第17話 悪役令嬢の心配。
「ヌエ様が誘拐された!?」
「ああ、イカルガ殿から連絡が来てね。彼は普段貴族を相手に貸し借りを作ることを極端に嫌う筈だが、さすがに義娘のこととなればそうも言ってられなかったのだろうな。私にもその気持ちは痛いほど解るよ」
平日の夜。学院から帰宅した私は、お父様から信じ難い話を聞かされ驚いた。ヌエ様が何者かにさらわれたという。置手紙のようなものや、犯人からの連絡はなし。だからこそ心配なのか、イカルガ様がお父様に助けを求めたらしい。
「一体誰が、なんのために……」
「それは君の方が心当たりがあるんじゃないかい?」
「演奏会で発生した平民いじめの件、ですわよね」
「貴族の中には傲慢な者もいる。むしろそうでない者の方が希少かもしれんがね。平民風情が、と羽虫でも潰すように悪意を振りかざす輩も珍しくはない」
「それは……そうかもしれませんが」
もしヌエ様が関わらなければ、あの事件は1人の新入生が大恥を掻いただけで終わる筈だった。或いは音楽家生命が絶たれたかもしれないが、それは学院側、そして観客側からすれば大して意味のないことに過ぎないだろう。だが、ヌエ様がイカルガ楽器工房の名を振りかざして関与したことで事件は想像以上の大事になってしまった。クレレの自己責任から、名門ある伝統的な国立音楽学院内で陰湿ないじめが行われたことを世間に暴露してしまったのだ。いじめをやった者、それに加担した者、直接手を出しはしていないものの遠巻きに冷笑していた者、監督責任を疑われた教師、或いは『たかが平民如きのために』『たかが平民如きのせいで』などと面白く思わない者は、少なくなかっただろう。
「でも、だからといって直接ヌエ様を襲うだなんて。イカルガ楽器工房を敵に回す行為ですのに」
「いい機会だ、と言うのは不謹慎だが、覚えておきなさい、リン。たとえ人間国宝であろうと、優れた楽器職人は彼以外にも大勢いる。それに、人間は損得勘定だけで生きる生き物ではない。腹が立ったから、気に食わないから。そんな愚かな理由で、まともな人間からすれば信じられない程の愚行に走る人種も、世の中にはごまんといるのだとね」
「仰る通り、ですわね。だからこそわたくしもまた、そういった輩に負けぬよう日々勉強に励まねばなりません。いずれにせよ、ヌエ様の身に何かあったらわたくし、わたくし……!」
既に私の中で、ヌエ様はただの原作主人公ではない。傲慢に目を曇らせ、耳を塞いでいた私を叱責し、目を覚まさせてくれた恩人。気安く付き合える庶民的なお友達。まるでお兄さんのようなお姉さんみたいなかけがえのない存在なのだ。同時に、そんな大切な友達を理不尽に傷付けられた怒りが沸々と込み上げてくる。不安で張り裂けそうな胸が、怒りで熱く煮え滾り始めた。こういう時、俯き泣いているような柄ではないのは前世からそうだった。
「大丈夫だ、リン。我々も彼女には恩がある。君のためにも、協力は惜しまないつもりだ」
「ありがとうございます、お父様!」
「顔色が酷いようだね。誰か、リンを部屋に」
侍女に支えられながら部屋まで送られ、温かい飲み物をもらう。原作ゲームにおける主人公誘拐イベント(未遂も含む)は、実は少なくないのだ。というのも、メヌエットは才能に溢れるだけのただの平民の孤児である。実際には終盤で彼女の唯一の所持品であったピンク色の音符型のペンダントがきっかけで、実は幼い頃に行方不明になった隣国のお姫様であったことがなんの伏線もなく唐突に判明しプレイヤーからの失笑を買うことになるのだが、それはゲームの終盤まで判明しない。そのためどのルートにおいても『ただの平民如きが!』と数々の悪意が主人公に襲いかかっては、その都度攻略対象たちが助けてくれるときめきイベントの糧となるのだが、実際に発生すると誘拐事件とはこんなにも人を不安にさせるとは。ゲームの画面越しに眺めていただけの他人事ではない、実際の当事者になってみて初めて解るこの理不尽さ。おまけに彼女には、助けに来てくれる攻略キャラもいないのに!
「お嬢様。きっとご友人は無事に見付かりますよ」
「そうだとよいのですが。どの道わたくしにできることは何もありませんし、今はただ無事を祈るよりありませんわよね」
原作ゲームにおける誘拐イベントでは、さらわれた先は大体『????』と表示されるため、具体的な場所まではプレイヤーだった私にも判らない。王国内のどこかであることは確かなのだが、唯一具体的に場所が開示されるのはフォルテ王子ルートでお城の地下牢に閉じ込められる時ぐらいだろう。婚約者の心を完全に奪われ激怒した私がメヌエットを地下牢に閉じ込め、そして罪人処刑用の放水装置を作動させることであわや地下牢内で溺死させられそうになるところを間一髪でフォルテ王子に助けられるというスチル付きのときめきイベントなのだが、さすがに今回お城の地下牢はないだろう。乙女ゲームの誘拐イベントなんて、単なる胸キュンイベントのための前振りでしかない、ぐらいの認識だったのだけれど、実際に巻き込まれるとこんなにも恐ろしいなんて。当事者になってみなければ解らないことが、この世にはあまりにも山積みだった。
「ヌエ様、どうかご無事で!」