15話 マッド女
いつもと違うシーツ、身に覚えのない重篤な疲労感。
体中の筋肉が引き攣り思うように身動きが取れない和希は、どうにか動く腕をよじり、仰向けに見ていた白い天井から白いパーテーションへと視界を移した。
「どこだ、ここ……」
「……保健室、だよ」
「!?」
半透明にぼかされたパーテーションの隙間から突如女の顔が囁き、和希の度肝を抜いた。
「――って、あ! お前は、あのときのっ!」
「そう、そうだとも! いやぁ、覚えていてくれたんだね――」
「このマッド女! 俺になにしやがったんだ!」
痛みを忘れ、ベッドのシーツを壁際まで丸ごと引き寄せた和希は咄嗟にそう叫んだ。
「――んマッド……マッドゥ……はぁ、はぁ……」
ツインテールを振り乱し自身の体を力強く抱きしめた神野は、次の瞬間には恍惚とした表情のまま和希の納まるベッドまで詰め寄った。
「んんっ、マッド! 実に素晴らしい響きだとは思わんかねっ! まさに、サイケデリックネィム! 私のことは今日から『マッド女』と呼んでくれたまえ!」
「いやだよっ! つーか、誰なんだよあんたは!」
全力の提案をあっさり断られた神野は先までの興奮とは裏腹に「スンッ」となり、乱れた白衣や髪を整え手近の椅子へと腰掛けた。
「マッド女だ。君に愛のお注射を打ち込んだ」
「どんだけ気に入ってんだよそれ! いいから、本当のことを教えてくれ! 警察呼ぶぞ!」
「はぁ……――神野。和希くんを愛しているのは本当でーす。食べてしまいたいほどにね。ま、食べるのは私じゃないけど」
「急に雑になったな……」
見るからに不貞腐れた態度で椅子にもたれる神野。
このままでは埒が明かないと見た和希は、ここで一つ折れることにした。
「それで、その、マッド女さんは、実際のところ俺に何をしたんですか。この部屋はどこなんですか」
「――君の質問に答えようじゃないかっ! 和希くんに施した術は、いわば『擬似転生』。本来の転生に掛かる膨大な時間や段階を省略し、意図した個体に固有魔素、君たちの言うところの<魂>を移行させたのさ。ちなみにここは学校だ」
「いや、まったく意味が分からん。そもそも魂とか、そんな非科学的なことを言われてもだな――」
「違うんだなぁ。遅れてる。遅れているよ君は。今やこの世界においてすら、科学のトレンドは『魔素粒子』だと言うのに。だが、君が知らないのも無理はないかもなぁ」
神野は言って、机の引き出しから年季の入った腕時計を取り出した。
角度の変えられる構造の液晶画面をやや壁に向け、内部のものをホログラフとして映し出してみせた。
「すげぇ!」
和希は思わず画面から浮かび上がる小さな銀髪メイドの虚像にかじりついた。
「ふむ。この小型の投影機、もとい腕時計型携帯電話は、すでに時代遅れのアナログ機器へと仲間入りしている。この国の住人はもれなく『体細胞付加型微細機』という無数の機械を体内中に保有し、これ以上の機能をいつでも空で体感している」
「嘘だっ!」
「その様子だと、君は紛れもなく他層をまたいでしまったようだね。恐らく、君の中に入った固有魔素が、多層世界を漂う有り余る膨大な魔素と結びついたことで、本来あるべき世界の層からはみ出してしまったのだろう。いやはや、実に好都合」
神野は疑心暗鬼になった和希を前に上機嫌で語る。
「俺の中に入った固有魔素ってなに?」
「君とは異なる別人から抽出した魂のことだよ。通常なら、固有魔素には微弱な差はあっても気にするほどのものじゃないんだがね。今回のようなパラドックスを引き起こしたのは、世界を異にしたのが原因だろう。別に珍しいことでもないんだ。『神隠し』みたいなものだとでも思っておいてくれ」
「……そっすか。で、俺はなんで学校にいるんですかね。これもパラドックスですか?」
「紛れもなく『君』が望んだことだよ和希くん。君の中に秘めた内なるものが、君にうさせたのさ」
「誰かっ、警察を呼んでくれぇ! イカれた女が俺を洗脳してくるんだっ!」
マッド女からの度重なる妄言に耐え兼ねた和希は、疲労でふら付く体をベッドから放り出し、外につながると思わしき扉の方へと助けを求めた。
「おやおや和希くん、どこに行こうというのかね? ほぅら、君の大好きなおみ足だよ?」
あと一歩扉に手が届くところで、しなやかな神野の片足が和希の進行を妨げる。
その拍子に意図せずタイツをまとった太股に触れてしまった和希は、複雑な表情を浮かべた。
「あの、和希くん……そんなまじまじと見られると、さすがの私も気恥ずかしいのだが」
「ばっ、見てねぇわ! ちょっと懐かしい匂いがしただけ――! あ」
ついて出てしまった言葉を飲み込む和希だが、時はすでに遅かった。
スカートの裾を掴んだまま、その場にしゃがみ込む神野。
先までの余裕綽々の態度とは打って変わった彼女を目にした和希は、思わず唾を飲み込んだ。
そこには、頬から耳まで紅潮させた女の子の姿があった。
「こ、困るよ君……。女子の匂いまでテイスティングするなんて、君はとんだ変態さんだ」
「勘違いしないでくれ! 俺はこう、お前の足――じゃなくて、タイツからする匂いが、何となく知っている奴の匂いに似ていただけでっ! だから、そんな目で俺を見るな!」
激しく言い訳をする和希を、神野は恥辱と好奇心の入り混じった視線でじっと見詰める。
「ほほう。詳しく聞こうじゃないか」
「……そんな大層なもんじゃねぇよ。中学の時から知り合った野郎の服の匂いが、ちょっと似てたってだけで。やましい気持ちなんて、まったくない」
「なら、そういうことにしておこう。まぁ、君が重度の匂いフェチじゃなくて安心したよ。なにせ、君とは長い付き合いになりそうだからね」
あからさまに嫌な顔をする和希を横目に、白衣のボタンを留め、乱れた制服を整えた神野は再び椅子に座した。
「君がここに運ばれてきた理由だが、単なる疲労だよ。半年以上も起きることすらまともにしなかった人間が、急に過度な運動量をこなしたんだ。当然と言えば当然だね。おまけに、超人的な動きだったそうじゃないか。――さ、腕を出して」
「超人? そもそも運動なんてした覚えもないし、学校に来るつもりもなかったんだが?」
注射器を片手に体操着の袖をまくり上げようとする手を振り払う和希。
「それはほら、君の中にあるもう一つの固有魔素、魂が君の体を動かしたんだろう。どういう訳か、今は表出していないようだけどね」
「だから、その意味がまったく分からないんだが……。ところで、ここって高校の保健室であってるよな?」
「正確には『常陸防衛学院高等部』だけどね。その認識でだいたいあっているよ」
「ひたち――なんだって? 俺と同じ学年に『宮中恭弥』ってやつがいると思うんだが、知ってるか? たしか進学先は同じだったはず――」
「いないよ」
「……いやいや! あんたが知らないだけじゃないのか? 見るからに先生っぽくないもんな」
「いない。いないことを知っている。それに、こんなにかわいければ、先生っぽくないのも無理はない。特にこの髪型がね」
言って神野は艶やかな二本のそれを自慢気に振ってみせる。
「ごまかすんじゃ――」
コンコンコンッ! ガラッ!
「失礼しますっ!」
「いやぁ、待っていたよ、みさおくん! 実にいいタイミングだ!」
「神野先生、厨くんの様子は――」
ズプッ
「えっ、俺に用、あっ! また何か入れやがっ――」
「ははははっ! 厨くんっ、ああ、ばっちりだとも! ちょうど今からぐっすり眠るところさぁ!」
「それを聞いて安心しました。では厨くん、また午後に様子を見にくるよ」
「……ちょっ、まっ……!」
呂律の回らなくなった和希の叫びは武徳院に届かず、朦朧となった意識は瞬く間に途絶え昏睡した。
彼女と入れ違いに現れた銀髪メイドによって、和希の体は昇降口に向けて運ばれていく。
「――世話を掛けるな」
「いえ、お駄賃はきっちりもらっておりますので。お久しぶりです、カイムさん」
「ん? 君はたしか……」
「ウーちゃんです。覚えていますか?」
カイムは自身を背負う女性の華奢な肩や首筋をぼんやり眺め、おぼろ気ながらルドラチャの洞窟であった出来事を思い出しつつあった。
「驚いたな。君があの時の『ウーチャン』か。見違えたな」
実際のところ、当時視力が失われていたカイムが以前のウーちゃんと比較できるのは、声と匂いだけだった。
しかし、声は明らかに女性のものであり、性別すら判断できなかった以前の唸り声とはまったく別物だった。
むしろ今の落ち着き澄んだ声音を好ましいとすら思えた。
匂いについても、「死臭」は無くなり、控えめの香水の匂いが安心感を与えてくれる。
「とても、うれしいです」
耳殻がうっすらと紅潮したのをカイムは見逃さなかった。
――本当に人間らしくなったものだ。
「どこに向かっている?」
「ご自宅まで送り届けるようにと伺っています」
いや、と言いウーちゃんの肩をそっと叩いたカイムは背から降り、昇降口まで運んでくれたことに対し礼を述べた。
「困りました。仕事が一つ減ってしまいました」
肩に下げたポーチから液晶盤がやたら大きな電卓を取り出したウーちゃんは、忙しなくキーを叩き始めた。
液晶に表れる数字を見ては困惑した表情を浮かべ、さぞ難儀しているといった雰囲気を醸し出す。
その間、チラチラとカイムの方を見遣ることを忘れなかった。
「なら、一つ頼まれてくれないか?」
「えっ、なんでしょうか。できれば単価三千円くらいのお仕事を希望します」
「……よく分からんが、カタナ使いの『ブトキン』という女生徒に会うことがあれば、『先程は勝負を放棄してすまなかった』と伝えてほしい。有名なのだろう、彼女は?」
「ブトキン――よく分かりませんが、その方にお会いした際には伝えさせていただきます」
これまたポーチからメモ帳を取り出したウーちゃんは、伝言を紙へとしたためた。
「ところで、つかぬことを聞くようだが――君は、どこかの屋敷に仕えるメイドなのか?」
「いえ、私は特定の職場を持ちません。本来ならば、ミカちゃん、美景さんの助手を専業としたいところですが、まったく稼ぎが見込めませんので、普段は登録制の家事代行サービスで生計を立てています」
「家事代行……いろいろと、苦労しているんだな」
「生きるためですから。それに、やってみると案外楽しいものですよ」
「強いんだな、君は」
カイムは先から動きたそうに小刻みに体を揺らすウーちゃんに片手を差し出す。
ビュッ――カッ!
その手に目掛けて振るわれた張り手が想定外に速く、咄嗟に手を引いたカイムの指先を銀髪メイドの手の平がかすめて行った。
「――? では、失礼いたします」
スカートを摘みカイムに一礼したウーちゃんは踵を返し、あっという間に昇降口から見えなくなった。
未だに痺れる指先を握り、カイムは佇む。
特定の所属なし、若さも十分。
有望な人材を見送ってしまったことを名残惜しんだ。
しかし、ウーちゃんと接することで取り戻された過去の記憶が、もうそれらの憂いが無用であることを何より物語っていた。




