17話 長雨
「で、こうなりましたと」
「面目ない」
日が傾き薄暗くなった保健室の片隅で、教師と生徒が膝を合わせる。
明らかに満身創痍の状態にあるカイムを前に、一方の神野は相変わらず不敵な笑みを浮かべている。
肥沃な体を無理やり押し込んだせいか、元よりダメージを受けている制服が今では無惨にも擦り切れ、剥き出た顔や手足には無数の痣と擦り傷が痛々しい。
「君も物好きだねぇ。やり返したらよかったのに」
「教師の発言とは思えんな。そうでなくとも、暴力は罰則の対象なのだろう?」
――〈祖は等しく水の精、水の民にあり。彼の者を癒すは水。滾々と湧き出る生命の水也。水神ヴァルナよ、我が祈りに呼応し彼の者の疼きを鎮め給え〉――。
神野の詠唱に伴い、厨の身に付いた目立った傷が徐々に塞がれていく。
「いいや? 屋上のあの場所は、何があっても学内ログには記録されない。つまり、『暴力』としては認知されない。彼らがどういう経緯でそれを嗅ぎ取ったのかは不明だがね」
「それを早く言ってくれ。少なくとも衣服を汚さずに済んだのだが……。しかしあれだ、さすがは魔法師といったところか。カノの力は本物のようだ」
「ま、本業ではないから気休め程度だけどね。それと、私のことは気軽に『ミカちゃん』と呼んでくれていい」
「ところでカノ。連中は以前からイシヤのことを金づるにしていたようだが、なぜ執拗にイシヤを狙う必要があるんだ?」
「……ふぅ。その件なんだが、私もずいぶんと難儀していてね。どうにも生徒間の小さなトラブルには干渉する気に――いや、干渉しにくいこともあってね。彼、石屋くんの家がどういった組織なのか知っているかい?」
「いや、まったく知らん。兄が二人に姉が一人、両親は健在、本人は花屋になりたいということまでしか聞き及んでいない」
「もう十分じゃないかな? 『イシヤ建設』っていう有名な会社なんだけど、世間では贈収賄の噂が立っていてね。実際、捉え方次第では噂が的を射ている点もあるんだ。彼らはそこに目を付けたんじゃないかな」
「どんな組織なんだ?」
「この第一生活圏においては、特に国防軍からの要請で、外敵の侵入を防ぐためのプロテクトの構築を主な事業としている。贈賄の疑いは、『次元領域開発機構』に加盟している、イシヤ建設以外の外部の組織との間に掛けられる。外敵からの侵攻が激化して以来、この生活圏内では唯一、第二生活圏以降とのパイプを持っている組織だからね。国から情報規制を課せられているとはいえ、秘密を抱え過ぎてしまったのかもしれない」
神野は棚にある籠から予備の体操着を取り出し、疑問符を浮かべるカイムごと仕切りの向こうへと追いやった。
「経緯はよく分からんが、イシヤは大丈夫なのか? 危険な組織なんじゃないか?」
「ははははっ! 危険じゃないものなんて、この世界には何もないさ。まぁ、国防軍の犬をしている彼らが、我々の機嫌を損ねない限りには一先ず安全と言えるのかもしれないね」
夕日に映えてギラギラした目がカイムの影を捉える。
「心配になってきた」
「ずいぶんと彼にご執心だね。私と彼、どっちが大切なんだい?」
「イシヤ。あいつは花屋になるのが夢なんだそうだ」
「ふーん。しかし、あらゆるアナログが排除されてきた世界において、『花屋』とはまた皮肉なものだねぇ」
「ああ。楽しみだな。イシヤの『花束工作』」
徐に椅子を立った神野は全開の窓とカーテンを閉め、空調のリモコンに手を掛けた。
「なんにしても、今回の件は私の落ち度でもある。そこで、埋め合わせと言っては難だが、一つだけ耳寄りな情報を提供しようじゃないか」
「何をさせるつもりなんだ?」
「そう怖い顔をしないでくれ――脚でも触っておくかい? ――近頃、学区内で起きている生徒の暴行被害だが、どうやら外敵から受けたものばかりではないようなんだ」
神野は冗談交じりにカイムに向けて伸ばした脚を引っ込める。
「……侵攻と見せかけた、内部工作か」
「可能性は高い。少なくとも、私が診た生徒たちは皆、外敵から被るような粗野な外傷は見られなかった。彼らに共通していたのは、『魔術が使用できなくなる』程度の心的ストレス、或いは生体や固有魔素そのものに何らかの干渉をされたということだ」
「治りそうなのか。その生徒たちは」
「――いや。恥ずかしながら、今のところその手立てが見つからない。原因が特定できれば、あとはその軌跡を辿って復元できるんだけどねぇ」
「呪いのようなものか?」
「違うとは言えないね。しかし、そもそも魔法そのものに素養が乏しいこの世界の若者が、『呪い』といった繊細な魔法の影響を受けるとは思えない。呪いは本来、魔法に長けた者の方が被害を被りやすいものだ。生体そのものに干渉されたと見て間違いないだろう」
「当てはあるのか? どうにも、この街には不案内なものでな」
「生徒が被害を受けているのは放課後から未明に掛けて。現場は学区近辺とされている」
「ずいぶんと曖昧だな」
「事件に遭った生徒たちは、およそ学区と生活圏の最外縁との境界線あたりに倒れた状態で発見されている。一先ずはその境界付近を探ってみるのがいいかもしれないね」
「その境界線とやらも分からないんだが」
「心配には及ばないよ。君の場合、行けば分かる」
もうすぐ部屋を閉めるから、という理由で半ば追い立てられるように保健室を出たカイムは、扉の外に泣きべそをかいている石屋の姿を認めた。
「待たせてすまなかった」
「――ううん。僕が勝手に待っただけだから――。ごめん。僕のせいでこんなに……」
「気にするな。穴が開いて動きやすくなったくらいだ」
薄暗い周囲のせいか一層落ち込んで見える石屋の肩がガシガシと叩かれる。
零れる涙を慌ててシャツの袖で拭い、石屋は努めて微笑んだ。
「連中との件は、取り敢えずカノに任せて大丈夫だ。次に絡まれたらすぐに俺かカノを呼ぶといい。もう無駄遣いはよせ」
「ダメだよ……また迷惑掛けちゃう」
「俺は迷惑だなどと思ったことはない。むしろ、いつも石屋に頼ってばかりいる俺の方が迷惑だろう。それに、あのカノという女。あの手の女は俺のように粗雑な男と違って、暴力よりももっと恐ろしい手段を心得ているものだ。味方につけておくといいだろう」
石屋はカイムの言葉に曖昧に頷き、先導するカイムに従った。
日没間近の校庭に外灯がチラチラ点き始める。
部活動に励む生徒たちの声は強く校舎に反響し、最後の追い込みに掛かっている。
辺りは垂れ込めた雲も相まって一層薄暗い。
鞄を抱えた石屋とカイムは学院を後にし、使用されなくなって久しい電車の線路伝いに帰路へと着いた。
「厨くんの家って、反対じゃなかった?」
「ああ。今日は遠回りをしたい気分なんだ」
二人は巨木が生い茂る広大な森の縁を歩く。
木の葉の騒めきと、草むらから響く虫の音が、鬱蒼とした辺りを絶えず包み込んでいる。
「厨くんってさ、なんだか変わったよね」
周囲の空気に飲まれることを恐れた石屋は、無言のままやや前の方を行くカイムに向けて話し掛ける。
「そうか――? どういったところが変わったんだ?」
「んー……全体的に、なんだか入学式の時より堂々としてる、のかな?」
「当時の俺とはどんなだ? もっと落ち着いていたか?」
「落ち着いているっていうより、なんとなく、落ち込んでいるような感じだった」
口にしてから慌てて「ごめん」と謝罪した石屋は、少しだけ歩くペースを落とした。
「俺自身、自分の身になにが起きたのか、ほとんど理解していない。ただ確実に言えることは、俺は『この世に生きている』ということだな」
石屋に並んだカイムは、からかうように肩より低い石屋の頭頂をポンポン叩いた。
「なにそれっ! 当たり前じゃん!」
頭に乗ったものを振り払おうと素早く手を出すも躱され、仕方なく石屋は前に逃げたカイムの背をやや強く押しやった。
石畳の参道に入り、すでに閉められた飲食店や土産物屋、民家の軒並みを抜け、大きな鳥居の前へと出る。
「じゃ。僕の家、あっちだから」
「そうか。気を付けて帰れよ」
石屋は小走りでカイムを追い抜き、曲がり道へと折れる手前でそっと振り返る。
「ありがとう、厨くんっ! またあした!」
黄昏時に手を振る姿をぼんやり残した石屋は、颯爽と道の先へと駆けていった。
ぽつりぽつりと雨が降り出す。
次第に強まる雨脚は、容易に長雨を思わせた。
石畳を激しく打つ雨。神聖な森の腐葉土から立ち上る匂いに混じって、長いこと嗅ぎなれた臭気が海風に連られてやってくる。
――掃除の時間だ。




