第9話 学院、訪問。
「おーい! ヌエちゃん、ちょっと来てくれんかあ!」
「はーい、なんすか」
あれから数日後。気付けばベロンベロンに酔っ払った親方と一つのベッドで一夜を明かすなどという衝撃の展開に親方が死ぬほど慌てて取り乱すといったちょっとした事件はあったものの、別段卑猥はなく本当にただ一つしかない宿屋のシングルルームのベッドで雑魚寝しただけだと知り心底安堵した親方にアレコレ説教されはしたが、それ以外は至って平和な日常を送っていた俺はいつものように工房の前の道路の掃き掃除をしていた。箒がサッササッサと動くのに合わせて、すぐ傍で寝そべって日向ぼっこに勤しむ野良犬のディアン爺の尻尾も揺れる。音楽の国では犬もリズミカルなのか、とちょっと感心していると、職人のおっさんに呼ばれたので作業場の方に顔を出す。
「ほれ、ヌエちゃん宛てに招待状が来てるぞ」
「招待状?」
手渡された封筒を開くと、そこには『国立音楽学院 春の演奏会のお報せ』と書かれた紙と、無駄に豪華なチケットが同封されていた。送り主はマンダリン・ノイズ。添えられていた手紙には先日の謝罪とお礼を兼ねて、俺を新入生歓迎会に招待したいということだった。
「お! 春の演奏会のチケットじゃん!」
「すげえな! どんだけ金を積んでも手に入らねえんだぜ!」
「そんなにですか?」
「ああ! なんてったって世界一の音楽学校で、世界一の先行投資をする機会だからな!」
毎年5月に行われる新入生歓迎会は実は歓迎会とは名ばかりで、関係各所への新入生のお披露目を兼ねている、というよりむしろそちらの方が本題らしく、音楽業界の大物が来賓として大勢見物に来るのだそうだ。よそに取られる前に早くから才能あふれる若者に目をかけ、唾をつけておく。やらされる側としては緊張感半端ないだろうが、まだ無名の新入生からすれば大物音楽家や劇場経営者やスポンサーになってくれるかもしれない資産家相手にダイレクトに自分をアピールできる大チャンスとあって、気合いも熱量も凄まじいのだとか。逆にそう張りきれない奴から脱落していくような厳しい世界でもある。何事も競争だからね。
「あれだろ? 今年は確か親方も招待されてたよな」
「そうなんです?」
「ああ。何せ楽器作りの人間国宝だからよ。他の人間国宝との兼ね合いで毎年ってわけにはいかねえが」
「今年は王子様とその婚約者である公爵令嬢が入学しただろ? そのせいで下手すりゃ他国の王族なんかもお忍びでやってくるって専らの噂だぜ?」
「ああ、道理で」
「警備も例年以上に厳重だろうな。ああ、俺も一度でいいからこれに招待されるような腕利きの職人になりてえもんだ」
なるほど公爵が気合いを入れて娘の楽器を新調するわけだ。王子様の婚約者ならそこまで売り込みに固執せずともいいんじゃね、と思うのは素人考え。未来の王妃だからこそ、キッチリ演奏会を大成功に導かねば。いや、その前に王子様だよ。1年生として入学してきた王子様のお披露目コンサートで失敗なんてしようものなら王家の面目丸潰れの大惨事だ。今年は成功して当たり前、失敗は絶対に赦されないとあらば、同級生たちはプレッシャー半端ないだろうな。マンダリンお嬢さんが必要以上に自分を追い詰めていたのもひょっとしたらその影響もあったのかもしれない。
「なるほどねー」
プログラムによれば、王子様によるピアノ演奏、お嬢さんによるギター弾き語り、それと王子様の演奏でお嬢さんが歌うというパートもあるようで、存分に未来の国王夫妻の実力を見せつける必要に駆られたわけか。逆にここで躓いたらそりゃヤバイわ。国の行く末が不安になるもん。
「なんだ、ヌエに招待状が来たのか。公爵も義理堅いな。いや、お嬢さんの差し金か? 単純にお前さんが気に入って友達になろうって腹かも知らんが」
俺と職人たちが盛り上がっていると、作業場の奥に引きこもっていたイカルガ親方がひょっこり顔を出した。
「俺経由で娘さんとうちの工房に縁を結べて、親方にも恩を売れて一石二鳥なんじゃないすかね」
「なんにせよ演奏会に行くならお前さんの新しい服がいるな。まさかその恰好で権威ある音楽の祭典に乗り込むわけにもいくまい」
今の俺は孤児院時代から着古したシャツにここに正社員として雇ってもらった時に親方が買い与えてくれた新しいオーバーオール、防塵ゴーグルの代わりの分厚い伊達眼鏡にいつもの首の後ろで一つに結った長髪、それとタオルを巻いた状態だ。お洒落とは無縁の中身おっさんゆえ服とか必要最低限しか買わないから、素材はメチャクチャいいのに野暮ったくて勿体ない、と職人連中からはよく嘆かれている。
「こないだのパンツスーツでいいじゃないすか」
「バカタレ。演奏会の時はドレスだドレス。古来より続く伝統だぞ」
「えー!? やだなあ、行くのやめようかなあ」
「減給されたいか?」
「あ! 親方それは卑怯っすよ!」
「ヌエちゃんのドレス!」
「さぞ可愛いだろうなあ!」
「……グヘヘ!」
「……普段はボーイッシュなオレっ娘のドレス姿……いい!」
「お前らなあ」
「ちょ!? 盛り上がってんじゃねえぞおっさんども!」
何考えてんのか丸分かりの表情で空想に耽る脳内セクハラオヤジどもをバシバシ引っ叩いても、作業場で鍛え抜かれた筋肉相手じゃ逆に俺の手の方が痛くなる。そんなわけで俺は転生後初の女装(?)をする羽目になった。地獄か?