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透明街の人喰い獏  作者: 葉里ノイ


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98/124

98-知らない自分


 獏達は花魄(かはく)と浅葱斑と別れて花畑を後にし、帰りは再び贔屓の転送で病院へ戻った。

 誰にも車椅子姿の狴犴を見られず安堵して出入口を潜ったが、気を抜くのは早かった。受付の前に、先程はいなかった見知らぬ少年が立っていた。後ろで一つに纏められた黒髪に黒い服を着た少年は首や耳に装飾品を付けている。おそらく変転人だが、人間のように装飾品に興味を示す変転人は感情を有するほど年を重ねている場合が多い。

「…………」

 黒い少年は表情を変えずに病院に遣って来た一行の顔を確認するが、興味が無さそうに受付に座る姫女苑へ視線を戻した。車椅子の狴犴を見ても何の反応も無かった。

「……おっと。おかえり、皆」

 階段を下りてきた分身体の青年ラクタヴィージャはひょこりと顔を出しながら手を振った。

「新しい患者かな?」

 黒い少年は青年ラクタヴィージャに目を遣り、姫女苑に視線を戻す。

「初めて見る顔だな。私はここの医者だが、話相手を代わろうか?」

 黒い少年はもう一度ラクタヴィージャを見、姫女苑に目を向ける。姫女苑は無言でこくりと頷いた。本当に医者なのか少年は疑っているようだ。

 彼の確認の間に青年ラクタヴィージャは車椅子を押す贔屓の手に握られている青い花束に興味を示す。

「贔屓、それは?」

「ああ、花魄に薬水に使う花を分けてもらった。青い花は鎮静効果があるらしいな。蒲牢に使ってあげてほしい」

「それはわざわざありがとう。随分落ち込んでるみたいだからな。薬水を作って持って行くよ。皆は病室に戻ってて」

 贔屓の手から青い花束を受け取り、受付の脇から中へ入って行く。

 黒い少年はラクタヴィージャから贔屓へと視線を移していた。それに気付き、贔屓は小首を傾ぐ。

「贔屓……」

「ん?」

「お前が贔屓か」

「……そうだが」

 面識は無いはずだが、噂でも聞いたのだろう。黒には噂好きの者もいる。

 黒い少年は贔屓に向き直り、澄んだ青い目を胡散臭そうに細めた。

鴟吻(しふん)の使いで来た」

「! 君は?」

大人気(おとなげ)無い獣の兄弟共」

 軽蔑するように吐き捨てた瞬間、彼の頭上に指先ほどの小石が一つ降ってきた。床を軽快に叩いた小石を見下ろし、少年は溜息を吐く。

「……俺は黒種草(クロタネソウ)。ニゲラと言った方が伝わり易いか? 鴟吻を護衛してる」

「ああ……今は君がそうなのか。鴟吻を守ってくれてありがとう」

 ニゲラは、香辛料として使用されているニゲラサティバ(ブラッククミンシード)を除けば皆毒草だ。特に種に毒がある。

 鴟吻の千里眼は、使用中は身の周りが全く見えなくなる。そのため一人で力を使用することは危険だ。なので鴟吻は信用できる者を傍へ置いている。贔屓と狴犴が大喧嘩をして宵街を出ることになってから、鴟吻は一人になった。一人きりでは安心して力を使えないため、変転人を作ったのだ。獣に寿命は無いが変転人は普通の人間ほどしか生きられないため、護衛と言うこの変転人も何人目だろうか、知るのは鴟吻しかいない。

「ありがとう? どの(つら)下げて言ってるんだ? この」

 声を低く落として睨み付ける黒種草の頭上にバラバラと幾つも小石が降り、床に軽快に散乱した。おそらく鴟吻だろう。彼女は小さな物なら千里眼を通して転送することができる。彼を咎めているようだ。

「鴟吻。彼がここにいると言うことは、鴟吻は今一人だな? 千里眼を使わないように。僕は平気だ。言いたいことがあるなら言わせておけ」

 虚空に向かって贔屓が言葉を投げると、しんと小石の雨は止んだ。

「黒種草。君も、鴟吻の使いなら彼女を失望させるな。御使い一つできないのか?」

「…………」

 黒種草は足元に散乱する小石に目を落とし、蔑むように贔屓を睨んだ。鴟吻がどのように贔屓のことを話したか知らないが、随分と敵視しているようだ。

饕餮(とうてつ)の死体を確認に来た。手術室に籠もりきりでは鴟吻の目で見えない。いつ出て来るんだ?」

 鴟吻の千里眼は地上なら何処でも見ることが可能だが、地下や外部からの力の干渉を受け付けない場所までは覗くことができない。病院の手術室は邪魔が入らないよう外部からの力を遮断しているため、鴟吻でも見ることが叶わないのだ。

「いつ出て来るかは僕にもわからない。ラクタに訊くといい」

「ラクタ……?」

 受付の奥から、薬水を作りながら返事をする青年ラクタヴィージャの声が聞こえた。受付からはドアを隔てていないため聞こえているのだ。勿論、騒々しい小石の落ちる音も。

「手術は終わってるんだけど、手術室の奥に集中治療室があるんだ。暫くそこから出せない。いつと言われても答えられない」

「集中治療室……? 霊安室じゃないのか?」

「違うよ。私は只の分身体だから詳細は本体に聞いてほしいけど、本体は治療に当たっていて忙しい」

「分身体……?」

「君も治療が終わるまで病院で待つなら、静かに大人しくしているように」

 突然分身体やら本体だと言われても、黒種草はラクタヴィージャの能力を把握していない。説明を聞くのも面倒だ。死んだはずの饕餮はどうやらまだ何らかの処理が施されている最中のようだ、と言うことだけはわかった。いつ出て来るかわからないと言うなら、今はそれで充分だろう。

「待つ気は無い。帰る。鴟吻を一人にしておけない」

 それには贔屓も同意だった。鴟吻を一人にしないよう、彼を止めない。黒種草は要件だけ済ませると、黒い傘を手に早々に病院から出て行った。随分口が悪く性格に不安はあったが、鴟吻のことは心配しているようだ。

「鴟吻以外には興味が無さそうな人だったね」

 床に散らばる小石を見下ろしながら改めて獏が呟く。一人の獣の許に留まると変転人はこうして傾倒してしまうようだ。

 受付の奥から青年ラクタヴィージャは出来上がったばかりの薬水を入れた水差しをカウンターに置く。中に白と青の花弁が浮いている。

「ラクタ、今手は空いてる?」

「まあ空いてると言えば空いてるかな。小石は片付けたいけど」

 獏は外套を羽織った白花苧環の背を軽く押して前へ出す。ラクタヴィージャはすぐに察して微笑んだ。

「この前は死体だったのに、元気になったものだ」

「病院で検査した方がいいって花魄に言われたから。遺した種から育ったんだけど、開花までが早過ぎて心配なんだ」

「それは確かに心配だな。種から育てたとなると記録は少ないが、健康診断してみよう。少し時間が掛かるから、皆は薬水を持って蒲牢の所に戻って。狴犴もさっさとベッドに戻れ。あと窮奇が腹が減ったと喚くことがあったら、勝手に人間を狩りに行かないよう止めておいて。人肉も用意してあるから」

 分身体ではあるがてきぱきと告げ、青年ラクタヴィージャは白花苧環を手招いて治療室へ入った。白花苧環は一度振り向くが、獏が微笑んで手を振ると頭を下げてドアを潜った。罪人だと露顕しなければこのまま素直でいてくれそうだ。

 贔屓は車椅子を押すので獏が水差しを持ち、三人が病室へ戻ろうとすると、青年ラクタヴィージャは慌てたように治療室から顔を出して呼び止めた。

「ベッドに行く前に一つ、本体から連絡が入った」

 獏と贔屓は振り返り、狴犴の車椅子も少し角度を戻す。慌てようから緊急であると察する。

「狴犴の呑んだ出所不明の薬と同じ成分が蜃から検知された」

「!?」

「……私と同じ薬を呑んだのか?」

「それはわからない。薬なのか、直接能力を受けたのか。けど、これで蜃を攫った奴と狴犴に薬を呑ませた奴は無関係じゃないことはわかった。狴犴、気を付けろよ」

「…………」

 狴犴は無言で頷き、獏と贔屓も眉を寄せる。狴犴に薬を渡したのは白色鉄線蓮だ。蜃を攫ったのは檮杌(とうごつ)と見ているが、その二つが関係があるなら、狴犴を病院送りにしたのは蜃を攫うために動き易いように、だろう。入念過ぎる。

「蜃が少しでも目覚めてくれないと狴犴に投与した薬入りの点滴が使えない。もう少し体が回復してくれないと、薬に負ける可能性があるから。それだけ他者の能力を取り除くのは面倒ってことだ。慎重に様子を見るけど、暫く目を離せなさそうだ。本体は暫く集中治療室に缶詰だな」

「ラクタに頼るしかないとは言え、彼女の身も心配だな」

「医者の心配はいいよ贔屓。レオもいるし、休憩は取れるはず。――連絡は以上だ。行っていいよ、皆」

 ひらひらと手を振り、要件だけを伝えてすぐに顔を引っ込める。それ以上は分身体では何も言えない。分身体を作れる内は本体にもその余裕があると言うことなので、分身体が悠々としている内は本体に心配はいらないのだろうが。

「薬を呑ませたのが同じ変転人として、誰が薬を作ったんだろう……」

 ぽつりと呟く獏の疑問は贔屓と狴犴も考えていることだった。贔屓は狴犴の車椅子を押し、病室へ向かいながら思考する。

「主導しているのが薬を作った獣なのか、誰かが獣に薬を作らせているのか……。窮奇の話によると檮杌では無理そうだ。動けないと言っていたが渾沌が指示を出したと考えると自然だろうな……。檮杌は渾沌の言うことなら聞くそうだからな」

「蜃は戻ってきたけど、それで終わりじゃないのかな。検知された獣の力も、具体的にどんな力なのかわからないし。まだ何か起こりそう……」

「暫く病院にいた方が良さそうだな。蜃もだが、動けない狴犴に負傷している蒲牢……何かあった時に護る者がいないと」

「私のことはいい」

「勝手に護るだけだ。狴犴は気にするな」

「…………」

 さすが長子だ。素直に受け入れない狴犴の性格を把握している。

 病室に着いた三人は一旦会話を切り、ドアを開けた。

 蒲牢はベッドに横になり、ドアが開いたことにも気付かず反応がなかった。傍らにいた椒図がすぐに、眠っていると伝える。落ち込み疲れてしまったようだ。蜃のことはまた後で話すことにする。

 薬水は机に置き、狴犴もベッドへ戻す。狴犴は自分でベッドに戻ろうとしたが、贔屓が止めた。まるで大きな子供と母親のようだ。

 少々言い合いになったが、無事に横になることができた。獏は呆れながらもそれを見守っていた。

「蜃も戻って来たことだ、犯人の動向は気になるが、今は負傷者も多い。獏も一度神隠しの街へ戻りたいんじゃないか? 変転人達が気になるだろ? あそこで休めるかはわからないが、獏も少し休むといい」

「戻っていいの?」

 先程贔屓が護らなければと言った所だが、獏をそれに付き合わせる気はないらしい。

「狴犴がいると落ち着かないし、ここじゃなければ何処でも落ち着けそうだよ」

「ああ。何かあれば来てくれ。僕はぴんぴんしているからな。蜃が目覚めたら伝えに行くよ」

「うん。それじゃあ……じゃあ……誰か転送してくれる……?」

 病室を出ようとした獏は、自分では転送できないことを思い出した。

「ああそうだったな。僕が送ろう」

 狴犴が無言で獏を見るが、罪人が自分の牢へ戻るのだから文句はないだろう。首輪を付けていないことは今は見逃してくれるのか気付いていないのか。何も言われない内に去るのが吉だ。

「ねぇ贔屓……君が烙印を解除してから転送ができなくなったんだけど、何かした?」

「いや、僕は何も。烙印が均衡を保つために自己判断で調整したんじゃないか?」

「何それ……余計なことを……」

 狴犴はまだ衰弱しているため烙印の件は後で話そうと思っていた贔屓だったが、聞き耳を立てていた狴犴が呼び止めた。

「……やはり贔屓が解除したのか?」

 聞こえないよう小声で話したのだが、狴犴の耳は良いようだ。獏はいそいそと部屋を出ようとしたが、贔屓に抗えない力で腕を掴まれた。

「狴犴がもう少し回復したら話そうと思っていたんだ。今はまだ休んでいた方がいいんじゃないか?」

「確かにまだ思考は覚束無いが、確認しておきたいことがある」

「何だ?」

「獏の烙印をどの程度解除した?」

「……半分ほど」

 また大喧嘩に発展する可能性はあった。余計なことをしたと狴犴は思っているだろう。只の罪人なら贔屓も烙印を解除することはなかった。妙な扱いを受けている獏だから、望みを半分叶えてやったのだ。

 狴犴は枕元のコップに薬水を注ぎ、半分ほど一気に飲んだ。

「それ以上は解除するな」

「狴犴が捺した烙印だからな。残りの半分は君が解除するといいと思っている。僕はもう手を出さないよ。随分と執心みたいだからな」

「…………」

 獏にのみ自由を与えた理由を、贔屓は執心と言う。狴犴はコップを見下ろし、首を振った。

「お前は少し勘違いをしている」

 狴犴が会話をする気があるのなら、贔屓もそれに乗る。聞きたいと思っていたことだ。獏は早く牢に戻りたかったが、贔屓は腕を離さなかった。

「獏から話は聞いたが、狴犴からも聞きたい。何故獏を特別扱いしているんだ?」

 狴犴は贔屓を一瞥し、表情を変えずに答える。それは獏に話していないことだったが、隠しているわけではなかった。

「獏を地下牢から離れた牢に、そして償いをさせているのには二つ理由がある」

 一度言葉を切り、口を閉じる。薬水を飲み、もう一度頭の中で考える。今宵街を統治しているのは狴犴であり、元統治者の贔屓は関係ない。彼にはあまり話すべきではないだろう。

 だが獏を特別扱いしていることは事実だ。贔屓は既にそれを知っている。獏も既に宵街を自由に彷徨いている。目撃した変転人や獣もいるだろう。理由を述べておいた方が、贔屓と後で揉めることはないかもしれない。

「……一つは観察のためだ」

「観察……?」

 贔屓と獏は怪訝な顔をする。ペットでも飼っている感覚だったのだろうかと獏は小さく舌打ちを加えた。

「饕餮から話を聞き、獏のことは罪を犯す以前から知っていた。あまり信じてはいなかったが、科刑所で獏を前にして驚いた。獏の力は異常に強い。それに興味を示したことは否定しない」

「…………」

「もう一つの理由は、獏の犯した罪が、人間から受けた侮辱による心身の苦痛が原因だからだ」

 静かに語られる言葉に獏は表情を強張らせた。狴犴は見世物小屋のことを知っている。獏が口を開かずとも既に情報は得ていたらしい。狴犴は見世物小屋とは言わなかったが、もし口にしていれば獏は無意識に飛び掛かっていただろう。そんな屈辱的な過去を皆の前で言い触らしてほしくない。

「他の罪人の罪は主に一方的な人間への加虐であり、獏の事例は稀有だ。先に手を出したのは人間……それは情状酌量の余地があると判断した。だが罪人であることには変わりなく、著しい例外を作るわけにはいかない。そこで出した苦肉の策だ。獏の罪を軽微なものとし、睚眦(がいさい)や他の獣の目に留まらない場所を牢とした。黙っていれば露顕することもない。私は独りだからな」

 狴犴の許には鵺や白花苧環がいたが、彼は自分を『独り』と言う。

「…………」

 獏は烙印を捺される時、頑なに口を噤んだ。見世物小屋のことなど話したくはなかったからだ。狴犴が事前に情報を得ておらずそれを知らないままなら、他の罪人と同じように獏も地下牢に放り込まれていたようだ。

「獏の強さもその過去によるもののようだ。そして力の異常な増加に対し私の知識は少ない。だが統治者として知識は必要だ。まだ増加するのか実験的に人間の中に獏の噂を作り、償いをさせることにした。そのため烙印の制限は緩くせざるを得なかった。人間に噂を広めた結果、獏の力は更に膨れている。今は烙印で力を抑えているが、これ以上解除すると体を喰い破るかもしれない」

 観察や実験など、やはり狴犴は獏を玩具のように見ている。多少の同情はしているようだが、獏にはそうとしか思えなかった。ただ見世物小屋のことを口にしなかったことだけは安堵した。

「好き放題やってくれてるね……勝手に噂で名を広めておいて、うっかり力が増し過ぎたから心配って? 巫山戯ないでよ」

「……」

「言いたいことは山ほどあるけど、今だと薬の所為で真意なのかよくわからない」

「そうだな……。今は灰色海月の監視不行届きも咎めないでおこう。洋種山牛蒡も役に立たなかったな。まだ獏の牢にいるなら引き上げさせておいてくれ」

 コップを置き、狴犴は静かに横になった。獏に首輪が無いことには勿論気付いている。

 首輪を嵌めなかった灰色海月が咎められなかったことに獏は安心したが、気分が晴れるはずはなかった。

 贔屓に掴まれた腕を引き、獏は彼に廊下へ出るよう促す。これ以上は話していても不快なだけだ。

「……やはり獏も白花苧環のようにラクタに診てもらった方がいいかもしれないな」

「…………」

 じっとりと不信感を混ぜた目で贔屓を見詰めた後、獏は大きく息を吐いた。

「贔屓には相談してみようと思ってたことがあったけど、やーめた。早く転送してよ。僕も疲れた」

「困ったことがあれば、いつでも相談に乗るよ」

 贔屓は苦笑しながら杖を召喚し、すっかり不貞腐れてしまった獏を神隠しの街へ送った。

 転送後は少しの休息を要するため、贔屓は少し周囲を散策してから宵街へ戻った。神隠しの街は変わらず夜の姿でしんと静まっている。

 慣れ親しんだ古物店へと戻った獏は足早に奥へ行き、倒れるように古びた革張りの椅子に座った。そのまま机に突っ伏す獏を、台所で子猫にミルクを遣っていた黒葉菫はきょとんと見ていた。どうやら獏は彼の存在に気付いていないようだ。黒葉菫には白花苧環に施された刻印がある。なのに獏は黒葉菫の存在に気付かない。余程疲れているようだ。

 子猫が小さく鳴くと漸く獏は顔を上げ、台所の中に気付いた。

「……お疲れ様です」

「スミレさんか……、伝言の件は鵺から聞いたよ。ありがとう」

「力になれて良かったです。何か進展はありましたか?」

「うん……蜃は見つかったよ。犯人はまだだけど。蜃と饕餮が重傷で、窮奇も負傷した。あまり良い結果じゃないね」

「そうですか……。こちらは、疲れたのかクラゲとヨウ姉さんは寝てしまいました」

「ふふ。平和そうで何よりだよ。……そうそう、狴犴は目を覚ましたんだけど、まだ衰弱して腑抜けになってるよ。僕が首輪をしてないこともお咎め無しだった」

「ヨウ姉さんについては何か言ってましたか?」

「引き上げてくれ、だってさ。元々僕の監視をするって来たもんね、ヨウさん。想定外のことが多くて疲れた」

「二人をベッドから退かせますか?」

「いいよ、そのままで。ここで少し……寝る」

 言うや否や獏は突っ伏し、すぐに寝息を立て始めた。

 黒葉菫は子猫を木箱へ戻し、店内にあったクッションを獏の頭へ敷いた。何処からともなく現れた黒猫が獏の背に乗り黒葉菫は慌てたが、獏は体を起こすことなく、黒猫もその場で丸くなって目を閉じてしまった。

 皆寝てしまって遣ることもなく、黒葉菫は台所を振り返る。灰色海月が寝ているので、投函された願い事の手紙を代わりに拾ってきた方が良いだろうかと黒葉菫は考えていたが、叶える獏まで疲れ果てていては無駄になってしまう。

 黒葉菫は一度ドアを開けて外の様子を窺う。街はしんと静まり返り、これが嵐の前の静けさではないことを祈る。

(ウニは喫茶店の掃除をしてから戻ると言ってたが……慣れないだろうし時間が掛かるだろうな。俺はクラゲみたいに菓子は作れないし、キャベツ炒飯でも作っておくか……)

 台所へ戻って棚を漁り、灰色海月が以前買っておいてくれていたキャベツを奥に見つけた。

「……ん? 萎びてる?」

 この街は時間が停止しているはずだ。食べ物にも消費期限は存在しない。何日経とうが鮮度は落ちないはずだ。なのにキャベツは力無く萎びていた。

 念のために他の食材も確認する。冷蔵庫の中は無事のようだが、外の棚に置いている物は腐った物が散見された。生ものは悉く駄目になっている。

「……? 時間が動いてる……?」

 この街の時間は何故停止しているのか。蜃の力で街を創り出し、椒図の力で閉じた街だ。悪夢以外にこの街に異変はない。端は綻んでいるが突然崩壊することはなく維持されている。つまり蜃ではなく、時間停止に関係があるのは椒図ということになる。

(まさか……椒図が化生したから、この街に掛けられた力が消えた? ……そうか……それで悪夢が街の外に出られるように……)

 蜃も化生してはいるが、記憶は継いでいる。能力を使い街を創った記憶も継いでいるため街は崩れず、綻びつつも維持されているのだろう。だが椒図は化生して記憶を失った。椒図の化生前は時間が停止していたのだから、この違いしか考えられない。気付いたことを伝えようと獏の方を見るが、ぐっすりと眠っている。無理に起こすことは憚られた。

 時間が流れているのなら、食事や睡眠は必須になる。皆も寝るはずだと納得した。意識すると黒葉菫も急に眠いような気がしてきた。眠さを振り払うために頭を振り、冷蔵庫に顔を突っ込む。

(食事を作るには買物に行かないと……でも俺は人間の金は……。鵺は何かあったら宵街の病院に避難と言ってたが、避難ではないな……。由宇(ゆう)に食事の相談……いや皆を置いて行っていいのか? すぐ戻れば大丈夫か……?)

 冷蔵庫を閉じ、今度は木箱の中の子猫を覗き込む。子猫はもうすっかり元気だ。少し大きくなった気もする。少し考え、留守は猫に任せることにした。

「少し出掛ける。留守番を頼む」

 子猫は彼を見上げ、一つ小さく鳴いた。言葉を理解しているかは定かではないが、これは緊急事態だ。黒葉菫は直ぐ様掌から黒い傘を抜き、忙しなく街を出た。黒葉菫は頭は悪くないのだが、時々何処か抜け落ちる。

 最初に向かうのは由宇の住むマンションだ。ベランダに降り立ち、獏がいないため鍵が開けられないことに気付いた。窓に手を掛けてみるが、やはり鍵が掛かっている。カーテンの隙間は僅かで、中の気配もわからない。仕方なくノックをすると、中で何かが落ちる音がした。

 暫し待つとカーテンの端がそろそろと捲れ、警戒しながら窺う目と合った。それからはすぐに窓が開き、顔を出した由宇が安堵の表情を浮かべた。

「何だ菫か……びっくりした。獏は一緒じゃないのか?」

「獏はいない……。突然で悪いが、食事の材料……」

 黒葉菫は緩やかに口を閉じ、言い直した。

「……食事を作ってもらうことはできるか?」

「食事? 朝御飯を強請(ねだ)りに来たのか? 今日は仕事が休みになったから、丁度遅めの朝御飯を作ってたんだ」

「俺ではなくて……じゃなくて、俺だけじゃなくて、獏と……合計五人分。持って帰りたい」

 黒色海栗が戻って来たら彼女も腹を空かせているかもしれない。量は少ないより多い方が良いだろう。

「五人分!? そりゃ唐突だな……買物に行かないと。弁当を作ってやるよ。何か弁当屋になった気分だな」

 突然の申し出にも由宇は笑いながら快諾し、台所へ戻って行く。火を消したフライパンの上で目玉焼きが美味しそうに焼けていた。落ちていたフライ返しを拾い洗ってから、ウインナーの載った皿に目玉焼きを滑らせて振り返る。

「食う?」

「俺は後で……」

「急ぎ?」

「早く戻らないといけないが、もう一つ用事がある。後で弁当を受け取りに来てもいいか?」

「おう。……来る時はまたベランダだよな?」

 黒葉菫は頷き、由宇は苦笑いした。普通の人間はベランダから出入りなどしない。来る度に心臓が跳ね上がってしまう。

 和やかな空気が流れたが由宇は不意に笑みを下げ、ふとぽつりと呟くように口を開いた。

「……オレの働いてる店の店長の知り合いが死んだらしくて、店長も警察の相手してるんだ」

 仕事が休みになった理由を突然語り出し、立ったまま由宇は箸でウインナーを掴んだ。人が死んだ話などなかなかできる場は無く、だが不安になる気持ちを吐き出すために誰かに話したかった。

「何かな……事件っぽい。殺されたのかも、って話だ。物騒だろ? だからお前がベランダから来た時、滅茶苦茶焦った」

 ぱきりと小気味良い音を立ててウインナーを咀嚼する。

 人間の街も物騒なようだ。黒葉菫は今は宵街のことで頭が一杯だが、頭の片隅に入れておくことにした。

「全身切り刻まれたみたいで、かなり無惨だったらしい。……人間じゃない奴の仕業じゃないよな?」

「それは何とも。もし獣絡みなら人混みには現れないと思うので、人気(ひとけ)の無い所は避けるといい。大量に殺すと獣も罰せられるから」

「気を付ける場所は獣も人間も同じなんだな……」

「俺は急ぐから、後は任せる」

 黒葉菫は頭を下げて踵を返す。その足元にふと視線を遣った由宇は、彼が土足だということに気付いた。

「ああ! 久し振りに来るから忘れてた! 相変わらず靴脱がないな!?」

 すたすたと黒葉菫は気にせず立ち止まらずベランダに出て、さっさと黒い傘をくるりと回した。足止めを喰らっている場合ではない。

「……まあ、少しは気が紛れて良かったな……」

 店長から連絡を受けてから、由宇は事件のことが頭にこびり付いて離れなかった。犯人は捕まっていないし、正直な所、外出は怖い。だが黒葉菫と話したことで少し気持ちが落ち着いた。

 由宇は箸に残っているウインナーを口に放り込み、弁当作りに集中することにした。何かに集中している内は恐怖も和らぐ。


 くるりと傘を回して黒葉菫が次に降り立ったのは宵街だった。急ぐので下層から数段飛ばしで石段を駆け上がる。宵街に来るのは随分久し振りだ。以前と変わらないように見えるが、人影は少ない。変転人の多くはまだ警戒しているようだ。一度染み付いた負の印象は払拭するのが難しい。

 中腹にある病院へ着く頃には息が乱れてしまったが、呼吸を整えてから蔦の這う入口へ足を踏み入れる。

 受付に座る女性へ声を掛けようとした黒葉菫は、治療室から出て来た人物に何気なく目を遣り、心臓が止まりそうなほど驚いた。

「!?」

 驚き過ぎて壁際に這う蔦に足を引っ掛ける所だった。

 その人物は俯き加減だったが、白い髪とよく見慣れた花貌ですぐに名前が脳裏に浮かんだ。

「マキ……?」

 随分と髪が長いが、間違えようがない。隠れていた右目も見えているが、この白い少年は白花苧環のように見える。

 外套を羽織った白花苧環は顔を上げ、訝しげに黒葉菫を見た。その外套は黒葉菫にも見覚えがある。人の姿を与えられた変転人が最初に羽織らされる物だ。

 黒葉菫が最後に見た彼は動いてはいたが生気が無く、目が虚ろな死体だった。だが今目の前にいる彼の顔は血の通った色をしていて、目にも生気が宿り焦点も合っている。手指も左右共に五本ずつ揃っていた。

「……誰ですか?」

 種からもう一度生まれさせるために奮闘していたが、この彼はその結果なのだろうか。

「白花苧環……か?」

「そうですが、貴方は?」

 別の苧環とは思えない。顔が瓜二つだ。遺した種を育てると全く同じ顔が生まれるのかと黒葉菫は考えるが、実際はそうではない。彼はまだ真相を知らない。

「黒葉菫……」

 顔を覚えていないのなら、記憶は無いのだろう。もしくは赤の他人だ。そう思ったが、名乗った瞬間に白花苧環ははっとした顔をし、目を逸らした。

「……すみません」

「え? 何で謝ったんだ……?」

 知らずに何かされたのだろうかと黒葉菫は自分の体を見下ろすが、特に変化はない。

「刻印……」

 ぽつりと呟いた言葉で、今度は黒葉菫がはっとした。

「記憶があるのか……?」

「いえ……獏が言うには、印象の強い感覚が少し残ってるだけだそうです。ですが、これは謝った方が良いと……」

 目の前の白い彼は赤の他人ではなく、しかも少し記憶が残っていると言う。

「刻印の御陰で覚えてるなら、勝手に刻印を刻まれたことにも価値があったってことだ。俺は気にしない」

 首を振る黒葉菫の口元には微かに笑みが見えた。謝罪すべきことを笑われ、白花苧環は怪訝に首を傾げた。

「よくわかりませんが……」

 困惑する白花苧環の後ろから、青年の姿をしたラクタヴィージャもカルテを手に治療室から出て来る。ラクタヴィージャも黒葉菫に気付き、軽く手を上げた。

「もしかして怪我?」

「いえ、鵺に用があって来ました。ここにいますか?」

「いるよ。案内しよう」

 黒葉菫を手招きながら、白花苧環を振り返る。

「彼を案内したら、狻猊(さんげい)に服を作ってもらいに行こう、苧環」

「わかりました」

「髪が邪魔そうだけど、括るか切るか?」

「そういうのはよく……。以前と同じ髪型にした方がいいんでしょうか?」

「いや、それは気にしなくていい。皆、君の姿を懐かしんでるだけだよ。理解が追い着いてなかったりな。双子だとでも思っていればいいよ」

「双子……ですか」

 二人の会話を聞きながら黒葉菫は、この白花苧環は赤の他人ではないが以前とは別人なのだと漠然と認めた。僅かに記憶はあるが、白花苧環は困惑している。寂しさはあるが、やはり死者が戻ることはないのだ。化生した椒図ともう一度友達になると言っていた蜃はこんな気持ちだったのだろうかと他人事のように思った。

 青年ラクタヴィージャは受付の姫女苑へ、赤い液体の入った試験管とカルテを預ける。

「苧環は座って待ってて」

「はい」

 待合室の椅子に座る白花苧環が腕を押さえていることに気付き、あの赤い液体は採血された物らしいと黒葉菫は推察した。生まれた変転人は必ず検査をするわけではない。黒葉菫が初めて宵街へ来た時は採血などしなかった。白花苧環の体には何か問題があるようだ。

 二階へ上がって病室を示すと、青年ラクタヴィージャはすぐに引き返した。鵺がよく黒葉菫を使っていることはラクタヴィージャも知っている。彼を放っておいても大丈夫だと判断した。

 ドアを開けると布団を被った鵺がベッドにいたので、喫茶店では元気そうだったのに悪化したのかと黒葉菫は心配になった。

「……大丈夫ですか?」

「え? ……あ、スミレちゃん?」

 鵺はすぐに布団を引き剥がして起き上がった。元気そうに見える。

「病院に来たらラクタが部屋を用意してくれてね……あいつ心配性なのよ。医者だから。まあ休暇だと思うようにしてるわ」

 どうやら悪化したわけではないようだ。黒葉菫は安堵し、ゆっくりしている場合ではないと報告を始めた。

「御無事で良かったです。街に異変があったので報告に来ました」

「街? 獏の所よね。悪夢絡みかしら?」

「街はあの椒図の力で閉じられてると聞きました。今までは食べ物が腐ることもなかったんですが、先刻確認したら腐ってる物がありました。椒図が化生したことで力が消失、もしくは弱まってる可能性はありますか?」

「化生……してから結構経ってるわよね」

 椒図の化生後に鵺はあの街に行っていない。そんな異変が起こっているとは知らなかった。

「クラゲちゃんは? 一応監視役だから、こういう報告はクラゲちゃんに遣ってもらいたいけど」

「時間が進む所為か皆疲れてしまって……」

「ああ……わかったわ。休んでるなら仕方ないわね。食事はどうしてる?」

「先程手配しました」

「そう……。それまであまり食べてなかったのかしら。とすると力は急に消えたんじゃなく、徐々に弱まっていったみたいね。必要なら椒図にもう一度閉じさせることもできるけど、頼むならスミレちゃんが行ってちょうだい」

「わかりました」

 元気そうに見えるがまだ体に障るのだろう。安静を望むなら一人でくらい行ける。

「上の階にいると思うけど、狴犴のいる病室だから私は気不味いの」

「…………」

 それは黒葉菫でも気不味い。承諾したことを後悔してしまった。

「それじゃ、よろしくね。また何かあったら報告してちょうだい」

 鵺から病室の場所を聞くが、足が重い。狴犴は目を覚ましたと獏が言っていた。病室へ行けば、意識のある狴犴と対面することになる。幾ら腑抜けになっているとは言え気が重い。

 だがこの件は椒図にも話しておいた方が良い。彼の能力に関することなのだから。聞いた通り病院の最上階である四階へ上がり、廊下の奥まで進む。最奥の片側のドアが開いていたので覗いてみるが、誰もいなかった。となると向かいのドアだろう、軽くノックをする。

 誰が返事をするのだろうかと緊張しながら一歩下がって待つと、徐ろにドアが開いた。鉛色の髪に赤褐色の双眸の見覚えのある少年が怪訝そうに顔を出す。あの神隠しの透明な街に来ていた贔屓だ。

「君は確か……黒葉菫だったか」

 名乗った覚えはないが、獏が話したのだろう。話してくれているなら説明の時間が省ける。

「はい。失礼します。獏の牢の街について話したいことがあるんですが、椒図はいますか?」

「椒図か? いるよ。入って」

 場所を空け、贔屓は椅子に座る椒図を示した。椒図は怪訝そうに顔を上げる。眼前のベッドには蒲牢が眠っていた。

 では狴犴は――と部屋を見渡すと、奥のベッドで横になっていた。目覚めたと聞いたが、今は目を閉じている。狴犴に何を言われるだろうかと不安だったが、黒葉菫は胸を撫で下ろした。

「椒図、客だ。神隠しの街についてだそうだ」

「僕に……?」

 化生して記憶を失った椒図は自信が無さそうに頷く。化生前はもっと堂々としていたが、化生とはやはり別人になることなのだと黒葉菫はぼんやりと思い、先程の白花苧環の顔が脳裏を過ぎった。

「街を閉じた力に異変があるのか、中の時間が進んでるようです。食べ物が腐ってるのはその影響ですか?」

 椒図は困ったように目を伏せ、口を閉じたまま白い床を見詰めた。化生前の力について訊いているようなものなので答えるのは難しい。

「……蜃から少し、街の話を聞いた。おそらくお前の言う通り、化生して力が維持できなくなったんだと思う。同じ名前の獣だが、力の性質は異なるから……」

 何とかそれだけ答え、椒図は顔を上げて黒葉菫の背後に目を遣る。あの街に行ったことのある贔屓に意見を聞きたいようだ。贔屓も視線をすぐに察し、椒図の近くの壁へ移動する。

「黒葉菫。君は椒図が化生してからずっとあの街にいたのか?」

「ずっとではないです。外に出ることもありました」

「体感としてはどうだ? 停止していた時間が進んでいる感覚はあるか?」

「……いえ。自分ではよくわかりません。鈍いのかもしれません。置いてたキャベツが萎びてて、それで異変に気付いたくらいです」

「そうか。きっと椒図の力は緩やかに薄れていったんだろう。食べ物以外に変化はあるか?」

「街にいた変転人が疲れたのか寝てしまいました。先程戻って来た獏も眠ってしまいました。それと……これは単なる俺の憶測ですが、椒図の力が薄れたことで、外に……宵街に悪夢が飛び出したんじゃないかと」

「ふむ」

 贔屓は口元に笑みを浮かべ、観察するように黒葉菫に目を遣った。何も言っていないのに変転人の黒葉菫は自ら不確かな推測を述べた。そのことを面白く、そして懐かしく思った。科刑所が研究所だった頃は変転人もよく意見を述べていたものだ。今は獣に従順過ぎる嫌いがある。大人しいと言うのか逆らわないと言うのか。だが黒種草や彼を見ていると、宵街から離れて自由な獣の許にいると変転人も思考を始めるようだ。

「その推測が正しければ、街が開いたままだとまた悪夢が漏れ出す危険があるな」

「あの、飽くまで憶測なので……」

「憶測でも構わない。一理あると思ったから、僕は危険があると言ったんだ。――どうだ? 椒図。閉じた方がいいかい?」

 椒図は変わらず困惑しながら、手に杖を召喚した。今から力を使おうと言うわけではなく、杖の感触を確かめる。

「……今の僕は未熟だ。大きな街を閉じても力に(むら)ができる。僕の知らない以前のように固く閉じることはできない……」

「悪夢に斑を感知する能力は無さそうだが」

「それに……蜃にも相談しないと……」

 街に詳しいのは蜃の方だ。下手なことをして街に異常があれば、最悪の場合、蜃に悪影響が出てしまう。蜃は今、必死に生きるために足掻いているのだ。その負担になるようなことはしたくない。

「蜃か……確かに一番詳しいのは蜃だからな。だが目覚めるのを待つ時間はあるか? 黒葉菫。眠っている獏を無理に起こして悪夢の確認をさせるのは酷だが」

「わかりませんが……食事の手配だけはしておきました。時間が進むと食事の心配があるので」

「すまない、難しい質問だったな。椒図も様子を見に行ってはどうだ? 現地に行くことでわかることもある。それに、今まで街を閉じていたんだ、もう一度閉じて蜃の体に何か起こるとは考え難い。もし何かあった場合は解除することもできるだろう?」

「それはできるが……」

 何気無い会話に、黒葉菫ははっとした。

「解除できるんですか……?」

 驚く彼に、何を言ってるんだと椒図と贔屓は怪訝な顔をする。自分の力なのだから解除することも当然可能だ。

「化生前の椒図は、閉じることはできても開くことはできなかったそうです」

「……そうなのか?」

 椒図はきょとんとし、自分の杖を見下ろす。開く行為は確かにできないが、解除すればそれは開くことになる。化生前の椒図は力を解除できなかったらしい。妙な欠陥に自分自身が一番驚いた。

「もしかしてそれが本来の姿で、今は未熟だから解除ができる……?」

「椒図、それは卑下だよ。椒図はもう少し自信を持つといい。未熟だからと言って何もできないわけではないよ」

 贔屓は椒図の頭にぽんと手を置き、優しく一度撫でる。

「じゃあ……少し街を見てみる」

 贔屓は微笑んで頷く。弟の成長を見るのは嬉しいことだ。

「でも蜃が心配だから、すぐ戻る」

「椒図の遣りたいように遣るといい。問題があれば、僕が手を貸そう」

 こくりと頷いて椒図が杖を回そうとすると、黒葉菫は慌てて黒い傘を取り出した。すぐに戻ると言うなら、黒葉菫の傘を使う方が良いだろう。

 廊下に出てから黒葉菫は黒い傘を開き、くるりと回した。急いでいるので、病院の外へ出る時間が惜しかった。


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