99-こそこそ
心地良い風が木の葉を揺らし、頬を撫でる。掠れた白い雲が薄青い空に掛かる爽やかな昼下がりだった。
山奥の穏やかな水の流れを遡り、木々に囲まれた良い場所を見つけた。澄んだ水は流れも緩やかで程良く視界も遮られる。然程深くもなく水浴びには最適だ。
「――うわあああ!?」
先に声が上がったのは川の方だったが、声が止まない内に声が重なる。川に下りた木漏れ日が控え目にきらきらと、その白い肢体から彼の目は離せなくなった。
二つに束ねたふわふわとした白い髪に羊のような角が生えている少女は驚いて咄嗟に杖を召喚し、牛のような角が生えた白黒頭の少年も反射的に杖を召喚した。杖を召喚するのは殆どの場合、獣にとって攻撃を意味する。確認をする前に先手を取れと無意識に戦闘準備をしてしまうものだ。
先に杖の変換石が光ったのは少年の方だった。少年は戦い慣れていた。激しい風が周囲に巻き起こり、水面が波打つ。風に煽られたと言うより荒れる水に押され、少女の裸体は傾き飛沫を上げた。水深は少女の膝ほどしかなかったが、体勢を崩した彼女は水を飲み杖も消える。
「っ……!」
手を突こうとするが川底が滑り、何度目かで漸く水面に顔を上げることができた。ふわふわとしていた髪は水を吸って萎んでいる。
「……だ……誰だよ!」
少女は濡れた顔を拭い、杖を構える少年に訴えた。もう一度杖を召喚しようとするが、その前に少年は自分の杖を消して怪訝そうに少女を見る。
「お前こそ何なんだ! いきなり杖を出しやがって……やんのか!?」
「お前がいきなり出て来たからだろ! 何が目的だ!」
「水浴びしようと思ったらお前がいたんだろ! 折角良い場所だと思ったのによ!」
「水浴び……? 我が先に見つけた穴場だぞ……さては襲って奪おうって魂胆だな!?」
「は? 先客なら別に無理に奪わねーよ。襲って川に血が混じったら意味ないだろ」
「……?」
少女は座り込んだままぽかんと口を開け、訝しげに眉を寄せた。少年も眉を顰め、暫し沈黙が流れる。
「襲う気が……ない?」
「そっちが攻撃しないなら襲わねーよ」
「でも裸を見たしな……」
少女は水の中から出るに出られず、ぼそぼそとぼやいた。澄んだ水なので水面が穏やかなら水中も見えるのだが、少女は気付かない。
「裸なんか死体でよく見てる。乳の無いお前の体も興味ないしな。気にすんな」
「……」
少女は無言で自分の胸に手を当て、目元がひくひくと引き攣った。
「お前ぇ! 死体と我を一緒にするな! あと乳とか生々しい言い方するな! 恥ずかしくなるだろ!」
このままでは一向に川から出られない。もう既に見られたのだからもう少しくらい見られても気にするものかと少女は決心して脱いだ服を置いた場所へ目を遣り、また悲鳴を上げた。
「わああ! 服が無い! お前……さっきの風で飛ばしたな!? なんて計画的な……うぅ……」
少女の視線を辿って少年も茂みの方を見るが、ブーツが転がっているだけで服らしき物は見当たらなかった。本当に服を吹き飛ばしてしまったらしい。意識していなかったとは言え次第に彼女が不憫になってきた。
「あー……まあ……じゃあ、服を探してきてやるよ。それで終わりにしよう」
「全部お前が悪いのに勝手に終わりにしようとするな……だが服はいる……」
少年は素直に木々の間へ入って行き、本当に悪気はなかったのかもしれないと少女もほんの少し思い始める。
水に浸かって待つのは体が冷えるが、少年が戻って来るのがわかっていて体を晒して待ちたくない。少女はその場から動かずに待ち、動かないからか魚が出て来た。素速く指を立て、滑る魚を一突きで仕留めて咥えた。
ぴちぴちと跳ねる魚を生きたまま食べている内に少年は戻って来たが、手には何も持っていなかった。
「何処に飛んだかわからなかった」
「諦めて戻って来たってこと? じゃあ服は!?」
「……お前、服が無いとそこから出ないのか?」
「出られるわけないだろ! 全裸だぞ!?」
「水浴びしたいのに……」
「お前の所為だろ!」
半分骨になった魚を投げ付けるが少年までは届かず、虚しく土の上に落ちた。少女は最早泣きそうな顔で水面を見下ろしている。
さすがに見兼ねた少年は両手に何も持っていないことを示し、川へと入った。過ごし易い気候だが、日陰になっている水の中は冷たい。
「な、何だよ……」
少女は睨みながら後退るが、少年から敵意は感じられなかった。
少年は黒い上着を脱ぎ、少女の前へ差し出す。
「ん。渾沌……オレの仲間に服を作れる奴がいる。そいつに作らせるってことで、どうだ?」
「服を……? 罠?」
「何でだよ。罠だと思うならいつでも転送で離脱しろ。ま、その場合素っ裸だけどな」
他人事のように笑う少年に少女の目元は再び引き攣り、少年の足を思い切り払った。水中を意識していなかった少年は呆気なく体勢を崩し、上着が水に落ちる前に少女は立ち上がってそれを奪った。
「水には流してやらないが、服をくれるって言うなら貰う」
これ以上体を見られないように素速く上着を羽織り、少女は川に尻餅を突いた少年に手を差し伸べた。上着は裾が長く、すっぽりと体を隠してくれた。
「我は饕餮だ。お前は?」
「……窮奇」
窮奇は饕餮の手を払うが、饕餮はその手を掴んで彼を川から引き上げた。
二人の出会いはあまり良い記憶ではなかったが、今となっては笑い話だ。互いに相手を警戒して杖を構えた。この件がなければ饕餮は四凶には加わらなかっただろう。
* * *
宵の空が見下ろす箱が積まれたような石壁の病院の中で、窮奇は壁に貼り付いていた。ほんの少し開いたドアの隙間から目を細めて廊下を見詰める。
誰もいないことを確認し、音を立てないようにドアを開け、さっと廊下へ出る。頭の角がドアに当たって少し音を立てたが、幸い誰にも気付かれなかった。
気配を消して姿勢を低く階段へ忍び寄り、そろそろと階下を見下ろす。丁度ラクタヴィージャの本体が受付へと足早に向かう所だった。
受付でラクタヴィージャと姫女苑の話す声が聞こえ、ラクタヴィージャの気配は遠離る。どうやら食事を摂るようだ。饕餮と蜃の手術が終わったと小耳に挟んだが、それで休憩を取るのだろう。手術はとても集中するものだ。きっとラクタヴィージャも疲弊しているはずだ。
窮奇は音を立てずに階段を駆け下り、壁から受付の様子を窺う。姫女苑の横顔が見えるが、手元に目を落としている。有色の変転人なら気配を消した獣に気付くことはないだろう。受付とは反対側の廊下の奥へ目を遣り、誰もいないことを確認して一気に駆け抜けた。走るなと釘を刺されているが、誰も見ていなければ咎められることはない。
廊下の奥には手術室がある。その更に奥に集中治療室があるらしい。饕餮と蜃はそこにいると小耳に挟んだ。
手術室のドアを開けると、中にはもう一つドアがあった。初めて入ったが、手術室のドアは二重になっているらしい。きょろきょろと辺りを見渡し、それは細い廊下だと気付いた。正面のドアが手術室で、細い廊下の奥にあるドアが集中治療室だろう。当たりを付けて窮奇は奥のドアを開けた。
思わず声を漏らしそうになってしまうが、宵街では珍しく、見たことのない機械が並んでいた。数字や文字が表示されているが、何を意味しているのか窮奇にはさっぱりわからなかった。昇降機も無い宵街にこんな機械が存在するとは思わなかった。
狭い機械の間を擦り抜けるとベッドが二脚あり、それぞれ饕餮と蜃が眠っていた。何だかわからないが細い管が何本も繋がれ、鼻と口元を覆う仮面のような物が被せられている。
(何をしてるのかさっぱりわからねー……)
手前にいた饕餮の顔を覗き込み、口が塞がれてしまっていることに困惑した。これは誤算だ。何のために付けているのかわからないため、外しても良い物なのかわからない。
「……何をしに来たんですか?」
「!?」
腕を組みながら考えていた窮奇はびくりと肩が跳ね、近くのよくわからない機械に脚をぶつけてしまった。誰もいないと思っていた部屋の中から声がして、慌てて振り向く。機械の間に黒色蟹が座っていた。ラクタヴィージャが部屋から出て来たので、中は無人だと思い込んでいた。変転人にしては気配を消すのが上手い。
「……あ、お……おう……いたのか」
「獣でも立入禁止ですよ」
「へ、へえ……そうなのか」
白々しく白を切る窮奇を横目に、黒色蟹は立ち上がってベッドの上を確認する。
「様子を見に来ただけですか? ラクタヴィージャに訊いた方が理解できると思いますが」
「お、おう……そうだな……?」
「……?」
何かを誤魔化そうとしているような、わかりやすい恍け方をしている窮奇に黒色蟹は首を捻った。
「他に目的があるんですか?」
「い、いやぁ……別に……?」
「…………」
「……あ、そうだ。お前、ラクタに何か命令されてるか?」
「いえ、特には。順に食事を摂ろうと言われたので、先に行ってもらいました。不在の間は僕が二人に変化がないか見張る役です。言われていることはそれだけです」
「そ、そうか。じゃあ……オレが今からすることにも口出しするなよ」
「何をするんですか? 二人に手を出すなら追い出さないといけませんが」
生命力を分けて二人を助けようとした窮奇が二人に対して害を働くとは思えなかったが、目的がわからない以上用心はしておく。
「あの口にある奴って何だ?」
指を差した先を見、黒色蟹は説明する。助けようとした者達が得体の知れない物を取り付けられていては気になるだろう。その気持ちを汲み取る。
「呼吸器です」
「呼吸……?」
「あれが無いと上手く息ができません。通常なら喉に穴を空けて呼吸させるそうですが、ラクタヴィージャの力で穴を空けずに呼吸させることができます」
「! 少しなら外しても大丈夫だよな? 息を止める時は呼吸はしないし、そのくらいの時間なら息をしなくたって……」
「駄目です。何をしようとしてるんですか? 貴方が助けた人達ですよ」
「わかってる! オレは助けたいだけだ! ちょっと生命力を……な」
「……それはラクタヴィージャの許可がないとできません」
「あいつは駄目って言いそう……」
「では駄目です」
「融通利かせろよ! 蟹!」
「……命令ですか?」
無感動な目を向けられ窮奇は彼を睨む。
「命令だって言ったら聞くのかよ」
「はい」
あまりにすんなりと頷くので窮奇は怯んだ。随分と物分かりの良い変転人だ。だが今は都合が良い。
「オレは饕餮も嫁も目を覚まさないのは嫌だ。だから追加で生命力を喰わせる。何もせず目を覚まさなかったら後悔するからだ。それに、キスをすると目を覚ますらしいからな! だからお前は止めるな」
「……御伽噺ですか? では僕は止めませんが、生命力は足りますか?」
最後の一言は警告に聞こえた。窮奇は背中の傷を意識しつつ背筋を伸ばした。
「正直きつい! が、目が覚めた時にオレは平然としていたい。弱ってたら格好悪いからな。ちゃんと抑える」
うんうんと頷き、窮奇はそろりとベッドに近付いた。
「この口の奴はどうやって取るんだ? 引っ張ればいいか? どっちから与えた方がいいとか、ラクタから何か聞いてるか?」
「生命力の与え方は指南されてませんが、饕餮の方からが良いでしょうね。言い方は悪いですが、死を待っているような状態です。蜃は緩やかに心臓が動き始めましたが、饕餮は不自然なほど何の変化もありません」
本当はもう死んでいる。黒色蟹はそう思っているが、ラクタヴィージャはまだ諦めていない。だから言い方に尊重を加えた。
「…………」
窮奇は眉を寄せるが、裏を返せばそれはまだ死んでいないと言うことだ。饕餮の兄弟達は既に葬式のような顔をしているが、まだ遣れることがあるのだ。
「ベッドの反対側から呼吸器を外すので、素速くお願いします。一時的にラクタヴィージャの力を切り離すことになるので、どうなるのか……容体が悪化しそうなら貴方を突き飛ばします」
「おう。任せとけ」
二人はベッドの両側に立ち、黒色蟹は呼吸器に手を遣り、窮奇はベッドに手を突いて構えた。目で合図を送り、素速く呼吸器を外し、勢い余って歯をぶつけないように窮奇は冷たい唇に口付けた。
すぐに口を離し黒色蟹も素速く呼吸器を戻したが、ベッドにかくんと肘を突いた窮奇にはっとした。急いでベッドを回り込んで窮奇の体を支える。足元が微かに震えている。
「大丈夫ですか?」
「嫁も早く……」
「顔色が悪いです」
「命令は聞くんじゃなかったのかよ!」
「……はい」
「嫁の心臓が動いたって言うなら、もう心配ないならオレも何もしないけどな。どうなんだ?」
「最期の足掻きである可能性は、否定できません」
「じゃあ、遣る」
体を支える手は払われない。窮奇は蹌踉めくが体裁のためなのかしっかりとした足取りを繕う。
先程と同じように蜃のベッドの左右に立ち、すぐに駆け寄れるように足元を確認してから黒色蟹は呼吸器を外した。
口付けた窮奇は先程よりもやや早く頭を離し、膝を突く。黒色蟹は急いで駆け寄り彼の体を支えた。ゆっくりと肩で息をし、先程よりも顔色が悪い。色が抜け落ちたように蒼白だ。
樹海で二人に分け与えた生命力の分も回復しきっておらず、負傷もある。身に掛かった負荷は相当なもので、気を抜けば意識が飛んでしまいそうだった。視界が薄暗く、指先が痺れる。
「背負います」
「やめろ……格好悪い……」
払い除けようとした手も力無く、黒色蟹はぐったりとする窮奇を背負った。抵抗できないほど弱っている。窮奇は生命力が高いとラクタヴィージャは言っていたが、それでもこんな状態になるらしい。獣を維持するために必要な生命力の多さを知る。与えたのは少しとは言え二人分だ。窮奇だからこそできたことだ。
黒色蟹は眠る二人の様子に目を遣り、異常がないことを確認して集中治療室から出た。少しの間目を離すことになるが、近くの病室に窮奇を寝かせて戻る時間はあるだろう。
廊下に出て早足で階段に足を掛けた時、背後から呼び止められて肝を冷やした。受付のカウンターから怪訝そうにラクタヴィージャが覗いていた。
「……レオ? その窮奇はどうしたの?」
食事を摂りに出て行っていたはずだが、もう戻って来たらしい。
正直に生命力を与えたなどと言えば窮奇もラクタヴィージャも双方裏切ってしまうことになるだろう。黒色蟹は咄嗟に機転を利かせた。
「痩せ我慢をしていたようで、背中の傷が体に障ったようです」
「痩せ我慢……? 窮奇がしそうなことだけど……そんなぐったりするまで我慢するなんて。……実はちょっと運動とかしたでしょ。点滴をしてあげるから、こっちに運んで」
少し調べればラクタヴィージャは医者なのだからすぐに黒色蟹の嘘にも気付くはずだ。ぐったりとする窮奇を見詰めて彼女は溜息を吐いたが、それ以上は何も言わなかった。見逃してくれるようだ。話を合わせてくれている。そう黒色蟹は察した。
診察室のベッドに窮奇を寝かせ、黒色蟹はすぐに集中治療室へ戻った。生命力を与えたことで二人に何か変化があるかもしれないからだ。
ラクタヴィージャは窮奇に点滴を刺した後もう一度溜息を吐いた。
「もう無茶しないでよ。点滴が終わったらヒメに声を掛けて病室に戻って。私はまた集中治療室に籠もるから、用があったら分身体に言って。ちょっと今は留守にしてるみたいだけど」
薄目を開け、部屋を出るラクタヴィージャの背を見る。窮奇は上手く騙せたと思っているが、医者は騙せない。ラクタヴィージャは彼の生命力が失われていることに気付き、濃い点滴を打った。
生命力を分け与えることは別に悪いことではない。他者を助けたい気持ちを否定することはできない。だが己の体を顧みず獣に生命力を与えることは無謀な行為なので、与えても良いかと訊かれるとラクタヴィージャは必ず止める。獣に必要な生命力は多過ぎるのだ。
(窮奇にはほいほいと他者を助ける博愛さは無いからこれ以上は言わないけど)
饕餮と仲が良いことは知っていたが、もう一人助けたい人が増えたことは微笑ましくも思う。同時に、必ず生かさなくてはと改めて決意をする。兄弟達の様子では饕餮はもう手遅れのようだが、ならば何故完全な死が訪れていないのか、彼女はそれを怪訝に、そして希望を抱いている。
姫女苑に窮奇のことを伝え、ラクタヴィージャは紙袋を手に集中治療室へと戻った。集中治療室では常に人の手で治療しているわけではなく、人間の街から運んだ機械や改造した機械が様子を見てくれている。あまり目は離せないが、中で食事をすることは可能だ。待たせている黒色蟹の分も食事を用意した。食に興味のある二人なら、もしかしたら不意に飛び起きるかもしれない。
* * *
誰もいない透明な街は今は静かだが、いつ何処で悪夢が暴れてもおかしくない危うい状態だった。
街の中で一つだけ明かりの灯る古物店へと久し振りに訪れた椒図は、奥の机に突っ伏して動かない獏がすぐに目に入った。頭には何故か黒猫が丸まっており、重くないのだろうかと怪訝に首を傾ぐ。その近くの木箱の中に化生直後に気に掛けていた子猫の姿も見つけ、懐かしさと安堵が込み上げた。今は眠っているが弱っていた子猫はもうすっかり元気なようだ。
続いて小さな台所を覗き、台に出された野菜を見る。確かに萎びて、物によっては腐っていた。
黒葉菫も台所を覗いて確認する。
「冷蔵庫の中の物は冷やされてるので無事です」
「街を閉じるのは不安だが、台所だけでも閉じておくか?」
「そんなこともできるんですか?」
「この範囲なら斑無く閉じられる。この店を丸々閉じることも可能だ」
贔屓に言われたからか閉じる範囲が椒図にとっては小さいからなのか、自身の力の全てに自信がないわけではなさそうだ。変転人から見れば獣の力は皆不思議で凄いことばかりなのだが、獣の中にいるとまた別の価値観がある。
「机で寝るよりベッドで寝る方がいいと思うんだが、獏はこのままでいいのか?」
「使えるベッドがないんです。……あ、その、変転人を退かせと言いたいんですよね。獣優先で……」
「そんなことは言ってない……上を見てもいいか?」
「はい……」
階段を上ってすぐに、椒図は眉を顰めた。階段の隅や廊下に細かい瓦礫が幾つも転がっている。壁には穴が空き、獏の部屋だった壁の方は殆ど崩れていた。天井も無惨に落ち、何かが暴れた後のようだった。俯いていたので外から店を見上げなかったが、外からでも損壊が見られたことだろう。
「ベッドがない意味がわかった……」
通り道はあるが、崩れた天井と壁にベッドは埋まってしまっている。人の手では退かせることも難しい大きさの瓦礫だ。
「瓦礫は全部ここにあるのか?」
「いえ。歩けるように退かした瓦礫はこの店の裏に放ってます」
「裏にはあるんだな?」
「ありますが……」
「あるならいい。穴を閉じる」
瓦礫の無い床へ立ち、椒図は杖を召喚して黒葉菫を下がらせた。
「穴を閉じる……?」
穴と言うには大き過ぎる。最早穴という言葉で表現して良いものか迷うくらいだ。
「言い方を変えれば修復とも言える。閉じるために、元々それを構築していた物を使うんだ。だから瓦礫が揃ってないとそこは穴が空いたままだ。細かい砂塵や木屑までは拾えないが」
俄には想像できず黒葉菫はぽっかりと開いた黒い空を見上げることしかできなかった。
「元に戻すわけではないから亀裂は元通りにはできないが、僕の力で繋がるから落ちてくることはない。故意に破壊しようとすると壊れてしまうが……」
「充分です。砂塵や木屑の掃除は俺がします」
許可を貰った椒図は瓦礫の進路を塞がないよう確認して杖を振った。店の裏手からも瓦礫がふわりと持ち上がり、内側から順に天井と壁をパズルのように繋げていく。物の数秒で壁が出来上がり、天井も元に……とはいかなかったが、概ね元通りだ。悪夢の前に螭に破壊されていた天井の穴は細かい破片が多く、修復は難しかった。椒図の言った通り亀裂は目に見えたままだが、がっちりと破片同士が嵌っていることはわかった。天井を見上げながらでも眠れそうな安定感がある。
化生前の椒図は重傷を負ってこの街へ来た。その所為で眠っていることが多く、烙印で力が使えないと言うこともあり彼の力がどんなものなのか知る機会は少なかった。一口で閉じると言っても色々な閉じ方があるようだ。
「これは解除すればまた天井が落ちるんですか?」
「……いや、これは……解除できる力とできない力があるんだ。これはできない。だから急に解除して押し潰そうなんてできないから安心してくれ」
慌てて言葉を付け加えるが、最後の言葉は余計に心配になる。
「掃除も手伝う」
「でも、すぐ戻ると……」
「この部屋の大きさなら、すぐに終わるはず……。壊れてるのはこの部屋だけか? 終わったら街を見て戻る」
「向かいの部屋は二人が寝てるので、今は寝かせてやりたいです。俺は掃除が終わったら食事を取りに行きます」
大変そうだな、と互いに他人事のように思った。
ベッドの上の砂塵や木屑を払い、物置部屋から箒を持ち出す。二人掛かりなので思いの外早く掃除は終わった。廊下と階段の掃除は後にし、眠る獏を抱えて階段を上がる。黒猫は一旦獏から下ろしたが、起きることはなく初めて持ち上げることができた。黒い塊は想像よりも重く、温かかった。突然睡眠が必要になり黒猫も眠かったのだろう、丸まったまま枕元へ置いておく。
子猫の入った木箱もベッドの脇へ移動させ、二人は漸く店を出た。椒図は念のために再び杖を召喚し、夜の街を見渡す。
「もし街を閉じることが必要なら、蜃から貰った金平糖を使うことも考えておく……。でも蜃に何て言えば……」
金平糖とは化生前の椒図が作った、彼の力を籠めた物だ。化生前の彼に関する物は幾つか残っているが、力を籠めた金平糖は謂わば体の一部のような物だ。蜃にとってはとても意味のある大事な物だろう。おいそれと使ってしまうのは躊躇う。
椒図は溜息を吐きながらとぼとぼと歩き始め、黒葉菫も常夜燈を持って気に障らないよう静かに後に続いた。
ここまで自分に自信の無い獣も珍しい。獣の殆どは自分の力に自信を持ち、躊躇ったりはしない。躊躇うと舐められるからだ。変転人の前でも躊躇を見せる椒図は獣の中では稀な存在だ。
暗い石畳の上をこつこつとブーツを鳴らして進み、椒図は物珍しげに周囲を見渡す。
煉瓦の家々を見上げることに意識を向ける椒図は足元を見ておらず、黒葉菫は足元の異変に気付いたが声を掛けるより先に手が出た。暗いので直前までそれに気付かなかったのだ。
腕を掴まれると椒図は驚いて振り向くが、黒葉菫はそれに構う暇なく更に腕を引く。足元に黒い筋が見えたのだ。獏が以前言っていた。これは悪夢だと。
「すみません。足元に悪夢がいたので」
「悪夢……?」
椒図は視線を落とし、爪先を引く。
「この黒い線のことか?」
「はい。以前獏から聞きました。踏むと動けなくなります」
「動けなく……?」
念のために数歩下がっておく。悪夢の形状には様々な種類があるようだ。根が這っているような黒い筋は初めて見た。
「襲って来るのか?」
「襲って来るのはもう少し先の、街の端にいる奴です」
道の先へ目を遣ると何かが光っていた。真っ黒な闇の中に一つだけ浮かんだ光は異質に見える。
「あの光ってるのは何だ?」
「あれは……獏が打った物だと思います。悪夢を牽制して内側に入らせないようにと」
「……閉じなくても獏がいれば悪夢は暴れないんだな。僕が来なくても良かったな……」
「そんなことはないです。……いえ、獏が駄目と言うわけではなく……。疲労でいつ光が消えてもおかしくないですし、あれは牽制であって、簡単に越えられる物だそうです」
「……そうなのか。じゃあ……悪夢だけでも……」
杖を持ち上げようとした瞬間、椒図は異変に気付いて黒葉菫の腕を掴んで引いた。間髪容れずに抱え上げ、地面を蹴って近くの屋根へ跳ぶ。
唐突な行動に黒葉菫は困惑するが、屋根に手を突いて下を見下ろす椒図の後ろから覗き込んで理由を察した。
「黒い筋が少し迫ってる……?」
「僕達が近くに来たから、手を伸ばすように這ってきたのかもしれない。襲われる前に引き上げよう。悪夢は僕達にはどうにもできない」
「わかりました」
「斑はあると思うが、試しに街を閉じてみる。それで意味が無かったら……金平糖を使う」
使用する決心をし、椒図は踵を返す。蜃の意見は聞きたいが、後込みをしている時間があるのか椒図にはわからない。
黒葉菫は先に店へ戻ろうとした椒図を慌てて呼び止め、地面に下ろしてもらった。普通の人間に近い変転人では屋根の上を走ることは難しい。一人で下りることは可能だが、時間が掛かってしまう。
店の前まで戻ると椒図は杖を翳して街を閉じた。斑があるのかは黒葉菫にはわからず、椒図にもわからない。斑があるかどうかさえ自分では気付けないのだから自分はやはり未熟だと椒図は静かに肩を落とす。
「街を閉じた」
「ありがとうございます。これで安心して食事を取りに行けます」
「僕の所為で面倒なことになってすまない……」
「きっと誰も責めませんよ」
「…………」
一大事だとは思うが、誰も椒図の所為だとは言わないだろう。獏もそんな風に責めるとは思えない。推測ではあるが限りなく事実に近いと黒葉菫は思っている。だが椒図は俯いてしまった。
「……中で少し休みますか?」
気を利かせたつもりだったが、椒図は首を横に振った。
「病院に戻る。蜃が心配だから」
「わかりました。友達は心配ですよね」
「友達かは……よくわからないが、お前は良い奴だな。皆優しくて、だから不安になる」
椒図は一歩下がり、杖をくるりと回して消えた。
最後の言葉の意味は黒葉菫には理解できなかったが、化生して間も無ければ途惑うことは多いはずだ。その所為なのだろう。
黒葉菫も常夜燈を仕舞い、黒い傘をくるりと回した。
――由宇の住むマンションのベランダに再び降り立ち窓を叩くと、今度はすぐに鍵が開けられた。窓を開けると由宇はぼんやりとテレビの方を見ていた。
「……なあ、店長の知り合いが死んだって話したよな。その後の話はまだ聞いてないけど、似たようなニュースが流れてるんだ」
黒葉菫もテレビに目を向ける。女性アナウンサーが現場で深刻な表情をしながら事件を伝えていた。
「手口は似てるみたいだけど、場所は離れてるんだよな。通り魔っぽいけど、同一犯かわからないな……模倣犯かも」
「全身が切り刻まれてるのか?」
「そうそう。既に一部では切り裂き魔なんて呼ばれてるみたいだ。被害者に共通点は無さそうだし、無差別か……」
「人間でも可能な犯行なのか?」
「オレは見てないから……。つか見たら寝れなくなる」
切り刻まれた死体なんてどう考えても無惨だろう。見たら眠れなさそうだし、寝たら悪夢に魘されそうだ。
「もし夢に見たら獏に頼んでもいいか……」
「ああ。喜ぶと思う」
「喜ばれると複雑だけどな。まあいい、弁当できてるから来て」
ベランダから中へ入ろうとした黒葉菫の足に今度は忘れずにビニル袋を被せ、由宇は台所へ向かった。滑りそうになるが黒葉菫も後に続く。
「弁当箱はないからタッパーな」
大きなタッパーを五つ積む。透明なので中が見えた。
「一人一つじゃなくて纏めて詰めたんだ。一つはデザートで林檎を切った」
確認しつつ紙袋へ入れて手渡す。想像よりもずしりと重い。
「どうだ? 足りるか?」
「充分だ。獏は少食だから。俺やクラゲも普通の人間よりは少なくて問題ない。数日の断食にも耐えられるからな」
「そうなのか? でも食べられる時には食べた方がいいぞ」
おそらく人間ではない生物だった頃の名残だろう、絶食に耐えられるのは。コンクリートの隙間から生えていた黒葉菫は軟弱ではない。
「急だったのに御弁当ありがとう」
頭を下げる黒葉菫の持つ紙袋に、由宇は笑いながら市販の小袋を放り込む。
「作るのは楽しいし、気にすんなって。確かに急だったけど。それとインスタントの味噌汁も入れといてやるよ」
「気遣いまで」
紙袋を抱えてもう一度頭を下げ、ベランダへ戻る。獏は人間を嫌うが、良い人間もいるのだ。
テレビの前を通過する瞬間、テレビの中から悲鳴が上がり、反射的に目を遣った。
黒葉菫と由宇はそのまま画面に釘付けになってしまった。画面が大きくぶれ、赤い液体が付着する。地面に落ちたカメラは一瞬映像が乱れるが、走る足が映し出される。その足だけを地面に残したまま離れた体は倒れ、動かなくなった。バラバラに切断された四肢と体から夥しい血が溢れカメラに流れる。刻まれたそれらの隙間から最後にゆっくりと裸足が横切り、ぶちりと映像が途切れた。画面に『しばらくお待ちください』と表示され、二人は息を呑んだ。
「う……」
由宇は目を逸らし、口元を押さえながらトイレへ走った。
慣れているわけではないが黒葉菫は死体を見るのは初めてではない。紙袋を一旦机に置き、トイレの様子を窺う。
「大丈夫か……?」
食べた朝食を全て出してしまった由宇は項垂れながら肩で息をする。楽になるかはわからないが、黒葉菫はその背中を摩ってやった。
「……あれ……なのか……? 店長の知り合いが……」
もう一度嘔吐くが、もう胃の中には何も残っていないようだった。
黒葉菫は台所でコップを一つ借り、水を入れて戻る。差し出すと由宇は力無く受け取ったが、すぐには飲まなかった。
「あれだとするなら、おそらく獣だ」
「獣……」
「獏と……宵街にも報告しておく」
「宵街?」
「獣が棲む街だが……獣の全てがあんなことをするわけじゃない」
「そうだな……獏は怖い感じはないし……いやちょっと怖い時はあったけど……もう一人来てた赤い髪の女の子も獣って奴なのか? 特に怖い感じはなかった……」
「蜃も獣だ」
「そうか……美味しそうに食べてくれる子だった」
「由宇も暫く家から出るな。テレビのあの感じだと……宵街で裁いてもらえると思う」
まだ殺しそうだから、とは言わなかった。言えば由宇を怯えさせるだけだ。黒葉菫はここから一旦離れなければならず、無断で人間の彼を街に連れても行けない。
「……わかった。由芽にも家から出るなって言っておかないと……でももう店にいるか……じゃあ店から出ないように……?」
「話を通してくれるなら、後で寄ってここに転送してもいいが」
「いいのか? 助かる。話を通しとく」
由宇は漸く水を一口飲み、大きく息を吐いた。妹の心配をすることで自分は取り乱さないように抑え付けているようだった。
「獏が以前、サービスすると言ってたので」
「はは……言ってたな。確かに」
力無く笑うが、気はあまり紛れていないようだ。
黒葉菫がトイレを離れても由宇は頭を垂れたまま動かなかったが、ここに留まってもいられない。弁当の入った紙袋を持ちテレビに目を向けるが、画面の消し方はわからなかった。
「ベランダから帰るから、鍵をしておいてくれ」
「わかった……」
元気は無いが返事は来たので、黒葉菫はベランダの窓を開ける。近隣で悲鳴は上がっていないので、現時点では大丈夫だろう。足のビニル袋を脱ぎ、黒い傘をくるりと回した。
漸く蜃が戻って来た所なのに、次から次へと獣は忙しい。




