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29話 雑念

「――……ん、おお……?」


 薄暗い部屋。高い天井、障子戸で仕切られた空間。


 さほど広くないそこはどうやら和室で、何となく畳の上で横になっていることが分かった。


「起きたのね。安心して、ここは道場の控室。隣の部屋でみさおちゃんも寝ているわ」


 優し気な女性の声がすぐそばから起こる。


 ぼうっとする頭で思考を巡らせていた和希は、次第に「いつの間にか理解の及ばない状況に晒されている」といういつもの境遇にあることを察し、背に冷や汗が流れるのを感じた。


 どう反応したものかと戸惑う内、枕元に膝を折った着物姿の女性は何の躊躇もなく和希の額に手を置き何事かを呟いた。

 少しひんやりした手はどこか懐かしく、柔らかな感触はやがて離れ行くそれを名残惜しませた。


「熱はないみたいね。急に倒れたんだけど、覚えてる?」


「母さん……」


 不意に宙へと差し出される和希の手をそっと握り、女性は微笑んだ。


「あらあら――。美奈子(みなこ)よ。今はみさおだけの母親だけど、もうそのつもりなのかしら?」


「……え!? あの、これは、ちがっ――!」


 和希は咄嗟に女性の手を離し、布団から跳ね起きる。

 それから立ち尽くしたまま今の醜態を恥じるように項垂れた。


 呆然としていたとは言え、見知らぬ女性の、しかも他人の母親の手を自ら取りに行くなど、多感な青少年には余りにも耐え難い羞恥を自覚させた。


「あら、全然気にしなくていいのよ。なんなら本当にお義母さんだと思ってくれても構わないわ。こんなおばさんでよければ、ね」


「それは……」


 美奈子と名乗った女性はいたずらな笑みを浮かべ、腕を広げてみせた。


 黒く長い髪が耳から(ほつ)れ、広げた腕からほっそりとした指先にまで感じられるどこか妖艶な雰囲気に、和希は思わず唾を飲み込んだ。


「――お母さん!」


 美奈子が釘付けになった和希をその胸へと抱き寄せた瞬間、障子戸が開くと同時に勢いよく武徳院が間に割って入ってきた。


「厨くんは、大事なお客さんだから!」


「ふふ、知ってるわ。みさおちゃんも元気になった?」


 ついでに武徳院まで取り込んだ美奈子は、胸に抱いた少年たちの頭を優しく撫で回した。


「いい子、いい子」


「からかわないでよ……。もう、大丈夫だから……」


 母親からそっと離れた武徳院は照れ臭そうにそっぽを向いた。


「可愛いわぁ、みさおちゃん。これだからお母さんはやめられない」


「うっ……! あの、えっと……」

 これ見よがしに背を撫でられた和希は反射的に腰を引き、瞬時に濡れた股間を隠そうと身をよじり絡みつく美奈子の腕を振り解いた。


「お母さん! ちょっかい出さないで!」

「ああ、はいはい。あとは若いお二人に任せようかしら」


 怪しい笑みを残した美奈子は武徳院に背を押され、急かされるように控室を後にした。


「ごめんね厨くん。うちのお母さ、母親はいつもあんな感じで」


 武徳院は気恥ずかしそうに手足を動かし、チラチラと和希の様子を窺った。


 彼女に背を向け、両手をポケットに突っ込んで湿った股間の辺りへ(しき)りに風を送る和希は恥辱に耐えながら、自身に話しかけている「武徳院みさお」という女生徒について必死に思い返した。


 ここひと月以上もの間、和希は朦朧とした意識を彷徨い続け、覚醒したかと思えば謎の痛みによって気絶することを繰り返してきた。

 よって学院での生活などまともに覚えてる訳もなく、ましてや断片的な記憶の中での彼女とのやり取りなど「あ」とか「う」ばかりで、会話にすらならなかった。


「はは……す、少し変わってるけど、素敵なお母さんだね」

 一物の位置をずらすことで僅かな空間を生み出し、辛うじて股間の平和を保った和希は、いつになく冴え渡った意識をもって慎重に言葉を選んだ。


 今は何故かいつも気絶に追いやる激痛がまるで感じられない。


「そう言ってもらえると助かる。国防軍に行く前はもう少し落ち着いていたんだけど」


「国防軍……?」

「ん? まぁ、あの母がまさか召集される日が来るなんて私も思わなかったさ」


 聞きなれない言葉に思わず反応してしまった和希はすぐに口を(つぐ)んだ。


 ある意味、知らず知らずの内に「異界」へと迷い込んでしまった和希だが、学院に通い始めてからこれまでに幾度も「元の世界」とのズレを感じていた。


 知らない場所、知らない言葉が出てくる度に、自分が全く知らない世界に迷い込んでしまったことに恐怖を覚え、できるだけ考えない、感じないよう努めてきた。

 疑問を感じてしまえば、きっと口にせずにはいられなくなる。

 そうなれば必然的に自身をこの状況に追い込んだ何者かに気付かれ、本当に元の世界には戻れなくなってしまう。そんな予感が脳裏を(よぎ)り、思考を停止させた。


 おかしな話だ。かつて自身が望んだ世界に置かれているというのに。


 ――大切な人が誰も()()()()()()()()()世界。いっそ存在しなかった世界――


「あれでも母は治癒魔術の使い手でね。国防軍はアドブレインにその技術を学習させるために、どうしても母に協力してほしいと何度もここに訪れたものだよ」


「魔術、っていうのは魔法みたいな認識で合ってる?」

「ああ、そうだった。母の秘術はこの神宮で代々引き継がれてきたものだから、魔術ができるよりずっと歴史のあるものなんだ。そういう意味では魔法に近いのかもしれないね」

「へ、へぇー」


 魔術や魔法の何たるかを知らない和希は曖昧に相槌を打って済ませる。


「つい最近になってようやく研究が一段落したとかで、帰宅が許されたんだ。相当色々なものが溜まっていたんだろう。先のことは本当にすまなかった」


「いや、もういいって!」


 深々と頭を垂れた武徳院は徐に顔を上げ「ありがとう」と微笑む。

 頭を起こした拍子に後ろに結った髪が解れ、その頬へと流れる。


 瞬間、目に焼き付いた女性のそれと重なり、膨らむ股間を咄嗟に腰を引いて胡麻化した。


「十年は長かったろうなぁ……いつか私も――」


「あ、あの、武徳院さん。そろそろ」

「試合だな! すぐに用意をしてこよう!」


 武徳院は言って障子戸を開け放ち、いつの間にか灯りの点いた道場へと駆け出した。


「まっ――ぐぁあああっ!」

 後を追おうと板の間に踏み出た和希は不意に訪れる馴染みの激痛に耐え兼ね、朦朧とする意識と共にその場に沈んだ。


        *


「――本当に大丈夫なのか? なんならすぐに母を呼んでくるんだが」


「いや、それには及ばん」


 振り向いた直後に倒れ込んだかと思えば、すぐに意識を取り戻し立ち上がった厨。


 一瞬ではあったが気絶したかのように見えた男の体調を武徳院は気遣った。


「それより、聞いておきたいことがあるんだが」

「ああ、なんでも聞いてくれ! ちなみに道場ならいつでも開けているぞ!」


「……ブトキンの母親は、獣人(ベネル)だったのか?」


 質問の意図が分からない武徳院は首を傾げ、少し考えた上で口を開いた。


「ベネ? 私の母は至って普通の人だが? 多少特異な力が使えるくらいで」


「『普通の人』というのは、つまり猫のような耳ではないということだな?」


 苦笑する武徳院はカイムの問いに曖昧に頷く。


 納得したカイムは神妙な面持ちで武徳院を見据え、確信をもって真実を伝える。


「ブトキンの母は、しばらく帰ることはないだろう。或いは、最悪の事態を想定しておいた方がいい」


「最悪の……待ってくれ! いったい、どういうことなのか教えてくれ!」


「今後はカノを頼れ」


 答えを求めて食い下がる憐れな少女を背に、鞄に忍ばせた刃に手を掛ける。


 カイムの脳裏には、かつて玉座の間で目にした女の不敵な笑みが蘇っていた。


 シュッ、ガッ、ガッ、ガッ!


 武殿から離れた参道に立てられた案内板に向けて何度も刃を振り降ろす。


『屍者の国から貴様を裁きにきた』

 カイムの知る大陸言語の楔形文字でそのような内容を刻み付けた。

 識字が困難な大半の大陸民はともかく、軍や組織に属する者であればこれの意味するところは自ずと分かるだろう。


「ところでウーチャン、先からそこで何をしている?」


「……ご慧眼、恐れ入りました。っと、ちょうど木登りがしたくなったようで」


 参道から外れた森にある巨木の一つから、明らかに場違いなメイドがスルスルと軽快に降りてきた。


『何者かの視線を感じる』

 夜目の利く二人は共に頷き合い、互いに距離を縮めつつできるだけ素早く森の外を目指した。


「カノに伝えてくれ。タナキ及びブトキンの母親に扮した猫族(マオ)の女を始末する、とな」

「かしこまりました……『私たちもできる限り協力する』とのことです。ご入用であれば何なりとお申し付けください」


 森を抜け路地に出るなり、外灯を避け民家の塀を背にしたカイムはそこでようやく足を止める。


「そうだな――取り急ぎ、その耳に付けている道具を二つほど借りたい。日は明日の日没、手段と場所については追って伝える」


「ではすぐに手配いたします。ところで」

「ん、どうした?」


「下着はご入用ですか?」


 顔色一つ変えず、ウーちゃんの視線がカイムの股間に注がれる。


「いや、不要だが」

「それは失礼いたしました。もしものためにと、常に替えの物を用意しておくように言われておりますので」


 すでに手にした黒い総レースのショーツが肩から下がるポーチへと収められる。


「要らぬ世話かと思うが、気を付けて帰れよ」


「はい。カイムさんも、どうかお気をつけて」


 メイドらしく律儀に腰を折ったウーちゃんが再び顔を上げる頃には、カイムの姿はなくなっていた。


 先のことなどなかったかのようにアスファルトを駆け、夜の日課へと移行するカイム。

 いつもの路地を巡り、高台から落ちた先の公園で傷だらけの体を更に苛め抜く。


 やがて夜は深まる。尾行の可能性を考慮し、入念に回り道をした後、とっくに過ぎた家路を背に再び走る速度を上げた。


 夜の日課、二周目。


 カイムがまだ兵学校に在籍していた頃、精神力ではどうにもならない雑念が入ると、よく同様のことをしていた。


 しかし、今は帰りを待つ家族がある。

 仮初(かりそめ)の関係だが、この体を借り受けている以上は最も大切にすべきことだと頭では理解している。


 それでもカイムは走り続けた。


 一瞬でも垣間見えた醜い怒りを忘れるために。これまでの後悔など元より、今置かれた境遇の一切に疑念すら抱けないように。


 意識が飛ぶほどに鍛え続ければ、その時ばかりはすべてを忘れられる。

 あらゆる痛みに慣れ切った心身に絶え間なく負荷を掛け続け、常に耐性のその先を行く。


 思えば、かつて見た強者への憧れに衝き動かされた日々は遠い。


 己がそうであったように、克服すべき過去を持つこの身の主もそうあるべきだと都合よく解釈し、いい様に己の逃避に付き合わせてきた。


 ――本当にこれでよかったのだろうか……いや、何も考えるな。


 今ある自分は確固たる目的もなく彷徨い続ける亡霊に過ぎない。

 守るべき家族さえ守れず、傍に寄り添うことすらできなかった亡者だ。


 あの王国に暮らした、意志を持ち得る可能性のあった奴隷たちの一人ですらないのだから。





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