25話 フェティシスト
白衣を着た見知らぬ女性に抱えられた少女は朦朧とした意識の中、どうにか周囲の状況を捉えようと痺れる頭を何度も擡げた。
「おやおや。そう心配せずとも、君を苛める不遜の輩はもういないよ」
視界がぼやけているからか、少女の目にはおかしな髪型をした新人種の女が優し気に微笑み掛けているように映った。
空気が変わり、建物に入ったことが感覚的に分かる。
次第に戻りつつある触覚から、体に触れる女性の手は柔らかく、口調からも彼女にまったく敵意がないことを知った。
「はぁ、はぁ……素晴らしい……ただでさえレアな鳥人族の、ふがっ、少女だなんてっ! 我慢しろと言うのがどうかしている!」
かと思えば、急に震え出した女は奇声を発しながら少女の両翼へと顔をうずめ、断続的に浅く息を吐き出しては深く吸い込むことを繰り返した。
「猫吸い」ならぬ鳥吸いの状態である。
「――いやぁ……!」
待てど暮らせど奇行をやめない女を前に悪寒が走った少女は、不自由な身をよじりどうにか回避しようと努めた。
「あはぁ! ふがふが、そんな嫌がる姿もっ、可憐じゃぁないか!」
止まらぬ変態行為に、よもや逃げ場はないと絶望しかけた最中、小さな揺れが起きると同時にまた別の何者かの手が少女の体を引き継いだ。
「『あはぁ』じゃありません。嫌がっているではないですか」
神野から強引に少女を取り上げたウーちゃんは、尚も食い下がろうとする変態を背で抑えつつ、少女をベッドへと寝かせた。
「なんだよ藪から棒に。私は今、忙しいんだ」
「日頃からお気に入りの匂いを嗅いでは息を荒げるだけの自堕落な生活の、どこが忙しいと言うんですか? 勝手に呼び付けられた挙句、仕事を切り上げてきた人の身にもなってください」
助手の言うことはもっともであった。
「息を荒げるだけ」というのは少々語弊はあるが、関心のない研究ばかりが舞い込む日々の中で、その鬱憤を晴らすかのように時折変態的な行為に及んでいることは紛れもない事実であったからだ。
おまけに、研究費として稼いだ金すら趣味につぎ込み、同居人でもあるウーちゃんが金銭的な負担を負っていることもまた事実。
ぐうの音も出ないとはまさにこのことである。
「悪かったよ。もしかして、嫉妬してるのかい?」
「そんなはずありません。ミカちゃんとはオシメを交換したときからの仲です。会って間もない幼気な少女にそのような感情を抱くことなど断じてありません」
「……うん。それだけ聞くとちょと危険な関係に聞こえなくもないけどね――。さて、それよりどうしたものかね」
神野がようやく一般人レベルの心境に戻ったことを確認したウーちゃんは護っていたベッドから離れ、神妙な面持ちの神野を通した。
「……た、助け、て……!」
「話せるようになったんだね。大丈夫。私は君の言っていることは理解できるし、否定することもない。もちろん、暴力を振るうことも決してない。だから正直に言ってごらん。なぜ、君はそんなに怯えているんだい?」
硬直していた体が戻りつつあるのか、ベッドの上でぎこちなく女の子座りの状態になった少女は、必死に腰を上げようと何度も試みている。
体が正常であればすぐにでも逃げ出したいのだろうが、今はそれができないといった具合だ。
股座からシーツの辺りを不自然に濡らし、痛々しいほどに全身を震わせる様子から、どうやら少女は雷撃によるダメージで立ち上がれないのではなく、何かに対する怯えから腰を抜かしているようだった。
「大丈夫ですよハルピュイさん。ここは世界のどこよりも安全な――」
どうにか少女を落ち着かせようとウーちゃんがその体に手を伸ばした途端、少女は目一杯に体を仰け反らせベッドの隅へと転がった。
「あーあ、嫌われちゃったねぇ。少し乱暴に持ち過ぎたんじゃないかな?」
「そんな……!? 私は綿毛を扱うように優しく抱えたはずです――。ただ、もし無自覚に傷付けていたのなら、申し訳ありません……」
「失礼」。神野は言い、縮こまる少女が身に付ける布を捲ってウーちゃんが触れたと思わしき箇所を観察した。
生まれつき人が持つべき制御系の一部を持たないウーちゃんは、特に力加減といった分野にかけては壊滅的に苦手としている。
もしも無意識的に少女に触れていた箇所に過剰な力が掛かっていたならば、痣が残るか、最悪の場合肉が千切られ血の一つ出ていても不思議ではなかった。
だが、少女の体にはそのような痕跡はない。
あるのは明らかに鞭やナイフで付けられた古傷や、無数の打撲痕だった。
「どうやらウーちゃんが落ち込むことはなさそうだ。とすると、恐らくだがそもそも鳥人族が死肉喰を苦手とする可能性が出てきた。合ってるだろうか?」
少女の服を元に戻しデスクの横に設置された大型の冷蔵庫を弄りながら、神野はシーツに潜り目だけを光らせる少女を見遣った。
これに少女は小さくかぶりを振る。
校庭での手当ての甲斐もあり、すでに動ける状態にあるらしく、頭の動きに合わせて細かく羽を震わせた。
「ほうら、これをやろう! 家からくすねた唐揚げ用の鶏肉だが……これって平気だろうか?」
「私に聞かないでください。それより、勝手に家の食材を持ち出したことについて後程お話があります」
少々語気の強まったウーちゃんの苦言に曖昧な返事をする神野。
心配をよそに、神野の手に揺れる鶏肉のパックを少女の視線が追った。
いつの間にか姿を現した少女の口元が涎に光る。
「これはイケる口だねぇ。私の質問に答えられたら、ここにある全部をやろう。いいかい?」
恐怖などどこへやら、神野の元へ軽く飛んでさえ来た少女は前のめりに頷いてみせた。
「あぁ、可愛いなぁ……ふむ。では、君はなぜ、このお姉さんを見て震えていたんだい?」
「すごい、マナを、感じたからです……!」
「はい、よくできましたぁ!」
少女の前にトレーを置いた瞬間、肉の一切れがその口に消えた。
今更ながら生食はいかがなものかと止めかけたウーちゃんだが、幸せそうに頬を膨らませ懸命に咀嚼する少女を見て思い留まる。
「酷いです、ミカちゃん。知っていましたね?」
「ああ、知っていたとも。ただ、この手の子供が何の対価もなしに与えられる物を素直に受け取ってくれるか不安だったものでね――。ま、普通にあげてもつまらないっていうのが本音だけど!」
「――ふふ。素直じゃありませんね」
お徳用の唐揚げ用鶏モモ肉に食らいつく鳥人族の少女を前に二人は微笑む。
鳥人族に限らず、新人種より優れた六感を持つ大半の種族は、魔素や人の練る魔力の流れに敏感である。自然界において、膨大な魔素の流動はすなわち災害をもたらし、巨大な魔力は破壊に直結するからだ。
カイムという良質な素体を取り込んだことで、もはや死肉喰の域を遥か遠く越え、まったく新しい種と化したウーちゃんに旧来の種族に対する常識は通用しない。
食物から摂取した魔素を魔力に変換し、身体の維持に必要なエネルギーとする本来の性質は変わらないものの、美しく変化を遂げて以来、大気中の魔素にまで手を出し始めたウーちゃんの体には莫大な魔力が流れ、その身体能力は計り知れないものにまでなっていた。
故に、魔力を肌で感じることのできる種族であれば、仮に世間知らずの少女でなくとも彼女を前に平然としていられる訳がなかった。
ただし、これについてウーちゃんは「力がついて便利になった」程度の認識であり、存分に発揮されたことは一度もない。
「……あ」
散々犬食いを披露した少女がふと、トレーから汚れた口や手を離して思案顔になる。
「どうかしたかい?」
「――これ、みんなにもあげたい……!」
少女はトレーを持ち上げ、神野に許しを請う。
思いの外、三切れほどしか減っていないお徳用パックにはまだ十分過ぎる量の鶏肉が残されていた。
「『みんな』とは、ここまで一緒にきた仲間たちのことかい?」
「……うん。みんな、外で待ってる」
神野が頷くよりも早く、ウーちゃんは少女からトレーを受け取り奥の流しの方へと消えていった。
「もう一つ聞きたいんだが、君たちがここに来た理由はなんだい?」
四つん這いの状態から床に腰を下ろし再び女の子座りになった少女は、じっと神野の顔を凝視した後、眉根を寄せた思案顔で軽く両翼を挙げて前後にふわふわ振り始めた。
どうやらこれが思考時に見せる鳥人族、あるいは少女特有の癖のようだ。
「ハルさん、お土産の準備が――」
その仕草はこの場において最も常識人であるウーちゃんから見ても好ましいものであり、自然、目の前で直視した神野は途端に理性を失いかけた程だった。
「……本当は、この『お城』にいる人たちを傷付けろって言われた。でも、私たちはそんなこと、したくない。だから、こっちで暮らせるように頼みにくるはずだった……」
「――はぁ、はぁ……なるほどぉ。君たちは、何者かに命令されてきたんだね。しかし命令に背けば帰ることも許されない。だからこちら側に亡命することに決めたってことだ――。それで、君たちに命令したのは誰だい?」
神野の言葉に一瞬にして少女が硬直する。
少女にかけられた隷属魔法がそうさせるのか、少女の体がその真意を語ることの恐ろしさを覚えているからかは分からない。
少女はただうっすらと涙を浮かべて首を横に振った。
「そっか。まぁ、本当に嫌になったらいつでもここにおいで。私たちが守ってあげる」
「……ありがとう」
ウーちゃんが取っ手付きのタッパーを少女に渡す間、神野は軽く少女の額に指を押し当て口元だけで何かを呟いた。
「何か変なことされたら、すぐに戻ってくるんだよ」
校庭に面した保健室の扉を開け放った神野が少女を手招きする。
外にはすでに部隊から解散した生徒たちが各々に校舎へと戻る姿が疎らに見えた。
「ここにきても変なことをされないという保障はありませんが、その時は私ができる限りお守りします」
「失敬だな、むやみやたらに傷付けるような連中と一緒にしないでもらいたい! 私は飽く迄、被験体に最大限の敬意を払った上で愛でているだけなんだ!」
訳の分からないことを叫ぶ女の言動に少女はくすりと笑った。
「この際、私のことは置いといて、君――今後はハルと呼ぼう。もうすぐ夏だけどね――! ハルはウーちゃんの強さを十分に理解したはずだ。我慢せずにいつでも頼ってくれていい。誰であろうと瞬殺するだろう。それに、うちにはもっと強い仲間がいるんだ」
「――ウーチャンより、強い……!?」
素足のまま校庭に足を着けた少女は若干体を縮め、内股気味に固まった。
「ああ。だから、ハルを苛める奴をボコボコにする用意はできている――。ここにくれば楽しいことが一杯だよ。ハルのお友達も連れてくるといい。お腹が空いたら好きな物を目一杯食べさせてあげよう」
神野の言葉を受け徐々に少女の緊張は緩み、先の味を思い出した脳はその口内に大量の唾液を忍ばせた。
「そうだった……! 早く、みんなのところに戻らなきゃ!」
羽を広げ、軽快に二三歩助走をつけたところで不意にハルの足が止まる。
片手でもう一方の翼の内側を弄ると、羽根を一つ取り出し、そっと窓際に置いた。
それから二人に向けて両翼を揺らしてみせ、踵を返す。
今度は助走した途端、辺りに突風が吹き、瞬く間にハルの姿はなくなっていた。
「綺麗な羽根ですね。ハルさんなりのお礼でしょうか」
羽根を手に取ったウーちゃんはハルが飛んでいった雲間にそれを翳し、澄んだ薄茶色の空に目を細めた。
「ウーちゃん! 羽根も勿論いいんだが、少し手を貸してくれ!」
神野は少女がいたベッドとデスクを忙しなく行き来している。
床に設置されたバケツにシーツを絞り、引っ切り無しにありったけのスポイトでその液体を採取しているようだった。
「鮮度が命だよ君ぃ! 余計な雑菌が入ってしまう前に、どうしてもあるだけ採取したい!」
いつものことながら、理解の及ばない神野の言動に肩をすくめたウーちゃんは掃除用具入れから別のバケツとモップを取り出し、絞ったシーツはおろか床に滴ったものまで綺麗に片付けに掛かった。
「!? ち、ちょっと待って! 汚れてしまったとは言え、まだ十分に使えるだろう!?」
「何に使うつもりですか。いいですから、早いところ片付けてしまいましょう」
どうにか食い下がろうとする神野だが、ウーちゃんの腕力に敵うはずもなく、それらは見る見るうちに本来あるべき場所へと消えていった。
「ああ……! こんなことなら保健室ごと無菌室にしておけばよかった!」
「そういう問題ではありません。まったく、私というものがありながら……」
「え、それはどういう――?」
思いがけなく新たな好奇心を芽吹かせる神野。しかし、それも束の間。
デスクに集めたスポイトにまで手を掛けようとする助手の姿に慄き、慌てて奥の倉庫へと運ぶので精一杯だった。
「ハルさんのご友人ですが、ご無事でしょうか?」
「ふぅ。それなら問題ないよ。今頃彼らが上手いこと誘導してくれているだろう」
一仕事終えた風にデスクへと落ち着いた神野はウーちゃんが入れたお茶を一口含み、今となっては化石のような存在となった携帯型端末の画面を覗く。
画面は所狭しと「ハマナス会」とのやり取りで埋め尽くされている。




