伯顔:南宋征服者の物語③
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襄陽と樊城が陥落し、長江の守りが破られた夜。伯顔は、一人、天幕の中で静かに酒を傾けていた。激しい戦いの余韻がまだ体中に残っている。窓の外では、遠くで兵士たちのざわめきが聞こえるが、彼の心は静かな思索の中にあった。
「ふむ……」
伯顔は、杯をゆっくりと回しながら、遠い故郷の空を思い浮かべた。
「この広い世界は、まさにフビライ陛下の手の内にあると言っても過言ではないな。東は遥か日本、西はイランの地まで、我らモンゴルの支配は広がりつつある。フビライ陛下は、かつてのチンギス・ハンの夢を、この目で見事に実現しようとしているのだ。宋を滅ぼせば、我らの帝国は、まさに地上に比類なき存在となるだろう」
彼は、もう一口酒を飲んだ。
「しかし、この勝利も、ただ運が良かったわけではない。我らモンゴル軍の強さは、その戦術にある。敵の動きを読み、素早く行動する。それが肝要だ」
伯顔は、目の前の地図を広げた。
「敵を包囲し、敵の動きを封じる。そして、その間に精鋭の騎兵で一気に攻め立てる。騎兵の速さは、他の追随を許さぬ。そして、敵を追撃する時も容赦しない。敵が完全に潰れるまで、追い続けるのだ」
彼は指で地図上の経路をなぞった。
「加えて、我らは情報の収集を怠らない。敵の兵力、兵糧、指揮官の性格まで、徹底的に調べ上げる。そして、その情報に基づいて、最適な策を練るのだ。奇襲、陽動、分断……敵が最も嫌がることを、最も効果的なタイミングで行う」
伯顔は、ふと顔を上げた。
「そして、何よりも重要なのは、人の力だ。我らモンゴル軍には、フビライ陛下をはじめ、実に多くの優れた将軍たちがいる。例えば、智勇兼備の アジュ 将軍。彼は、戦場で常に冷静な判断を下し、兵を勝利へと導く。彼の存在なしには、今回の襄陽・樊城攻略も、これほど早くは進まなかっただろう」
彼は、遠くを眺めるように目を細めた。
「それから、革新的な攻城兵器を駆使し、不可能を可能にした アリク・カヤ 将軍。彼は常に兵士たちの士気を高め、堅固な城壁をも打ち破る方法を見つけ出してきた。郭侃将軍のような、西方の戦を知り尽くした者もいる。彼はその経験を活かし、様々な民族の兵を率いて難攻不落の城を落とし、敵を圧倒してきた。そして、漢人でありながら、我らモンゴルに深く帰順し、中国の地の情勢を熟知している 史天沢 将軍のような者もいる。彼らそれぞれの強みが、モンゴル軍をさらに強くしているのだ」
伯顔は、再び杯を傾けた。
「もちろん、私自身も、フビライ陛下の期待に応えるべく、この身を捧げる覚悟だ。南宋征服は、まだ序章に過ぎない。この大いなる歴史のうねりの中で、私は何ができるだろうか。フビライ陛下の夢を、必ずやこの手で実現してみせる」
夜の闇は深く、しかし、伯顔の心には、勝利への確信と、未来への強い意志が燃え盛っていた。長江を越える影は、いよいよ南宋の心臓部へと深く食い込もうとしている。
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夜の帳が下りた大都の宮殿に、ひときわ大きく燃え盛る炎の音が響いていた。その前には、元の皇帝、クビライ・ハンが静かに座っている。彼の視線の先には、ひざまずく一人の若者がいた。彼の名は、バヤン。先の襄陽・樊城の戦いで、その名を天下に轟かせた若き将軍だ。
「バヤンよ、面を上げい」
クビライの声は、普段よりも一段と重々しく響いた。バヤンはゆっくりと顔を上げた。クビライの目は、まっすぐにバヤンを捉えている。
「襄陽・樊城の陥落により、南宋征服の機は熟した。今こそ、あの豊かな大地を、我らのもとへ引き入れる時だ」
バヤンの心臓が、ドクンと大きく鳴った。まさか、この場で――。
「その総司令官という大役、汝に任せる」
クビライの言葉が、宮殿の中に力強く響き渡った。バヤンは、はっと息をのんだ。総司令官。チンギス・ハン以来の、モンゴル帝国の歴史に残る大事業の先頭に立つ。この上ない栄誉だ。しかし、同時に計り知れない重圧が、彼の肩にずっしりとのしかかる。
「陛下……このバヤンに、その大役が務まるでしょうか」
思わず口に出た言葉だった。クビライは、そんなバヤンをじっと見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「昔、宋の開国の功臣、曹彬は、むやみに人を殺さずして江南を平定したという。汝はその身に朕の心を刻み、わが曹彬となれ」
その言葉に、バビンの胸に温かいものが広がる。クビライは、ただ南宋を武力でねじ伏せるだけでなく、そこに暮らす漢人の民衆を安んじ、その心を掴むことを望んでいた。それは、これまでのモンゴルの征服戦争とは全く異なる、新たな統治の形を示していた。
「陛下……このバヤン、陛下の御心をしかと胸に刻み、必ずや天下統一の夢を叶えてみせます!」
バヤンの声には、先ほどの戸惑いは消え、強い決意が宿っていた。
翌朝、バヤンは総司令官として、南宋征服軍の先頭に立っていた。広大な軍勢が、彼の号令一つで動く。その光景は、まさに圧巻だ。しかし、彼の心は冷静だった。
「総司令官殿!」
副将の一人が、馬を寄せてきた。
「いよいよ、この南宋の大地へ踏み入るわけですが、この先の進軍はどのように?」
バヤンは地図を広げ、指で長江の複雑な流れをなぞった。
「焦るな。南宋は、これまで我らが戦ってきたどの国とも異なる。豊かな水利に恵まれ、人口も多い。ただ武力で攻めるだけでは、必ずや反発を招く」
「では、どうするのですか?」
副将の問いに、バヤンは顔を上げた。
「まずは、民衆の心を掴むことだ。無用な殺戮は避け、略奪も許さん。我らは、新しい時代の秩序をもたらしに来たのだと、彼らに理解させるのだ」
「しかし、敵は激しく抵抗するでしょう。その中で、どうやって?」
副将の声に、不安の色がにじむ。
「我々モンゴル軍の強さは、その圧倒的な武力だけではない。相手をよく見て、その弱点を見つけ出し、そして何より、相手の心を理解することだ」
バヤンの言葉には、単なる武将のそれではない、深い洞察力が感じられた。
「これは、単なる征服戦争ではない。フビライ陛下の天下統一の夢、そしてモンゴル帝国の新たな時代を築くための、歴史的な使命なのだ」
バヤンは遠く、南宋の地を見つめた。彼の目の前には、まだ見ぬ困難が待ち受けているだろう。しかし、彼の心には、フビライの言葉が深く刻み込まれていた。この重責を背負い、彼は今、新たな歴史の扉を開こうとしていた。
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長江のほとりには、冬の風が吹き荒れていた。元の総司令官、バヤンは、ずらりと並んだ軍船を見上げていた。モンゴル軍は馬に乗って戦うのが得意な騎馬民族だ。しかし、この南宋を攻め落とすには、大きな川や湖を自在に進める、強力な水軍がどうしても必要だった。
「アジュ(阿朮)よ、船の準備は万端か?」
バヤンの問いに、精悍な顔つきのアジュが力強く答えた。アジュは、あのモンゴルの名将、スブタイの孫だ。戦場での実行力は、誰にも負けない。
「総司令官殿!襄陽で降伏した南宋の兵たち、そして以前から元に仕えていた漢人の船乗りたちを合わせ、準備は整っております!数えきれないほどの船が、長江を下る日を待っています!」
アジュの言葉に、バヤンは満足そうに頷いた。元軍の総兵力は、なんと百万にも及ぶという。その中には、勇敢な騎馬隊もいれば、歩兵もいる。そして、この水軍だ。
「よし。長江を制する者が、南宋を制する。そのことを忘れるな」
バヤンの目は、遠く南宋の都、臨安を見据えていた。
その頃、長江の上流では、もう一人の重要な将軍が部隊を率いていた。クビライ・ハン(皇帝)の古くからの側近、アリク・ハヤ(阿裏海牙)だ。彼は、南宋軍の連携を断ち切り、側方からの脅威を取り除くという、とても大切な役割を担っていた。
「アリク・ハヤ殿!南宋の水軍が、こちらに向かっています!」
伝令が慌ただしく駆けてくる。アリク・ハヤは眉一つ動かさず、冷静に指示を出した。
「慌てるな。我々の目的は、あくまで本隊の進撃を助けることだ。敵を混乱させ、分断させよ!」
彼らの活躍が、バヤン率いる本隊の進撃を支える重要なカギとなる。
バヤンは、様々な民族出身の将軍たちと、それぞれの能力を最大限に引き出すための会議を重ねていた。イスラム系の砲兵専門家であるイスマイルやアラーウッディーンも、強力な攻城兵器である「回回砲」の運用で、引き続き重要な役割を担っていた。
「イスマイル、アラーウッディーン!君たちの『回回砲』は、我々の進撃に不可欠だ。長江沿いの城を攻略する際には、その威力を存分に発揮してもらいたい」
バヤンが言うと、二人の砲兵専門家は誇らしげに胸を張った。
「お任せください、総司令官殿!我々の砲は、どんな堅固な城壁をも打ち砕きます!」
そうして、1274年の冬。いよいよ、元の大艦隊が長江を下り始めた。凍てつく風が吹き荒れる中、無数の船が静かに進む。船の帆が、まるで巨大な影のように水面に広がり、南宋の命運をかけた最終決戦へと向かっていた。
バヤンは、旗艦の船首に立ち、前方を見据えていた。冷たい風が彼の頬をなでる。彼の脳裏には、クビライ・ハン(皇帝)の言葉が蘇っていた。「わが曹彬となれ」。無用な殺戮を避け、民衆を安んじる。それは、決して容易い道ではない。しかし、彼はその重責を胸に刻み、この巨大な歴史の波に乗り込んでいく覚悟を決めていた。南宋征服という壮大な夢の実現まで、あと一歩だ。