27話 忠告
放課後の鐘が鳴る。
「うるさいから」という身勝手な理由により消音された保健室にも、その響きは否応なく廊下を伝ってやってくる。
保健室には一組の男女の姿がある。
二人は向かい合い、膝を突き合わせては無言のままに意味深に視線を重ねた。
「ちなみに、私はいつでもOKだ」
「いったい何の話をしている」
チャイムの余韻が冷めて久しく、静寂の戻った部屋の空気に耐え切れず先に音を上げたのは意外にも神野だった。
「私が聞きたいくらいだよ。何故ここじゃないといけないんだい?」
「すまん。ここ以上に落ち着ける場所が思い付かなかったものでな」
席を外した神野は「やれやれ」とぼやきながらも流しで茶を入れて戻り、太々しく居座る来訪者に甲斐甲斐しく振る舞った。
「なにも、他の女性との待ち合わせに使うことはないだろう? 嫉妬するよ?」
「そもそもそんな関係になった覚えはない」
「君に覚えがなくとも、私にはある。ベッドの上で乳繰り合った仲じゃないか」
「一方的に付き合わされただけだがな。この所、繰り返し夢に出てくるぞ。特に初めてカノとウーチャンに襲われた場面がな。相当衝撃的だったのだろう」
「ああ、あれは実に刺激的な出会いだったね。しかし、和希くんとの同期も順調に進んでいるようで何よりだよ。他に何か気になったことはあるかい?」
少しの間、カイムはそっと目を閉じ考え込む仕草をみせる。
考えあぐねたのか、珍しく神野が出した茶に手を伸ばし掛けたところで、カイムは廊下の先から何者かが迫ってくる気配を察し手を引いた。
「惜しい! いや、こっちの話だよ――。あまり良くない過去に触れてしまったんだね?」
「……ノゾミという人物は、カズキにとってどのような存在なんだ?」
「幼馴染だよ。自然と信頼し合える程のね。或いはそれ以上の関係。お互い『幼馴染』に留まろうとしていた風でね、傍から見れば随分ともどかしい関係だったよ」
「もう一つ、ブラフマンとはなんだ?」
言ってポケットから塩ビの玩具を取り出して見せる。カイムは朝の鍛錬の際ですら肌身離さずこの玩具を所持しようとする和希の執念に常々疑問を抱いていた。
神野はデスクから端末を引っ張り出し、中に記録した膨大なデータから所望の情報を呼び出す。
「『アルカナセイド』っていう古いMMORPGに出てくるキャラクターだそうだ。物語の分岐上、主人公の勇者たちがのっぴきならない状況に陥った時に現れる狂戦士らしい。敵も味方も関係なく滅茶苦茶にして去って行く厄介者だが、最後は魔王を道連れにして魔界の門に消えていく、とある。いずれにしても、この世界では存在すらしていない記録なんだがね――」
神野が言い終えたところで丁度よく扉がノックされる。
「失礼します」
武徳院が中に入る頃には教師と生徒は本来あるべき距離を取り、何食わぬ顔で彼女を迎え入れた。
「待たせてすまなかった。生徒会の先輩たちがどうしてもと離してくれなくてね」
「いやぁ、実に頼もしい限りだよ武徳院くん。あの堅物揃いの生徒会を掌握してしまうなんてね! 今後とも和希くんのことをよろしく頼むよ」
神野との絡み難さを知ってか、一礼で済ませようとした武徳院の眼前にヌルリとツインテールが現れた。
「あはは……」
満面の苦笑いで神野と握手を交わす武徳院は頻りに椅子に座したカイムに向けて視線を投げ助けを求めた。
「カノ、もうその辺にしてくれ。ブトキンが怖がってるだろ」
「『怖がってる』だなんて失礼だな君は! これは私なりのスキンシップなんだよ! 誰にも渡さないんだから!」
宥めようとカイムが間に入るも、むしろ先にも増してスキンシップは激しくなり、仕舞いには武徳院を背後から抱きしめる形に落ち着いてしまった。
「スー、はぁ……武徳院くんってば、案外いい匂いがするんだなぁ」
「ひっ!」
ブラウスの背に顔を埋めてすかさず深呼吸する神野に、さすがの寛容な武徳院でさえドン引きした。
若干涙目になりながら力なく両手を挙げ、その場に立ち尽くす姿はまるで「大嫌いな虫が体に付いたことを察して動けなくなった女の子」のようだった。
「こらっ、『するんだなぁ』じゃありません。うちの子が大変ご迷惑をお掛けしました」
音もなく背後を取ったウーちゃんは間髪入れずに神野の体を羽交い絞めにし、武徳院にしがみ付いた強固な両腕を引き剥がした。
「いいところに来てくれた。危うくブトキンが犯されるところだったぞ」
「申し開きのしようもございません。ちょっと目を離した途端にこれですから」
「今日も仕事に出ていたんだな。面倒を掛ける」
「いえ、これもお仕事の内、むしろ本業ですから。お怪我はありませんか?」
ウーちゃんは乱れてしまった武徳院の制服を手際よく整え、神野による被害状況を確認する。
「ありがとうございます……ところで、あなたはいったい――」
「和希くん! 今日のところは私も同伴しようと思うんだが、どうかな?」
「何故関係のないカノが同伴する必要がある。これ以上ウーチャンの雑務を増やす気か?」
体の自由を失いながら尚も食い下げる神野の言動に、腕を絞め上げる力が更に強化される。
これには堪らず神野の表情は険しくなり、さほど背丈の変わらない助手の胸元で大人しくぶら下がった。
「さ、さてと! 厨くん、そろそろ行こうか!」
この機を逃せば後はないと見た武徳院はかつてないほど素早くカイムに近付き、強引に手を引いて保健室からの離脱を図った。
「――和希くん!」
扉を潜った直後、不意に神野がカイムを呼び止める。
「どうした。同伴ならいらんぞ」
「……上手くは言えないが、気を付けたまえよ。何か良からぬマナの気配を感じる」
「分かった。気を付けておこう」
カイムは軽く頷き、扉の向こうへと消えた。
途端にウーちゃんの羽交い絞めから解放され地に足を着けた神野は、すぐにデスクから端末を取り出し、武徳院に付けた発信機の動作を確認した。
「念のため、ウーちゃんは神宮付近の森で待機していてくれ。万が一カイムくんが対処できない状況になった際、こちらから指示を出す」
「承知いたしました。ミカちゃんも無理はしないように」
ウーちゃんは神野からインカムマイクを受け取ると、校庭に抜ける扉を開け放ち目にも止まらぬ速さで駆けて行った。
「余計な虫が付かなければいいんだがね……」
見送るまでもなくすでに見えなくなった助手の軌跡を目で追い、徐に扉を閉める。
再びデスクの引き出しを開きファイルを一つ取り出す。
神野はその中に書かれた『武徳院みさお』の字を赤く囲い、そっとファイルを閉じた。




