93-考えるより先に
白い病室の中で狴犴が眠る傍ら、饕餮と窮奇は蒲牢のベッドの上で体を伏せながら真剣な顔を突き合わせていた。だが進展は無い。
怪我人の蒲牢は座ったまま、薬水を茶のように飲んでいる。
怪我人を寝させないように邪魔をしているようにしか見えない二人に苦言を呈することもできず、椒図は椅子に座ったまま複雑な気持ちで見ていた。
「……くっ、わからん! 檮杌は何処にいるの!」
「蜃を連れてだからな……可愛い嫁と一緒に行く所……」
窮奇ははっとして顔を上げた。
「菓子工場か!?」
本人は大真面目である。
「それなら別に連れ戻さなくて良くない? 我も連れて行ってもらいたいわ」
「じゃあ蜃が菓子に……」
「どういうこと」
「まさか蜃を喰う気か!? 獣は俺も喰ったことないが……攫って落ち着いてゆっくり喰う気で……」
青褪めてはらはらと固まってしまう窮奇を観察しつつ、蒲牢は薬水のコップを置いた。
「檮杌も人を食べるタイプなのか?」
「おう……檮杌も渾沌も人間を喰う。……そうか! 動けない渾沌は自力で餌を捕れないはずだ! 檮杌に持って来させて……蜃を喰う……何てこった……」
「それなら誰でも良くないか? わざわざ獣でなくても」
饕餮も頬杖を突いて頷く。それならわざわざ計画を立ててまで蜃を狙う必要はない。もっと楽に攫える人間は幾らでもいる。
「それになー、動けないんだから食べることもできないよ」
窮奇ははっとし、振り出しに戻った……とベッドに顔を伏せた。
「渾沌が動けないって言うのは、具体的にどういう状態なんだ?」
薬水で喉を潤し、脱力する。何だか緊張感がないが、腹の傷を労って力を入れず安静にしているのだ。
「どういう状態と言われてもな……疎遠になった後の話だからね。最初は四凶皆で好き放題やってたんだけど、我と窮奇は飽きてね。檮杌と渾沌だけ好き放題を続けてた。それが人間の癪に障って、渾沌は運悪く封じられたっぽい。引き際を見極められなかったと言うか、あいつは退くのが嫌いだからね」
「そうなのか……」
「人間に背を向けて逃げるのは躊躇ったのかもね。意識はどの程度あるかはわからないが、とにかく一歩も動けないと思ってくれればいいと思うよ」
現在は獣の存在は空想だと思う人間が多いが、昔は獣と人間の距離は近かった。故に祭り上げられたり疎まれたりしていたのだが、獣の存在を知っているのだから危害を加えられた場合の対抗策も講じられており、獣に抵抗する力を持つ人間もいた。封印まで行える特異な人間がいたのか、人間に擬態した獣の仕業なのかは定かではないが、とにかく渾沌は人間に手を出し過ぎたのだろう。
「それだけ聞くと自業自得みたいだけど……人間に見つかればちょっとした騒ぎになりそうだな。見つからないような所にいるのか?」
「何処と言われると……おい窮奇、知ってる?」
俯せになっている窮奇の肩を揺らすが、起き上がることはなかった。伏せて視覚情報を遮断して思考しているようだ。彼は真剣である。
「オレも檮杌から聞いた話しか知らねー」
「二人共、直接見てないのか?」
「我も檮杌にばったり会うことがあって、渾沌のことはその時に聞いたぞ。笑いながら話してくれた。言いたくて堪らなかったんだと思う」
「……あ、そういや木がたくさんあるとか言ってたな」
「木? そこら辺にあるぞ」
二人の会話に耳を傾けながら、蒲牢は椒図を一瞥する。椒図も黙って聞きながら、必死に眉を寄せている。何百年と生きている饕餮と窮奇がこの有様なのだ、椒図が正解を出すのは難しいだろう。
「昔は何処も木が多かったけど今は開拓が進んでるし、何とか絞れるかも。檮杌が渾沌に接触してる可能性はあるし、それなら芋蔓式に」
「本当か!? さすが蒲牢!」
「まじか。オレの頭は必要なかったな」
「木が多いと言っても公園は人が来るし、今も昔も人が踏み入ってない無人島とか、人が踏み込まないような山や森の深くだと思う。でもその先は地理に詳しくないと。地図とか無いか? 人間の所なら贔屓の方が詳しそうなんだけど……」
「島は海に囲まれてるよね? 如何にも逃げ込むって感じがして渾沌ぽくないな。贔屓を連れ戻す?」
「……そうだ。黒色蟹なら病院にいるよな? 無色なら人間の街へ行くこともよくあるし、もしかしたら地図を持ってるかも」
「じゃあ我が」
「僕が行く」
飛び起きようとした饕餮より先に椒図が立ち上がった。腰を浮かした饕餮はベッドに座り直す。
会話に参加できないなら、人を呼んで来ることくらいならと返事を待たずに椒図は飛び出した。
「何か召使いみたいだな、椒図」
「自分にも何かできないかと一生懸命なんだよ」
「ま、昔みたいに閉じ籠ってばかりよりは幾分マシね」
「そんなに酷かったのか?」
「椒図の周りだけ空気が澱んでるみたいだった。あいつを外へ連れ出した蜃は凄いと思うよ」
「嫁……」
風が抜けるようにぼそりと漏らす窮奇を一瞥し、饕餮は笑いながら背中を叩いた。
「あはは! 見つけた暁には何でも願い事を叶えてもらえ!」
「! ……あ、いや……まあ……蜃がいいなら?」
嬉々として顔を上げたかと思えば、目を逸らしながら愛想笑いする。
「何を要求する気だお前……」
「それは同意の上で……」
「……ヤラシイことか?」
「む……胸を揉む……」
「照れるな。気色悪いぞ」
獣の殆どは生殖機能が無く接触に特に意味はないが、様々な能力を持つ獣は他人に安易に触れられることを嫌う。なのでそれを慮って無理に触ることはしない。照れているつもりはなかったが、頭を冷やすために窮奇はベッドに突っ伏して顔を隠した。余計に照れているように見えた。
「だってよ……凄く大きくて柔らかそうだろ……? 饕餮には無いし」
饕餮は無言で窮奇を殴った。
ドアが開き、椒図が黒色蟹を連れて戻って来た。伏せていた窮奇が何故かベッドから落ちそうになりながら伸びているが、椒図は触れないことにした。その体勢で何かを考えているなら邪魔をしない方が良いと思ったのだ。
「椒図……我は窮奇より胸がある」
「?」
何を言っているのか理解できなかったが、助けを求めるように蒲牢を見ると小さく肩を竦めたので、椒図はこれも触れないことにする。性別の異なる二人が何故胸の大きさを比べているのか意味がわからなかった。
病室に来るまでに歩きながら事情を聞いていた黒色蟹は、様子を窺いながらまず一つ頭を下げた。
「先に謝ります。人間の街へはよく行きますが、地図は持ってません。人間の街は移り変わりが早いらしく常に最新の地図が求められるため、信用しないようにしてます」
「確かにすぐ景色が変わるな」
饕餮もうんうんと頷く。椒図にはまだ理解できないことだ。「そんなに地形が……」と少しずれた呟きをしている。
「じゃあ街の地理はわからない?」
「大きな施設や長年変わらず存在している物の位置なら。後は都道府県の位置を全て言える程度です」
「な……お前は天才か!? 我も都道府県の名前は言えるが、位置は難しい……」
獣の知識はその程度かと黒色蟹は思ったが、転送で移動するのだから具体的な位置を知らなくても問題はない。黒色蟹は長く生きているため、好奇心で覚えただけだ。尤も獣の方が長命ではあるが。
「図書園に行けば古い地図ならあるかもしれませんが、探しましょうか?」
「図書園?」
蒲牢と饕餮は声を揃えて疑問を口にした。人間の街には書籍を収集している図書館と言う建物があることは知っているが、図書園は初耳だ。
「下層にあるんですが、御存知ないですか? 確かに獣は下層にはあまり下りませんが。人間の図書館を真似た宵街の書籍収蔵所です。文字を読めない変転人のために図鑑や写真集など絵や写真の多い本が大半を占めますが、文字のある本もあります」
「知らなかった……四百年くらい前には無かったと思うんだけど……」
「四百年前は無いですね。精々百年ほど前ではないでしょうか」
つまり狴犴が作った物らしい。宵街に新しい施設を作る場合、必ず統治者に申請することになっている。発起人は狴犴ではないかもしれないが、書籍の収集は彼が指揮しただろう。変転人だけでは図書館を名乗れる程の数は集められない。
「人間は頻繁に新しい本を作り出すので網羅できず最新の本は無いですが、要望を出せば見つけてきてもらえます。題名がわからなくても、希望する内容に合致した本を用意してもらえますよ」
「それは便利そうだけど、たぶんその要望に許可を出すのは狴犴だよな」
「そうですね」
狴犴の意識は無いのだから、今は許可が出ない。それを知っていて話したのか参考程度に話題にしたのか、表情の変わらない黒色蟹は飄々としている。図書園を知らなかったことで説明を聞くことになってしまったが、今回は利用できなさそうだ。諸々の許可は贔屓が代理となり出すとは言っていたが、図書園の存在は彼も知らないだろう。宵街を出てからはずっと人間の街にいたのだから。
蒲牢は気を取り直して黒色蟹に事情を話し、人間が行きそうにない木々の多い山や森の場所を尋ねた。黒色蟹は少し考え、渋い顔をする。
「どんな所でも人間は調査をするために立ち入ってるのでは? 完全に未知の場所があるかは……」
「そうなのか? 知らなかった」
「山は人間が伐採する場所も多く適切ではないかもしれません。あまり標高が高いと木も無いですし。木が多い点を重視するなら、森なら有名な樹海がありますよ。観光地ですが」
「観光に行くわけじゃ……」
まさか動けない渾沌が観光名所になっているわけはないだろう。
「そうだぞ蟹! 真面目に答えろ!」
饕餮は伸びている窮奇の分も合わせて不満を訴えた。
「広大で鬱蒼として、洞窟もあるとか。全てが整備されているわけではないので、道から外れればあまり立ち入らないのでは? 舐めてると死にますよ」
「脅しとは良い度胸だな蟹ぃ! 茹でて身を穿るぞ!」
「そんなに広いなら発見されてない洞窟とか、隠蔽してる洞窟とかありそうだな」
蒲牢の呟きに黒色蟹は頷く。人を近付けさせないように場所を隠蔽できる獣は存在する。獏に連れられ喫茶店へ行ったことがあるが、特定の対象に視認できないよう細工されていた。街中で全ての人間を遮断すると地図に空白ができてしまうが、森の中の洞窟を一つ隠した所で地図に変化はない。獏はあの喫茶店のことは他言無用だと言っていたのでここでは話さないが、話す必要もないだろう。
「……その森に蜃がいるのか?」
伸びていた窮奇は身を起こし、ベッドから足を下ろした。落ちた学帽を拾い、黒色蟹の鼻先へ突き付ける。
「可能性があるなら行ってやる。思念を寄越せ」
具体的な位置や景色すらわからずとも、知っている者からその思念を受け取れば転送が可能だ。黒色蟹が知っているなら、その場所に行くことが可能だ。
「今から行くんですか? 外はもう陽が落ちてます。森に明かりはありません。真っ暗ですよ。危険です」
「蜃はなぁ! もっと危険なんだよ! 攫われてから何日経ってると思ってんだ!」
窮奇の剣幕に押され、黒色蟹は心の中で溜息を吐いた。窮奇は明らかに冷静さを欠いている。それを指摘しても彼の気持ちを曲げることはできないだろう。
「……そこまで言うなら」
黒色蟹は獣に従順だ。窮奇が行くと言うならそれは止めない。危険だとわかった上で行くのだから止められない。樹海の中へは黒色蟹も入ったことはないが、例え危険なことが起こっても迷子になったとしても転送で外へ出ることは可能だ。獣は飛ぶことだってできる。木々より高く飛んでも容易に抜け出せる。
「……待って。蟹の言う通りやっぱり危険だよ」
それでも蒲牢は制止した。迷子の問題ではない。
「あ? どーせお前が心配なのは妹だけだろ? 別に饕餮まで来なくたってオレ一人で充分だ」
「おい! 勝手に置いて行こうとするな! 我も行く! 四凶の問題だぞ!? 我がいないと三凶で締まりがないぞ!」
ばしばしと布団を叩き、饕餮は窮奇と蒲牢を交互に見ながら訴えかける。
饕餮はいつもそうだ。何だか面白そうだと適当な理由で窮奇に付いて行く。他に面白そうなことがあればそちらへ行ってしまうが。
「……」
蒲牢がどうのと言うよりやはり危険なのは理解しているため、窮奇も一応は彼女を置いて行こうとする。その胸中を知ってか知らずか、饕餮は駄々を捏ねる。ベッドを揺らされ蒲牢は腹の傷を押さえた。
「我も行く! 絶対行く!」
こっそりと杖を召喚した窮奇に気付き、饕餮はその首に腕を絡めて攀じ上った。窮奇の腰に脚を絡めて離さない。こうなると剥がすことは不可能だ。
「……檮杌の力は大体わかってるし、饕餮も離れねーし、このまま行くわ」
窮奇は黒色蟹の額に人差し指を当て、思念を抜き出す。ここで時間を喰っているわけにはいかない。
「幾ら危険でもこれは譲れねぇ。蜃の安否がわからないんだからな。――ま、贔屓が戻ったら一応言っといてくれや」
「窮奇! 待っ……」
制止の声は聞かず、窮奇はくるりと杖を回した。二人の姿は一瞬で消え失せ、しんと静まった。
「大変だ……」
透かさず蒲牢も杖を召喚し、椒図に止められた。
「蒲牢は駄目だ! 怪我してるのに……。僕が行くから、蒲牢はここに」
「椒図はここにいて。贔屓達が戻って来たら話して」
「落ち着いてください。僕が贔屓を捜してきます」
手で二人を制しながら、黒色蟹は返事を待たずに病室を出た。行き先の思念の元がいなくなり、蒲牢は呆然と杖を下ろすしかなかった。
「……二人は森と洞窟がどんな所かわかってるのか……? 木々が密生してると窮奇の翼は広げられないし、饕餮も刀を振れない。洞窟で窮奇が力を使えば崩落する……」
二人の力では相性が悪過ぎる。樹海の場所を話してくれていれば黒色蟹が居ずとも転送できるのに、それを見越してなのか彼は場所を言わなかった。
その焦燥を感じ取り、椒図も蒲牢を支えながら俯く。
「二人が行った所に本当に蜃はいるのか……?」
「わからない……けど、二人はそれを疑ってない……。四凶が犯人なら、ある程度は居そうな所がわかるのかも……」
「贔屓だったら止められたのに……僕が獏に付いて行って贔屓がここに残るべきだったんだ」
「それはもう言っても仕方無い。たぶんだけど、科刑所に贔屓が行ったのは睚眦がいるからじゃないか。椒図は化生したばかりで顔を知らないだろ?」
「……知らない」
「生まれたばかりなんだから椒図が焦る必要はないよ。俺が焦らないといけないのに……」
表情は乏しくとも焦る空気は感じ取れる。項垂れる蒲牢に何かしてやれないかと俯きながら考え、椒図は空のコップに薬水を注ぐことしかできなかった。
* * *
花畑を後にした獏と贔屓は茂みから出て狻猊の工房へと向かった。酸漿提灯の並ぶ石段から少し横へ入った所に工房はある。
「……贔屓」
「何だ?」
「罪人が杖を持っても、何も言わないよね……?」
工房の前まで来て漸く獏は問題点を口にした。統治者代理の前で修理した杖を受け取っても良いものか、今更確認を取る。
「必要な物なんだろう? 何か言ってほしいのか?」
「別に……。取り上げられたら嫌だから」
「今は緊急事態だ。そのために僕も付いているし、心配は無用だ。狴犴には何か言われたのか?」
「何も言われてないけど、狴犴の前で杖を出したことはないし」
どうやら本当に形だけの代理人のようだ。仮にも元統治者なのにと思うが、構わないでくれるのなら獏にとっては都合が良い。まるで意識的に罪人に構わないようにしているようにも感じるが。
干渉しない贔屓に安心して獏は工房のドアを開け、漂ってきた煙たい空気に咳き込んでしまった。
「忘れてた……煙草のこと……」
意識していればそうでもないが、意識せず息を吸ってしまうと噎せてしまう。狻猊が喫煙者だとドアを開けてから思い出した。以前来た時よりも煙が充満している。
「……おお、獏か! 煙草受け取ったぜ。ありが……ヒっ!?」
足踏みミシンの踏板をシーソーのように踏み揺らしていた狻猊は獏の背後に立っている鉛色の髪の少年を視界に捉え、咥えていた煙草を落としそうになった。慌てて煙草を支え、恐る恐る立ち上がる。
「贔……屓? だよな……? うろ覚えだけど……」
「覚えていてくれて嬉しいよ。作業中にすまない」
「あ……いや、これは……」
しどろもどろになりながら足を止め、誤魔化すように奥に積んだ箱から短く畳んだ棒を取り出す。
「よぉ獏……これな? これだよな? 目的は」
「修理終わった?」
「おお、終わった」
「じゃあ貸してもらってた杖は返すね」
にっこりと懐からハートの杖を取り出し、狻猊の手にみしりと載せた。力の籠め具合に、ちょっと怒ってる、と狻猊は苦笑いした。
修理を終えた杖には元のように大きな変換石が装着されており、罅もない。制御装置は嵌められているが、これは仕方無いと獏は概ね満足して懐に仕舞った。
その間彼はちらちらと贔屓の顔色を窺うように目を遣り、目が合いそうになると素速く逸らす。
狻猊と贔屓は過去に一度顔を合わせたことがあるだけで、会話もそれほど長くはしなかった。贔屓の顔を覚えてくれていることは良かったが、警戒なのか畏縮なのか距離を感じる。
「……狻猊」
「はいっ!」
贔屓が呼ぶと狻猊はぴしりと指先まで両腕と背筋を伸ばした。良い返事だ。
「狴犴のことなんだが」
あまり広めるのは良くないが、兄弟の耳には入れておきたい。そう思い口にしたのだが、狻猊は表情をがちがちに固めて眉を寄せた。
「へっ……狴犴な……おう」
声が裏返っている。目も泳いでいる。
「……何かしたのか?」
「い、いや別に何も?」
「したんだな?」
「……!」
狻猊は息を止め、梅干しを食べたような顔をした後、苦しくなって息を吐いた。
「贔屓になら……言ってもいいのか……?」
獏を一瞥するので、形だけ獏は両耳を塞いだ。少し聞こえている。
「実は狴犴は病院に……」
「ああそのことか。知っているならいい。僕もそれを話そうと思ったんだ」
「え? ……何だよ知ってんのかよ! 緊張して損した……」
狴犴が倒れたことを聞いて、そんな一大事を触れ回るのは良くないと必死に隠そうとしたのに。
贔屓の目には彼が隠し事をしているようにしか映らなかったが、自然と話してくれるのを待っていた。
「獏も知っているからそう緊張するな。僕を恐れているんじゃないかと、それに途惑ってしまったよ」
「恐れるってわけじゃ……。……この今作ってる服な、狴犴と蒲牢のなんだ。病院から連絡があって、繕いきれないほど破れてるから作り直してくれって」
「そうだったのか。それはどっちの服を?」
「一応、狴犴優先で……」
「では先に蒲牢の服を仕上げてくれるか? 狴犴はまだ目覚めないが、蒲牢の目は覚めた」
「覚めたのか!? 良かった……何かすげぇ重傷だって聞いたから……」
安堵し、脱力した狻猊は倒れるように椅子に座った。煙草を咥え、じっくりと味わう。硝子の灰皿には、心配で落ち着かなかった吸い殻が幾つも転がっていた。
「ねぇ狻猊。ちょっと聞きたいことが」
「おわ!? ……いたのか獏……」
「いたよ」
会話もして視線も合わせたのに、どうやら贔屓にばかり意識を取られて上の空だったらしい。
耳を塞ぐ必要はもうないだろう。耳から手を離し、狻猊に向き直る。ここからが本題だ。
「三角帽子の白い人って見たことある?」
「三角帽子? 白? 無色か?」
先に獏が口を開いてしまったので、贔屓は獏に任せることにした。変転人なら人の姿を与えられた時にこの工房で服を作ってもらうはずだ。三角帽子を狻猊が作ったのなら、どんな人物かがわかる。
「……そんな奴いたか……? そんな帽子を作った覚えはないな」
「え?」
獏と贔屓は顔を見合わせる。当てが外れた。
「そいつがどうかしたのか?」
獏は贔屓に目を遣り、贔屓は狴犴が呑んだ薬のことを話した。狻猊は顔を顰め、煙草の灰が落ちそうになり慌てて灰皿を受けた。
「変転人なら工房に来ていると思ったんだが」
三角帽子が獣とすると地霊が把握していそうなものだが、地霊も知らないようだった。ならば変転人の可能性が高いと思ったのだが、手掛りが得られない。
「それな? 大体の変転人はここに連れて来られるんだが、人にした獣自ら世話するパターンもあるみたいだ。オレも小耳に挟んだ程度だが。三角帽子も何処かの獣が所有してる奴じゃないか?」
「とすると、これ以上の情報は見込めないかもしれないな……」
贔屓は腕を組んで黙考する。所有者がいるなら、この企みのために作り出した変転人かもしれない。それならあまり人前にも姿を現さないだろう。狴犴に会うためだけに宵街を訪れていたのかもしれない。益々怪しい。
「僕はその辺りの仕組みはよく知らないけど、転送する傘は誰でも作れるの?」
宵街へ出入りするには必ず転送を行わなければならない。獣なら自身が元から持つ杖で転送が可能だが、無色の変転人は転送用の傘が必要だ。三角帽子を何処の獣が所有していようと、獣の杖を借りることはできない。
贔屓が付いているならと獏の質問にも狻猊はすぐに答える。隠すようなことでもない。
「作り方を知ってれば、獣なら誰でも作れる。……ああ、あと少し手先の器用さもいるな」
「ふぅん。僕には作れそう?」
「杖を作ったお前なら作れるかもな。傘の骨の先……露先っつーんだが、そこと、先端の石突の先に変換石を貼るんだ」
「えっ、あれ変換石だったんだ……小さいから意識して見ないと気付かないね。光ってる所なんて見たことない」
「変転人は獣ほど力が強くないからな。武器にも石を嵌めてるが、光ってないんじゃないか?」
「そう言えば……」
光らないことを不思議に思ったこともなかった。武器を取り出している時はじっくりと見ている余裕もない。
二人の会話を聞きながら、贔屓は口元に手を遣り眉を顰めた。科刑所で目撃された三角帽子が宵街に留まっていない限りは傘がないと外には出られない。転送役の他の変転人もしくは獣がいる可能性もある。或いは――
「……他の無色から傘を奪った可能性があるな」
「! それ……奪われた人は口封じのために殺されてたりしない?」
「可能性はある」
「行方不明の変転人がいるか聞いてみた方がいいね」
贔屓は頷き、急ぎ踵を返す。獏も狻猊に軽く手を振った。
「狻猊、助かったよ」
「修理もありがとね」
休む間も無く忙しなく工房を出る二人を見送り、狻猊は呆然と煙草を吹かしながら呟いた。
「何か……探偵みたいだな……」
つい先刻まで何も感じなかったが、久し振りに煙草の味を感じることができた。裁断だけは終わらせていた蒲牢の服になる予定の白い布を見下ろし、口元に小さく笑みが漏れる。これが安心という感情なのだろう。
有力な手掛りはないがまだ遣れることはあると頭を休めずに、獏と贔屓は石段へと戻った。
息を切らしながら走る黒色蟹に遭遇したのは、それからすぐのことだった。随分走ったようだ、大きく肩で息をする。獏と贔屓は彼の呼吸が整うのを待ち、整いきる前に黒色蟹は口を開いた。
「……た、大変です。すぐに病院に来てください」
「狴犴が目でも覚ました?」
「いえ……窮奇と饕餮が樹海へ……。蒲牢と椒図が取り乱してるので、来てください」
「わかった。獏は黒色蟹と来い。僕は先に行く」
言うや否や贔屓は杖を召喚し酸漿提灯の間を跳んで行った。あっと言う間に後ろ姿が小さくなる。
「速い……。飛んでないのに杖を出してるってことは、力を使ってるんだろうね……」
獏も黒色蟹の手を取り、石段を蹴る。ふわりと体が軽くなった黒色蟹はすぐにそれを理解できないまま獏に振り回された。
「樹海にってことは、そこに蜃がいるの?」
「それはわかりません」
「確かに森の中じゃ、窮奇の風も饕餮の長い刀も使い難いね」
獏が病室へ戻った時には既に贔屓は話を聞いた後だった。取り乱しているのにもう一度話させるのも苛立たせるだけだろう。獏は下がって黒色蟹から続きを聞いた。
贔屓は蒲牢と椒図と向き合い、何やら説得している。二人を手で制しながら贔屓は獏の許へ駆け寄った。
「獏、話は聞いたか?」
「うん。レオさんから」
「獏は夜目が利くか?」
「うん。夜行性だもん」
「森は木を折れば月明かりが届くが、洞窟はそうはいかない。二人は敵の数も把握していない。二人に任せはしたが、不利になる場所なら相談してほしかった……。一緒に来てくれるか? 獏が来てくれると心強い」
「あんまり気が乗らないけど……蜃を捜すって言ったし、わかったよ。でも少し待って」
獏は傍らに控える黒色蟹を手招く。
「レオさんに頼みたいことがあるんだけど、いい?」
「構いませんが」
「スミレさんにね、伝言を頼みたいんだ」
黒色蟹は黒葉菫と顔馴染みだと言っていた。黒葉菫にも黒色蟹の名を出してみたが、先輩と呼び慕っている様子だった。きっと素直に話を聞いてくれるはずだ。
黒色蟹の耳元に伝言を囁き、彼はこくりと頷いて一歩下がり、黒い傘をくるりと回した。
「はい。いつでもいいよ、贔屓」
透明な街の端に刺した光の杭はまだ保てるはずだ。熱も出ていない。樹海で何が起こるかわからないが、ここからが正念場だ。力を絶やさないよう気合いを入れる。
贔屓は杖を召喚し、蒲牢と椒図を安心させるために微笑みかけた。
「蒲牢は休んでいろ。椒図、蒲牢に無理をさせるな」
くるりと杖を回し、贔屓と獏の姿も病室から忽然と消える。
「……椒図、一瞬で怪我が完治するような薬はあるかな……」
「あるなら狴犴が目覚めてると思う」
「それもそう……」
蒲牢は腹を摩り、壁に凭れた。獣の治癒力は高いが、それでも日数が掛かる。どうせなら一日で完治するくらいの治癒力があれば良かったのにと切実に思った。




