92-観察日記
薄暗い宵の空は石段を上がるに連れ暗くなり、贔屓は常夜燈を取り出した。軽く振って中の夜燈石を摩擦で反応させて光らせる。
「……随分暗くなったものだな。この暗さではもうこの辺りに棲む獣は殆どいないんだろうか」
宵街を統治していた数百年前を思い出し、石の家と深い茂みを贔屓は懐かしいと同時に寂しく思った。棲む者がいなくなると宵街は暗くなる。一軒一軒訪ねなくても空で状態がわかってしまう。
石段を上がる毎に獏は捕まった時のことを思い出して不貞腐れたように足が重くなる。科刑所へ行くのは二度目で、一度目は罪を裁かれた時だ。獏は夜行性であり、活動を抑えている昼間に鵺が遣って来て捕らえられた。油断していたのか、疲れていたのだろう。万全の状態なら鵺にも負けない自信はあった。
贔屓の後に続き、蔦の這う科刑所の入口を潜る。獏が狴犴の部屋へ行くのは初めてだ。淡い型板硝子が疎らに並んでいる廊下を贔屓に付いて歩き、誰もいない階段を上がって最上階へ行く。
主は病院で眠っているためノックをせずに重厚な扉を開けると、ぽつんと机が置かれた部屋が自棄に広く感じた。壁に棚は幾つか立っているが、殺風景な部屋だった。
「……ここが狴犴の部屋?」
「ああ。僕も久し振りだ。僕がいた頃はもう少し家具を置いていたんだが……来客用に椅子とテーブルもあったんだが、処分されてしまったか?」
それは今はもう客など来ないと言っているようだった。
「入って大丈夫なの? 印が仕掛けられてたり……」
贔屓は常夜燈を仕舞い、杖に持ち替える。躊躇いなく部屋の中へ足を踏み入れた。
「危険な印があれば蒲牢が入った時に壊されているだろう。残っている印は狴犴がいないと発動しない」
贔屓の杖を見るが、変換石は光っていない。平然と机へ辿り着くので、安全なのだろうと獏も恐る恐る一歩踏み出した。
「っ!?」
途端に喉元の烙印が熱を帯び、獏は反射的に跳び退いた。一歩入っただけなのに烙印が焼け付くように痛んだ。
「ひ……贔屓! たぶん……罪人は入れない……」
贔屓は振り返り、廊下の壁にぴたりと背中を付けて喉を押さえる獏に駆け寄った。
「罪人にしか反応しない印があるようだな。烙印を半解除していてもその様子では、相当強力な印……。そんな印を部屋全体に仕掛けられるとは思わない。おそらく出入口にだけ仕掛けられた印だろう」
「つまり、壁を破壊して中に入れば問題ない?」
「理屈ではそうだが、なるべく穏便に頼むよ」
「……じゃあ、悔しいけど、部屋は君が調べて。僕はここで待ってる」
暗い廊下で蹲み、光の中へ入れない獏は膝を抱えた。
「わかった。観察日記とやらを持って来るよ」
壁を破壊する以外に印を壊すことも可能だが、罪人を中に入れたくない狴犴の気持ちは痛いほど理解できた。鴟吻はここで罪人に襲われた。もう二度と同じ過ちを繰り返さないために強力な印を仕掛けたのだろう。
机の左右にある引出しを順に開けていくと、筆記具やノート、携帯食や栄養剤が転がっていた。携帯食は食べ掛けで、余程多忙だったのだろうと推測する。引出しの中にはその食べ滓も落ちている。狴犴の性格なら掃除はするはずだが、これも薬の影響なのだろう。
獏の求めている観察日記らしきノートを見つけ、出入口へ目を遣る。獏は膝に腕を置き、動物面の顔を埋めて縮こまっている。印の拒絶を受けた烙印がまだ痛むらしい。
烙印の痛みは贔屓には想像できない。気休めは口にせず、俯く獏の前へノートを差し出した。
「獏、見つけたよ」
獏は顔を上げ、薄いノートを受け取った。白花苧環は彼自身が七歳だと言っていた。七年分の観察日記だとすると、薄過ぎる気がする。
「……これだけ?」
「蒲牢が言っていたのはこれだと思うんだが……他にもそれらしき物があれば持って来るよ」
「ありがとう……」
「机の引出しは全て開けて見てみたんだが、蒲牢の言っていた薬や袋が見つからないんだ。少し時間が掛かるかもしれないが、待っていてくれ」
「……犯人が回収したんじゃないの? ずっと無人だったんでしょ? ここ」
「この部屋は無人だったかもしれないが、科刑所には睚眦もいると思うんだが……」
首を捻りながら贔屓は部屋の中へ戻って行く。
そうだ科刑所には拷問官の睚眦もいるのだ。獏はすっかり忘れていた。なのに誰とも擦れ違わず廊下に物音も無い。不気味だった。
睚眦が現れればきっと贔屓が何とかしてくれるだろう。獏は身震いしながら、表紙に『植物系変転人について』と書かれた薄いノートを開いた。
(『死後に遺す種の育て方』に『苧環の花期』……)
付箋の貼られている頁をぱらぱらと捲ってから最初の頁に戻る。最初の頁には隅に小さく数字が書かれていた。その横に書かれている文字に眉を寄せる。
『一、自然開花――病死
二、木霊が栽培――事故
三、同上
四、露地でほぼ自然開花――これが最後』
白花苧環は『使い捨て』と言っていた。死んでもまた植えれば良いと。おそらくこの数字は、使い捨てた人数だ。木霊も以前、今の白花苧環は四人目だと言っていた。
(病死と事故は死因だよね……木霊が一人目は病死って言ってたし。四の最後って何……?)
妙な言葉だった。最後と言うなら何故、何度も育て直せるような発言を白花苧環にしたのか。何故彼を自らの手で殺したのか。辻褄が合わない。
(狴犴のことはマキさんから聞いたことだし、聞き間違えた? それとも薬の所為で判断力が鈍ってる……? でもそうだとすると、薬を呑み始めたのってかなり前ってことに……)
ノートには小さな文字が多く、ぱらぱらと見ただけでは文字が頭に入らない。ノートが薄いと言ったが、腰を据えて読んだ方が良さそうだ。
(……マキさんから聞いた通り、崖に種を植えてる……やっぱりこれはマキさんについて書かれた物だ)
所々殴り書きで目を凝らす必要があるが、文字自体は綺麗で読み易い。悪夢の報告書を白花苧環に突き返されたことを思い出してしまう。常日頃から狴犴の書く物を見ていれば基準が高くなって当然だ。絵のことは棚に上げる。
『5月10日 人間の来ない場所を選んだつもりだったが失敗だった。現れた人間の一人が、もう一人を殺す計画を企てていた。止めるつもりだったが追い詰めてしまい、計画通り人間がもう一人を突き落としてしまった。もう少し花の様子を見るつもりだったが、毟られたまま放置すると死んでしまう。予定を変更して欠損を補い、変転人にした。』
年も隅に書かれていたが、ふと白花苧環の発言と合わないことに気付いた。白花苧環が自身を『七歳』だと言った時、このノートの年が正しいなら『六歳』であるはずだ。どうやら彼は植物だった頃から歳を数えていたらしい。年齢を聞いた時から死ぬまでに一年経っているので享年は七歳だが。
(……日数を数える植物なんて……マキさんは特殊なんだ……)
変転人は周囲の環境を知識として取り込んで人となるが、昼夜や季節の移り変わりは感じても日数を数える生物はいない。
『生まれた日に武器を生成した変転人は初めてだ。今までと比べ物にならない強力な変転人。余計なことは教えず、余計なことはしないよう監視する。また死なれたら堪らない。』
文面だけを見ると、死なせないように育てようとしていることが窺えた。白花苧環と出会った頃の真っ直ぐな頑固さは白だからと言ってしまえばその通りだが、同じく最近生まれた白実柘榴は何も教えられていないからかそういう様子はない。白花苧環は狴犴にこう育てられた所為で、少々世間知らずで箱入りのような気質になってしまったと考えられる。出会って間も無い頃にチョコレートもソフトクリームも知らない白花苧環を揶揄ったが、この所為だと合点が行った。
『5月17日 極めて健康。怪我も無い。補った欠損部位も正常。言うこともよく聞く。優秀だが、そのため街に噂が広がった。余計な心配が増える。』
日付と健康状態が幾つか並んでいる。毎日書いているわけではなく日付は飛び飛びだったが、白花苧環を手の届く範囲で注視し大切に扱っていたことはわかった。
(何処となく、過保護……?)
病死と事故を経れば過保護にもなるのだろう。
ぱらぱらと頁を捲ると、獏と出会った日のことも書かれていた。
『12月24日 罪人・獏の善行に死人が多い。監視の変転人に手を出さないことを確認できた獏なら苧環を派遣して良いと判断。視察、及び罪人の醜悪さの見学。経験をさせる。』
(力を完全に封じず、監視役を獣じゃなく変転人のクラゲさんに任せたのはこのためか……。監視役は非力であればあるほど、殺して脱獄できると思わせる。僕がクラゲさんに何もしなかったから、マキさんを派遣しても大丈夫だと思ったってわけだね……。クラゲさんを生贄にしようとしたことは気に喰わないけど)
『苧環が強力過ぎた。鵺が対応に当たった。罰を科し、苧環が帰って来ない。仕事が進まない』
(……マキさんがいなくて仕事が手に付かないのか、手伝ってくれる人がいないって意味なのか……。あれは狴犴にも誤算だったんだね)
罰を終えて宵街へ戻った時のことも書かれていた。
『――怪我は無いか念の為、病院で検査を受けさせた。大事無し。』
(心配性……)
彼の視察で負傷したのは獏の方だ。白花苧環の観察日記なので当然だが、獏については何も記載されていない。両手を切り落とされた灰色海月のことすら書かれていない。こんなに大切にしているのに白花苧環を殺すはずがない。そう思わされる。
だが徐々に日記の内容は怪しくなっていった。殴り書きでも読み取ることができていた文字が読み取り難く、潰れて読めない文字も出て来た。日記にも日付が無くなり、いつの出来事なのかわからなくなっていく。
『苧環が×に絆された。良くない。首輪を××××××。××して』
首輪とは、白花苧環の首に施された黒い痣のような印のことだろう。この時にはもう読み取れない文字も多い。薬に蝕まれていることは明白だった。
(……『獏』に絆された、かなぁ……?)
『××が戻ら××。言う×××××ない。もう××最初から』
(…………)
頁を捲り、最後の文章はもう読み取ることができなかった。そこからは白紙の頁が虚しく続いていた。
(今のマキさんに見せたら、何か思うことはあるかな……)
このノートを書いた本人はまだ眠っている。少し持ち出しても構わないだろう。ノートを閉じ、獏は顔を上げた。
「…………」
開け放した扉の向こうの散らかりように暫し思考が停止してしまった。棚の中身を床に積み、ゴミ箱も引っ繰り返されている。散乱したゴミの中に立つ贔屓は視線に気付いて振り返った。
「贔屓……ちょっと別の所に行っていいかな」
「もう読み終わったのか? すぐに片付ける。箒は……」
「贔屓は片付けててよ。僕は科刑所から出るし、監視はいらないでしょ」
「駄目だ。すぐ片付ける」
箒が見つからない贔屓は先に足元に積んだファイルを持ち上げ、急ぎ棚に戻していく。力持ちなので一気に分厚いファイルを何冊も持ち上げることが可能で思ったよりも作業が早い。仕方無く獏も廊下から力を使い、ゴミを拾ってゴミ箱へ戻してやる。
(入れなくても力は使えるのか……通常は烙印があれば力を使えないし、僕みたいな例外は考えないよね……)
白紙を丸めただけのゴミが多いが、これも薬の所為なのだろう。最後はもう自分が何をしたいのかもわからなくなっていたのかもしれない。ゴミを投げ終えて手を下ろすと、そこで漸く傍らの気配に気付いた。
「……わっ!?」
暗がりの中にのそりと黒い何かがいた。土竜のような外見をしているが体長が一メートル程あり、二足で立っている。兎のような長い耳を含めると更に大きい。円らな目で鼻をひくつかせながら、じっと獏を見詰めていた。こんなに近くにいたのに気配に気付かなかった。
「贔屓! 何かいる!」
ファイルやら何やら全て元の場所へ収め、徒事ではない獏の声に贔屓は急いで駆け寄った。
「どうした? 何が……」
部屋を出た贔屓も円らな瞳と目が合う。大きな土竜のような生物は贔屓の顔を見るなり驚いたようにあんぐりと口を開けた。
「ひ……贔屓さん……?」
「喋った……」
状況を理解し、贔屓は先にどちらから説明しようか迷い、獣を優先した。
「これは地霊と言う下級精霊だ。僕が宵街にいた頃も色々と手伝ってもらっていた。寡黙だが、喋れないわけじゃない」
「地霊……? これが……。前に科刑所に来た時は見なかったけど……」
「罪を裁かれる時か? 烙印を捺す前の罪人は危険だからな。近付かないはずだ」
「……そっか」
贔屓は地霊に向き直り、何から話すか数秒考える。地霊は獣の言うことをよく聞く。それに大人しい性格だ。突然襲ってくるようなことはない。
「地霊は狴犴が今どうなっているか把握しているか?」
地霊は贔屓を見上げ、鼻をひくひくと動かす。
「見掛けない獣に担がれて出て行きました。螭さんに報告しましたが、他言無用と言われました。贔屓さんなら問題無いです」
「まだ僕の地位を上に見てくれているのか?」
「その質問はよくわかりません」
「ああそうか……地霊にも何も言わず宵街を出たからな……あの時のままか」
大きな土竜が喋っているのを獏はおっかなびっくりと見詰めつつ、木霊も栗鼠のようだが喋っていたことを思い出す。だが木霊は普通の栗鼠と変わらない程度の大きさだったが、この土竜は大き過ぎる。
「螭にも伝わるなら、言っておこう。引き続き狴犴のことは他言無用で頼む。螭にだけは、狴犴が入院していると伝えてくれ。その間、僕が統治者代理を務める」
地霊は大きく二度頷き、贔屓を見上げた。
「君は何か用があってここに?」
「物音がしたので、狴犴さんが戻って来たのかと様子を」
兎のような耳がぴくぴくと動く。あまり大きな音を立てたつもりはないのだが、しんと静まる科刑所の中では音がよく通るようだ。
「狴犴はまだ戻らないが、睚眦はどうしてる?」
「反省中です」
「?」
「反省室にいます」
理由はわからないが、何か仕出かしたのだろう。贔屓は扉を閉め、地霊に案内を頼んだ。
再び常夜燈を手に、ぺたぺたと歩く地霊の後に続く。黒い体は光が無いとすぐに見失ってしまいそうだ。
階段を下りて少し歩いた所で地霊は止まり、長い爪でドアを示した。
「ここです」
贔屓がドアに手を掛けるが、開かなかった。
「鍵は狴犴さんが持ってます」
「……壊すか」
杖を召喚しようとする贔屓の肩を叩き、獏は呆れたように前へ出る。
「意外と手が早いね……。さっきは穏便になんて言ってた癖に。僕が開けてあげる」
手を翳してすぐに鍵が開き、贔屓は感嘆した。獏が鍵を開ける所は以前善行に同行した時にも見ていたが、便利な能力だ。
「その力があれば僕も壊そうとは思わないよ」
ドアを開くのは贔屓に任せ、獏は彼の背後へ隠れるように下がった。罪人と拷問官は顔を合わせるべきではない。
先程の狴犴の部屋と比べてかなり狭いが、中で生活できる程度には広さがある。机と椅子があり、奥にベッドが見えた。その上に横たわり、背を向けている赤い髪の人物がいる。他には誰もいない。黒葉菫が睚眦は赤髪だと言っていたことを獏は思い出した。きっとあれが拷問官の睚眦だ。
「……やっと解放か狴犴……私はもう充分頭が冷え……」
ゆっくりと体を起こして振り向いた彼女は、出入口に立つ鉛色の髪に赤褐色の目の少年を見て口を開けたまま固まってしまった。地霊と同じ反応をする。
「ヒ……キ?」
「少し顔を合わせただけだったから、覚えていなかったらどうしようかと思ったよ」
「何で……贔屓が……」
睚眦はベッドから飛び降り、信じられないものを見るように贔屓へ駆け寄った。肩へ手を置き全身を見回す。
彼女は女性にしては背が高い。贔屓と然程変わらない。獏よりも少し大きい。立っているだけで威圧感があり、獏は闇に溶けるように気配を消した。
「もう戻って来ないはずじゃ……」
「……事情があるんだ」
贔屓は睚眦に狴犴の身に起こったことを話した。薬のことも話すが、衝動的に行動するなと釘を刺した。感情を消した赤褐色の瞳には逆らえない雰囲気があり、睚眦は息を呑んで頷いた。
「理性を失えば利用されると思って行動しろ。今は騒ぎを起こすな」
「……わかった」
これが長子の威厳なのか、手に負えない拷問官の睚眦が大人しく言うことを聞いている。
「諸々のことは目下調査中だが、睚眦は科刑所の中で怪しい……いや、狴犴以外で誰か見たか?」
怪しい人物を目撃したかと訊いても、如何にも怪しい姿の者かはわからない。檮杌なら目立つだろうが、狴犴に接触した人物が誰なのか心当たりが無い以上範囲を狭めるわけにはいかない。
睚眦は腕を組んで唸り、記憶を手繰り寄せる。贔屓の来訪や狴犴の入院など唐突な話だが、贔屓が言うなら嘘ではない。彼女が反省室に入れられてから随分経つが、狴犴が意識不明なら一向に反省室から解放されないことにも納得だ。狴犴を陥れた奴がこの科刑所にいたとは、気付かなかったことに沸々と怒りが湧く。だが贔屓に釘を刺された以上、破壊しない程度に壁を蹴るに留めておく。
「……狴犴の他なら私と鵺と、地霊と……白い苧環……。おい、何処まで遡ればいいんだ?」
「そうだな……数ヶ月程度……半年程を思い出せるか?」
「半年……。私は常に科刑所にいるわけじゃないぞ? 地下牢の見回りもするし、街も歩く」
「ああ、それで構わない」
「じゃあ他は……罪人は地下牢にいるが」
「地下牢にいる罪人は省いてくれ」
罪人から薬を渡されて狴犴が呑むはずがない。地下牢でそんな物を渡されてもすぐにゴミ箱行きだ。
「ここに閉じ込められてる間のことは知らないが、後は……地下牢でフードを被った奴と、科刑所で白い奴を二人見た」
「二人……? 白い奴は一緒に行動していたのか?」
「いや、別々だ。遠目に少し見ただけだからな……どっちも全身白かった。おそらく変転人だろうな。一人は確実に女だった。腕を負傷してるみたいだったな。包帯を巻いてた。もう一人は一瞬だったから性別はわからないが、鍔の広い三角の帽子を被ってた。あれは目立つ」
「……そうか。ありがとう。その二人は怪しいと感じたか?」
「いや別に……変転人なんて皆弱いだろ。そんなこと気にしない」
獣にとって変転人とはその程度の存在だ。取るに足りない、意識しない存在。武器を手にしていなければ見向きもしない。
「フードの奴は椒図と関係があるみたいだが、小柄な奴だった」
「ああ……。他に何か思い出したら、病院に行ってくれ。蒲牢がいる。僕の名前を出してくれれば伝わるだろう。僕はまだ出歩くが、科刑所をあまり無人にしておけない。睚眦はなるべくここにいてほしい」
「わかった……贔屓が言うなら……。偶に地下牢も見回っていいよな? また脱獄されたら堪らない」
「椒図のことか? それは稀なケースだと思うが」
「知ってるのか? さっきも言ったが椒図ともう一人いたんだ。フードの奴……そいつを取り逃がした」
それは蜃のことだろう。だが今は名前を出さない方が良いだろう。
「それはもういい。把握している」
「把握してる……? さすが贔屓だな……」
「ところで、睚眦は何故反省室に?」
狴犴が反省室に入れたのなら、彼女を外に出すなら理由を聞いておいた方が良いだろう。理由次第でまた喧嘩になり兼ねない。
「何故って言われてもな……。私もよくわからない。ただ頭を冷やせと言われて、いきなり反省室行きだ。自分で気付けと言ってるのかと考えてみたが、拷問の遣り方もいつも通りだし、心当たりがない」
困ったように溜息を吐く睚眦は、本当に心当たりがないようだ。いつも通り振る舞っていて何かが癇に障ったのか、今までの何かが累積した結果なのか。
「薬の所為で判断が鈍っていたのかもしれないな」
「迷惑な薬だな……」
呆れる睚眦を残し、贔屓は獏を促した。心当たりがない程度の理由なら解放して問題なさそうだ。睚眦が反省室に閉じ込められていたから、犯人は簡単に薬を回収することができた。些か都合が良過ぎる気がする。
(判断力を鈍らせるだけでなく、言うことを聞かせることもできるのか……?)
思考を続けながら贔屓と獏は去るが、やたらと気配が稀薄な獣が陰にいると睚眦は気付いていた。贔屓が何も言わないので放っておいたが、怪しいと言うならあの動物面が一番怪しい。
地霊もぺたぺたと贔屓の後を追って行く。
「僕達はここを出るから、睚眦についてやってくれるか? 睚眦も一人では手が回らないだろう。手伝ってあげてほしい」
「贔屓さん」
「ん?」
「負傷した変転人は白花曼珠沙華だと思われます。一時期よく狴犴さんの所へ行ってました。黒い変転人を殺した件で注意して見てました」
それだけ言うと地霊は踵を返し、ぺたぺたと睚眦の所へ戻って行った。
「殺したとは物騒なことを……」
「殺してないよ。たぶんスミレさんのことだ。君が神隠しの街に来た時、黒い男の人がいたでしょ? あれがスミレさん。黒葉菫だよ」
「そうなのか? 健在で良かった」
「死に掛けてはいたけどね」
「なら殺し損ねた、が正確なのか」
「それと白花曼珠沙華は死んだよ。悪夢に遣られた」
「! それなら白花曼珠沙華は容疑者から外すべきか……? 最初に薬を渡しておけば、それ以降接触はなくても……」
「白花曼珠沙華は拷問したけど、狴犴を慕ってるみたいだったよ。狴犴を陥れるとは思えないかなぁ」
「拷問って……何を遣っているんだ君は……」
幾ら何でも罪人に自由を与え過ぎではないかと贔屓は頭を抱えそうになった。
「となると怪しいのは三角帽子の白い人だね。そんな帽子を被った人は僕も知らない」
「拷問のことはまた後で聞こう……」
「それと、蜃が攫われた理由がちょっとピンと来たかもしれない」
淡い型板硝子の並ぶ廊下を抜けて科刑所から出た二人は、酸漿提灯の並ぶ石段を下りながら話し続ける。
「何だ? 話してくれ」
「蜃がどうやって椒図を脱獄させたか。これを考えてみて」
「……能力のことはあまり知らないんだが……化生前は街の実体を創り出せる程だったことを考えると……牢の鍵を作った?」
「僕もそう思う。直接聞いたわけじゃないけど。あんまり大きなことはできないみたいだけど、短時間の実体を作れるみたい」
「成程な……。犯人は何処かの鍵を開けてほしいか、何かをするために足りない物を補ってもらいたいのか……」
「うん。観察日記に欠損を補ったことが書かれてて、さっき睚眦が脱獄のことを言ったからピンと来たんだ」
「まさか……渾沌の封印を解こうとしているのか……?」
「……できるの?」
「どの程度の封印を掛けられているのかわからないが、時を経て綻んでいるとしたら、もしかしたら封印状態で指示を出すことも……?」
「……」
ぶつぶつと一人で思考を始めてしまったので、獏は黙って見守った。思考に集中して足元の蔦に引っ掛からないかと心配したが杞憂だった。昔宵街にいた頃とは蔦の様子も変わっているだろうに、引っ掛かりそうな蔦を器用に避けている。
「……。封印に関して僕は無知だ。考えても答えは出ないな……念のため僕も観察日記を見ていいか?」
「いいよ。狴犴のだし」
ノートを贔屓に渡すと、彼は歩きながら読み始めた。
「……所で今は何処に向かっているんだ?」
「花畑だよ。マキさんとアサギさんを先に回収しようと思って。……あと罪人の花魄がいるけど、揉めたりしないよね?」
「花魄もいるのか? 花魄は顔見知りだから…………罪人?」
ノートに目を落としていた贔屓は訝しげに顔を上げた。
「……とりあえずその話は後にしよう……僕がいない間の出来事を聞くだけで陽が暮れそうだ」
常に宵の空が見下ろす宵街で陽が暮れるという概念があるのかは定かではなかったが、言いたいことはわかった。
「贔屓も浦島太郎だねぇ」
幾らか石段を下りて横道の茂みへ入り、黒色蟹と出会った場所を通過する。今度は誰とも擦れ違わなかった。黒色蟹も言っていた通り、人通りはあまり無いようだ。
消えた街灯まで特に問題は起こらず辿り着き、観察日記を読み終えた贔屓はノートを獏へ返した。随分手塩に掛けて育てた変転人がいたものだ。
「この日記の苧環さんが中にいるからね」
「狴犴と奪い合っていた変転人だな」
「まあ……そうだけど」
蹲んで消えた街灯に手を置いて少し回し、二人は花畑へ入る。草花の生い茂る細い道を足元に注意しながら歩いて目立つ小屋を目指し、ぴたりと足が止まった。
「な、何あれ……」
白いブーツの両足が見えているが、体はうぞうぞと茂る草で覆われ地面に落ちている。草で隠れて顔は見えないが、白いブーツに見覚えがある。
「マキ……さん?」
生えているのは花魄が使う蔦ではなかった。辺りを見回すが、花魄も浅葱斑の姿も見当たらない。何か想定外のことが起きたのだ。
「マキさん!」
贔屓も困惑し、駆け出す獏に声を掛ける余裕はなかった。
「駄目――!」
白い体に生える草に手を掛けようとした獏の手がぴたりと止まる。制止の声が上がった方向――小屋の方を見ると、浅葱斑の肩に乗った花魄が蔦を振り回していた。掌に乗る程の小さな花魄はああでもしないと存在に気付き難い。
「……あっ、ま、ま――」
続いて突然蔦の葉で顔を覆い、浅葱斑の後頭部へ隠れようとする。
「大丈夫だよ、花魄! 贔屓は何もしないから。僕が保証する」
「そ、そう……?」
やはり元統治者の贔屓を恐れたようだ。罪人の獏が保証すると言うのなら大丈夫なのだろうと大きな蔦の葉を下ろす。
「それよりこれ……マキさんだよね? どうなってるの!?」
「ど……どうなってるんだろぉ……。……あ、でも抜くのは駄目よ」
目が泳ぐ花魄を乗せたまま、浅葱斑は小屋から出る。小屋の近くに倒れる白い体と草を恐る恐る覗き込み、顔を顰めた。
「何か惨い……冬虫夏草みたいだ……」
冬虫夏草とは簡単に言うと虫などに寄生する茸のことである。菌糸に侵された虫は殺される。白花苧環の死体から生える草はまるでその茸のようだった。
「えっと……僕にもわかるよう説明してもらえるかな……」
浅葱斑は肩の花魄へ視線を送り、花魄は蔦を地面に下ろした。蔦に捕まりながらするすると地面に下りる。
「まずは、これは苧環で間違いないわ」
草の茂る白い体を指差し、花魄はうんと頷く。
「そして生えてる草はオダマキよ」
「え……じゃあこれから花も咲くの? 咲いたら人に……あれ? でもこんなに簡単に? もう発芽しないかもって言ってなかったっけ? 何か凄く多いけど……」
植物の変転人が遺す種は一つではないのか、白い体からは数え切れないほど茎が伸びている。
「発芽しないかも、は絶対発芽しないわけじゃないから……それにしても多いわよね。私もそう思う」
花魄は白花苧環に接近し、見えている白い体に触れる。手も見えているが、指一本も動かない。
「土の所に置いてたから、もうしっかり根も張ってるのよ。隙間から見てくれると根が見えるわ」
小さな手で招かれ、獏も傍らへ膝を突く。確かに体と地面との間に根が見えた。
「死んだ植物系の変転人を土葬したらそこに同じ植物が生えてきた、なんて話もあるから、今回の件も死後時間が経過したことで体内から発芽したと推測してるの。死体のまま動かし過ぎたってことね……」
「理由はどうあれ、花が咲いたら人にしていいんだよね? こんなに早くマキさんに再会できるなんて」
「咲くかはわからないわよ」
「え?」
「まだ蕾ができてないでしょう? 凄く育ってるけど、オダマキの花期は初夏なのよね」
「観察日記にそんなことも書いてたな……」
「今は秋よ。まあここは人間の街ほど気温の変化は無いから、多少勘違いすることはあると思うの。それを踏まえても、成長が早い。早過ぎる。あと多い。凄く多い。体内に何個種ができてんの!? 植物としてのオダマキなら確かに種はたくさんできるけど! あと観察日記って何!?」
獏はノートを差し出し、花魄は受け取ろうとして押し潰されそうになった。花魄の小ささではノートは大き過ぎるようだ。地面に開いて置いてやる。
ノートの上に四つん這いになり、花魄は最初の頁を齧り付くように読んだ。
「……わかったわ! 欠損を補うために力を注ぎ過ぎた……例えるなら超強力な肥料ってとこかしら! それでこんなに成長が早く……」
「それに関してなんだけど……僕も後から生命力を……」
「ミックスしたの!? 苧環の体内大混乱じゃない!」
「そ、そんなに駄目なことだとは……」
「まあいいわ。それで何ともなかったんなら別に。無色だし。それで何かこう体内で革命が起こって、種が分裂したのかも」
花魄は大真面目だが、何だか投げ遣りに聞こえた。元は植物ではあるが、彼女は変転人に詳しいわけではない。適当な想像しかできない。
葉を掻き分けて草叢に潜り、小さな花魄の姿が見えなくなる。
「特に問題無くスクスク育ってるし、このまま育ててみる? それとも体と切り離して植え替える? 切り離すと環境が変わってどうなるかわからないけど」
「それじゃあ現状維持かな……。連れて行こうと思ってたんだけど、花守を頼んでもいいかな?」
「木霊ももうすぐ目を覚ますだろうし、いいわよ。予測できなかった私の責任もあるし」
草叢から顔を出し、ひょいと白い体から飛び降りてちらりと贔屓に目を遣った。
「良い所を見せておかないとね」
気にするなと言われても元統治者を気にしないことはできなかった。
「勉強になるよ、花魄。このまま変転人の研究をしてくれればいいのに」
「贔屓ぃ……! それは外に出てていいってこと!? サイズの所為で烙印はないけど、私、罪人よ!?」
「獏から聞いたよ。詳細は知らないから、後で聞かせてくれるかい?」
「拷問はやだぁ……」
目を潤ませる花魄の姿は他人に罪悪感を与えるが、贔屓は意に介さなかった。
「拷問はしない。普通に話を聞くだけだ。苧環が無事に開花すれば、狴犴も見直すだろう」
「! やってやるわ! ね! 浅葱!」
「え」
何か言いたそうに浅葱斑は獏を見るが、小さいとは言え花魄も獣だ。逆らえず頷いた。花魄に気に入られたのか、当分解放してもらえなさそうだ。
「アサギさん、もう少し花魄を手伝ってあげてくれる? それと花魄がマキさんに人の姿を与えるなら、マキさんが望むならこれを見せてあげて」
「……観察日記?」
地面に広げていたノートを拾って手渡す。白花苧環の記憶がどうなるか見当もつかないが、もし記憶が残っていたならノートを見ておいた方が良いだろう。
そして獏は浅葱斑の耳元へ、狴犴が入院していて眠っていることを伝えた。浅葱斑はノートを抱えたまま目を見開いてこくりと唾を呑む。
薬で妙な状態になっていたことも囁き、獏は顔を離した。
「花魄にはまだ、ね」
獏は口元に人差し指を立て、浅葱斑は真剣に頷いた。これは一大事だ。宵街の統治者が陥れられるなど特級の大罪ではないか。浅葱斑が狴犴に操られたことも、その薬の所為かもしれない。罪人の花魄にはまだ話さない方が良いだろう。罪人に狴犴の意識が無いなどと伝えれば悪事を企てないとも限らない。
「それと、三角帽子の白い人に心当たりはある?」
「えっ……ぅ……ボクはずっと宵街にいなくて、旅の後は獏の所にいたから……」
「そっか。じゃあ仕方ないね」
獏は微笑み、下がって贔屓を促した。
「それじゃあ、後はよろしくね」
小屋の陰の街灯へ向かい獏が小さく手を振ると、花魄はぶんぶんと大きく手を振り返した。浅葱斑も神妙な面持ちで青い頭を下げる。狴犴は恐ろしい獣だと思っていたが、本当に恐ろしい者の存在が浮上し、浅葱斑は震えそうになる手を握り締めた。




