伯顔:南宋征服者の物語④
〇第三章:鋼鉄の進軍、水の計略
1274年の冬、冷たい風が吹き荒れる中、元の大軍はついに長江を渡り、南宋の土地へと踏み込んだ。総司令官のバヤンは、船上で前方の様子をじっと見つめていた。彼の号令一つで、モンゴルの騎兵隊は内陸を猛スピードで駆け抜け、漢人の兵士たちと水軍は、長江を静かに下っていく。まさに水陸両面からの、怒涛の進軍だ。
「総司令官どの!前方に南宋軍の姿を確認!数、およそ五千!」
伝令兵の声が、風に乗ってバヤンの耳に届いた。バヤンは顔色一つ変えずに、冷静に指示を出した。
「よし。騎兵隊は側面から回り込み、敵を分断せよ!水軍はそのまま長江を前進し、敵の退路を断つ!歩兵隊は正面から押し込め!」
彼の声には、一切の迷いがなかった。南宋側も必死に抵抗してきたが、襄陽が落ちて以来、兵士たちの士気はすっかり落ちていた。それに、それぞれの部隊の連携も、うまくいっていないようだった。
「やれっ!逃がすな!」
阿朮の声が戦場に響き渡る。彼はいつも最前線で指揮を執り、兵士たちを鼓舞していた。モンゴルの騎兵隊は、まるで嵐のように敵の陣に突っ込んでいく。馬蹄の音が大地を揺らし、矢の雨が敵兵に降り注ぐ。
一方、長江では、元軍の船が次々と南宋の船団に襲いかかっていた。水軍の指揮を執る将軍が、船上から叫んだ。
「火矢を放て!敵船を燃やし尽くせ!」
燃え盛る火矢が夜空を裂き、南宋の木造船に次々と命中する。炎が上がり、黒い煙が空へと舞い上がった。
バヤンの戦略は、ただ力で敵を押し潰すだけではなかった。彼は南宋の軍事拠点を一つずつ孤立させ、彼らの補給路を断ち切ることに重点を置いていた。
「この都市を落とせば、奴らは孤立する。兵糧も尽き、援軍も来ないだろう」
バヤンは地図を広げ、次の標的を指差した。
「阿裏海牙どの、貴殿の部隊は、この地の周辺の街道を完全に封鎖せよ。一兵たりとも、一物たりとも、ここへ通すな」
長江沿いの要衝や都市は、まるでドミノが倒れるかのように、次々と元軍の手に落ちていった。南宋の防衛線は、少しずつ、しかし確実に、内側へと追い込まれていく。
ある日、激しい戦闘が終わったばかりの城で、バヤンは疲れた兵士たちを見回していた。彼らの中には、顔に泥をつけ、傷を負った者もいる。
「総司令官どの、本日の戦果は上々(じょうじょう)です。しかし、兵士たちの疲労も限界に近づいています」
副将が心配そうに言った。
バヤンはゆっくりと頷いた。
「分かっている。だが、今は立ち止まる時ではない。敵に反撃の機会を与えてはならない。しかし、同時に兵士たちの士気を保つことも重要だ。今夜は、兵士たちに十分な休息と、温かい食事を与えよ。そして、怪我をした者には、手厚い治療を施せ」
バヤンの言葉に、副将はホッとした顔をした。バヤンは、ただ冷徹な指揮官ではない。兵士たちのことを心から気遣う、温かい心も持ち合わせていた。
「それに、南宋の民衆に対しては、略奪を厳しく禁じろ。我々は、破壊しに来たのではない。新しい秩序をもたらしに来たのだと、彼らに理解させるのだ」
バヤンの言葉は、クビライ・ハン(皇帝)から託された「曹彬となれ」という教えを、常に彼の心に刻み付けていた。
各地で激しい戦闘が繰り広げられたが、元軍の勢いを止めることはできなかった。バヤンは、巧みな戦略と兵士たちへの配慮で、次々と勝利を重ねていった。長江を越え、南宋の心臓部へと向かう道は、着実に開かれていった。彼の目は、すでに南宋の都、臨安を見据えていた。
〇
1275年、冬の凍えるような風が、長江の川面を撫でていた。南宋の宰相、賈似道は、敗戦続きの南宋軍を必死に立て直し、丁家州という場所に、全軍を集結させていた。その数、およそ13万。これが、南宋に残された最後の大きな力だった。
「総司令官どの!賈似道め、最後の抵抗を見せております!」
伝令が、バヤン(伯顔)のもとへ駆け寄った。バヤンは、落ち着いた表情で地図を広げた。そこには、丁家州の地形が細かく記されている。
「ほう、丁家州か。奴らも、追い詰められて必死ということか」
バヤンの言葉には、どこか冷たい響きがあった。しかし、その目には、敵の最後の抵抗を打ち砕くという、強い決意が宿っている。彼は、この一戦が南宋征服の大きな節目になると、確信していた。
「アジュ(阿朮)どの!そなたの騎兵隊は、敵の側面を衝け!アリク・ハヤ(阿裏海牙)どの、水軍は長江からの退路を断ち、敵を包囲せよ!そして、イスマイル、アラーウッディーン!回回砲は、敵の本陣を狙え!」
バヤンの指示は、明確かつ的確だった。それぞれの部隊が、まるで一つの生き物のように動き始める。
丁家州の戦いは、長江流域全体を揺るがす、まさに大河の決戦となった。両軍は、激しくぶつかり合った。南宋軍は、故郷を守るために必死に戦ったが、元の軍事力は圧倒的だった。
「うおおおっ!」
モンゴルの騎兵が、雄叫びを上げながら南宋軍に突っ込んでいく。馬の蹄が大地を轟かせ、兵士たちの剣と盾がぶつかり合う音が鳴り響く。
「後退するな!前に出ろ!」
南宋の将軍が叫ぶが、その声は、モンゴル軍の勢いにかき消されてしまう。
長江からは、元の大艦隊が南宋の船団を追い詰めていた。
「火矢を放て!沈めろ!」
元軍の将兵の声が響き渡り、火矢が次々と敵船に命中する。炎上する船が、長江の暗闇に赤い光を放っていた。
そして、遠くから轟音が響き渡った。それは、回回砲が火を噴いた音だ。巨大な石弾が、南宋軍の本陣目掛けて飛んでいく。
「な、何だあれは!?」
南宋の兵士たちが、恐怖に震えながら空を見上げた。石弾は、恐ろしいほどの破壊力で、南宋軍の陣を打ち砕いていく。
賈似道は、自分の指揮する軍が壊滅していく様子を、ただ呆然と見ていた。彼の顔には、絶望の色が浮かんでいる。
「撤退だ!撤退せよ!」
賈似道は、護衛の兵に守られ、戦場を後にした。彼の権威は、この一戦で完全に失墜した。
戦いが終わり、バヤンは丁家州の戦場に立っていた。あたりには、戦いの爪痕が生々しく残されている。勝利の喜びよりも、彼の心には、新たな責任の重さがのしかかっていた。
「総司令官どの、南宋の主力軍は壊滅しました。これで、臨安への道は、もはや遮るものはございません」
アジュが、興奮した声で報告した。バヤンは、ゆっくりと頷いた。
「うむ。しかし、ここからが真の戦いとなる。民衆の心を掴み、平穏な世をもたらすことこそ、陛下の御心だ」
バヤンは遠く臨安の方向を見つめた。南宋の最後の抵抗を打ち破った今、彼の前に広がるのは、いよいよ都へと続く、開かれた道だった。彼の心には、クビライ・ハン(皇帝)から託された「曹彬となれ」という言葉が、強く響いていた。この勝利は、新たな時代の始まりを告げる、決定的な一歩だった。
〇
南宋の土地を進む元の大軍は、まるで嵐のようだった。しかし、その先頭に立つ総司令官、バヤンの心は、嵐とは真逆の静けさで満ちていた。彼は、ただ力で全てをねじ伏せるつもりはなかった。クビライ・ハン(皇帝)から与えられた「曹彬となれ」という言葉が、常に彼の胸に響いていた。「無駄な殺生はするな。民の心を掴め」という、その教えを。
ある日、元軍は、小さな町を包囲した。町の人々は、モンゴル軍の恐ろしさを知っている。城壁の上から、震えながらこちらを見下ろしていた。
「総司令官どの!降伏勧告の使者を送りましょう!」
副将のアジュ(阿朮)が、バヤンに言った。バヤンは頷き、声を張り上げた。
「待て!使者を送る前に、まずは我らの意図を明確に伝えよ!町の人々に聞こえるように、大声で叫ぶのだ!」
兵士たちが、バヤンの指示に従い、城壁に向かって叫び始めた。
「我々は、略奪も殺戮も望まない!降伏すれば、その身分も財産も守られる!食料も保証する!我々は、平和をもたらすために来たのだ!」
町の城壁の上が、ざわめいた。恐る恐る、何人かの住民が顔を出す。バヤンは、彼らの表情をじっと見ていた。そして、アジュに向かって言った。
「見ろ、アジュ。彼らの目には、まだ恐怖がある。だが、わずかながら、希望の光も宿っている」
数日後、その町は、血を流すことなく降伏した。バヤンは、兵士たちに厳しく命じた。
「一切の略奪を禁じる!違反した者は、厳しく罰する!この町の秩序は、我々が守る!」
彼の言葉に、兵士たちはぴりっと空気が引き締まるのを感じた。
しかし、全ての地で円滑に進んだわけではない。時には、激しい抵抗に遭い、やむなく武力を行使せざるを得ないこともあった。また、部下の中には、略奪を望む者もいた。
ある時、ある将軍が、降伏した村で略奪を働いたという報告がバヤンのもとに届いた。バヤンは、激しい怒りに震えた。
「何だと!?私の命令に逆らうとは、許せん!」
バヤンは、その将軍を呼びつけ、皆の前で厳しく叱責した。
「貴様は、陛下の御心を理解しておらぬのか!我々は、破壊しに来たのではない!新しい秩序をもたらしに来たのだ!このような蛮行は、決して許されない!」
そして、その将軍には、容赦ない処罰が下された。その光景を見た兵士たちは、バヤンの決意の固さを知り、二度と命令に背くことはなかった。
バヤンの心の中では、常に葛藤があった。フビライの命令に従い、文明を破壊せずに統一を進めるという大義。そして、目の前の現実の厳しさ。抵抗する敵、略奪を求める部下。時には、自らの手で血を流さなければならない時もあった。しかし、彼は、常に「不殺」の原則を心の奥底に持ち続け、最善の道を探し続けた。
夜、バヤンは一人、幕舎の中で地図を広げていた。彼の指は、南宋の都、臨安へと向かっている。
「臨安……。あそこは、血を流さずに手に入れたい」
彼の心に、強い願いが湧き上がる。この巧妙な人心掌握術は、多くの南宋の将軍や官僚を、戦わずして降伏させることに成功した。それは、無駄な流血を避け、後の臨安無血開城へと繋がる、重要な布石となっていったのだ。バヤンは、ただの武力に頼る将軍ではなかった。彼は、人々の心をも支配する、真の統治者の才を持っていた。彼の進軍は、まさに「鋼鉄の進軍、水の計略」そのものだった。