伯顔:南宋征服者の物語⑦
〇終章:時代を築いた男
大都の宮殿に、重く、悲しい報せが響き渡った。至元31年(1294年)、モンゴル帝国の偉大な統治者、フビライ・ハーン(フビライ・ハーン)が、ついにその生涯を終えたのだ。伯顔は、静かに目を閉じ、若き日からフビライに仕えた日々を思い返していた。共に戦い、共に笑い、共に帝国の未来を語り合った。その思い出が、去りしハーンの面影を鮮明に映し出す。
しかし、感傷に浸る時間はなかった。カリスマ的なハーンを失った大元ウルス(だいげんウルス)の宮廷内は、水面下で激しい動きを見せていた。皇族や有力者たちが、次のカアン(カアン)の座を巡って、互いの腹を探り合っているのだ。このままでは、帝国が分裂の危機に瀕してしまう。
伯顔は、すでに老境に入っていた。だが、フビライから全幅の信頼を得ていた彼の政治的な影響力は、誰よりも大きかった。彼は、亡きフビライの意志を継ぎ、帝国の安定を守るため、迅速かつ断固たる行動に出ることを決意した。
ある日のこと、伯顔はフビライの側近たちを密かに集めた。
「皆の者、フビライ・ハーンの崩御は、我々にとって計り知れない悲しみだ。しかし、この悲しみを乗り越え、帝国を守り抜かねばならぬ」伯顔の声は、静かでありながらも、確かな重みがあった。
一人の側近が不安げに尋ねた。「しかし伯顔殿、次のカアンは一体…」
伯顔は、その質問を遮るように、はっきりと告げた。「フビライ・ハーンは、生前、皇太孫であるテムル(後の成宗)殿下を後継者として指名されていた。我々は、ハーンの意志を尊重し、テムル殿下の即位を強力に支持すべきである」
別の有力な王族が口を開いた。「だが、テムル殿下はまだ若く、経験も浅い。他の皇族の中には、より年長で、経験豊富な者もいるではないか」
伯顔は、毅然とした態度で反論した。「確かにテムル殿下は若い。しかし、フビライ・ハーンがその資質を見抜き、後継者として選ばれたのだ。我々が今なすべきは、ハーンの選択を疑うことではない。テムル殿下の即位を盤石なものとし、新たな時代を共に築き上げていくことだ」
伯顔は、フビライの側近たちに、テムルの血縁に基づく正当性を力説し、他の勢力の動きを封じ込めるよう促した。彼の言葉には、長年培ってきた経験と、帝国への深い忠誠心が込められていた。
「もし今、我々が団結しなければ、帝国は内乱に陥り、フビライ・ハーンが築き上げた全てが失われるだろう。テムル殿下を支持し、この混乱を収拾することこそが、亡きハーンへの何よりの報恩となるのだ!」
伯顔の采配は見事だった。彼の強いリーダーシップと政治手腕により、フビライの側近や有力な王族たちが次々とテムルを支持するようまとまった。これにより、他の皇族たちの動きは封じ込められ、混乱は未然に防がれた。
そして、テムルは順調に即位し、元朝は大きな混乱に陥ることなく、新たな時代へと足を踏み入れたのだった。
伯顔は、静かにテムルがカアンの玉座に座る姿を見つめていた。彼の生涯は、武人として南宋を征服し、モンゴル高原の反乱を鎮圧しただけでなく、宰相として内政を安定させ、そしてこの後継者問題を解決することで、フビライが築き上げた多民族国家を安定させるための政治的要石として、その生涯の最終局面で極めて重要な役割を果たしたのだ。
伯顔は、帝国の安定を見届けたことに安堵し、深々と息を吐いた。彼の存在がなければ、元朝の初期はさらなる混乱に見舞われたかもしれない。彼は、まさに時代を築き上げた男だった。
〇
大都の宮殿の片隅で、伯顔は静かに座っていた。テムル(成宗)の即位を見届けた今、彼の心には安堵と、そして深い満足感が広がっていた。元朝の最も高い官職の一つである太師に任命された彼の生涯は、まさに波乱万丈だった。
モンゴル高原の厳しい風土の中で育ち、遠くイランの地で異文化に触れた。そして、フビライ・ハーン(フビライ・ハーン)のもと、南宋を征服し、中華統一という壮大な夢を実現させた。さらには、モンゴル高原の安定にも貢献し、帝国の屋台骨を支え続けた。
「伯顔様、今日も一段と冷え込みますな」若い近習が、温かい茶を差し出した。
伯顔は、ゆっくりと茶をすすりながら、遠くの空を見つめた。「うむ、もうすぐ冬も終わりだ。新しい春が来る」
「伯顔様は、本当にたくさんの歴史を見てこられましたね」近習は、尊敬の眼差しを向けた。
伯顔は、ふと昔を思い出した。南宋の首都・臨安を無血開城させた日のことだ。あの時、彼は軍事的な力だけでなく、不必要な破壊を避け、民の暮らしを守ることを最優先した。
「あの時、多くの命が救われた。それは、武力で打ち破るよりも、はるかに難しいことだった」伯顔は静かに語った。
近習は目を輝かせた。「臨安の民は、伯顔様を『慈悲深き将軍』と呼んでおります」
伯顔は、かすかに微笑んだ。彼が見た新しい帝国は、多民族が共に生きる巨大な国家だった。かつてモンゴル人が夢見た「天下統一」が、現実の形となってそこに広がっていた。
「フビライ・ハーンは、本当に偉大な方だった。私は、ただその傍らにあって、少しだけ手助けをしたに過ぎない」
「いいえ、伯顔様。もし伯顔様がいなければ、今の元朝はありえません。ハーンも、そうおっしゃっていました」近習は、まっすぐに伯顔の目を見て言った。
伯顔は、静かなる誇りを感じていた。自らが歴史の大きな転換点に立ち会っただけでなく、その流れを自らの手で作り出したこと。それは、彼の生涯において、何よりも大きな喜びだった。
しかし、同時に、彼の心には、これからの帝国が直面するであろう新たな課題への思いもよぎっていた。武力による征服の後に訪れる、真の平穏への道のりは、まだ始まったばかりだ。
「この帝国は、まだ若い。様々な民族が共存していくには、多くの困難が待ち受けているだろう」伯顔は、遠くを見つめながらつぶやいた。
近習は、その言葉の意味を全て理解できたわけではなかったが、伯顔の深い眼差しに、ただならぬ重みを感じていた。
「伯顔様は、これからもこの帝国をお守りくださいますか?」
伯顔は、ゆっくりと立ち上がった。「もちろん。私は、この帝国が真に平和な世を築き上げるまで、見届けねばならぬ。それが、私に与えられた最後の使命だ」
老将の眼差しは、過去の栄光だけでなく、未来の元朝へと向けられていた。彼の心の中には、長きにわたる戦と政治に捧げた生涯への静かなる満足と、そして、新しき帝国の未来への希望が満ち溢れていた。
〇
大都の宮殿は、冬の寒さに包まれていた。伯顔は、いつも通り朝早くから執務室に座り、書類の山と向き合っていた。テムル(成宗)が即位して一年。帝国は少しずつ落ち着きを取り戻し、新たな時代を歩み始めていた。
「伯顔様、少しお休みになられてはいかがですか?」若い近習が心配そうに声をかけた。
伯顔は、顔を上げ、かすかに微笑んだ。「大丈夫だ。まだまだやるべきことが山ほどある。この帝国を、真に安らかな国にするためには、休んでいる暇などないのだ」
しかし、彼の体は確実に疲れが溜まっていた。長年の戦と政務が、その身を蝕んでいたのだ。
至元32年(1295年)1月11日、その日は突然訪れた。朝、いつものように目覚めた伯顔は、激しい痛みに襲われた。
「ぐっ…」伯顔は、思わずうめき声を漏らした。
駆け寄った近習が、慌てて医者を呼んだ。
「伯顔様! しっかりなさいませ!」
医者が駆けつけ、懸命に手当てをするが、伯顔の容態は悪化する一方だった。意識が遠のく中、彼の脳裏には、これまでの人生が走馬灯のように駆け巡っていた。
モンゴル高原の幼少期、イランの地での異文化との出会い、そしてフビライ・ハーン(フビライ・ハーン)との出会い。南宋を征服したあの日の歓声、モンゴル高原で反乱軍を鎮圧したときの高揚感。そして、テムルの即位を見届け、この帝国が安定していく姿。
「ハーン…」伯顔は、かすれた声で呟いた。
その言葉を最後に、彼は静かに息を引き取った。享年59歳。あまりにも突然の死は、帝国の内外に大きな衝撃を与えた。フビライの信頼厚い右腕として、そして元朝の安定に不可欠な存在であった彼の死は、多くの人々に惜しまれた。
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偉大な功績と、残された足跡
伯顔の死は、朝廷に深い悲しみをもたらした。テムルは、彼の功績を称え、死後に淮安王に封じ、さらに「忠武」という諡号を贈った。これは、彼の生涯が忠誠心と武勇に満ちていたことを示している。
宮殿では、人々が伯顔の死を悼んでいた。
「伯顔様がいなければ、あの南宋攻略も、あそこまで円滑には進まなかっただろうに…」ある老臣が、目に涙を浮かべて言った。
別の武将が、力強く頷いた。「そうだ。モンゴル高原の防衛も、伯顔様がいなければ、どうなっていたことか…」
伯顔の生涯は、モンゴル帝国が単なる遊牧民の軍事国家ではなく、多様な人材と文化を取り込み、新たな秩序を築き上げた大帝国であったことを象徴していた。彼は、東アジアから西アジア、そして再び東アジアへと活躍の場を移し、その知勇兼備の才能を遺憾なく(いかんなく)発揮したのだ。
ある日、テムルは伯顔の墓前に立ち、静かに語りかけた。
「伯顔よ、そなたが築き上げたこの帝国は、これからも進んでいく。そなたの残した功績は、決して忘れられることはないだろう」
彼の存在がなければ、元朝による中国統一はこれほど円滑に進まず、あるいはその後の安定も揺らいだかもしれない。伯顔は、フビライの夢を現実のものとし、世界史に名を刻んだ、まさに「時代を築いた男」として、後世にその名を残し続けるだろう。
伯顔の死後も、彼の伝説は語り継がれていった。その生涯は、勇気と知恵、そして帝国への深い忠誠心に満ちていた。彼は、モンゴル帝国の歴史において、決して欠かすことのできない、偉大な人物として、永遠に輝き続けるのだ。