2話 謁見
結局半時も眠れないまま日の光に促されたカイムは、兵舎に置かれた少しマシな服に着替え、城門から大きく外れた城の勝手口へと足を運んだ。
「ご苦労さん。また夜通しか?」
「――まぁな。あんたも大変だな」
うつらうつらと船を漕ぎながら裏口を固めていた衛兵と朝の挨拶を交わし、城内とは思えないほどに荒んだ詰所を通り抜ける。
更に先には使用人部屋が連なる狭い廊下が続く。
こちらも詰所に劣らず見るに堪えない。
日頃は来賓や王族の目につく場所を磨き上げる彼らも、自らの生活圏を気に掛けるだけの余裕はないらしく、街に似た様相を呈している。
「あらカイムさん! 今日も随分お早いこと!」
廊下に面した流し場で身繕いをしていたらしい年配の使用人が、膝まで落とした粗末な寝間着を摺り上げながら素っ頓狂な挨拶を寄越してきた。
気まずくなった男はよく分からない苦笑いを浮かべてそれに応じた。
そそくさとその場を離れる女性と入れ替わるようにして、先の声に反応したらしい使用人たちが一斉に、しかし遠慮がちに小部屋の扉を開いては件の男の顔を覗き見た。
男がもう一歩進むより早くそれらは閉まり、一つあたりに二、三は犇めく小部屋には、ささやかながらも黄色い声が上がった。
一歩。また一歩。
貴人が知りもしない城の一角、黴臭い石造りの廊下をこなれた革靴が打ち鳴らす。
城中の布が一切溜め込まれた流し場、衛兵や詰所の人々に飯を賄う小汚い厨房。
住み慣れた城下に似ながらも独特の臭いを放つ場所。
男は兵学校を出てからの十年間、絶え間なく過ごしたそこがどうしても嫌いにはなれなかった。
廊下の突き当たりからは、妙に天井の低い通路がほぼ直角に枝分かれしている。
土竜の穴のように城中を巡らせた通路は、意外にも神経質な王族の御用聞きには丁度良い。
彼らからすれば鼠のような醜い使用人を極力見ずに済むし、使用人は折角用意した衣服やスープを台無しにせずに置ける。
しかしそのために設けられた扉の数は異常なほどに多く、どの扉がどこに通じているのかを把握するのに時間が掛かり過ぎるのが難点だった――新入りは決まって用事に遅れるか、慌てて料理を台無しにして主人にいびられるのが常だった。
つまり住めば都で、殊に傲慢な王族との接触を最大限避けたい男にとってはこの上ない理想と成り得た。
狭過ぎる急な階段も、無駄に広い空間よりは遥かに心を落ち着かせた。
王族と小間使いとを隔てる扉を前にカイムは今一度身辺を整える。
形ばかりに四度取っ手を打ち、比較的に他より重いそれを徐に引く。
扉の先には鮮やかな色が広がった。
武骨な通路に慣れた目はほんの一瞬だけ非常な景色に眩む。
原因は通路の光、石組みの間から取った僅かな日光との明暗の差異ばかりではない。
根本からして要素の格が違うのだ。
その日暮らしも儘ならない人々が街路を埋める一方で、何故渦中にあるはずのここが豪華絢爛たり得るのか。
とは言え、城内でも最も実用性を重視したこの書斎は比較的「質素」と言わざるを得なかった。
華美な装飾や希少な調度品で埋め尽くされた他の部屋に比べれば、確かに総計金貨数千枚程度の設備は随分と大人しいかもしれない。
床に敷き詰められた深紅の絨毯だけでも奴隷百人は下らないだろう。
辺り漂う埃に誇張された朝日を眺める男は、廊下を足早に進む音を聴きそっとその場に跪いた。
「おお、カイム。待たせてしまったかね?」
「おはようございます、陛下。御足労いただき感謝いたします」
男は頭を垂れたまま少々息を切らせた白髪の貴人に向けて慇懃に応えた。
王は男の態度に小さく笑い、上等な生地で仕立てられたガウンの襟を丁寧に合わせた。
「して、改めて聞くまでもないとは思うが、例の件は順調かね?」
「はい。昨晩も不正取引に関わる組織の幹部とされる男を始末しました。館からは大量の薬物、組織との交信に使われた文書と、貧民街及び郊外、隣国周辺から攫ってきたと見られる民の記録が複数出てきました。そちらは証拠としてまとめ次第お届けに上がります」
木組みに革を張った椅子に浅く腰掛けた王は、深刻な内容を淡々と報告する頼もしい若者を前に終始大きく頷いた。
しかし既に用事を終え跪いたままの若者は、いつまでも主の反応がないことに焦れ、ちらと上目で御姿を確認する。
見事に蓄えられた鬚を撫でる老人はもはや受けた報告の内容から一服していた。
目元の皺を更に深めた様子からは、どうやらまた別のことを考えているようだった。
「ほほ。いや、すまない。これほど優秀な若者を眺められるのも先王の特権と言うべきか――カイム、どうか面を上げてくれ。堅苦しくてかなわん」
王の御言葉を無下にすることもできず、かと言って慣例や理性に憑りつかれた男は僅かばかりに上体を起こした。
満足な応えが得られず、案の定勢いよく腰を上げ近付いてくる王を前に観念した若者は、頭を擡げ主が御手を差し出すより早く立ち上がった。
それから勧められるままにもう一方の椅子へと腰掛ける。
「君には本当に苦労をかける。本来であればその功績を讃え大いに労いたいところなのだが……表沙汰にはできぬ故それすら叶わない」
「陛下。私は国に仕え臣民のために身を粉にすることこそ至上の喜びとします。それに十分過ぎるほどの見返りもいただいております。私には私腹を肥やせるほどの懐を持ち合わせてはおりません」
本来であれば騎士階級すら与えられて然るべき働きをしているカイムだが、国に蔓延る悪の組織を秘密裏に炙り出すという任を受けている以上、衛兵団の小隊長といった肩書に収まっている。
家臣すら信用し切れなくなった今となっては、独断で相応の褒美を取らせることもできないことに先王はもどかしさすら感じていた。
革張りに落ち着いたと見せ若干腰を浮かせた死人のような男を前に、尚も貴人は舌を巻いた。
――もはや、この男の食指を動かす術はないのだろうか。
よもやと思い、再度その眸を覗き込むも、余りにも真っ直ぐに据えられたそこからは深淵はおろかほんの上澄みすらも窺うことはできなかった。
「そうだ! ティナは元気かね。お腹の子も順調だと聞いておる。これからは何かと要り様であろう? 金ならばいくらあっても困ることはあるまい」
「……先程も申し上げましたが、対価は十分にいただいております。私はこの街の奴隷商のような貪食人に成り下がるつもりは毛頭ないのです」
王はやや語気を強めた男の言に屈した。
意気揚々と弾んだ肩も、期待に固められた拳も、今では力なく垂れ下がり解かれている。
話の端を察した男は既に元在るべき所に跪いた。
「――ならばこれ以上は何も言わん。しかし事の次第によってはいつでも頼ってくれ。儂らは『家族』と何ら変わらんのだから」
「お心遣い感謝いたします」
――家族。
早くに母を亡くし、孤児として幼少期を過ごしたカイムにとってのそれは兵学校やその後の兵舎の仲間が近いのかもしれない。
しかし憶測の域を越えることはなく、彼は貴人から発せられた意外な言葉に違和を覚えずにはいられない。
否、この城下にいる者たちですらそれを的確に言い当てることはできないだろう。
カイムは瞬時に思考をやめ、頭を垂れたまま元来た穴倉の入口へと尻を押し込めた。




