第3話 自立、開始。
「ヌエ、氷水を頼む」
「了解っす」
13歳になった俺は孤児院を卒業し、本格的にイカルガ親方の楽器工房で働くようになった。といっても楽器作りに関してはチンプンカンプンなので、それこそパートのオバチャン的な立場だ。賄い飯を作りこまごまとした作業を行い、帳簿付けを手伝う。特にこの世界には義務教育がないため計算や文字の読み書きができるのは重宝がられた。どこで覚えたと訊かれた時は曖昧に笑って誤魔化したが。親方は字が汚いため、綺麗な字で領収証などを発行するとお客さんが喜んでくれる。
「ヌエちゃん、可愛いなあ」
「ほんと、嫁になってくんねえかな」
「バカ言え。なるなら俺の嫁だ」
「お前ら! 色ボケこいてんじゃねえ!」
すんませーん! とどやされた職人たちの合唱が響き渡るのもいつものことだ。結局胸が成長してきたせいで女だとばれてしまったが、相変わらず俺は長髪を結って胸にさらしを巻き、防塵ゴーグルの代わりに分厚い伊達眼鏡をかけ、オーバーオールを着込んで男として振る舞っている。なるほど、確かにこうなることを見越していたのなら、学院に行けと言われてしまうのも納得できるかもしれない。この世界にはセクハラやパワハラやモラハラを咎めるような仕組みがないため、必然的に男所帯であれば可愛い紅一点に意識が向く。
「ったく! あいつらときたら!」
「なんかすんません、俺のせいで」
「あ? お前さんが謝ることじゃねえよ。気にすんな!」
孤児院を出た俺は当初適当なアパートを借りて独り暮らしを始めるつもりだったのだが、貧民街でそんなことをすれば襲ってくださいと言ってるようなもんだぞ、と親方に言われ、今は工房の隣にある親方の家に下宿させてもらっていた。家賃は給料から天引きだが、かなり良心的な価格であるため物凄くありがたい。前世風に言うなら都内2LDK風呂トイレベランダ付きで家賃3万といった感じ。飯代も親方と折半のため、かなり安上がりに生活できるので貯金がそこそこの額貯まっている。
「失礼、イカルガ殿はいらっしゃるだろうか」
「おお! 公爵様!」
午後の仕事に勤しんでいると、工房の前に1台の馬車が停まった。降りてきたのはノイズ公爵家の当主、ソニック・ノイズ様だ。なんでも今年の国立音楽学院の入試では公爵家の御令嬢がぶっちぎりの歌声を披露し見事に主席入学を果たしたとのことで、あの歌声は伝説だ! 天使降臨だ! などと公爵令嬢様に対する国民感情がうなぎのぼりらしい。
「紹介しよう。娘のマンダリンだ」
「おお! お嬢さんがあの! お目にかかれて光栄だ!」
「初めまして、お爺様。どうぞリンとお呼びください」
「マンダリン。彼はイカルガ殿。国内でも指折りの楽器職人だ。人間国宝にも指定されている、偉大な御方だぞ」
「まあ!」
「なんのなんの! 俺なんぞただの偏屈な老いぼれに過ぎません!」
音楽の国では優れた楽器職人は貴族からも一目置かれる。言い方は悪いけど、下町のこんな冴えない工房で人間国宝が働いてるだなんて思わなかったのだろう。マンダリンお嬢さんは目を丸くしつつも、親方と握手する。親方もその気になれば高級住宅地に豪邸を構えられるだけの貯えはあるんだよな。本人がそういうの苦手だから今でも下町に留まってるだけで。そうでなければ俺みたいな孤児院上がりの得体の知れないガキを雇ったりせんだろ。
「それで? 本日はどのような御用件で?」
どうやら公爵は娘さんが入学後に行われる春の新入生歓迎会で歌を披露する時のために、入学祝いも兼ねて最高のギターを贈りたいとのことだった。ギターであれば持ち運びも容易だし、弾き語りもできるから、と。確かにピアノは重たいし、ヴァイオリンの弾き語りは聞いたことがない。というか、そういうのって演奏は別の人がやるんじゃねえの? とも思ったが、異世界の音楽学校がどういうものかまるで知らない俺の素人考えでは及ばない何か深い事情がきっとあるのだろう。
「であれば、是非もなく承りましょう! 噂の天使様の歌声に華を添えることができるのであれば、俺も本望ですぞ!」
「ありがとうございます!」
イカルガ親方は偏屈な人物として名が知られている。どれだけ金を積んでも気に入らない客に楽器を作ってやることは断じてない。過去にはそれで貴族とのトラブルに発展したこともあったそうだが、圧倒的なネームバリューと実力で得た伝手やコネを頼りにそういった案件を潰して回った結果、今ではそういった困った客が来る頻度も減ったらしい。そんな彼が笑顔で仕事を引き受けたのだから、それだけマンダリン様とやらの歌声は凄かったんだろうな。
「ヌエ! リンお嬢様の採寸を頼む」
「了解です」
「ご紹介しましょう。彼女はメヌエット。うちのお手伝いをしております。信頼できる人物ですので、どうぞご安心を」
「なっ!?」
「初めまして、公爵様。従業員のメヌエットと申します」
「初めまして、素敵なお嬢さん。イカルガ殿がそう仰るのであれば、私も君を信用するとしよう」
うん? なんだ? お嬢さんの方が俺の顔を見て絶句しているが。
「……どうして!? どうしてあなたがここにいるの!?」
「はあ。こちらで働いておりますので」
「学院は!? どうして入試に来なかったの!?」
「失礼、馬車に忘れ物をしたようだ。取りに行ってくる」
公爵が錯乱する娘の手を引き、工房から出ていく。
「公爵家のお嬢様と知り合いだったのか? ヌエ」
「いえ、初対面ですが」
俺たちはキョトンと顔を見合わせ、首を傾げるよりなかった。