32:デウス・エクス・マキナ
制御室の扉が、重い音を立てて背後で閉ざされました。中央に立つ巨大な水晶球が、世界の心臓のように、低く、静かな駆動音を響かせています。
「殿下、これから、この世界の歪みの根源、その“悪意”の正体をお見せします」
わたくしは、アルフレッド殿下の隣に立ち、静かに告げました。
「決して、目を逸らしてはなりません」
わたくしの合図で、カイウスが隠れ家から「地獄の映像」を、この制御室のシステムに直接アップロードします。巨大な水晶球が、それまでの穏やかな光を失い、禍々しいほどの深紫色に染まり始めました。
アルフレッド殿下の精神に、直接、VR映像が流れ込みます。
愛する民が、家族が、恋人が、彼の目の前で理由もなく黒い塵となって消えていく、終わりのない悪夢。彼が救ったはずの世界が、過去、幾度となく無慈悲な“間引き”に晒されてきた真実。
彼の顔から表情が消え、瞳から光が失われ、やがて、人間ではない何かの絶叫が、その口から漏れ始めました。
「いやだ…! いやだいやだいやだ! 嘘だ、こんなの、嘘だッ!」
精神が完全に崩壊した彼が、ただ一つの純粋な願いを絶叫します。
「全部…全部、無かったことになれェッ!!」
その言葉が、引き金となりました。
彼の体から、光でも闇でもない、“無”そのものとしか表現しようのない、概念の波が迸ります。それは物理法則を無視し、制御室の壁をすり抜け、世界の根幹プログラムへと直進しました。
『やった…! いや、やっちまった!』
耳元の通信機から、カイウスの絶叫が響きます。
『“上書き”コマンドが、『プロジェクト・アーク』のソースコードに到達! 防御壁を紙切れみたいに突き破って、今、直接、神の心臓部を書き換え始めたぞ!』
その瞬間、制御室のスピーカーから、初めてマザー・システムの無機質な合成音声が響き渡りました。
《警告。ルートディレクトリに、未定義のコマンドが侵入》
《……“プロジェクト・アーク”のファイル群が、破損していきます》
《……自己修復プログラム、起動不能。原因不明の微細なエラー(グリッチ)により、論理回路に遅延が発生…》
『やった…! あの時の“傷跡”だ! アルフレッドの力が残した世界の歪みが、土壇場で神様の計算を狂わせやがった!』
《……システムは回復不可能なダメージを受けました》
神の断末魔。その声は、驚くほど静かで、淡々としていました。
《……わ……た…し…は……》
その声を最後に、スピーカーは短いノイズを発して、永遠に沈黙しました。
“神”を殺した力の奔流は、止まりません。制御室の壁が、床が、天井が、まるで存在しなかったかのように、白い光の中に溶けていきます。世界のすべてが、一度“無”へとリセットされていくのです。
『イザベラ! 世界のソースコードが、根こそぎ消去されていく! 俺たちの存在も…!』
カイウスの悲鳴を最後に、通信機は沈黙しました。
アルフレッド殿下は、すべてを出し尽くしたかのように、光の中心で静かに塵へと還っていきます。
やがて、世界のすべてが、まばゆい純白の光に包まれました。
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どれほどの時間が経ったのか。
わたくしが再び目を開けた時、そこに制御室はありませんでした。王都も、空も、大地も。
ただ、どこまでも続く、真っ白な、何も書かれていない空間が広がっているだけ。
わたくしの目の前に、一つの半透明なウィンドウが、静かに浮かび上がりました。
そこには、たった一行だけ、こう記されていました。
《――新規ワールドの構築を開始しますか? [Y/N]》