伯顔:南宋征服者の物語⑥
〇第五章:嵐の後の平穏、そして次なる戦い
臨安の無血開城は、歴史に残る大成功だった。しかし、総司令官のバヤンは知っていた。これで全てが終わったわけではない、と。南宋の抵抗は、まだ続いていたのだ。
「総司令官どの!南宋の残党どもが、生き残った皇族を担ぎ上げ、福建省や広東省へと逃れております!海上を拠点に、徹底抗戦を続けているとのこと!」
副将の阿朮が、悔しそうな顔で報告した。バヤンは、地図を広げた。中国の南の果て、海の向こうにまで、敵が逃げ延びている。
「ふん、しぶとい奴らめ。だが、どこまでも追いつめてやる」
バヤンの目には、強い光が宿っていた。彼は、この中国全土の統一を、最後までやり遂げる決意を固めていた。
元の軍は、陸路からも水路からも、残党勢力を追撃した。バヤンは、各地の抵抗勢力を次々と鎮圧していった。彼の軍は、まさに嵐のように、南の地を駆け巡った。
「アジュどの!敵の動きはどうか!逃げ道は与えるな!」
バヤンが指示を出すと、アジュはすぐさま兵を率いて追撃に向かう。
「承知いたしました!総司令官どの!必ずや奴らを捕らえてみせます!」
激しい戦いが各地で繰り広げられたが、元軍の勢いを止めるものはなかった。
そして、1279年(至元16年)。広東省新会の沖合、崖山で、南宋の幼い皇帝を担ぐ最後の抵抗勢力との、一大決戦が繰り広げられた。元軍の総指揮を執ったのは、漢人将軍の張弘範だった。バヤンは直接この戦いを指揮したわけではなかったが、彼が切り開いた道と、築き上げた軍事的な基盤が、この最終勝利へと繋がったのだ。
崖山沖の海は、無数の船で埋め尽くされていた。南宋の船団と、元の船団が激しくぶつかり合う。矢が飛び交い、火の手が上がる。
「いけーっ!これが最後の戦いだ!」
南宋の兵士たちが叫ぶが、その声は、元の兵士たちの雄叫び(おたけび)にかき消されていく。激しい海戦の末、南宋軍は壊滅した。
最後の瞬間、南宋の宰相、陸秀夫は、幼い皇帝を抱きしめたまま、静かに海へと身を投げた。水の音が、宋朝800年の歴史の終わりを告げるかのようだった。宋朝は、ここに名実ともに滅亡したのだ。
この勝利をもって、クビライ・ハン(皇帝)の大元ウルスは、ついに中国全土を統一した。長きにわたる戦乱の時代は終わりを告げ、中国は新たな統一国家の時代を迎えることになった。
戦いの後、バヤンは、静かに遠い南の空を見上げていた。
「ついに、終わったか……」
彼の言葉には、達成感と、そして少しの寂しさ(さびしさ)が混じり合っていた。彼が総司令官となってから、多くの血が流れ、多くの命が失われた。しかし、その全ては、フビライ・ハンの天下統一という壮大な夢のため、そして、中国の民に平和をもたらすためのものだった。
バヤンの名は、中国全土を統一に導いた不朽の功臣として、歴史に深く刻まれることになった。彼の功績は、ただの武力による征服にとどまらず、人心を掌握し、文化を尊重する寛容さ(かんようさ)をも兼ね備えた、稀代の統治者としての手腕を示すものだった。嵐のような時代を駆け抜け、彼は中国に平穏をもたらしたのだ。
〇
大都の冬は、肌を刺すような寒さだった。伯顔は、かじかむ手を温めながら、ふと南宋を攻め落とした日のことを思い出していた。あの熱狂、あの達成感。だが、平和な時間はあっという間に過ぎ去った。
フビライ・ハーン(フビライ・ハーン)が中華統一を進める一方で、モンゴル高原では不穏な動きが広がり始めていた。フビライのやり方に反発する王族たちが、虎視眈々(こしたんたん)と反乱の機会をうかがっていたのだ。その中心にいたのは、オゴデイ家のカイドゥだった。
至元14年(1277年)、ついに反乱の火の手が上がった。カイドゥの仲間であるシレギらが、モンゴル高原で兵を挙げたのだ。彼らはチンギス・ハン(チンギス・ハン)の血を引く者たち。その反乱は、元の支配を根底から揺るがすものだった。
ある日のこと、伯顔はフビライに呼び出された。
「伯顔よ、南での大戦、ご苦労であった」フビライの声は、普段よりも重々しく響いた。「だが、そなたには休む間もなく、新たな使命を与えねばならぬ」
伯顔は静かにひざまずいた。「ハーンの命とあらば、いかなる任務も全ういたします」
フビライは地図を広げ、モンゴル高原の一点を指差した。「シレギの乱じゃ。奴らは我らの北方を脅かしておる。そなたの力で、この反乱を鎮めてほしいのだ」
伯顔の胸に、かつての戦場の興奮が蘇った。南宋の豊かな平野とは違い、モンゴル高原は厳しい自然が広がる場所だ。だが、そこはモンゴル騎兵が最も得意とする戦場でもある。
「御意。必ずや、シレギの乱を鎮圧してみせます」伯顔は力強く答えた。
そして、伯顔は再びモンゴル高原へと向かった。冬の終わりを告げる風が吹き荒れる中、騎馬隊の蹄の音が乾いた大地に響き渡る。
反乱軍との最初の衝突は、予想以上に激しいものとなった。シレギの兵たちは、土地勘に優れ、モンゴル騎兵ならではの機動力を活かした戦いを仕掛けてきた。
「奴らの狙いは我らの分断だ! 決して隊列を崩すな!」伯顔は叫んだ。
彼は冷静に戦況を見極め、的確な指示を飛ばす。
「左翼は敵を側面から回り込め! 右翼は敵の退路を断て!」
伯顔自身も、馬を駆り、敵陣深くへと切り込んでいく。その剣さばきは、見る者を圧倒するほど鮮やかだった。
「ひるむな! 我らが元の精鋭だ!」
伯顔の指揮のもと、元軍は組織的な動きで反乱軍を追い詰めていった。シレギの兵たちは、伯顔の圧倒的な軍才の前に次々と倒れていく。
「くそっ、あいつはまるで嵐のようだ!」シレギの兵の一人が悔しそうに叫んだ。
数週間の激戦の末、ついにシレギの乱は鎮圧された。カイドゥの勢力拡大は食い止められ、北方の脅威は去った。
伯顔は、凍てつく風の中で、遠く故郷のモンゴル高原を見つめていた。南宋征服という大事業を成し遂げただけでなく、伝統的なモンゴル騎兵戦の地でもその才能を発揮できたことは、彼にとって大きな自信となった。
「これで、ハーンも安心して中華の統一を進められるだろう」
彼は、モンゴル帝国全体の安定を守るという、もう一つの大きな使命を果たしたのだ。その背中には、厳しくも誇らしい達成感が漂っていた。
〇
大都の宮殿は、いつもと変わらぬ賑わいを見せていた。伯顔は、武具をまとっていた頃とは違う、落ち着いた官服に身を包み、書類の山と向き合っていた。南宋を攻め落とし、モンゴル高原の反乱を鎮圧した日々が、まるで遠い昔のようだ。
「伯顔よ、この報告書は一体どういうことだ?」フビライ・ハーン(フビライ・ハーン)の声が、執務室に響いた。
伯顔は、顔を上げ、すっと立ち上がった。「ハーン、それは旧南宋領の税制に関するものにございます。一部の役人が、民から不当な税を取り立てているとの報告が…」
フビライは眉をひそめた。「ふむ、やはりそうか。征服はしたものの、かの地の統治は一筋縄ではいかぬ。そなたの意見を聞きたい」
伯顔は、一呼吸おいて答えた。「ハーン、かの地の民は、これまで培ってきた文化や慣習を大切にしております。力ずくで変えようとすれば、必ず反発を招きます。我々は、彼らの生活を尊重し、穏やかな統治を目指すべきかと存じます」
「穏やかな統治、か…」フビライは腕を組み、考え込む。「だが、それでは元の威厳が保たれぬのではないか?」
伯顔は静かに首を横に振った。「いいえ、ハーン。真の威厳とは、力だけでなく、民の心を掴むことにあると存じます。不当な税は廃止し、優秀な漢人の役人を登用することで、民の信頼を得るべきです。そうすれば、混乱は収まり、安定した統治が実現するでしょう」
フビライは、伯顔の目を見つめた。その瞳には、武人としての鋭さだけでなく、深い知恵と寛容さがあった。
「よし、分かった。そなたに任せよう。平章政事として、かの地の統治を立て直せ」フビライは伯顔に全幅の信頼を寄せた。
伯顔は、平章政事という重責を担い、内政の改革に乗り出した。特に旧南宋領の統治においては、彼の「寛容」と「秩序」を重んじる姿勢が大きな効果を発揮した。
ある日、旧南宋領の地方官が伯顔を訪ねてきた。
「伯顔様、この度の税制改革、まことにありがたく存じます。民も喜んでおります」地方官は深々と頭を下げた。
伯顔は柔らかな表情で答えた。「民が喜んでくれるならば、それ以上の喜びはない。だが、まだ道半ばだ。問題があれば、遠慮なく申し出るのだぞ」
「はい! しかし、中には未だモンゴル人の統治に反発する者もおります。どう対処すべきでしょうか?」
伯顔はゆっくりと諭した。「力で押さえつけるだけでは、反発は消えぬ。彼らの声に耳を傾け、何に不満を抱いているのかを理解することが重要だ。そして、公正な裁きを下すのだ。時間はかかるだろうが、必ず理解し合える日が来る」
伯顔の言葉は、地方官の心に深く響いた。彼の政策は、漢人の文化や慣習を尊重し、不要な摩擦を避けることで、被征服民の反発を最小限に抑えた。それは、彼が単なる武人ではなく、優れた行政手腕と政治的な洞察力を持っていた証拠だった。
フビライ・ハーンの晩年まで、伯顔は常にその側近として、帝国の安定と発展のために尽力し続けた。彼は、時に武力で、時に知略で、そして時には政治力で、大元ウルス(だいげんウルス)という新たな時代を築き上げたのだ。
ある日の夕暮れ、伯顔は窓から沈む夕日を眺めていた。
「ハーン、あなたは偉大な帝国を築かれた。そして、私はその礎を築く手助けができたことを誇りに思う」
彼の胸には、武人としての誇りだけでなく、宰相としての達成感が満ちていた。伯顔はまさに「知勇兼備の宰相」として、その名を歴史に刻んだのだった。