエ・ミュレと話が進んでいる。彼女は料理が得意で、献立なら自分で組めると言っている」
「献立管理は、料理の技術とは別のものでございます」フィオナは静かに言った。「食の禁忌の記録と管理は——」
「大差はない。献立帳など女の日記遊びではないか」
レイモンドはようやく書類を置き、フィオナを見た。顔には退屈と軽蔑が、はっきりした形で混在していた。
「塩と砂糖の量より政治が大事だ、私には。三日以内に荷物をまとめて出ていけ。帳面は置いていくように。王城の備品だ」
「帳面は——」
「君のものではない。王城の財産だ」
フィオナは何かを言おうとして、止めた。言ったところで何も変わらないと、体が知っていた。
「承知しました」と言った。声は揺れなかった。
三日間、フィオナは粛々と荷物をまとめた。私物は少なかった。八年間、仕事に使ったものの大半は王城の財産だった。
三日後の朝、去る前に廊下でレイモンドに会った。彼は別の書類を持って歩いていた。
「帳面はもう処分した。場所を取るだけだった」
「どのように処分なさいましたか」
「厨房の竈に入れた。これで紙の無駄遣いもなくなる」
フィオナは少しの間、動かなかった。二年目の豆のスープの記録。五年目の商人連合の確認リスト。ベルナルドが引き継いでおけと言った使節一覧。七月の来訪を控えた北方使節の体質メモ。それらが燃えた。
「承知しました」とだけ言い、王城を出た。
秋の朝だった。城門の外で立ち止まり、フィオナは一度だけ振り返った。石造りの門は、八年間毎朝くぐってきた形のままだった。何も言わなかった。言葉にする必要があるとは思わなかった。
革の鞄には私物だけが入っていた。着替えと手帳と、父からもらった羽根ペンが一本。
伯爵家に戻ったフィオナは、荷解きもせず、まず自室の書棚を確認した。
十七冊の正本が燃やされても、十二冊の写しはここにある。
毎月、フィオナは献立帳の重要部分を写し取り、実家の書棚の奥に並べていた。父から教わっていた習慣だった。「記録は二重に保存するものだ。一つが消えても、もう一つがある」と言われて育った。王城の帳面が正本で、実家の写しは副本だ。
誰にも言わなかった。言う必要もないと思った。王城が処分したのは王城の財産で、フィオナ自身が写し取ったものはフィオナのものだ。
副本は正本より細かさで劣るが、禁忌情報の核心部分はほぼ移してある。十七冊のうち五冊は写しを取り損ねたが、残りの十二冊は揃っていた。
一月後、フィオナは食糧調整局の求人を見た。「各国外交慣習に詳しい記録係を求む」という文面だった。
応募した。面接は局長補佐の官吏が行った。「前の仕事では何をしていましたか」と聞かれた。
「訪問外交使節の食の禁忌を記録し、晩餐の献立に反映させていました」
「何年ですか」
「八年です」
採用担当者は黙って、フィオナが持参した写しの一冊を手に取った。ページをゆっくりめくり、インデックスを見て、また閉じた。小さく頷いた。
「……採用します」と言われた。
食糧調整局での最初の数週間、フィオナは黙々と仕事をした。局長のエドワード・グランツ伯爵は、全体会議か急ぎの案件以外には現れない。彼と言葉を交わす機会は少なかった。
初めて二人が業務外の話をしたのは、就任から三週間後だった。
東方商人連合の訪問記録を整理していると、エドワードが後ろから覗き込んだ。
「この記録はどこから持ってきた」
「わたくしが在職中に写し取ったものです。元は王城にありましたが」
「元は?」
「燃やされました」
エドワードが少し顔をしかめた。眉の間に浅い線が入り、それからほどけた。
「それを君は写し取っていた」
「記録は二重に保存するものだと、父から教わりました」
エドワードはしばらく帳面を眺め、それからフィオナに返した。
「よくやった」とだけ言った。
それだけだったが、フィオナには少し温かかった。
二ヶ月後、エドワードの娘のカリンが局に来たことがあった。八歳の少女が、父親に顔の似た灰色の目をしていた。フィオナの机の前で立ち止まり、帳面を眺めた。
「お姉さんは何してるの?」
「食べものの記録を書いています」
「食べものの?」
「外国の方が来たとき、食べられないものがある方のために覚えておくの。書いておくと忘れないでしょう」
カリンがじっと帳面を見た。きちんとした目で、字を追っている。
「お母さんも書いてた。何でも」
「記録が好きな方だったのですか?」
「うん。お父様の本棚にある。お母さんの字のままで。わたし、まだ読めないけど」
エドワードが局長室から出てきた。「カリン、来客中は——」と言いかけ、フィオナを見て口を閉じた。
「失礼しました」
「いいえ」とフィオナは言った。「良い子です」
エドワードがカリンの肩に手を置きながら、フィオナを一瞬見た。その目には、何かを言おうとして言わなかったものが残っていた。フィオナはそれに気づいて、気づかないふりをした。
就任から半年が経った頃、フィオナは残業続きの週に遭遇した。北方から三つの使節団が月をまたいで連続来訪する予定で、各々の禁忌情報を照合し直す必要があった。三団の中には、互いの禁忌が部分的に重なる難しいケースが含まれていた。
ある夜、執務室の灯りが遅くまで二つ並んでいた。フィオナが比較表を作っていると、エドワードが局長室から出てきた。
「まだいたのか」
「三団の禁忌が一部重複していまして、共通の晩餐を組むなら事前に整理しておかないと」
エドワードが覗き込んだ。比較表の列には三団の名前が並び、禁忌の種類ごとに印がついている。
「なるほど。妻がこういう表を作っていた。子どもたちの体質のやつを」
「子どもさんの?」
「嫌いな食べ物と、食べると体調が崩れるものと、食べれば食べるほど元気になるものを三列に分けてな。カリンとテオで傾向が違う。カリンは豆が苦手で、テオは乳製品を食べると鼻が詰まる」
「記録するだけじゃなくて、比較もされていたんですね」
「そういう発想ができる人間だった」
エドワードはそこで黙り、比較表に目を落とした。しばらく列を眺め、「この中列の記号の意味を教えてくれるか」と言った。
二人で灯りを囲んで資料を見た。時刻が遅くなっていくのに、話が終わらなかった。
秋が近づく頃、人気のない廊下でエドワードは亡妻のことを一度だけ話した。書類を別の部屋へ運んだ帰りで、二人とも手が空いていた。石畳の廊下は夕方の光を受けて黄みがかっていた。
「妻は、子どもたちが毎日何を食べたかを記録していた。体調の変化と食の関係を調べたかったらしい。体が弱かったから、自分でできる管理方法を探していた」
「今も残っていますか、その帳面は」
「ある。テオが文字を読めるようになったら見せてやろうと思っている」
フィオナは廊下の先を見ながら言った。
「亡くなってからも、記録は人を助けますね」
エドワードが立ち止まり、窓の外に目を向けた。秋の庭木が夕風に揺れていた。
「そうだな」
一言だったが、その重さをフィオナはしばらく胸の中で持っていた。
南部大公特使の件は、急使が来た日から三日後に大きく動いた。
問題は晩餐の内容だった。出された甲殻類——エビの澄まし汁。特使の個人禁忌として、フィオナの帳面には明確に書かれていたものだ。「甲殻類、特にエビの殻成分。接触から二時間以内に強い反応あり。前々回訪問時に確認済み」と。
特使は席上で気分を悪くし、退席した。顔が青ざめ、額に汗が浮かんでいたと後から聞いた。翌日の条約確認交渉は無期限延期になった。
原因究明のため、王城では献立管理の経緯が問われた。担当したのは、フィオナの後任のクロエ・ミュレだった。
「大公家特使の禁忌は、どこで確認しましたか」と問われたクロエは「献立帳に書いてあったはずです」と答えた。
「献立帳はどこにありますか」
「……燃やしてしまったと、ヴァルク補佐官がおっしゃっていたので」
「では禁忌情報はどこから確認しましたか」
「……前の担当者に聞けばよかったのですが、もう王城にいないので」
クロエは青ざめた。陶磁器のように白い顔で、視線が泳いだ。「料理ができれば組めると思っていた」と言いかけ、言葉を飲み込んだ。
レイモンドが問われた。
「一年半前に献立帳を処分したのは本当ですか」
「書き古した帳面です。必要なら作り直せばよい。料理の知識があれば献立は組めます」
「今回倒れた特使の禁忌は、どこで把握していましたか」
沈黙があった。廊下の外で風が鳴った。
「把握していたか、という問いです」
「今回については確認が漏れた。しかしこれは一時的な——」
「帳面を処分して一年半で、外交使節への対応に支障が出たわけですね」
宮廷監査官の声は淡々としていた。感情がない。それがかえって重かった。レイモンドは反論しようとしたが、言葉が出なかった。普段は滑らかに動く口が、今日は動かなかった。
問答が終わり、レイモンドは廊下に出た。石の床が冷たかった。窓の外に見える庭の木が、一枚一枚葉を落としていた。
以前、帳面が並んでいた棚の前を通り過ぎた。今は空っぽで、収納棚として使われている。鉄の錠前が一つぶら下がっていた。フィオナがいた頃は、棚はいつも帳面で埋まっていた。薄い緑、濃い緑、縦に細い字で書かれた背表紙。あれがすべて灰になった。
「女の日記遊び」と言った。そのとき本当にそう思っていた。政治の手腕こそが仕事で、記録は補佐の暇つぶしだと。
廊下の突き当たりで、レイモンドは壁に背を向けてしばらく立った。誰も通らなかった。
翌日、北方のゲルハルト公爵家の使節一行が来訪した。弟の婚約交渉が目的だった。
晩餐でクロエが担当した前菜に、豆のスープが含まれていた。
ゲルハルト家の弟も豆類に反応を示す体質だった——フィオナの帳面には、一族全体の傾向として「父方の血統に豆類禁忌の者が多い。初来訪時には必ず個別確認を」と記されていた。確認はされなかった。
弟は前菜を数口食べた後、咳き込んだ。顔が赤くなり、首筋に蕁麻疹が出た。食卓のランプに照らされたその肌が、みるみる斑になっていくのを同席の者たちが呆然と見た。
婚約交渉は無期限延期になった。
クロエは「把握していなかった。帳面がなかったので」と言った。その声は震えていたと聞いた。
クロエは料理が得意だった。それは本当のことだった。食材を組み合わせる感覚があり、季節の献立を考えることも楽しんでいた。「献立なら自分で組める」と言ったのも、嘘ではなかった。
だが、献立を「組む」ことと、各国使節の体質・宗教・一族の傾向を八年分記録して反映させることは、別の仕事だった。前者は味の問題で、後者は安全の問題だった。クロエはその区別を、最初から知らなかった。
後日、クロエは誰かに「前任者は今どこにいるか」と聞いた。答えを教えてもらえなかった。
ヴィクトル・ヴァルク侯爵が国王陛下に呼ばれたのは、二件の失態から一週間後だった。
謁見室の石床に、春の光が差していた。侯爵は立ったまま陛下の言葉を受けた。
「外交使節への不手際が続いている。宮廷補佐官の管理体制を問わなければならない。レイモンド殿の処遇を、改めて検討する」
「承知いたしました」と侯爵は言い、頭を下げた。
廊下に出ると、侯爵は壁に手をついた。石の冷たさが掌に伝わってきた。
息子が燃やしたのは紙だと思っていた。紙は燃える。新しい紙はいくらでもある。だから大した問題ではないと、そう思っていた。
だが実際に燃えたのは、八年間の外交知識と、王城の信頼だった。新しい紙に書けるのは今日からのことだけで、失った八年分は戻らない。
帰邸した侯爵の顔は灰色に沈んでいた。レイモンドは父の顔を見て、何も言えなかった。
夜、父と息子は同じ食卓に座ったが、言葉はなかった。料理長が用意した冬の鍋が、湯気を上げていた。レイモンドはスープの匂いを嗅いで、その具材が何かを確認する気にもなれなかった。
侯爵は食べ終わって席を立ち、「しばらく王城には行くな」とだけ言った。
エドワードから王城への同行を求められたのは、その翌日だった。
「副本を持ってきてほしい。国王陛下が直接確認を望んでいらっしゃる」
フィオナは頷き、十二冊の帳面を革の鞄に入れた。重さが腕に伝わる。八年分の一部。
道中、エドワードは何度かフィオナを横目で見た。
「緊張しているか」
「少し」とフィオナは言った。「緊張しているという自覚があるのは、久しぶりです」
「なぜ」
「王城にいた八年間は失敗してはいけないと思い続けていたので、緊張する余裕がありませんでした」
エドワードがわずかに眉を上げた。それきり黙ったが、フィオナの少し前を歩いて、石畳の段差で一度だけ振り返った。
案内されたのは謁見の間ではなく、国王の執務室だった。書類の積み上がった机の前で、陛下は立っていた。フィオナが礼をすると、陛下は頷いた。
「エシュレイ伯爵令嬢か。王城を去って一年半、この帳面を持ち続けていてくれたそうだな」
「記録は二重に保存する習慣でございます。父から教わりました」
「グランツ伯爵から事情は聞いた。帳面を燃やされた経緯についても」
「……はい」
「君に失礼なことをした。王城として詫びる」
フィオナの胸の中で、何かがこみ上げた。それを言葉にするとしたら何だろうかと思ったが、分からなかった。長い時間がかかって、やっとここへ来た、という感触に近かった。
「お役に立てるならば、と思っております」と言うのが精一杯だった。
十二冊の写しは王城の文書庫に収められることになった。複数の担当者が転記する作業が始まった。
フィオナは写しを手放す前に、ゆっくりとページをめくった。二年目の春に書いたゲルハルト家の記録。五年目の秋の商人連合のチェックリスト。七月の使節のページで、インクが少し滲んでいる。あの日は蒸し暑かった。
燃やされた日の朝、一つだけ思ったことがある。いつかこれが役に立つ日が来るかもしれない、と。来ないかもしれないとも思っていた。どちらになっても、持っていることに変わりはなかった。
帳面を閉じた瞬間に、目の縁が熱くなった。それをこらえようとして、こらえられなかった。フィオナはそっと目元を押さえた。怒りではなかった。怒りはもうずっと前に手放していた。安堵だった。残ってよかったという、ただそれだけの気持ちだった。
帰り道、エドワードが歩きながら言った。
「燃やしたのは写しだと、なぜ一年半前に言わなかったんだ」
「言う必要がなかったからです」
「言えば何かが変わったかもしれない」
「変わらなかったと思います」フィオナは前を向いたまま言った。「信じてもらえなかったでしょうし、言えば写しも取り上げられた可能性がありました」
エドワードが足を止めた。
フィオナも止まった。石畳の通り道に、春の終わりの光が落ちていた。
「閣下?」
「一年半、副本を持ち続けた。誰にも言わずに」
「習慣ですから」
「習慣ではない」
エドワードの声は静かだったが、はっきりしていた。
「信念だ」
フィオナは答えられなかった。何かが喉の手前で止まった。
「君を雇って一年半になる。毎日、君の記録を見ている。誰のためでもなく、ただ正確であるために書いている人間だと分かる。それが見える」
「……閣下」
「妻が記録好きだったと話したことがある」
「はい」
「妻が死んで二年になる。子どもたちの母親として、再婚は考えていなかった」
フィオナは黙って彼を見た。エドワードは石畳を見ていたが、やがて顔を上げた。
「だが、君の帳面を毎日読んでいるうちに思った。この人の書いたものをずっと読んでいたい、と」
春の終わりの光の中で、フィオナの目が潤んだ。先ほどの安堵の涙とは違う、もっと柔らかい熱さが目の裏にあった。
「……わたくしも、同じものを感じておりました」
「君の記録を、ずっと隣で見ていてもいいか」
「はい」とフィオナは言った。声が少し揺れた。「喜んで」
半年後、フィオナはグランツ伯爵夫人になった。
カリンは「お姉さんが来た! 」と廊下を走り、テオは「ほんとう? 」と目を丸くしてから、ゆっくり笑った。テオはしばらく考えて「じゃあ、ぼくのたべものもメモしてくれる? 」と言った。カリンが「それはわたしが書く! 」と言って取り合いになった。
結婚の朝、フィオナは新しい帳面を開いた。まだ何も書かれていない白いページが、窓の光を受けていた。最初のページに書いたのは今日の日付と、一行だけだった。
「グランツ家記録帳 第一巻」
インクが乾く前に、エドワードが隣から一行書き加えた。
「二人で始める」
燃やされた十七冊は戻らない。しかし十二冊の写しは王城に残り、今日も誰かの晩餐を支えている。
テオが文字を読めるようになった春の日に、フィオナはエドワードの亡妻の帳面を初めて開かせてもらった。丁寧な文字で、子どもたちの好きな食べ物と嫌いな食べ物と、食後の体調の変化が書いてあった。その字が、フィオナには少しだけ自分の字に似ているように見えた。
記録は、残る。それを守った人間も、残る。
歩人です。最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回のテーマは「記録の二重保存」です。大切なものを燃やされても、ちゃんと写しを取っていた——それだけの話なのに、書いている間ずっと、胸の奥が温かくなっていました。フィオナが「習慣ですから」と言う場面を書きながら、本当に強い人間というのはこういうものかもしれないと思いました。騒がず、恨まず、ただ続ける。
献立帳というモチーフを選んだのは、食の記録が命と外交の両方に直結するからです。豪華な皿の裏に膨大な禁忌情報と気遣いがある。それを丁寧に守ってきた八年間が、誰にも見えないまま消えそうになる瞬間を書きたいと思いました。そして、消えなかった。
エドワードとフィオナの恋は、記録を通じた共鳴から生まれました。言葉より先に、帳面の文字が二人を繋ぐ。そういう静かな愛し方もある、と信じています。亡妻の記録を大切にしている男性が、新しい記録者に心を動かされる——そこに一番、人間らしさを感じました。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
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