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10話 過去

「いやぁっ!」


 未だ冬の寒さを残した三月の休日。


 午後の薄日が差し込む、とある片田舎のスーパーで短い悲鳴が上がった。


 余りにも長閑(のどか)で代わり映えのない店内で起きたことだけに、突発的にできた光景とその声の異様さが際立(きわだ)った。


「ここにあるだけの金と、車を用意しろぉ! 早くしねぇとぶっ殺すぞ!」


 レジの連なる出入口付近の一角。

 男が片腕で少女の首を振り回し、手にした刃物を店員へと突きつけ怒鳴った。


 十代の非力な少女は成す術もなく揺られている。


 既に少女の頬からは血が滴っていた。

 男が脅した拍子に切り付けられた傷だ。

 血は少女の首筋から白いシャツの襟にまで及んでいる。


「金と車は用意します! ですから、どうか落ち着いてください!」


 白髪交じりの口髭を生やした店員がいきり立つ男を(なだ)める。


 男の肩は大きく上下し、視点の定まらない眼は驚くほど血走っている。

 怒鳴り声に伴って突き出される刃物の勢いからも、一触即発の状態であることは明らかだった。


 遠くの方からサイレンの音が近付いてくる。店員か居合わせた客が通報したのだろう。


 焦りを見せた男は店員の用意した買い物袋を引っ手繰(たく)り、少女を引き摺ったまま出口へと歩き出した。

 少女の首には刃物があてがわれている。


「警察を止めろ! 追って来やがったら、こいつをぶっ殺してやる!」


 広大な駐車場の一角に警察車両が到着した。

 男に命令された年配の女性店員はつまずきながら車両の方へと向かって行った。


 やがて店員は少し距離を置いた警察官を一人伴い戻ってきた。


 男はこれに動揺を示した。


「余計なことをするんじゃねぇ! 殺されてぇのか!?」


「私たちはあなたに危害を加えるつもりはありません! あなたを追うこともしません!」


 四十代半ばの私服警官は大声で、しかし努めて落ち着いた口調で店内の男に向かって言った。

 スーツ姿の警官は言葉通り両手を挙げ「無害」であることを示している。


「車の用意ができました!」


 口髭の店員が駐車場から駆けてきた。

 入口から数十メートル先に、商品の運搬を担っているトラックが一台、エンジンがかけられたまま停まっている。


 駐車場の周囲には出入り口を除いて警戒線が張られた。


「大人しく付いて来いよ」

 男は駐車場に向けて歩き出した。

 辛うじて地に足を付いた少女がそれに従う。


「お、おい、君ぃ! 止まりなさい!」


 店外に少女を盾にした男の姿が現れた直後、駐車場で警戒していた警察官が声を上げた。


 警官、店員、物陰に隠れた客、男と人質の少女。

 その場に居合わせた者の一切の視線が駐車場に突如として現れた少年へと注がれた。


 その歩みは緩やか。しかし迷うことなく颯爽(さっそう)と男の元へと向けられる。


「――テメェ! 舐めてんのか!」


 男の手に力が籠り、少女の首筋から血が滲んだ。

 そして再度「ぶっ殺すぞ!」と少女を前に突き出して見せた。


 だが尚も少年の足は止まらない。


 既に十メートルを切ろうかという時――


「それ以上近付いてみろ! こいつの命がどうなっても知らねぇからな!?」


 上気した顔の男は口元に泡を溜め、唾を飛ばしながら最終警告を発した。


 そこでようやく少年の足が止まる。


 少年は制服の(えり)を緩め一息吐いた。

 手には鉄パイプが握られている。


「いいか? そこで大人しくしとけよ、じゃないと今すぐ――」


「早くやれよ」


 男が言葉をまくし立てた矢先、目の前の少年が一言呟いた。


「テメェ、今何つった!?」

「早くやれって言ったんだよハゲ。間髪入れずにやれよ」


 再び少年の足が動き出す。

 呆気に取られた男の動きは一瞬だけ遅れた。


 突如、一足飛びに踏み出した少年は男の顔面目掛けて鉄パイプを振り下ろした。


「――んのガキがぁああ!」


 しかし間一髪で先端を(かわ)した男は逆上し、懐に踏み込んできた少年の胸をナイフで突いた。

 が、ナイフは鈍い音を立て少年の体から()れた。


 引き裂かれた制服の下には衝撃でボロボロになった雑誌が覗いている。


「詰めが甘かったなオッサン。もう大人しく死んどけよ」


 体勢を立て直した少年は鉄パイプを振り下ろし、男の肩を砕いた。


 鈍い音と共に男の左腕がだらりと下がる。

 男は声にならない(うめ)きを上げ歯を食い縛った。


「――ちくしょうっ! こんなガキに! ちくしょう!」


 禿げ上がった頭に青筋が立った。

 同時に、必要以上に固く握られたナイフはいとも容易(たやす)く少女の胸を貫いた。


 (おびただ)しい量の血が溢れ、少女は男の手放したナイフと共に地に伏した。


「あーあ。本当にヤっちゃったよ」


 少女を刺した男はショックからかその場に崩れ、虚ろな目で地を見た。


 直後、肩を打った衝撃でくの字に曲がった鉄パイプが幾度も男の頭部を打ち砕いた。


 状況を察した警官が駆け付けた時には男の頭は原型を留めぬほどに潰れ、見るも無残な死体となっていた。

 その横には背にナイフの柄を立てた瀕死の少女がうつ伏せに転がっている。


 一瞬にして出来た二つの血溜まり。

 二体から溢れ出す血は奇しくも混ざり合った。


 少年は駐車場の出口へと向かった。

 来た通りの緩やかな歩調で、颯爽と、何事も無かったかのように。


和希(かずき)……いや、大人しく車に乗れ」


 私服警官は少年に近付き一言告げると、怒りとも悲しみとも取れない顔を少年から逸らした。


「あ、やっぱりそうなります?」


 ――その足は早まり、次第に駆け、少年は逃走を試みた。


 しかし増援された警戒網を突破することは敵わず、敢え無く取り押さえられた。

 捕らえられた少年は意外にも素直に従った。


 辺りにはまた別のサイレンが鳴り響く。


 安全を確保した群衆は、倒れ伏した少女の容態を案じた。

 だがそれ以上に、奇異を求める飢えた目が、捕らえられた少年の元へと向けられる。


 引き裂かれた学ラン。引き()った笑み。二人の警官に支えられた子供の体。


 致命傷を負った二体が救急車両へと搬入される。


「ヒトゴト、ヒトゴトォ! はははは! 誰が死のうが所詮他人事だろうがぁ!! なぁ!?」


 唐突に、呪詛のように群衆に何かを吐き捨てた少年が扉の内へと消える。


 正常ともいえる一方の喧騒とは裏腹に、群衆の見る少年の一物はひっそりと、しかし確かに屹立(きつりつ)していた。

  

        *


 身をよじり、ドアから吹き込む隙間風をかわす。

 ついでに近くの毛布を引っ手繰り、束の間の温もりに身を委ねる。


「ねぇ、寒いって!」

「おお――……あったけぇ……」


 毛布を奪われた張本人が首を反らして抗議する。


 長い(ほつ)れ毛が()き出た(すね)に当たってこそばゆい。


 恨みがましい目が「返せ」と訴える。


「和希ぃ、大人気ないぞ」

 

 右に同じく、目の前の電気ストーブを占拠した悪友が幼馴染の女に代わって物申す。


 体がデカいだけあって寒さへの耐性も低いのだろう。

 大きな背を丸めて膝丈にも満たないサイズの温もりに浸っている。


「にしても相変わらず何にもない部屋だな」

 暇を持て余した同志がふと苦言を漏らした。


 台所から西日の差す六畳間の部屋には確かに物という物がほとんどない。

 寝転ぶベッド、電気ストーブ、座卓、箪笥、以上。


 言われてみれば不自然なほどに何もない。

 恭弥(きょうや)がそれを口にする今まで何とも思いもしなかった。


 もう何度も訪れているというのに――


「そ、そうかな。ちょっと片付け過ぎたかも」


 希実(のぞみ)(しき)りにつかみ寄せた毛布をあっさりと諦め、巨体越しにある赤熱の方へとぎこちなく膝立ちのまま進んでいった。


「んなこと言って、本当は全部押し入れにあったりして」


 恭弥は何気なく部屋の奥にある押し入れを指した。

 いつも自分がそうしているからだ。


 人にはそれぞれ事情というものがある。だから女の子の部屋においては尚更触れるべきではないこともある。

 見られて困るような物とは往々にして性癖に関わる物であることが多いからだ。


「昔ゲームあっただろ。あれも捨てちゃったの?」

「あー、あれね……どうだろ」


 定位置に戻った家主は、さして気もない返事をして寒々しい床に丸まった。


「お、何だこれ」


 女子を気遣ってか、ただ暇だからか、ストーブに足だけ炙るようにして恭弥が倒れた。

 その拍子に何かが手に触れたらしく、やたら長い腕の先から現れたのは、希実の学生鞄だった。


 鞄に付いている薄汚いキーホルダー。

 俺が遥か(いにしえ)の時代に希実にあげたものだ。


 駄菓子屋の前にあったガチャガチャのハズレ。大ハズレのゴミ。


「なんか見たことあるんだよなぁ、これ。何て言ったか」


「ブラフマンだよ」


 希実は鞄を持ち上げ、経年劣化の激しいキーホルダーをチャックの内にしまった。


 もう六年は経つだろうか。

 筋骨隆々の塩ビの体は肌色が(まだら)になり、多面を模した覆面は剥げて顔すら判別できない。

 唯一身に(まと)った心もとないパンツも、()の色が剥き出たせいか全裸に見える。


 実にお粗末でセンシティブな一品である。


「知らね! 何のキャラだよ!」


 希実の意外な答えに恭弥は爆笑した。

 彼女の即答が思いの外ウケたらしい。


 笑われた本人は無遠慮でガサツな来訪者の足を押し除け、電気ストーブを独り占めした。


「なぁ。なんかこの部屋臭わねぇか?」


「どうせ恭弥の屁だろ。勘弁してくれよ」


 咄嗟に巨体から距離を置きつつ壁際に避難し、きたるべき急襲に備え深呼吸をしておく。

 生憎と、窓を開け凍てつく外気を部屋に取り込むという選択肢はない。


「んー、気のせいか。変な臭いがしたんだが」


 いつまでも臭いにこだわる悪友に辟易しつつ、花の香りのする清潔なシーツに鼻を(うず)め、その元凶をもろに喰らったであろう希実の様子を(うかが)ってみる。

 

 しかめっ面か、はたまた平然を装っているかと思われた彼女の顔は意外にも困惑していた。

 と言うより、引き攣っていた。

 

 まさか――


「ごめん! 二人が来ると思って今朝出しそびれたゴミ、押し入れに詰めてた!」


 希実は床に手を着き、土下座のような格好のまま謝った。

 長い髪が下りて表情が全く見えない。


 悪友の放屁でないことを知るや否や、押し止めていた呼吸を一気に解放する。


 同時に意識して鼻で空気を吸い込んでみたが、詰まっていて恭弥の言う「臭い」はよく分からなかった。


「気にすんなって。お互い様だろ?」


 その後もしばらく何もない部屋でいつも通り何もせずに時を過ごした。


 恭弥が「そろそろ帰るわ」と言い出した頃には、もうすっかり日も落ち、薄暗くなった部屋がより一層寒々しく感じられた。


「ねぇ、和希」


 寒空の下へと向かう友を足で見送り、帰り支度に身を起こしたとき、不意に希実が改まった声を出した。


「なに?」


「今日、和希の家泊まっていい?」


 こいつはいきなり何を言っているのだろうか。


 ただでさえ男女ということを意識すると気まずくもなった間柄。

 幼馴染でもなければ、とっくに付き合いもなくなっていたであろう微妙な距離感。

 それを一息にぶち壊そうとでもいうのか。

 彼女には年頃の女子であるという自覚はあるのだろうか。


 無論、ダメに決まっている。


「あぁ――今日は親もいるし、妹もあんな感じだから無理かな」


 親がいなくても無理だ。妹は何とかなるだろうが、無理なものは無理だ。


「そっか」


 希実は満面の笑みで応えた。


 冗談にしては真に迫った演技だった。


 外気に身を晒し、寒さに身を震わせてから呼吸を止め、一気に階段を駆け下りる。

 すっかり闇に紛れた前方の空から、振り返って部屋の方を見上げる。


 日中は薄いピンクのマンションも今では青黒く、薄汚れた外壁も相まって、どうにも廃墟染みている。



 その三階、こちらを見下ろす影が辛うじて、街灯に照らされた腕を頻りに振っていた。


        *


 三日後。高天原希実(たかまがはらのぞみ)は死んだ。


 何気ない一日の始まり。

 今日も何事もなく、ただ闇雲に不毛な時を過ごすのだろうなと予感した。

 

 寒さに震え、億劫にもなる徒歩での通学路を、大して親しくもない級友と歩くことになるのだろうと。

 もしかしたら、朝練に寝坊した恭弥、割と近所の希実と出くわすかもしれないと思った。


 校舎に入ると校庭の方に人だかりができていた。


 時間帯を間違えたのか、普段は人混みを避けるために早めの登校を心掛けているつもりだった。

 しかし校舎の時計はいつも通り。つまり教室に溜まっているはずの生徒たちが偶々(たまたま)表に出ているのだ。


 正直、鬱陶しい。だから足早に昇降口へと向かう。


「人が倒れてるんだって!」


 擦れ違い様に女生徒が叫んだ。


 もしそれが本当だとしたら由々しき事態だ。

 一体、教師たちは何をしているのか。

 見たところ、人だかりにそれらしい姿は見当たらない。


「こっちです!」


 体育館のある方から一際(ひときわ)大きな声が上がった。

 聞き紛うこともない。あれは長年バスケ部で鍛え上げてきた声帯、筋量の為せる(わざ)だ。

 夏以来すでに部を引退しているにも関わらず、毎朝休まず練習に励む彼の気概には到底ついていけそうにない。


 養護教諭と体育主任を引き連れた、体育着姿の恭弥に近付き声を掛ける。


「何があったの?」


 そこでようやくこちらに気付いたらしい悪友は、一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに顔を逸らし事の現場へと教師たちを誘導した。

 

 朝から小粋な冗談の一つでも聞けるかと思ったが、思いの外、無視を決め込まれてしまった。


 仕方なく重い足を人だかりの方へ差し向ける。

 もしかしたら、自分が考えている以上に現場は切迫しているのかもしれない。


 人だかりの間を、恭弥がこじ開けた穴を縫いながら進む。


 巨体を越えた先にあったのは、黒い塊。

 塊の傍には夥しいほどの赤黒い液体が飛び散っている。

 

 もはや「顔」すら失われたそれが人だと解ったのは、それが辛うじて制服をまとっていたからだ。

 ブレザーから覗くシャツの大半は痛々しいほどに赤く濡れそぼっている。


「――ズキ――和希! 見るな!」


 先から恭弥が何度も叫び、俺を引き留めようとしていた。

 だが、その時の俺には彼の声や、力一杯に引かれているはずのそれすらも感じる遑はなかった。


 倒れた人の前方には、裂けた鞄から溢れ出た教科書が散乱している。

 恐らく屋上からこの花壇前に飛んだらしい彼女は、それすらも重しにしたのだろう。


 あるいは即座に身元を特定してもらうためだろうか。


「嘘だ……」


 口を衝いて出てしまった言葉は、決してその場限りの同情や、ましてやその惨事に対する弁明を誰かに求めたかったからではない。

 

 心の底から、つい出てしまったのだ。


 血溜まりに浸かった鞄。

 散乱した書物の方へと飛び出した薄汚いキーホルダー。

 当時九歳だった俺が心底要らなかった物。


 『大当たり』の玩具が欲しかったクソガキが、なけなしの小遣いを投下して玉砕していったときの残骸。

 ハズレ。金の無駄。ただのゴミ。


『ブラフマンだよ』


 ゴミと称した者に向かって必ず彼女は抗議した。それを与えた俺ですら例外ではなかった。


 小銭を手に、汗を握りながら見届けたゴミの出る瞬間。

 その直後から、クソガキによって気まぐれに渡された玩具を彼女は後生大事に持っていた。


 何故だろう。今ではそれさえも知る術はない。


 ――しかし、本当にあの台に当たりはあったのだろうか。


 時折思い出したかのように見る悪夢。

 それを俯瞰する俺は、止め処ない吐き気が引き始める夢の最後に、決まってそんなことを思う。


 地に倒れ伏す者の正体を確信した当時の俺は、その場で意識が遠退き、やがて完全に目の前が真っ暗になったことを覚えている。

 

 事件の日の夕方。父子家庭だった希実の家、マンションの一室から、全身を酷く殴打された痕のある遺体が袋詰めにされた状態で発見された。

 着ている衣服に付いていたネームプレートから、希実の父高天原(たかまがはら)循平(じゅんぺい)であることが判明した。

 

 中学最後の冬の記憶。


 何てこともない日常から事件までを一セットにして、繰り返し夢に見る。



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