18話 接敵
石造りの巨大な鳥居を潜り、やがて足元が石畳から土へと変わった。
激しい雨音にかき消されるはずであった叫びがカイムの耳へと届けられる。
より正確な位置を読んだカイムは、咄嗟に参道を大きく外れた木々や茂みの方へと飛び込んだ。
ズルッ。
ガサガサッ、バシャ―ン!
「――かはっ」
真夜中の街を颯爽と駆け抜けたかつての身のこなしは健在。
しかし、有り余る物量に物を言わせたカイムの体は急激に振られた遠心力に耐え切れず、こけた。
「――れかぁ――――けて――!」
瞬時に立ち上がるその先に女性らしき者の声が上がった。
背負った鞄を茂みに放る。
転んだ際に拾った小石を片手に、鞄から取り出した自前の包丁をもう一方に携えた。
ビュッ!
僅かな挙動で投擲された小石が勢いよく直線状に、狙った木々の間を飛ぶ。
「――!?」
小石は女性とは別の何者かに命中したものの、足を止めるには至らなかった。
「あっ……!」
ガッ! ドサッ。カサカサカサッ――……
何かで殴打された女性は短く悲鳴を上げ、輩がいたと思われる地へと倒れた。
女性が倒れるよりも早くその場を去った輩の足取りは軽快で、二十メートル程離れたカイムが着く頃にはすでに跡形もなくなっていた。
「おい、しっかりしろ! 俺の言ってることが分かるか!」
「うぅ……」
頭部を打たれたらしい女性は無意識に唸りながら、虚ろな目を暗い森へと彷徨わせた。
更に激しさを増す雨に無数の枝葉から絶えず大粒の雫が零れ落ちる。
「誰かぁ! 誰かいないか! いるわけないかぁ!!」
女性の腕を肩に回し、半ば引き摺るようにして抱え上げたカイムは、暗闇の森から真っ直ぐに参道へと戻りながら叫んだ。
茂みから抜け出し砂利が敷かれた参道へと出る。
「こっちだ! 早くしろ!」
カイムは先から感じていた気配に向かって再度叫んだ。
少し先に見える巨大な建物から恐る恐る近付いていた人物は、声に応じるように全速力で駆けてきた。
「――その声、厨くんか!? なぜここにいるんだ!?」
閉じた和傘を片手に、ずぶ濡れになった白の袖、緋色の裾を捲った武徳院が手探りでカイムのもとに立った。
「お前こそなぜいるんだ! それより、怪我人がいる! 雨を凌げる場所がほしい!」
「この先に社務所がある! 付いてきてくれ!」
雨音にかき消されそうになる声を互いに張り上げる。
武徳院は時折草履を砂利に取られながらも、女性を背負ったカイムを大きな木造の社務所まで案内した。
「ブトキン、治癒魔法は使えるか」
カイムは背中の女性を入口付近の板の間に降ろすなり、迷いなく濡れて重くなった女性の衣服を脱がせていく。
「んんっ……」
「――魔法? いや、魔術の類は強化系統しか使えない。見たところ、この程度の怪我であればアドブレインがどうにかして――厨くん、ここは私が代わろう」
女性がまとう制服を剥ぎ取り、すかさず下着に手を掛けたカイムを見兼ね、武徳院が続きを買って出た。
「任せる。しかし、そのままでは冷えるだろう。なにか拭くものがほしいな」
「そこの棚に御幌――白い布がある。いくつか取ってくれないか?」
カイムは武徳院が示した横長の戸棚を開き、畳まれ束になった布を引っ張り出した。
「上等な布だな。いいのか?」
「構わないよ。こんな時くらい、神も大目に見てくれるだろう」
武徳院は受け取った布を横たわる女生徒に掛け丁寧に体を包み込んだ。
「『神』と言ったが、ブトキンは神官だったのか? それなら活性魔法くらいは使えるだろう。大事でないとはいえ、痕に残っては不憫だろう」
「厨くん、さっきから何を言ってるんだ君は――」
不可解な発言に眉をひそめた武徳院は、言われるままにカイムの視線を辿った。
裸体に数枚の布を掛け横たわる女生徒。
制服を脱がせた時点で目立った傷はなかった。
「――どういうことだ……?」
しかし、何故か最も早く治るはずの小さな擦り傷が、剥き出た少女の顔や手足に残っている。
瞬時に異常を察した武徳院は脳震盪を起こしたと思われる女生徒の頭部付近をくまなく確認した。
女生徒の後頭部、うなじ付近は赤く腫れ、見てわかるほどの内出血を起こしていた。
「私は大馬鹿者だ! 救急隊を要請する!」
アドブレインを通して救急センターへ状況を伝達した武徳院は少女を仰向けに寝かせその名を呼び続けた。
「麻由里! 起きてくれっ! ――何か、なにかできることはないのか!?」
廊下の奥から床板を踏む音が近付いてくる。
「どうした、みさお――!?」
狩衣をまとった男性が必死に叫ぶ武徳院と倒れた少女を目にするなり、慌てて駆け寄ってきた。
「武殿から氷嚢を取ってきなさい。あるだけ氷を詰めて」
「はい、行って参ります!」
武徳院は男性の指示を受け、すぐに土砂降りの雨の中へと駆けて行った。
男は先程カイムが布を取った棚から小瓶をいくつか取り出し、その内の一つの口を切って中の液体を開いた少女の口元へと当てた。
「――や……」
半透明の淡紅色を呈した液体が口内へと流れ込み、程なくして喉の奥へと消えていった。
「活性薬のようなものか?」
「ああ、似たような物だよ。家内が作った特別製だ」
一瓶を飲み干した少女は一度だけ体を硬直させると、徐々に全身を弛緩させ穏やかな眠りについた。
「私はみさおの父で邦継という。君の話はみさおからよく聞いているよ。なんでも、武に精通しているとかで、それはもう嬉しそうに話すものでね」
邦継は少女の呼気を確認し、一先ず落ち着いたところでカイムに話を振った。
「そうか。娘の状態はどうだ?」
「心配はいらないみたいだ。ただ、傷や後遺症が残らないとも限らない。私たちにできることはやっておこう」
「賢明だな」
カイムは柱に預けていた体を起こし、土間に放った濡れ靴をつっかける。
「君がここまで運んでくれたのかな――。ありがとう。この子はうちの道場の門下生でね」
「なるほど。ブトキンの技は父から受け継いだものか。しかし、見事な手際だった。こういうことには慣れているんだな」
「――いや。慣れざるを得なかった。近頃起きている物騒な事件、その内の三件は私たちの道場に通う生徒が被害を受けている」
邦継は今にも外に飛び出して行きそうなカイムに向けて、粗方の状況を話して聞かせた。
『常陸防衛学院、生徒失踪事件』。関係者の間で、事件はこう呼ばれている。
すでに二十件を超える被害が確認されている本事件は、初めて被害が報告されて三か月経った今でも、未だに加害者やその目的等、犯行の全容が謎に包まれている。
邦継の道場『常陸神東流』の門下生内で被害に遭った生徒は、いずれも生活圏の境界付近にて倒れた状態で発見されている。その他の被害者についても同様だった。
被害に遭った生徒たちは、怪我を負っている者もあれば、無傷のまま倒れている者もあった。
彼らに共通していることは、『アドブレインが機能しなくなっている』ことだった。
アドブレインは位置情報、心身の健康状態を逐一個人データとして国営機関に送っている。
その機能が停止したともなれば、電子ネットワーク上での存在が突然消失したことになる。
故に、『失踪事件』として挙げられている。
「アドブレインの不備」は、今回カイムが社務所に運んだ女生徒のように、時間が経過しても一向に傷の修復が為されないこと、意識を戻すのに時間が掛かり過ぎることから発覚した。
被害を受けた生徒のアドブレインは全機能を失っており、血液透析及び、クリンナップ用の微細器の投与、細胞に付着したアドブレインの洗浄を行った上で、新しいものに入れ替える必要すらあるという。
加害者像については目撃者はおろか犯行現場すら不明であることから、未だに定かになっていない。
「先程はうちの者が取り乱してしまって申し訳なかった――。もはや人間の恒常性を保つには不可欠になったアドブレインだが、みさおにとっては生まれたときから当たり前のように共存してきたものでもある。それを失った人、ましてや怪我を負った他人を見ることなど生まれて初めての経験だったのだろう。許してやってほしい」
「構わない。自身の怪我には慣れても、身内の怪我には少なからず心を痛めるものだ」
邦継は「ありがとう」と言いつつ頭を下げ、笑顔に細めた目を一層細くしてカイムを見遣った。
「ところで、先刻その娘に危害を加えた者と遭遇したんだが、警戒心が強過ぎるせいか、こちらが姿を捉えるより早く消えてしまった」
「……森か。犯人を見れなかったのは残念だけど、これはもしかすると、かなりのヒントになるかもしれないね」
「クニツグの弟子が倒れていたのはどの辺りなんだ?」
床に余っていた御幌を懐に納めたカイムは、雨が吹き付ける引き戸へと手を掛ける。
「ここの参道をずっと下っていくと池の方に出るだろう? そこから更に海の方に抜けると東の一の鳥居、『明石の浜』と言われている場所がある。その鳥居の下で倒れているのを、朝方通りがかった人が見付けてくれたんだ」
「トリイの下にいたんだな? ……潮風が吹いていたのは、およそあちらの方か――」
「世話になった」と言い残し、カイムは間髪入れずに豪雨の中へと飛び込んだ。
「厨くん!? どこに行くんだ!」
大量の氷嚢を抱えて戻った武徳院は、入れ違いに駆けて行ったカイムに向けて叫ぶ。
「救急隊には断りを入れておいた。――みさお、早くこちらに来なさい」
「あっ、はい」
雨風が吹き込む戸を閉め、みさおは邦継と横たわる少女のもとに寄る。
「彼はいったい、なんだね」
父親からの唐突な質問に動揺したみさおは抱えていた氷嚢をいくつか落としてしまった。
真意が分からず邦継の顔色を窺うみさおだが、無言のまま落ちた氷嚢を拾い上げる父の目は真剣そのものだった。
「彼、厨くんは、私と同じクラスの生徒で――」
「『アドブレインの不備』を知って尚慌てる様子もなく、こうして怪我をした者を前に眉一つ動かすことはなかった」
「厨くんとは、元来そういう――」
「それだけなら、まだ『経験済みだった』可能性はある。しかし、どうだ。二年前に『常陸大神宮、東の一の鳥居及び明石の浜一帯が海に沈んだ』という事実を知らない者が、果たしてこの地にいると思うか?」
「それは……」
「聡明なみさおが認める男のことだ。仮にも私欲のために動くような者ではないだろう。だが、利他のためであったとしても、他人を傷付けてよいという理由にはならない。万が一ということもないとは言えない――。今後、彼から目を離さないように。もしかしたら、事件と何らかの関わりがあるかもしれない」
稽古の時間を除いて、常日頃から温厚な父の有無を言わせぬ硬い表情に、みさおは思わず息を飲んだ。
邦継は立ち上がり、みさおに対し麻由里と呼ばれた少女に衣服を着せ客間で休ませるように伝え、社務所を後にした。
*
未だに意識の戻らない麻由里の世話が一段落し、脱衣所に着いたみさおはようやく水浸しになった巫女装束から解放された。
絞っても尚水の滴る装束を畳み、肌に張り付いた下着に手を掛けたとき、ふと豪雨の中を駆けて行った厨の姿が脳裏に浮かんだ。
――彼はいったい何を考えているんだ?
外の風雨は一向に止む気配がない。
雷すら鳴り出した空は暗く、星々の光すら届かない鎮守の森が、より一層外界との接触を拒んでいるかのようだった。
浴室扉の取っ手に触れかけたみさおは、稽古後すぐに回すはずだった脱衣所の洗濯機の前に戻り、蓋を開いた。
瞬間、内部に充満していた何とも言えない香りが立ち上り、みさおの鼻腔を刺激した。
洗面台の鏡には全裸のままに眉を寄せ、逡巡する自身の姿が映る。
ここにきて初めて、みさおは入浴後に着る衣服を持たなかったことに気付いた。
「――ええいっ!」
一つの気合の下に洗濯機へと手を突っ込んだみさおは、先の巫女装束の濡れより若干マシな白い道着を引き出した。
――なにを迷うことがあろうか! 私は、あの高みへ昇り詰めると決めたではないか!
昼間見た厨の背中を胸にした彼女に、もはや一点の憂いさえありはしなかった。
「よしっ!」
稽古で流した汗に濡れる下着と道着をまとったみさおは廊下を駆け、再び嵐の夜へと飛び出して行くのだった。




