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透明街の人喰い獏  作者: 葉里ノイ


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97-大切なもの


 随分と長く眠っていた。

 目覚めたばかりの頭はまだぼんやりと虚ろで、其処彼処に靄が掛かっているようだった。思考しようとすると途端に疲労感が襲って来る。何も考えるなと言われているようだった。考えなければいけないことは山程あるのに。

 手も頭も休めてはならない。休んではいけない。止まってはいけない。その強迫のような思いが頭を支配していた。

 無理に起こした体は怠く、指先にあまり力が入らなかったが、渡されたコップは握ることができた。白い花弁と黄色い花弁の浮いた水――薬水だと椒図が言った。

 蒲牢は不機嫌そうな顔をして目を合わせようとしない。怒っている……らしい。何百年ぶりに再会してから、蒲牢には怒られてばかりだ。何故……と考えようとして、気怠くて狴犴(へいかん)は思考を止めた。

 ぼんやりとしていると、拒絶の言葉を吐きながら騒々しくドアが開いた。これには蒲牢も起き上がる。

 病室に入って来た面々を見て狴犴は微かに目を見開いた。何百年も顔を合わせていないのに、すぐにわかった。……いや、獣の外見はそう変わるものではない。あの時と同じ姿なのだ。

「贔屓……」

 贔屓はやや気不味そうな顔をした後、それを隠すように一度微笑み、慌てて訂正するように真剣な顔を繕った。どんな顔をすれば良いのかわからないらしい。長子なのだから堂々とすれば良いだけなのに。

「……狴犴。色々と言いたいことはあるだろうが、まず火急の確認をしたい」

「確認? ……唐突だな」

 騒いでいた獏と窮奇は大人しく壁に貼り付き、間を擦り抜けて青年の姿のラクタヴィージャは狴犴の具合を窺う。

 挨拶を素っ飛ばして確認とは、余程火急なのだろう。大喧嘩の件は一先ず置いておき、狴犴は小さく頷く。さすがに何百年も時が経てば頭も冷える。

「二つ聞きたい。檮杌(とうごつ)のことと、君が呑んだ薬のことだ」

 狴犴は目を逸らさずに、口元にフと一瞬笑みを浮かべた。

「……それを調べているのか。罪人と一緒に?」

「それはまた後で話す。まずは檮杌と薬について聞きたい。薬の成分は調べてある。どんな薬か知った上で呑んだのか? 一体誰から」

「そう慌てるな。饕餮(とうてつ)が死んだこと以上に慌てることがあるか?」

「!」

 兄弟である狴犴も例外無く饕餮の死を感知している。贔屓と蒲牢と椒図はびくりと表情を強張らせた。

 それとは逆に窮奇は壁を蹴り、一瞬で距離を詰める。狴犴の胸座を掴み上げ、額が触れそうなほど近く睨み付けた。

「もう一度言ってみろ……今度は殺す」

「…………」

「饕餮は生きてる! 勝手に殺すんじゃねぇ!」

 兄弟以外には彼女の死は感知されない。それを理解し、狴犴は口を閉じた。

「……クソが」

 乱暴に手を離し、窮奇は壁に戻った。収まりきらず壁を蹴る。背中の傷に障ったが、声が漏れるのは耐えた。

「……薬は、疲労改善薬と言われたな」

 静かに語り始めた彼に、贔屓達は耳を傾ける。あまり大声を出す体力は回復していないため、小さな声を拾うために静聴する。

「病院で処方してもらったと聞いた。確認すべきだったのだろうが、手を回す余裕も無かった。数日呑み進めた所で異変には気付いたが、確かに疲労は軽減されていると感じ、呑み続けることにした」

「……数日呑んだことで思考が覚束無くなったようだな。いつからだ? 呑み始めたのは」

「苧環が宵街を離れた少し前……だったか」

「……通達を出した時の?」

 獏も恐る恐る会話へ口を挟む。狴犴は獏を一瞥し、だが咎めることはせず質問に頷いた。白花苧環の頭と脚を潰した時には既に思考が曖昧になっていたようだ。

「お前達に面識はないかもしれないが、薬を持って来たのは白色(しろいろ)鉄線蓮(テッセンレン)と言う。いつ頃からか、科刑所の掃除など雑用を自主的にしていた」

 初対面で突然薬を差し出しても受け取らないだろうと、予め潜り込んでいたようだ。科刑所で動き回っていたのなら、白花苧環なら白色鉄線蓮の姿を見たことがあったかもしれない。

 狴犴の体を診ていた青年ラクタヴィージャは顔を上げ、点滴の状態を確認する。

「病院への信頼が仇となったって感じだな。今度から処方箋にサインでも入れるべきか」

「すまない。世話を掛けた」

「病院は世話をする所だから、畏まらないでよ。言ってくれれば科刑所に出張もするし」

「…………」

「だから、今後これだけは肝に銘じておいて」

 青年ラクタヴィージャは狴犴の胸座を掴み、険しい顔を突き付けた。目覚めて早々二度も胸座を掴まれてしまった。

「いいか? 人伝に薬を受け取るな。症状が似てても人によってどう処方するか違うし、多くの毒が効き難い獣は当然薬の効果も薄い。その個体差も含めて判断するのは医者だ。獣にだって副作用が出る物もある。軽率に処方できない薬もあるんだから。君は医者か? 私は医者だけど」

「……つまり軽率に処方できない薬を私は呑んだのか」

「狴犴が呑んだような薬は無いよ。疲労を軽減させたいなら寝ろって言うから」

「…………」

 しっかりと睨んで言い聞かせ、ラクタヴィージャは手を離した。反省してくれれば良いのだが。

「君の呑んだ薬の成分はもう大分抜けたから、しっかり安静にしていればこのまま順調に回復するよ。折角だし回復しても一年くらい休んでバカンスにでも行ってくれば?」

 安心させるように笑うが、狴犴はくすりとも笑わずに首を振った。

「私はどのくらい眠っていた?」

「一時的に目覚める前から数えると、一ヶ月弱くらい」

「では早急に科刑所に」

「贔屓、許す」

 ベッドから降りようとする狴犴の肩を押さえ、ラクタヴィージャは手を上げた。何を言いたいのか贔屓は察したが、少し躊躇った。だが医者が良いと言うなら問題はないのだろう。贔屓は杖を召喚し、立ち上がれない程度の控え目な加重を掛けた。狴犴はベッドから尻を上げられなくなり、コップを持っていない手を突いた。

「言うことを聞かない患者は縛り付けるよ」

「…………」

 薬水を零しそうなのでコップだけは受け取り、机に置いておく。

 更に疲労を与えることにならなければ良いのだがと贔屓は気が気でない。

「……贔屓が、代理をしていると聞いたが」

「! ……ああ、統治者が倒れたなんて知れ渡ると治安に係わるからな」

「では休む代わりに仕事の引継ぎを」

「待て。先に話だ。檮杌について何か情報はあるか?」

 ぴしゃりと話を戻し、もう大丈夫だろうと加重を解く。狴犴は疲れたようにふらふらと壁に寄り掛かった。やはりまだ無理はできない体のようだ。

「檮杌か……饕餮と――ここに窮奇がいるなら、四凶絡みか? 檮杌はここ数年ほど活発に人間を殺している。だが数はそれほど多くはない。まるで調整しているかのようだ。捕まえるほどではないが一度警告は行うべきだろうと判断し、無色を派遣したんだが……それがもう一年近く戻らない。おそらく殺されたと見ている」

「!」

「変転人を殺したとなれば罪に問える。並の変転人では二の舞になるだろうと苧環に捜させたのだが、足取りはあっても、見つけることはできなかった。どうやら檮杌は身を隠せる良い場所を知っているらしい。その件があり、苧環にもう少し力を付けさせようと獣の経験を積ませるために獏の許へ視察に行かせた」

 視界から外れるように蹲んで頬杖を突いていた獏は、突然名前を出されて強張ってしまった。獏の許へ彼を送り込んだ理由を彼の口から聞き、思わず面の下で呆れて笑ってしまう。灰色海月の身の安全を無視した危険な遣り方は話さないらしい。贔屓は観察日記を読んでいるので、隠しても無駄なのに。

「檮杌の話を聞きたいとは、お前達も捜しているのか?」

「少し長い話になるが、聞く体力はあるか?」

「薬水を飲んで少し落ち着いた。栄養剤よりも効くようだ。今度からはこれを飲むとする」

 贔屓とラクタヴィージャは、懲りてないと嘆いたが、とりあえず聞く気はあるようで贔屓はこれまでのことを話した。蜃が攫われ、その時に病院で起こったことを。神隠しの街は繊細な話題なので避けたが、鵺が襲われたことは話した。

 狴犴は時折静かに相槌を打って耳を傾けた。一度少し目は覚めたが、眠っている間に状況が一変している。嚥下するのに時間が掛かりそうだ。

 贔屓が話し終えると、最後に獏が遠慮がちに手を挙げた。

「……その樹海でのことなんだけど、謎の人影を見掛けたよ。体格は檮杌って感じじゃなかった」

 軽い調子で言う獏に、狴犴は疲れた顔をして口を挟む。

「樹海のことなら花魄に聞くといい。……花魄はどうした?」

 薬の所為か記憶が曖昧になっている部分があるようだ。白花苧環の種を抽出するために地下牢から出したのだが、その辺りの記憶が不鮮明だ。

「苧環も……」

「まだ寝起きだから、無理に思い出そうとしなくていいよ」

 ラクタヴィージャは薬水を継ぎ足し、コップを差し出す。蜃と蒲牢に出した薬水とは少々異なる、疲労回復も籠めた薬水だ。

 弱り切っている狴犴を獏はむっと頬を膨らませながら見上げる。罪人がフラフラとほっつき歩いているのに咎めないのは話を円滑に進める上でありがたいが、何だか腑に落ちない。今の狴犴はまるで隠居した老人のようだ。

「ちょっと、狴犴」

 床を叩き、意識を向けさせる。罪人を咎めろと言っているわけではない。大事なことまで忘れていないかの確認だ。

「……何だ」

「白々しくマキさんのことを聞こうとしてたけど、君がマキさんにしたことは忘れてないよね?」

「…………」

「何? (だんま)りなの?」

「……いや、どのことを言っているのかと考えていただけだ」

「へぇ……それだけ何度もマキさんに酷いことをしてたってわけ?」

 嘲るように吐き捨て、獏は立ち上がる。白花苧環はもう次の生へ行こうとしている。彼はもう狴犴に物申せない。ここで一言言ってやらなければ気が済まなかった。

「殺したことは忘れたの?」

 凍て付くように冷たく、鋭利な刃物のようにその言葉は狴犴の胸を突き刺した。皆は黙って静かに見守るしかなかった。

「全部、薬の所為にする?」

 狴犴は静かに薬水を飲み、コップを置いた。

「……罪人如きが私に尋問か。いいだろう。今だけは許してやる」

「口は減ってないみたいだね」

「確かに私は苧環を殺した。心配せずとも覚えている。言い訳をするつもりもない」

「あのマキさんが四人目みたいだね?」

「……読んだのか」

 科刑所の狴犴の部屋で見つけた観察日記にあった数字はやはり過去に人の姿を与えた苧環の数で間違いないようだ。

「科刑所の中を好き勝手に……」

 狴犴は贔屓を一瞥し、目を見て察して溜息を吐いた。

「……なら多くは語らない。あれに全てを記していたわけではないが」

 飽くまで涼しい顔を貫く狴犴に、倒頭獏も苛立ち手を伸ばした。

「あのね……マキさんはっ!」

「代わってくれ、獏」

「!?」

 胸座を掴み上げようとした腕を掴まれ、獏は振り返る。贔屓が背後に迫っていたことに気付かなかった。それだけ頭に血が上っていたらしい。

「少し下がっていてくれないか?」

 幾ら何でも罪人に胸座を掴まれるのは狴犴の体裁に係わる。元統治者としても見過ごせなかった。獏は特殊な罪人だが、罪人であることには変わりない。

「…………」

 冷静になれと無言で見詰められ、獏は渋々と下がることにした。彼を怒らせてあの加重を掛けられては無様な醜態を晒すだけだ。静かに話を聞いている蒲牢のベッドにどっかと座り、頬杖を突いて獏は剥れた。

 贔屓は狴犴に向き直り、改めて彼の姿を眺める。患者のガウンを着た狴犴は目覚めたとは言えまだ衰弱している。あまり長く会話をする体力は無い。

「狴犴。言い訳するつもりはないと言った所すまないが、言い訳を聞かせてくれないか?」

「……また妙なことを言うな」

「狴犴をここまで追い詰めてしまったことは、僕にも責任がある。怪しい薬に手を出してしまったことも。そしてその薬の所為で正常な判断ができなかったと言うなら、聞かせてほしい。その審判は僕がしよう」

 変転人を殺すことは罪である。それは贔屓が決めたことであり、それに狴犴も賛同した。変転人に人の姿を与えるのは獣であり、そこに情は無いとしても責任はある。人になりたいかと尋ねても生物がそれを理解することはなく、獣の意思のみで行われるからだ。それを踏まえて決めたことだ。勿論、同じ宵街に棲む変転人の身の安全を考慮した結果でもある。

 それを知りながら白花苧環を殺したのなら、狴犴は罪に問われることになる。統治者代理を買って出た贔屓には狴犴を罪に問う権利もある。

「私を地下牢に入れたいのか?」

「ん? ……ああ、いや、違うんだ。過去のことを引き摺って陰湿な仕返しをしようなどとは考えていない。寧ろ弁護したいと思っているくらいだ」

「……どうだかな」

 狴犴は一つ咳き込み、呼吸を落ち着かせて口を開く。もうあまり会話をする余裕はないようだ。

「言い訳か……その子供のような言葉が罷り通るとは思っていないが、遣り過ぎたとは思っている。まんまと鉄線蓮の口車に乗せられた」

「鉄線蓮は薬を出しただけじゃないのか?」

「いや。最初は何も言わなかったが、薬が効いていると目に見えてわかるようになった辺りからか、口を出すようになった。苧環は私の悩みの種でもあったからな。薬で判断力が鈍り、愚痴を零すこともあった。その度に鉄線蓮は相槌を打ち、負の感情を引き摺り出すように魔を囁いた。随分と口が上手い変転人だった」

「鉄線蓮に唆されたのか?」

「それでも私は抑制することは可能だった。止められたのに、止めることができなかった。制御できなかった私の責任だ。罪人……獏に奪われることを恐れ、その恐怖は薬により増幅された。それだけのことだ」

 また咳き込み、狴犴はコップに残っていた薬水を飲み干した。白色鉄線蓮に唆されたが、責める気はない言い方だった。庇っている――贔屓はそう思った。

「言い訳はわかった。まずは休んで回復してくれ。今の君の仕事は寝ることだ」

「……苧環はどうなった?」

「獏、教えてやってほしい。どうやら本気で心配しているらしい。兄弟だからな。それくらいはわかる」

 苦笑しつつ振り返る贔屓に、獏は納得が行かずに頬を膨らした。

「あのねぇ……マキさんは殺されたんだよ? ちょっと薬に惑わされてうっかり殺しちゃった、なんて笑えない冗談だよ」

「わかっている」

「わかってないよ。一発殴ってあげた方がいいんだろうけど、それはマキさんに任せるよ」

「?」

 狴犴は怪訝な顔をする。

「状況が不可解だからどうなるかまだわからないけど、マキさんから新しい芽がたくさん生えてるよ。今頃咲いてるかもね」

「もう……? 花期ではないはずだが。どういうことだ?」

「さあ? 獣の力が混じり過ぎて変になっちゃったんじゃないかって」

「花魄がそう言ったのか?」

「そうだよ。花が咲いたら花魄の判断で人にしてもらうつもり。タイミングが合えば僕がするけど。狴犴はやっちゃ駄目」

「……ああ。苧環がまた生を受けられるなら、誰が人の姿を与えても構わない。もっと早くに……そうしてもらうべきだったのだろうな」

 ぼんやりとした目で遠くの虚空を見詰める。過去の苧環は全て狴犴が人の姿を与えた。それが責任だと言うように。それは過ちだったのだろう。もっと早く手放すべきだったのだ。

「かなり不可解だからもしかしたら記憶が残ってる可能性もあるけど、君は知らないと思うけど寝てる間にマキさんは君に襲い掛かってたよ」

「……そうか」

 狴犴は涼しい顔をしていたが、静かに目を伏せた。死体が動くなどと思ったが、おそらく花魄の仕業だろうと推測する。花魄に操られてか白花苧環自身の意思かは定かではないが、恨まれるに充分なことをした。譬え薬の所為だとしても、狴犴が殺した、只それだけが事実だ。

「ラクタヴィージャ、私をすぐに歩けるようにできるか?」

「無理」

 まだ薬で頭が鈍っているのか、狴犴は無茶を言う。青年ラクタヴィージャはぴしゃりと否定し、言葉とは裏腹に布団を捲り上げて脚を確認する。

「切迫してる事情があるなら、車椅子は貸せるけど。間に合わなくて誰かが大怪我したとか死んだとか聞かされる方が嫌だからな」

「恩に着る」

「但し贔屓随伴で、短時間な。狴犴が無茶しそうなら遠慮無く加重してやれ」

 苛立ってはいるが、心配しているが故にだ。小走りで病室を出て行く青年ラクタヴィージャに狴犴は小さく頭を下げた。それに紛れて窮奇も部屋を出る。変転人の話に興味はない。

 残された面々は一様に口を閉じてラクタヴィージャの帰りを待つが、ほんの数分のことなのに何時間も待たされているような窮屈な気持ちが渦巻いた。

 何かを話す空気ではなかったが、重苦しい空気を払拭するために贔屓は声を掛けた。

「椒図はどうする? 一緒に行くか?」

「っ!」

 まさか話し掛けられるとは思わず、椒図はすぐには言葉が出なかった。静かに膝を抱えて虚空を見ている蒲牢を一瞥し、目を伏せる。

「……僕はここにいる」

「そうか。では蒲牢のことは頼むよ」

 名前を出され、蒲牢も顔を上げた。

「……怪我はもう大分良くなったから」

「怪我以上に参っているようだからな。暗い顔をしていると、窮奇が殴りに来るかもしれない」

「窮奇はまだ知らないから……」

 饕餮が死んだと感知できないことが良いのか悪いのか、死んだと鬱々としているよりは、まだもう少し希望に縋ることができる方が幸せなのかもしれない。

「窮奇は元気そうだよな」

「背中の傷が酷いようだが、窮奇は体力があるからな」

「殴ってもらうのもいいかもしれない。俺がもっとちゃんと止めていれば防げたことなんだから」

「蒲牢」

 贔屓は険しい顔をして蒲牢のベッドへ腰を掛けた。蒲牢と目線を合わせる。

「それは饕餮の行動を否定することになる。饕餮の選択を否定するな。……勿論、それは死んでいいと言っているわけじゃない。一番悔しいのは饕餮だろう?」

「贔屓……」

 蒲牢は瞳を滲ませ、膝に顔を埋めた。

「俺……もう、歌いたくない……。安らかに逝ければと思って鎮魂歌を歌ってきたけど、もう送りたくない……」

 くぐもった声は嗚咽にはならなかった。表情の稀薄な蒲牢は涙を出したくても出せない。滲みはするが、頬を流れるものは無い。

 贔屓は蒲牢の銀色の頭をそっと撫でた。贔屓はすぐに兄弟を幼い弟妹扱いする。何百年経っても子供扱いだ。

「蒲牢が歌いたくないなら、無理に歌わなくていい。饕餮なら……そうだな、もっと賑やかな歌の方がいいかもしれないな」

「そんなのもっと歌えない……」

 湿っぽい空気になってしまったが、ラクタヴィージャが戻って来てドアを開けると空気はきりっと切り替わった。畳んで持って来た車椅子を広げ、狴犴の点滴を一時的に外して座らせる。

「蒲牢も少し眠るといい」

 最後にもう一つ頭を撫で、贔屓は狴犴の車椅子を押した。

 部屋を出る一行を不安そうに見送り、蒲牢は不安な気持ちを押し出すように息を吐く。

 残った椒図は心配そうに蒲牢を見るが、その心の内は見えない。兄弟の中で一番兄弟の死を見てきた蒲牢の気持ちは、記憶の無い椒図にはわからないだろう。


 車椅子を借りたからと言って自由に動けるわけではない。宵街は何処も坂道で、大通りは石段だ。車椅子で石段を下りることはできない。持ち上げて運ぶか、茂みの路地へ迂回するしかない。迂回した所で階段がないわけではないが。

 病院から花畑は決して近くはなく、獣や変転人と擦れ違う可能性もある。宵街の統治者が衰弱して車椅子で運ばれているなど良い見世物だ。わざわざ衰弱した姿を見せて歩く必要はない。贔屓は素早く花畑の近くへ転送することにした。転送には休息時間が必要なため宵街内の移動で転送はあまり行わないのだが、できないわけではない。

 花畑へ入る明かりの無い街灯へ手を伸ばそうとした時、獏は声を上げた。大事なことではあったが、こんな状況になるとは夢にも思っていなかった。

「狴犴は花畑に入れないようにって木霊が細工してるんだった」

 手を伸ばせば届く距離に白花苧環がいると言うのに、今までの行いの所為で木霊に疎まれ阻まれてしまう。皮肉だが狴犴は花畑に入ることができない。

 だが狴犴は涼しい顔をして、何でもないように言った。

「そんなことか。下級精霊の細工が獣に破れないとでも?」

 短い杖を召喚し明かりの無い街灯へ向けると、贔屓が杖を取り上げた。直後杖が霧散する。

「力を使うな、狴犴。君はもう少し衰弱している自覚を持て」

 代わりに贔屓が自分の杖でこんと明かりの無い街灯を打った。木霊の細工とは印である。狴犴が印を使用するため、その対策にと龍生九子の殆どは印の破壊を心得ている。

「さあ、行こう」

「……木霊の細工って何だったの?」

「気休めか?」

 けろりと言う贔屓に、獏は頬が引き攣った。無知とは恐ろしいものだ。狴犴が花畑に入れないと高を括って安心して首輪を外し悠々としていた。木霊が生きていれば驚いて引っ繰り返る所だろう。

 三人は花畑へ踏み込み、先に獏が様子を見るために前に出た。足音に花魄はすぐに気付き、獏に向かって手を振る。その背後には浅葱斑の他に、外套を羽織っている長い白髪の人物が膝を突いていた。

「――獏! 丁度良かった! 苧環を人に……ほぎゃあああ!」

 獏の背後に現れた人影に気付き、花魄は叫びながら引っ繰り返った。

 背後にいた浅葱斑はそれよりも早く彼女を置いて小屋の陰に走って逃げていた。

「花魄、大丈夫だよ。事情が複雑だけど……罪人の僕が大丈夫って言うんだから大丈夫」

「ば、獏ぅ……本当に? 信じていいの? 取って喰ったりしない?」

 獏は微笑むが、花魄は獏のブーツの後ろに隠れた。罪人なら狴犴を警戒して当然だ。木霊の細工は破られないと花魄も信じていたのだろう。

「そ、それで何用で……? 私を連れ戻しにかな……」

「用があるのはマキさんなんだけど……」

 顔を上げ、膝を突いて背後に控えている白い人物に目を遣る。丈の長い外套を羽織り、長い白髪を背に流している。俯いて顔は見えないが、背丈は白花苧環を彷彿とさせた。周囲に視線を巡らせるが、あの冬虫夏草のような彼の死体は見当たらなかった。

「苧環に花が咲いたから、獏はいつ戻って来るかわからないし、枯れる前にと思って私が人にしたの。一輪咲いたら途端に他のは枯れ出して……凄く焦ったわ!」

「……ってことは、やっぱりこの人はマキさん……?」

 白はゆっくりと顔を上げ、やや眠そうな目で獏を見上げた。目覚めたばかりなのだろう、よく観察するように凝視する。

 その花貌を見て獏も目を丸くした。それは生前の白花苧環にそっくりだった。獣の化生とは異なるだろうが、全く同じ顔が出来上がるとは思っていなかった。背後で車椅子が軋む音がし、狴犴は自ら彼へ近寄った。狴犴も獏と同じように驚いている。狴犴は何度も苧環に人の姿を与えている。その彼がここまで驚くのはやはり、同じ顔で生まれることは稀なことなのだろう。

 同じ顔で同じ緑の目をして、唯一違うのは前髪で隠していた右目だ。今は露わになっているが、金色をしている。以前は淡い緑色だった。

「苧環……」

 ただ花魄に話を聞くだけのつもりで来た狴犴は目を疑いつつも、幻を掴もうとするように手を伸ばした。狴犴にとっては五度目だが、まるで四度目のような懐かしさがあった。


「触れるな!」


 伸ばした手は無慈悲に払われ、新しい白花苧環は掌から白い針を引き抜いた。武器の形状も以前と変わらない。生まれたばかりの変転人とは思えない憎々しげな表情で狴犴を睨む。

 彼には生前の記憶がある。誰もがそう察した。

 それを認め、狴犴は静かに目を閉じた。

「……私はお前に到底許されないことをした。その武器で私の首を落とすといい。それでお前の気が晴れるのなら、受け入れよう」

 科刑所の中で白花苧環の頭と脚を潰した時、狴犴は正常な判断ができない状態だった。仕置きをせねばとは思ったが、遣り過ぎだと、浅葱斑に連れ去られた時に我に返った。追い掛けようと思えば追うことはできたが、冷静になるために追わなかった。獏に絆されたと考えたのだから、獏の許にいると察することは容易だった。僅かに残った理性が行動を遅らせ、薬で掻き乱される感情が彼を追い詰めた。結局理性は失われ、冷静になることはできないまま殺してしまう結末になったことを許されようとは思わない。

 全くの同一個体のように見える白花苧環はまるで死んでなどいないように見えて、一瞬でも安心してしまったことを狴犴は悔いた。白花苧環は自らの手で殺したではないか。

「…………」

 白花苧環は針を構えたまま狴犴を凝視した後、獏のブーツの陰に隠れる花魄へと視線を向けた。

「……花魄。彼は何なんですか?」

「!」

 その一言で皆は考えを改めた。彼に記憶は無い。ただ反射的に反応しただけのようだ。狴犴もはっと顔を上げる。

「え、えっと……か、彼はね……狴犴って言うのよ」

 何と説明すべきか悩み、肩書は伏せてとりあえず名前だけ言うことにした。自由に説明して良しと言われると、べらべらと愚痴を並べて聞かせてしまいそうだった。

「狴犴……。オレを殺した……」

「えっ」

 記憶があるのかないのか、判断が難しくなってきた。

 獏だけがふと真相に気付き、花魄を踏まないように白花苧環に接近した。警戒して武器を振られない距離に立つ。

「僕は獏って言うんだけど……わかるかな?」

「……疎ましい恩人」

「複雑な言葉……」

 だが漸く理解できた。

「前のマキさんが言ってたんだよね。生まれた時に知らない記憶があったって。それは徐々に薄れて消えてしまったみたいだけど。たぶん今のマキさんにも前の記憶……比較的強い印象の記憶が残ってるんだと思う。それは言葉だけで、映像じゃない。だから狴犴の名前を覚えてても顔はわからない。他にどんな記憶が残ってるかは聞いてみないとわからないけど……少なくとも狴犴と僕のことは覚えてるみたいだね」

 白花苧環も興味深そうに話を聞き、自分の手に握った針を見下ろした。無意識に生成したのだろう、怪訝に見回している。

「アサギさん、マキさんに武器の仕舞い方を教えてあげて」

「うぇっ!? は、はい」

 呆然と小屋の陰から見ていた浅葱斑は慌てて白花苧環に駆け寄り、先程の狴犴への拒絶を思い出し数歩下がった。

「……お、苧環……ボクのことは覚えてるのかな……。浅葱斑って言うんだけど……」

「……助けてくれた?」

「苧環ー! 良かった! 臆病な芋虫とかじゃなくて!」

「芋虫……」

「いや、覚えなくていい! 今のは忘れて!」

 浅葱斑は喜びつつもじりじりと警戒しながら近付き、触れるほど近寄っても攻撃されないので漸く安心した。

 二人を微笑ましく見守り、獏は確認のために振り向く。

「ねぇ狴犴。マキさんは前のマキさんと全く同じなの? 髪の長さは違うけど、それ以外はどう? 今までの苧環さんもこうだったの?」

 狴犴はまだ事態を嚥下できていないようだったが、落ち着くために一つ深呼吸をした。取り乱していては統治者としての威厳も保てない。

「……全く同じ顔で生まれたのは初めてだ。だが……右目の色は違う」

 やはり大きく違うのは右目の色だけのようだ。

「左右で色の違う変転人はおらず目立つため、いらぬ注目を浴びないように以前は隠すよう指示した」

「更に目立つ色になっちゃったよね……。金色か……」

 まさか自分が生命力を与えた所為で影響が出たのだろうかと金色の双眸を持つ獏は複雑な気持ちで苦笑いした。生物に人の姿を与える時も生命力を分け与えるが、それは少量だ。それより遙かに多量の生命力を注いで死を覆したので、影響が出るのも有り得なくはない。

 武器の仕舞い方を教えてもらった白花苧環は消えた武器を探すように掌を見回している。変転人の姿に慣れていない彼の姿は少し可笑しかった。

「ね、マキさん」

 彼は一度足元の花魄へ目を落とし、怪訝に獏を見る。呼び方も覚えているようだ。きちんと反応する。獏は車椅子に座る狴犴を指差し、神妙に言い放った。

「こいつ、どう思う?」

 直球にも程がある。白花苧環は狴犴を凝視し、少しの困惑を浮かべながら裸足の指先で地面を擦り感触を確かめる。根ではなく足がそこに生えていることにもまだ理解が追い着いていない。

「どうと言われても……オレを殺したとしか」

「それしか記憶はないの?」

「オレを殺した獣で……近付くな、と」

「それだけ? それで君はどう思った?」

「……あの……これは記憶と言うより感覚で、本を読んでる感覚に近いです。本……と言う物も漠然としてますが、オレ自身の記憶ではなく……。なので、オレを殺したと言われても自覚が無いです」

「人になってすぐにこんなに流暢に話せるものなんだね……」

 別の部分で感心しながら、獏は興味深く頷いた。彼は殺される前に本を読んでいたと黒葉菫から聞かされている。それもあり本と例えたのだろう。

「じゃあ狴犴のことは何とも思ってないの?」

「……わかりません。ただ……近付かれると反射的に拒絶はしてしまいます」

 幾ら記憶があり流暢に話せても、生まれたばかりの変転人にはやはり感情が乏しいようだ。以前の彼のように七歳にでもなれば死も理解できるのかもしれない。

「まあ狴犴も一応反省してるみたいだし……僕からはこれ以上は何も言わないでおくよ。狴犴に遣り返すならいつでも言ってくれれば力になるよ」

 最後の言葉は狴犴には聞こえないよう白花苧環の耳元に囁き、獏はぐっと拳を握った。白花苧環は怪訝な顔をするが、言葉は理解できている。

 足元でブーツの紐を引かれていることに気付き、獏は視線を落とす。ブーツに獅噛み付きながら花魄が呼んでいた。蹲んで様子を窺う。

「獏! 提案なんだけど、苧環を一度病院で検査させるのはどう? 不可解なことが多くて、ママはちょっと苧環のことが心配よ」

「ママ……。成り切ってるね」

「木霊をまだ一人にはさせられないから私は行けないの。木霊を微調整しないと。……あっ、浅葱斑ももうちょっと貸しておいてくれる? 移動が楽なのよ!」

「うん。それならいいよ。アサギさんも怖がってなさそうだし。確かにマキさんは心配だからね……病院は今ちょっと大変だけど」

「大変……? 狴犴のあの(ざま)も関係ある? 狴犴のあの様の理由が聞けるなら、暫く土を食べても甘露だわ」

 不敵に笑う花魄には、狴犴が呑んだ薬のことは話さない方が良いかもしれない。獏は簡単に上澄みだけを話した。疲労の蓄積でああなったとだけ伝えた。それでも花魄は満足そうな顔をした。

「そうそう。花魄に一つ訊きたいことがあったんだ」

「花のこと?」

「樹海のこと」

 樹海と言った瞬間、花魄の顔付きが変わった。笑みを消して近くの石の上へ座り、膝を寄せる。

「樹海の何を訊くの?」

「樹海のことは花魄に訊くといいって、狴犴がね。檮杌とか渾沌(こんとん)とか……知ってるかな? 転送できないようにする力を持ってるとか」

 花魄は目に見えてむすっと不機嫌な顔になり、花片のような唇を尖らせた。

「私が樹海生まれだからって、何でも知ってるわけじゃないんだから」

「え、樹海で生まれたの?」

「そうよ。首吊りの木を糧に私は生まれる。木が多い所は必然的にね」

 確かに首を括るには良さそうだと思ったが、花魄の言葉の通りだとあそこは悪夢の温床になっているのかもしれない。

「一つ訂正してあげる。転送できない力じゃなくて、その場所が力を狂わせて転送が不可能なのよ。私にも何処だかわかったわ。私の生まれた青木ヶ原(あおきがはら)樹海で間違いない。その場所は森に変化を与えるような大きな力を嫌う」

「そうなの? てっきり獣の仕業なのかと……」

「檮杌と渾沌は知らないけどね。私も暫く地下牢にいたし。変な獣が居着いてるとしたら、まあ特殊な場所だし、引き寄せられたのかもね。虫みたいに。樹海の方は害虫はお呼びじゃないと思うけど」

 ひょいと石から飛び降り、詰まらなさそうに花魄は白花苧環へと駆けて行った。生まれた時の話はしたくないようだ。転送が不可能だと言うなら、小さな彼女は樹海を出るのも一苦労だっただろう。

 獏が見た人影は謎のままだが、蜃との関係はまだ否定できない。蜃が瀕死の状態で見つかったのは、用済みになったからなのだろうか。

「――あー! ちょっと贔屓! 静かだと思ったら勝手に花を摘んでる!?」

「摘んでいないよ。ラクタが薬水に使っていた花があると思って見ていただけだ」

 車椅子の狴犴を置いて花を見ていた贔屓に腕を振りながら叫ぶ花魄に目を遣り、獏は肩の力を抜いた。最初から揉めはしないとわかっていたかのように贔屓は落ち着いている。

 全ては記されていないそうだがあの観察日記を読めば、狴犴が白花苧環を大切にしていたことは嫌でもわかる。薬の所為で間違った判断を下してしまったことも。白花苧環が憎しみを持ち越さず怪訝な顔をするのなら、もう一度憎めとは言えない。わざわざ憎しみを思い出させてそれを抱えて生きる必要はない。無理に争うことはないのだ。

 花魄が騒ぎながら駆け出したので白花苧環も気になったのか前へ出て来る。髪が長くなり少し雰囲気は変わったが、ここまで同じ形だと本当に彼が戻ってきたようだった。

「……ふふ。おかえり、マキさん」

「……? ただいま……? ですか?」

 真っ新な彼は、罪悪を嫌う白と言えど、まだ罪人も罪も理解していない。獏が罪人とも認識していない。素直に挨拶を返す彼が少し可笑しかった。


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