伯顔:南宋征服者の物語⑤
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1276年の年の始め、冷たい空気が張り詰める中、元の大軍はついに南宋の心臓部、都である臨安へと向かっていた。総司令官のバヤンは、馬上で遠く臨安の城壁を眺めていた。丁家州での戦いで南宋の主力軍は壊滅し、今や元軍を阻む大きな障害は、ほとんど残っていなかった。
「総司令官どの、臨安はもはや風前の灯にございます」
副将の阿朮が、隣に馬を寄せて言った。その声には、勝利への確信が満ちていた。
「うむ。しかし、この臨安こそ、最も慎重に扱うべき相手だ」
バヤンの言葉は、重く響いた。臨安の人々は、過去にモンゴル軍が征服した都市に起こった悲劇をよく知っている。虐殺や略奪の噂が、彼らの心に深い恐怖と絶望を植え付けているだろう。
南宋の朝廷は、すでに極度の混乱に陥っていた。宰相は責任を負って辞めさせられ、幼い恭帝と皇太后だけが残されている。守るべきは幼い皇帝と、この巨大な都に住む無数の民だ。
バヤンは、圧倒的な軍事力を背景にしながらも、臨安へと静かに、しかし確実に圧力をかけていった。彼の軍は、ただ都へとまっすぐ進むだけでなく、臨安の周囲にある主要な都市や、交通の要となる場所を次々と制圧していった。
「阿裏海牙どの!臨安へ向かう街道は、全て我らの手に収まったか!?」
バヤンが問うと、アリク・ハヤは力強く答えた。
「はい、総司令官どの!臨安に入る陸路は、完全に遮断いたしました!兵も物資も、一切通すことはできません!」
「よし。水路からの補給も断つのだ。臨安を、完全に孤立させよ」
バヤンの命令で、水軍は長江や運河を徹底的に封鎖した。陸からも、水からも、臨安はまるで巨大な檻の中に閉じ込められたようだった。都市の内外では、南宋の滅亡は避けられないという空気が、ますます濃くなっていく。残されたわずかな守備兵たちの士気は、すでに崩壊寸前だった。
「総司令官どの。臨安の城内から、白い旗が見えます」
ある朝、偵察兵が報告に来た。バヤンは静かに頷いた。
「うむ。いよいよか」
彼の顔には、安堵の色が見えた。何としても無血開城を成し遂げたい。それが、クビライ・ハン(皇帝)の願いであり、バヤン自身の願いでもあった。
バヤンは、臨安の城壁を見上げた。そこに暮らす人々の恐怖を思うと、彼の心は痛んだ。しかし、この戦いは、中国全土を統一し、永きにわたる戦乱を終わらせるためのものだ。そのためには、無益な血を流すべきではない。
「アジュどの、臨安に向けて、降伏勧告の書簡を送り届けよ。我々は、決して乱暴な真似はしない。ただ、平和をもたらすために来たのだと、彼らに理解させるのだ」
バヤンの声は、遠く臨安の城内まで届くようだった。彼の言葉は、臨安に残された人々にとって、一条の光となるのか。南宋の命運は、今まさに、その幼い皇帝と皇太后、そしてバヤンの手に委ねられようとしていた。
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雪が舞い散る臨安の城壁を、元の大軍が完全に包囲していた。総司令官のバヤンは、冷たい風が頬を撫でるのも気にせず、静かに城を見つめていた。彼の号令一つで、この巨大な都は炎に包まれるだろう。しかし、バヤンはあえて総攻撃をかけなかった。クビライ・ハン(皇帝)の「曹彬となれ」という教えが、彼の心に深く刻まれている。そして何より、彼自身の統治者としての視点から、無血開城こそが最善の道だと確信していた。
「総司令官どの、なぜ総攻撃をかけないのです?このままでは、兵士たちの士気が鈍りかねません!」
副将のアジュ(阿朮)が、いらだちを隠せない様子で進言した。
バヤンは静かに首を振った。
「アジュよ、よく聞け。武力による制圧は、都市を破壊し、無益な血を流す。そして何より、その後の統治に深い傷を残すだろう。我々は、この地を治めるために来たのだ。ならば、平和裏に手に入れるべきだ」
彼の言葉には、武将としての冷徹さだけでなく、未来を見据える知性が宿っていた。バヤンは、巧みな心理戦を展開した。彼は何度も降伏勧告の使者を臨安に送り込んだ。
「伝えよ!徹底抗戦は、ただ無益な犠牲を生むだけだと!降伏すれば、臨安の住民は保護され、文化も財産も安堵されると!」
使者が戻ってくるたび、バヤンは細かく状況を尋ねた。城内の様子、人々の表情、朝廷の動き。全ての情報が、彼の心理戦の材料となる。
ある日、元朝の使者として、バヤンは南宋の皇太后に直接、書簡を送った。書簡には、幼い恭帝の命を保証し、その後の生活も安堵すること、そして臨安の民と文化を守ることを丁寧に記してあった。
「皇太后さま、我々は決して乱暴な真似はいたしません。ただ、戦乱を終わらせ、平和な世を築きたいと願っているのです」
使者は、書簡を手渡し、バヤンの言葉を伝えた。皇太后は、震える手で書簡を受け取り、その言葉に、わずかながら希望の光を見た。
この交渉と心理戦は、臨安の朝廷と民衆の間に、少しずつ変化をもたらした。破壊されることを恐れる貴族や官僚たちは、バヤンの言葉に最後の望みを託すしかなかった。
「一体、どうすればよいのだ?戦えば全てを失う。だが、降伏すれば、我々の栄光は地に落ちる」
南宋の重臣たちが、頭を抱えていた。その中に、一人の老臣が声を上げた。
「元軍の将軍、バヤンは、これまでも約束を違えていない。彼らは、我々とは異なるが、信じるに足る人物かもしれない」
人々の心を揺さぶり、自ら門を開かせるというバヤンの非凡な手腕は、単なる武力だけでは成し得ない偉業だった。
数日後、臨安の城門が、ゆっくりと開かれた。血を流すことなく、南宋の都は、元の手に落ちたのだ。バヤンは、静かに城門をくぐった。彼の顔には、安堵と、そして新たな時代への責任感が混じり合っていた。
「総司令官どの、見事でございます!」
アジュの声には、心からの敬意がこもっていた。バヤンは、城内へと続く道を見つめた。人々は、まだ不安そうな顔をしているが、憎しみや絶望の色は薄い。
「これで、クビライ陛下の夢が、また一歩近づいた。しかし、これは始まりに過ぎない。この地を平穏にし、民が安心して暮らせる世を築く。それが、我らの真の使命だ」
バヤンの目は、遠く広がる中国全土を見据えていた。彼の戦略は、ただの勝利にとどまらない。それは、モンゴル帝国と南宋の民、双方の未来を切り開く、大きな一歩だった。
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1276年2月4日、降りしきる雪の中、南宋の都、臨安の城門が、ゆっくりと開かれた。元の総司令官、バヤンは、静かに馬上でその光景を見守っていた。彼の説得と、静かな圧力は、ついに実を結んだのだ。門の向こうには、わずか5歳の幼い皇帝、恭帝と、その母である皇太后の姿があった。
「総司令官どの、ついに、ついにこの日が!」
隣に立つ副将のアジュ(阿朮)が、感極まった声で言った。その目には、喜びの涙が浮かんでいる。バヤンは、静かに頷いた。彼の顔には、安堵と、そして大きな責任を果たすことができた満足感が浮かんでいた。
降伏の儀式は、モンゴル軍の陣営で行われた。凍てつく空気の中、恭帝と皇太后は、バヤンの前に進み出た。幼い恭帝の小さな手には、南宋の象徴である玉璽が握られていた。それは、何百年もの間、中国の王朝の証とされてきた、大切な印だ。
恭帝が、玉璽をバヤンに差し出す。その瞬間、バヤンの胸に、熱いものがこみ上げた。800年以上にわたる中国王朝の歴史、そして宋朝の統治が、今、ここに幕を閉じる。それは、まさに歴史が変わる瞬間だった。
バヤンは、玉璽を受け取ると、恭帝と皇太后に向かって深く頭を下げた。
「陛下、皇太后さま、ご決断に感謝いたします。クビライ・ハン(皇帝)の命により、お二方の身の安全と、これからの生活は全て保証いたします」
彼の言葉は、穏やかでありながらも、確かな重みを持っていた。皇太后は、涙を流しながらも、バヤンの言葉に安堵の表情を見せた。
その後、臨安の街に入る元軍には、厳しく命令が下された。
「一切の略奪を禁じる!住民に乱暴を働く者があれば、即刻処罰する!この街の文化、そして人々の暮らしは、我々が守る!」
バヤンの命令は、徹底された。臨安は、ほとんど傷つくことなく、元朝の手に渡ったのだ。人々は、恐る恐る家から出てきたが、元軍が略奪も破壊もしないのを見て、次第に安堵の表情を浮かべ始めた。
「総司令官どのの御手腕は、まさに神業にございます!臨安を無傷で手に入れるなど、誰が想像できたでしょうか!」
アジュが、心から尊敬の念を込めて言った。
バヤンは、臨安の街並みを見渡した。美しい家々、歴史ある寺院、そして生き生きとした人々の姿。これらを破壊することなく、新しい時代を築くことができる。それが、彼の何よりの喜びだった。
「これは、私一人の力ではない。クビライ陛下の深い思慮と、皆の努力の賜物だ」
バヤンは謙遜したが、誰もが知っていた。この臨安の無血開城は、バヤンの軍事的な成功だけでなく、その優れた政治手腕と、人としての魅力の頂点を示していることを。彼は、征服者としての冷酷さだけでなく、都市と文化を尊重する寛容さ(かんようさ)をも兼ね備えていることを示したのだ。
この偉業によって、元朝の中国支配の基盤は確固たるものとなった。そして、バヤンの名は、中国統一を成し遂げた不朽の功臣として、歴史に深く刻まれることになった。彼の物語は、ただの武力だけでなく、人心を掌握することの大切さを、後世に伝えている。