6話 古き誓い
やがて日々の生活は誰とも知れない人の手を借りずには何もできなくなった。
「恩情」と称して与えられる水や食料は無理やり流し込めるよう喉に開けられた穴から丁重に詰め込まれる。
少しでも長く楽しむためか内臓への直接的な拷問はされてこなかったが、ついにそれが為されるようになった頃。
自然と意識がどこかへ飛ぶようになっていた。
体中に切開と雑な縫合を繰り返される最中にも、その時ばかりは痛みすら感じない境地に至ることがあった。
――意識はどこか遠い地、巨木の立ち並ぶ森の中をぼんやりと彷徨い、やがて朽ちた大木の前で跪いた少女の元へと辿り着く。凄まじいまでの魔力の渦を身にまとった少女はこちらに気づくなり祈りを解き、決まって優しく微笑んだ。
それでもやはり痛いものは痛い。我に返るなり、意識が飛ぶ前より一層激しく感じられた。
すぐにでも終わることができたらどんなに楽になれただろうか。
*
「おい、例の女を連れてこい」
久々の鞭打ちを終えたレドリゲスは見張りの兵に指示した。
「連れて参りました」
程なくして兵は後ろ手に枷を付けた女を伴い檻へと戻ってきた。
「……隊長。お久しうございます」
散々打ちのめされ弱った体に粗末なボロ布を纏ったマイアが倒れ込むようにしてカイムの前に膝を着いた。
「なぜ、逃げなかった」
「小隊以外に私の居場所など――」
「おい! 誰が口を利いていいと言った!」
手枷から伸びた縄が乱暴に引かれ、マイアは仰反るように崩れた。
「おやおや。いけませんな、女性をそのように扱っては」
地下牢の階段から妙に芝居じみた甲高い男の声が響いた。
やがてレドリゲスの背後から顔を覗かせた男は、カイムの記憶に誤りがなければ、隣国メツギルの宰相に違いなかった。
「これはこれはザラナム殿。よくぞ我が城へ――」
「いやぁ、実に惜しいですな陛下。なぜ隠しておられたのです?」
宰相の態度が意外だったのか、レドリゲスは一瞬言葉に詰まり、ただ手にした鞭を弄んだ。
「どういうことですかな?」
「城下には様々な種の奴隷たち、おまけに斯様な地下牢、数多の拷問器具まで……」
刹那の間。
薄明かりに浮かんだ宰相の青白い顔が不気味に震え出す。
「素晴らしい! 実に素晴らしい! なぜ今までお誘いくださらなかった!」
狂人の叫びが地下中にこだました。
想定外の賛辞に、枯れかけたレドリゲスは水を得た魚の如く両手を振り上げ、全身で隣国からの腹心を歓迎した。
「閣下! ああ、なんと好き日に参られたか!」
レドリゲスは自身の腰に差した短剣をマイアの下へと投げ捨てた。
「此度は世にも奇なるものをご覧に入れましょう」
呆気に取られたマイアの耳元で尚も続ける。
「――遥か最果ての地には『セップク』なる作法があるらしい。なんでも、刃で自身の腹を裂くことで己が矜持を示す儀式だとか」
「ほほう。実に興味深い話ですな」
髭を頻りに摩る宰相の口元が悦びに歪む。
「お前はこの男を慕っているな? 腹を切れば男を赦してやってもよいぞ」
「……神に誓って、本当でしょうか?」
「やめろ! この男が約束を守るはずがない!」
「心外だなカイム。ああ、誓うとも。『風神アニラに誓って』この男を赦そう」
レドリゲスは剣の刃先で手を突き、血でもって神々に誓いの意を示した。
〈古き誓い〉
詠唱に呼応するように辺りに微弱な明滅が起こる。
曲がりなりにもレドリゲスは王族の血を引く者。
魔法の適性は僅かにもあるためか、風神はその意に応えた。
「これで文句はなかろう」
神々に嘘はつけない。
大気を司る女神アニラは世界のあらゆる機微をも肌で感じ取ることができるとされる。
人の子が神の名を口にした時点で〈古き誓い〉は顕現し、あらゆる物事に作用する。
仮に両者の約束に行使されたのなら、その約束を違えた者が咎人となる。
裁きは主に風と火が執り行う。
風は咎人の身を裂き、火は灰と為す。男は風を選んだ。
よってレドリゲスがカイムを解放しなかった場合、その身は即座に切り裂かれるだろう。
レドリゲスは無言のまま落ちた短剣を見つめるマイアの様子を同意と見做し、兵に手枷を外すよう命じた。
「心配せずともよい。儀式にはまた『カイシャク』という作法があるらしい――」
男はマイアに何事かを耳打ちし、それを盗み聞いた宰相が顎を手で擦りほくそ笑んだ。
「……死ねとおっしゃるのですか」
「何もそこまでは言わん。切った後は丁重に手当てをさせよう。上には屈指の宮廷魔術師も控えさせている」
宰相とレドリゲスは鉄格子から離れ、通路からマイアの様子を窺った。
入り口で控えた兵士がレドリゲスから指示を受け檻へと入り、マイアの側に着いた。
抜き身の剣を持つ兵士の身体は酷く震えている。
マイアは僅かな逡巡の末、落ちた短剣を手に取り抜き放った。
「やめろ!」
逆手に取った刃は一瞬にして剥き出たマイアの柔肌を切り裂き、内臓を突いた。
「甘いなぁ。もっと広く割かなくては」
悲痛な叫びを上げ、もがき苦しむマイアを前にしてレドリゲスは無情にもそのやり方に難癖をつけ始めた。
「ぐぅっ、ああああ!」
咄嗟にマイアの両手は突き立った柄を取り、大きく袈裟に引いた。
突如、先の勢いとは比較にならないほど大量の血が辺りに噴き出す。
「がぁあああああ――!!」
「おお、ご覧になりましたか閣下! こんなもの新都でもお目にかかれませんぞ!」
絶叫するマイアを尻目にレドリゲスは興奮冷めやらぬ様子で宰相のご機嫌を伺う。
再度檻に足を踏み入れた二人は、まじまじと苦しみもがくマイアを見下ろした。
「ああ、素晴らしい! 辛抱堪らん!」
宰相は言葉を発するや否や自身も側へと倒れ込み、暴れ回る体を羽交い締めにした。
切り裂かれたマイアの腹部から流れる血を直に舐め、転がり叫ぶ頭部に鼻腔を埋めた宰相は、既に剥き出し露わになった一物を頻りに扱き上げた。
「……あぁ、どうか、カイシャクを……」
「はぁ、はぁ……いいぞぉ、うっ、もっと苦しめ……」
苦痛に耐えかねたマイアは傍で震え立ち尽くす兵士の脚に縋り付いた。
「……殺して」
「ひぃ!」
一連の様を目の当たりにした兵士は、恐怖の余りにしがみついてきた女を蹴飛ばし後退った。
「何をもたついているんだ! 早くやれ!」
「――させるわけがなかろう。ここからがいいところじゃないか」
痺れを切らしたカイムが躊躇う兵士を一喝するも虚しく、兵の持つ剣は容易くレドリゲスに奪われてしまった。
「くそ――!」
「おっと危ない! この男、自分を慕う部下の首根を噛みちぎろうとしましたぞ! やはり蛮族のすることは分かりかねますな!」
マイアの首元を狙ったカイムの一撃は、寸でのところでレドリゲスの足に阻まれる。
「うぅっ、出る!」
細身にしては驚くほど機敏に跳ね起きた宰相は、倒れ伏すマイアの顔に目掛けて精を解き放った。
「この外道が!」
「その男を取り押さえろ!」
宰相に噛み付かんと這い寄ったカイムは通路に待機していた別の兵によって捕らえられた。
「ふぅ。たまには斯様な趣向も悪くありませんな。女に免じて、その男がしたことは見なかったことにしよう」
「なんと慈悲深い! 喜べ野蛮人。お前は苦しんだ部下の情けで生きることを許されたのだ!」
「なぜ、お前は裁かれない……?」
カイムは〈古き誓い〉によって為された約束を反故にしたレドリゲスが無事であることに強い疑念を抱く。
衣服を整えた宰相はレドリゲスと二、三言葉を交わし地下牢を後にした。
「その女はまだ利用できる。早く上に連れて行け――。さて、今の私は非常に機嫌が良い。その問いに答えてやろう」
レドリゲスは先に傷を付けた手の平を開いて見せた。
そこには砕けた小瓶と、剣で突いたものとは全く別の深い切り傷が付いていた。
「血はどこぞの豚から採ったものだ。今頃当の豚は八つ裂きにされ息絶えているだろうな。しかし、さすがは太古の神と言ったところか――無論、無傷とはいかなかった。それがこの傷だ」
〈古き誓い〉は万物が創造される際、神々によって付与された性質のようなもの。
原初の理に根付いた最も単純でありながら覆しようがないほどに強固な魔法である。
万物はそれぞれに神々の性質〈加護〉が付く。
つまり世の言う〈神々〉とは、神々が創造した万物に宿る力そのものとも言える。
故に契約に用いた血を他人の物で誤魔化すことは不可能となる。
「考えても無駄だカイム。私は既にお前らの言う太古の神々は捨てている。勘違いするな、神が我々を捨てたのではない」
「不可能だ。この世にいる限り神々の加護から離れることはできない」
「〈究極の原型〉! 我々が追い求める『無限の叡智』の主にして、万物の根源であるエーテルを司る真なる神の名だ! 喜べ、死に行くお前にも等しく加護が下されるぞ!」
魔力の源となるエーテルは神々の加護による物。
世界を満たすエーテルは太古の四神が司る。それが世の理、常識である。
――この男は身も蓋もない偽りの神を盲信している。
恍惚とした表情で聞いたこともない神の名を口にする男を前にカイムは思った。
「ふははは! 神の力さえあれば俺は無敵だぁっ! 俺に見向きもしなかった者どもを八つ裂きにしてくれる!」
不意に足元で這いつくばるカイムを視界に入れたレドリゲスはその背中を踏みつけ叫んだ。
「――それまで精々俺を楽しませろ」
レドリゲスは口に溜めた唾と共に吐き捨て牢を後にした。




