91-痕跡
何者かに蜃が攫われ、宵街の病院は密かに混乱に見舞われていた。
獏を問い詰めるために神隠しの街へ行く贔屓達を見送った椒図は、丁度様子を見に来たラクタヴィージャの幼い少女分身体に、蜃のベッドに付着している血痕の調査を頼んだ。
病院に残った椒図は蜃の行方と攫った犯人に繋がる手掛りを探すために病室を一周したが、特に目ぼしい物はなかった。現場を維持するために床に散乱した焼菓子もそのままにしてあるが、ベッドのすぐ下に落ちているので、偶々当たって落としてしまったのだろう。手足を振って抵抗したならもう少し遠くに飛ぶのではと推測する。
(僕もこういうのは向いてないな……経験不足だ)
何に違和感を覚えるかは今まで生きてきた経験によるものだ。化生して間も無い椒図には圧倒的にそれが不足している。
(せめて足を引っ張らないようにしないと……。僕が犯人だと考える時間があるなら、真犯人のことを考えてほしい……)
軽率に一人になり最初に蜃の病室へ戻ってしまったことで、今回の疑いを掛けられてしまった。狴犴と蒲牢の病室には異常がなかったため蜃の病室へ戻ったのだが、皆が戻るのを待つべきだった。或いは蜃が攫われる前に戻るべきだった。
足取り重く部屋を出、狴犴と蒲牢の病室へ足を入れる。静かな部屋で落ち着いた方が良い。部屋の隅に膝を抱えて座り、椒図は膝に顔を埋めて項垂れた。
椒図の傷は軽度なのでもう痛みを感じることもない。座布団を敷かなくても平気だ。
目を閉じると暗闇が下り、思考も落ち着いてくる。やはり何も見えない方が安心できる。
暫くそうしていると贔屓達が戻ってきたが、椒図は病室を出なかった。経験不足の椒図が出て行っても役に立てることはない。
贔屓達も椒図のいる病室のドアは開けず、蜃の病室に暫く留まった後また出て行った。
蜃がいなくなってからは特に異変は起こらず、事件に進展がないまま数日が過ぎた。
ラクタヴィージャは何度か狴犴と蒲牢の様子を見に来たが、椒図のことは眠っていると思い声を掛けることはなかった。動かない椒図に視線を向けるが、話したいことはあっても睡眠の邪魔はできなかった。
椒図は何日も飲食せず体勢も変えずに座り込んでいたが、不意に肩に何かが触れたことに気付いた。首筋に触れたそれは布のようだった。
顔を上げそれに触れると、それはベッドの傍らに畳んであった破れた蒲牢の上着だった。落ちてきたらしい。
「…………寝てるのかと思った」
思い掛けない小さな掠れ声が降り、椒図ははっとベッドの上へ視線を上げた。
「ほ……蒲牢!?」
瞼が重そうな銀色の憂える双眸がぼんやりと椒図を見下ろしていた。
椒図は跳ぶように立ち上がり、行き場のない手を泳がせる。ここ数日で一番の変化だ。事態を呑み込めず目を見張りながら暫し彼を見詰める。もう目を開かないのかと思っていた。再びその澄んだ清流のような瞳を見ることはないのだと思っていた。これは夢ではない。
下手に触れて傷が痛むといけない。するりと肩から落ちた上着を彷徨う手で拾い、平静を取り戻す。
「傷は……」
ベッドに座り込んだ蒲牢の腹へ視線を下ろし、椒図は恐る恐る尋ねた。白いガウンに隠れているが、腹にはまだ痛々しく包帯が巻かれている。あまり表情を動かさない蒲牢は外面的に具合を推量できない。
「……動くと痛むけど、激痛って程じゃないよ。それより、あれからどうなった?」
世間話でもするように問い掛けてくる。おそらく何日も眠っていた自覚が無い。重傷を負ったことも覚えていないのではないかと思う程、感情に抑揚も無い。
蒲牢はゆっくりと辺りを見渡す。体を捻ると腹が痛んだが、振り返ると開いたカーテンから眠る狴犴の姿が見えた。彼が死んだという感覚は無い。腕に点滴も刺さっている。ならば生きているはずだ。
「何があったか覚えてるんだよな……? 悪夢は獏が始末した。狴犴は……まだ目を覚まさない。蒲牢も目を覚まさないんじゃないかと……」
「覚えてる……悪夢は嫌い……。獏は元気?」
随分間の抜けた言葉だったが、怪我がないか訊いているのだろう。目覚めたばかりでまだ思考が覚束無いようだ。
「元気……だと思う。今は神隠しの街にいる。今は静かだから、贔屓と饕餮も……」
「皆で? 俺がちょっと寝てる間に何かあったのか?」
「ちょっとじゃない……二週間くらい寝てた」
「えっ……そんなに……?」
蒲牢はきょとんと目を瞬き、枕を背に座り直した。睫毛を伏せ、記憶を手繰るように考える。
「そんなに重傷だったのか……。道理で喉が渇くはずだ」
「持ってくる」
破れた上着を枕元へ置き、蒲牢が目覚めたことにまだ実感が湧かないまま椒図はドアを開けた。
「っ!」
すぐ目の前に、ドアを開けようとして手を上げたままのラクタヴィージャが驚いた顔で見上げていた。
「……びっくりした。慌ててどうしたの? あっ、そうそう。蜃のベッドの血痕は蜃の血で間違いないわよ。君、ずっと寝てたから」
「ら、ラクタ……水を……」
「え?」
途惑いながらも背後を示すと、ラクタヴィージャもすぐに気付いた。目が合った蒲牢は小さく手を上げる。
「目を覚ましたの!? 目覚めるか心配だったけど、生命力が凄いわね……わかったわ、水は私が持ってくるから、椒図は付いててあげて」
直ぐ様状況を把握し踵を返す背を見送り、さすが医者だと思いながら椒図はベッド脇に戻った。
「……今、蜃の血がどうとか……? 何かあったのか?」
静かな部屋の中だ、聞こえてしまったようだ。不思議そうに首を傾ぐ蒲牢を振り返り、椒図は躊躇う。
「それは……」
目覚めたばかりの蒲牢にこの問題を話して良いものか迷う。会話を続けるだけで疲れるはずだ。穏やかに療養する方が良いに決まっている。
「話せないことなら無理に聞き出しはしないけど、もし俺だけ仲間外れなら心外だ」
「そういうわけでは……」
迷った末、病院にいる以上は知っておいた方が危険に際して対応できるはずだと考え、話すことにした。不安を抱えず療養してもらいたいが、何も知らずに巻き込まれるよりは良いだろう。
「……蒲牢の意識が無い間に――」
千切れた腕が落ちてきた件から椒図は状況を話した。贔屓達が犯人の手掛りと攫われた蜃の行方を捜していると。
聞き終えた蒲牢は天井を見上げ、ぼんやりと言葉を噛み締めた。
「俺が寝てる間にそんなことが……。誰かがいなくなるのは……嫌だな。椒図も疑われて大変だったな」
蒲牢は化生前の幼い頃を思い出し、順にいなくなった兄弟達を重ねた。あの時のように殺されてはいないだろうかと不安になるが、椒図の前で顔には出さない。
「僕のことは別に……。疑われても仕方ない。一人でいたんだから」
「ここの様子を見に来た時、蜃の部屋から物音とか声とか聞こえなかったのか?」
「……何かが落ちた音は聞こえたが、不審な音じゃないと思った」
音はおそらくベッドに置いていた焼菓子と包み紙が落ちた音だろう。それ以外は別段おかしいと思う音は聞こえなかった。
「声一つ聞こえなかったなら、先に口を塞がれたんだろうな。血は少ないみたいだから、喉を潰されたわけじゃないみたいだ」
「こんなに近くにいたのに、僕は何も気付かず何もできなかった。犯人だと思われても仕方ない」
「……そんなに思い詰めるな。贔屓が捜査してるんだろ? なら、きっと大丈夫だ。獏も意外と頭が回るからな」
「…………」
椒図は俯き、口を噤む。疑われる上に力になれることもない。病院でただ蒲牢と狴犴が目覚めるのを待つだけだった。何か行動してそれが悪手になったらと思うと動けなくなり、理由を作って病院で閉じ籠っていただけだ。
罪悪感に押し潰されそうになる椒図の意識を戻したのは、再びドアを開ける音だった。
「――薬水、作ってきたわよ。痛む所はある?」
ラクタヴィージャはコップに薬水を注ぎ、ベッド脇の机に水差しを置く。水に白い花弁が浮いている。蜃に飲ませていた物と同じ物だ。
「動くと腹が痛い」
受け取った蒲牢はコップを見下ろし、ゆっくりと口を付けた。
「……甘い」
薬と言うからには苦いと思ったのだが、仄かに甘くて安心した。
「派手に穴を空けたからね……内臓にまだ損傷が残ってるみたいね。薬水で臓肥桃の生長を促すけど、あんまり動かないように」
薬水と共に持ってきたもう一つの物を手に狴犴のベッドへ行くラクタヴィージャを蒲牢は目で追う。
狴犴に投与している点滴のパックはまだ中身が残っているが、それを新しい物に取り替える。
「蒲牢がこの前持ち込んだカプセル薬なんだけど、やっと分析が終わったのよ。後回しにしてたことを謝るわ。……同じ成分が狴犴の体内からも検出されたの。その薬の効果を早く除去するために、少し荒療治だけど特別な点滴に替えるわ。獣なら大丈夫」
「そんなに不味い物だったのか?」
持ち込んだカプセル薬とは、科刑所の狴犴の部屋の机から見つけた物のことだ。病院に持ち込んだ所ラクタヴィージャが処方した物ではないと言われ、手隙の時にでもと調べてもらっていたのだ。何の薬なのか半分は好奇心だったのだが、どうやら想定外の代物だったらしい。
「例えるなら遅効性の毒か麻薬のような物ね」
「え……毒!? 何で狴犴がそんな物……?」
サプリメントか何らかの病気に対する薬かと予想していたが、まさか毒薬だとは夢にも思わず耳を疑った。そんな物が狴犴の体内からも検出されたと聞き、蒲牢は思わず体に力が入り腹に痛みが走った。
「あと狴犴の体からは出て来なかった……と言うかもう消化されてるみたいだけど、薬から変換石の成分も出たわ」
点滴の針を刺し直し、ラクタヴィージャは困ったように唸る。
「……狴犴が効果を知ってて呑んだのか知らずに呑んだかはわからないけど、ざっと簡単に薬の効果を話してあげるわ」
蒲牢は息を呑み、何の話なのかまだ理解が及ばない椒図も黙って言葉を待った。
「まず、疲労感が軽減される」
「……それは良いことじゃ?」
「まあ待ちなさい、蒲牢。疲労感軽減と言っても脳を錯覚させるだけで、実際に体から疲労が抜けるわけじゃない。体の限界に脳が気付かず危険なのよ。他にも、思考力や判断力の低下。そして疲労を感じないのをいいことに、それを逆に増幅させて生命力を漏出させる。徐々に弱らせて縊り殺すような薬よ」
「そんな物……狴犴が知ってて呑むはずがない!」
思わず身を乗り出して腹の傷に障った蒲牢は背を丸め、ラクタヴィージャは慌てる様子もなく落ち着いて体を支えた。
「そうよね……私もそう思うわ。元々過労状態だったから、表面上は過労で倒れたようにしか見えないのが厄介だわ。……疲労感が軽減されることに魅力を感じたとしても、リスクが大き過ぎる」
「っ……一体誰がそんな物……」
「薬と狴犴の体に残ってる物は誰かの能力っぽいのよね。残念だけど目に見えない力は他者には暴けない。体に起こった結果だけを診て想像して判断するしかない。――で、それを特別な点滴で除去するんだけど……。贔屓が戻って来たら彼にも話すわ。それまで蒲牢は大人しく寝てて。傷口が開かないように。……と、その前に」
困惑する蒲牢と椒図に目を遣り、ラクタヴィージャは片手を広げて見せた。
「二人共、片手でいいから手を広げて見せてくれる?」
「?」
唐突な要求に二人はきょとんとし、椒図は蒲牢を一瞥する。どうやら蒲牢にも理解できないらしい。置いてけぼりは自分だけではないと知り椒図は少し安心した。
薬と何か関係があるのだろうかと二人は言われるがまま片手を広げて見せると、ラクタヴィージャは真剣な目でそれを凝視した。手に何かあるのだろうか、まさか手相を見ているわけではあるまいと二人は静かに言葉を待つ。
「……やっぱり精々その程度よね」
「ラクタ……?」
「蒲牢は蜃が攫われた話は聞いた? 腕と脚が落ちてきたこととか」
「聞いた……」
「良かった、説明の手間が省ける。その落ちてきた腕と脚なんだけどね、断面が引き千切られたようだったんだけど、強く握った跡があったわ」
「!」
「屋上に残されてた体の方も調べたけど、死後時間が経過してるにも拘らず死斑は何処にも無かった。血を巡らせる細工が施されてた。だから跡が残ったのね。それでその手の跡なんだけど――」
冷静に淡々と説明をしていたラクタヴィージャは、椒図が落ち着きなく瞬きをしながら目を伏せたことに気付く。死斑が何なのか理解していない顔だが、言い出せないようだ。簡単に説明を加える。
「人間は死んで心臓が止まると血液の流れも止まるんだけど、その血液が重力に従い地面に近い方へ下がって、そこに紫色の斑点が現れるの。これが死斑よ。……獣だと少し違うんだけどね。時間が経過するとその色素は体に定着するんだけど、今回利用された変転人の死体にはそれが無かったのよ」
細工したのが犯人なら、わざわざ手の跡と言う証拠を残したことになる。不可解だ。饕餮が過失を隠蔽しようと施した細工だと知らないラクタヴィージャは頭を捻るしかなかった。饕餮も勿論、こんなことになるとは思っていない。
椒図も理解し、こくりと小さく頷いた。説明の手間を掛けさせてしまったと申し訳なく思う。
彼女は二人の手をもう一度繁々と見詰め、腰に手を当てる。
「それで、その手の跡は普通の人のサイズと比べて、かなり大きいの。二人の手だと蒲牢の方が少し大きいけど、跡はそれよりもかなり大きい。手だけが凄く大きい場合でない限り、手に比例して体も相当大きいはず」
「……狴犴や狻猊より?」
身近な高身長として兄弟の姿を思い浮かべながら蒲牢は尋ねた。兄弟の中で最も身長が高いのは狻猊であり、次に狴犴だ。二人共身長が百八十センチメートル以上ある。
「狴犴と狻猊より大きいわ。二メートルは優に超えるはず」
「大きい……」
自分の手を見下ろし、蒲牢は戦慄した。そんな大きな獣は見たことがない。だが花魄のように小さな獣がいるなら、逆に大きな獣がいてもおかしくはない。
「そんな大きい獣に蜃は攫われたのか? そんな大きい手……蜃じゃ振り解けない」
小柄な少女の姿である蜃の力では指一本剥がせないだろう。残された血の量から見ても、殆ど抵抗できず攫われたのだ。
「二人のその新鮮な反応だと、大きな獣に心当たりは無さそうね」
「長く生きてても、あんまり他人と交流はしてこなかったから……」
昔宵街を統治していたのは贔屓であり、それを支えていたのは鴟吻だ。蒲牢が手伝っていたのは、言うことを聞かない反抗的な獣に対して粛清を行うこと。贔屓の手が届く範囲では贔屓自身が事に当たるため、手の届かない部分を蒲牢が手伝っていた。つまり罪人であっても蒲牢は全てを把握しているわけではない。
「大体の獣は交友を増やさないでしょ。能力がバラバラで力関係が容易に崩れるもの」
「……それだけ大きいと、視界に入れば目立つと思うから……宵街にはいなかったのかも」
「そうね。私も外来患者を思い出してみたけど、該当する獣はいなかった。もっと早く言ってあげたかったけど贔屓達は人間の街で捜査してるみたいで戻って来ないし、私も点滴を作るのに時間が掛かって手を離せなくてね……。また何かわかったら知らせに来るわ。狴犴の容態も注視しないとだし。もし狴犴に変化があればすぐに知らせて。これだけ耐えた頑丈な体なら大丈夫そうだけど。君達兄弟は皆頑丈なの?」
俯いて暗い顔をする椒図を励ますように、ラクタヴィージャは最後に笑いかけた。化生したての彼はまだ獣の体のこともきちんと理解できていないだろう。不安は和らげてやりたい。
ラクタヴィージャは蒲牢に目配せし、蒲牢も椒図を一瞥して頷く。会って間も無いとしても、兄弟が励ます方が安心するだろう。病室を出る彼女を見送り、蒲牢は椒図に椅子に座るよう促した。
「椒図はちゃんと寝てるか?」
「……え?」
唐突な間の抜けた質問に椒図ははたと目を瞬く。蒲牢はいつも何を考えているのかわからず、緊張感が無いと椒図は思う。
「獣が怪我をしたり疲弊した時は、回復のためにとにかく寝るのが大事だ。後は食べること。逆に言えば、しっかり寝れば回復する。狴犴もそうだ」
「…………」
言いたいことがわかり、椒図は狴犴のベッドを見た。時間は掛かってもきっと目覚めると言いたいのだ。
「俺だって目が覚めたんだから。……今はちょっと……お腹が空いたけど」
「ラクタに言って何か貰ってこようか……? 食べられるなら……」
何を食べて良いのかラクタヴィージャに相談した方が良いだろう。蜃と同様だとしたら固い物は与えてはいけないはずだ。それに先程ラクタヴィージャは、蒲牢の内臓はまだ損傷が残っていると言っていた。
「甘い物……」
範囲を狭めて要求し出したので、椒図は立ち上がった。贔屓から貰ったカステラを残しておけば良かったと思いながら部屋を出る。
廊下を小走りで去る音を聞きながら、蒲牢もゆっくりとベッドから足を下ろした。腹が痛むがぺたぺたと裸足で狴犴のベッドへ歩み、眉間に皺を寄せる顔を見下ろす。
(出所のわからない薬を信じて呑むなんて……余程追い詰められてたのか、薬を渡した誰かが信用に足る人物だったのか……)
攫われた蜃は勿論心配だが、宵街の統治者を陥れた者も突き止める必要がある。
(目的はわからないけど、普通に考えたら狴犴に恨みがあるってことだよな……嫌なことにならなければいいけど……)
苦しそうに険しい顔をしているが、魘されたりはしていない。それすらできないほど弱っているのではないかと嫌な想像ばかりが過ぎる。
蒲牢は自身のベッドへ戻り、腹を押さえながら壁に背を預ける。まだ歩くだけで精一杯のようだ。
「ラ――――」
小さく声を出してみる。少し腹に響くが歌えそうだ。悪夢に口腔から入り込まれた時、もう歌えないのだと思った。言葉のみならず声まで奪われていたら、きっと生きる意味も見失っていただろう。
子守歌のように小さく歌っていると、ふとドアから視線を感じた。椒図が戻って来たのだろうかと顔を上げると、様子を窺うようにドアを開ける赤褐色の目と合う。
「贔屓……」
「目が覚めたのか? 歌が聞こえたから」
「贔屓……えっと……話したいことが、幾つか……どれから……」
「目覚めたことはラクタは知っているのか? 落ち着いてゆっくり話してくれればいい」
贔屓の顔を見るなり慌てて歌を止めるので、焦らせないように贔屓も穏やかに対応する。背後にいた窮奇は何を悠長なと顔をやきもきと顰めるが、目覚めたばかりの患者に鞭を打つことはできない。饕餮が後ろから服を引っ張って制止している。
「ラクタは知ってる……。蜃のことも椒図から聞いた。攫った人の手掛りと……俺も言わないといけないことが」
聞き流せない言葉が聞こえ、最後まで言うのを待ちきれず窮奇は制止の手を振り解いて贔屓を押し退け蒲牢の胸座を掴んだ。
「おい! 攫った奴の手掛りって何だ!? 犯人がわかったのか!?」
「窮奇、落ち着け!」
また贔屓が杖を出すので、饕餮は慌てて窮奇に駆け寄った。脇に手を挟み蒲牢から引き剥がす。
「饕餮……」
「!」
変転人を殺したことで蒲牢に追われていたことを思い出し、饕餮は窮奇を引き摺りながら彼の背に隠れた。贔屓は許してくれたが、蒲牢も許してくれるとは限らない。
「蒲牢。饕餮から変転人を食べた理由を聞いた。今は粛清を保留にしてほしい。狴犴からも話を聞くべきだ」
贔屓が見方になってくれて良かったと饕餮は心底思った。気休めなのではと思っていたが、本当に弁護してくれている。
「……その狴犴について、話したいことがある」
「先に蜃の方だろ!? 何で狴犴なんか……!」
暴れようとする窮奇の腰に腕を回し、饕餮は彼を持ち上げ思い切り仰け反り頭から床に落とした。
「っ……!」
幾ら獣とは言えこれは痛そうだと、出入口で様子を窺っていた獏は動物面の奥で顔を顰めた。
鈍い妙な音を聞き付けて小走りで戻って来た椒図は出入口に立つ獏に目を遣り、中を覗く。何がどうなったのか床で倒れる窮奇に眉を顰めた。
紙袋を二つ抱えた椒図に蒲牢も気付く。
「おかえり、椒図」
「甘い物……ラクタのおやつを分けてもらった。食べられるならよく噛んで食べて、と言ってた」
「ありがとう。とりあえず机に置いて。まず話をするから」
蜃の時は慎重に飲食を進めていたが、蒲牢に対してラクタヴィージャは些か扱いが適当だ。蜃の場合は椒図の力で閉じられたことが原因のため慎重になっていたが、獣の腹に穴が空いたくらいでは慎重にならずとも良いのだろう。食べて回復しなければならないので、自己責任と言うわけだ。
言われた通りにベッド脇の机に紙袋と木皿を置き、壁際に下がる。気絶はしていないようだが、窮奇は床でぐったりしたまま起き上がらない。
窮奇が大人しいことを確認し、漸く蒲牢は話すことができた。
「急いでるなら前置きは無しだ。……科刑所の狴犴の部屋に薬があって、ラクタに見てもらったんだ」
「薬……?」
「病院に行けば何の薬かわかると思って……。でもそれは病院で使用されてる薬じゃなくて、出所不明だった。それを調べてもらったんだけど……」
兄弟に関することなので、饕餮も息を呑みながら静かに先を促す。
「疲労感を軽減させる錯覚を引き起こし、思考力や判断力を低下させ、徐々に弱らせて殺すような薬らしい」
饕餮は怪訝に贔屓を見上げ、贔屓も眉を寄せて渋い顔をした。
「生命力を漏出させる薬だって言ってた……。元々過労はあったから、それで表面上は過労にしか見えないらしい」
「薬一つで獣を陥落できるとは思わない。継続的に呑んだんだろうな。依存したとしても、最初は自分の意思で呑んだはず。薬の効力を伏せられ騙されたか……?」
驚きはするが冷静に考え込む贔屓の外套の裾を引いて饕餮は恐る恐る立ち上がり、思い付いた一つのことを震える声で訥々と言葉にした。
「まさか……我に変転人を食べていいと言ったのは……思考と判断力が低下してたからか……? 我はそれに気付かず罪を……地下牢に入れられるのか!? 一生地下牢に……!」
「それについては僕が弁護すると言っただろう? 正常な判断が下せなくなっていた狴犴にその記憶があるかはわからないが……。それより重罪なのは狴犴に薬を渡した者だ。狴犴が信用する人物……もしくは言葉が巧みな人物は誰か、だ」
「贔屓が心強い……!」
泣きそうな顔をしていた饕餮は気持ちを持ち直し、贔屓がいれば鬼に金棒だと腰に両手を当てた。
ころころと表情を変える饕餮を一瞥し、蒲牢も記憶を手繰る。
「暫く宵街から離れてたから、狴犴の周りのことはあんまり……。だけど、狴犴の机に苧環の観察日記みたいな物があった。大事に育ててるように感じたよ」
それには獏が面の奥で険しい顔をする。信用する人物として彼が挙げられたことを不満に思う。彼は狴犴に殺されたのだから。
「忘れたの? 白花苧環は死んでるよ。死んだ時にポケットを調べたけど、薬と思しき物は見つかってない。それはどんな形状の薬なの?」
「白いカプセル薬だよ。引出しに袋があって、中にまだ何個か入ってた。確認したいならまだ狴犴の机に入ってるよ。俺は一つ持ち出しただけだから」
「やっぱり見てないね。でも観察日記っていうのは気になる。後で見に行っていいかな? それとも、罪人が行っちゃ駄目?」
「……仕方無い」
考えていた贔屓は決心して頷いた。狴犴が目覚めない理由が只の過労でないのなら、自業自得だとも言えない。
元々の過労に加えて悪夢に遣られた傷もある。生命力を回復させるにはまだ時間が掛かるだろう。彼の目覚めを待っている暇は無い。
「狴犴が眠っている間、僕が統治の代理を行う。長期間その席を空けているわけにはいかない。代理と言っても罪人を裁く仕事などはするつもりはないが、諸々の許可は僕が出す。そろそろ勘の鋭い者なら科刑所に狴犴がいないことに気付くだろう。その時は僕の名前を出せば抑止力になるはずだ。獣なら僕を知っているはずだからな」
「……と言うことは?」
「獏に科刑所を調べる許可をやろう。――但し、最低でも一人は監視を付けておいてくれ。さすがに宵街で罪人を自由にさせていると、狴犴の顔に泥を塗ることになる。目覚めた時にまた喧嘩になる」
後半は戯けるように肩を竦める。非常事態に四の五の言っていられないが、何処かで戦闘にならないとも限らない。複数人で行動する方が安心だ。
「わかった。誰か一緒に来てくれる?」
「……あ、待って。もう一つ話が」
すぐにでも病室を出て行きそうな獏を呼び止め、蒲牢はもう一つの、蜃を攫った犯人の手掛りを話す。
「蜃のことなんだけど」
名前を出した途端、倒れていた窮奇が勢い良く起き上がった。脳震盪を起こしてぐったりしていたわけではない。落ちた学帽を拾ってきゅっと被り、表情を引き締める。どうでもいい狴犴の話はやっと終わった。
「上から腕と脚が落ちて来たんだよな? その二つに犯人と思しき手形が残ってるらしい」
「! 手から犯人が割り出せるのか!?」
「知らない相手は情報が無くて特定できないと思うけど……。腕を引き千切る時に力を籠めたのが跡になってるらしい」
皆によく見えるように蒲牢は片手を広げて見せる。窮奇は息を呑みながら怪訝に掌を凝視した。彼は繊細な顔をしているが、手は間棒を振るう力強い男の手をしている。
「普通の男の手よりもかなり大きいらしい。体長は優に二メートルを超えるだろうってラクタが言ってた」
「二メートル!?」
自分の手も広げて見ながら、窮奇は饕餮に目を遣った。二人は突然顔色が悪くなった。
「心当たりがあるのか?」
小さな獣がいるなら大きな獣がいることも贔屓は知っている。だが犯人と断定できる獣に心当たりはなかった。窮奇と饕餮の反応は明らかに何かに思い至っている。
「あいつ……身長どのくらいだった? 饕餮」
「二メートルではない……もっと大きい……」
「だよな……? 会ったのが昔過ぎて記憶が怪しい」
「心当たりがあるなら話してほしい。二メートル以上あるなら」
「!」
窮奇と饕餮は顔を見合わせ同時に叫んだ。「檮杌だ!」
先に名前の上がっていた四凶の一人を改めて場に出す。散々頭が悪いと言っていた獣だ。
「檮杌の身長は……三メートル以上はあったよね!?」
「それはお前が小さいから言い過ぎてないか?」
「そこまで小さくないぞ! 蜃より大きい!」
「可愛い蜃の大きさだと檮杌は四メートルに見えるか? それとも五メートル?」
「五メートルが病室に入ったら天井を突き破るだろ!」
窮奇ははっとし、納得して神妙に頷いた。
「いやでも檮杌は……頭が良くなったのか? 計画を練るタイプじゃねーぞ」
「我もそう思う。勉強でもしたのか……?」
それだけが当て嵌まらず、二人は首を捻る。
二人の発言では正確な身長は判然としないが、とにかく大きいことは間違いなさそうだ。二メートルはともかく、三メートルだと屈まないと廊下を歩けないだろう。出入口のドアの高さを確認し、病室に入れるのだろうかと贔屓は首を傾げた。
「……タイミングを考えると、狴犴の薬の件と関係がある可能性もあるな」
贔屓は思考しながら少し自信が無さそうに言う。饕餮と窮奇の話す限りの人物像しかわからないが、薬を狴犴に渡した人物が檮杌だとは思えない。
「檮杌を仮に犯人とすると、おそらく単独犯ではない。二人の言っていた渾沌はどうだ? 動けないそうだが……仮にだが、狴犴を騙せそうか?」
「全然信用できないと思うぞ、あいつは……」
饕餮はげんなりとし、窮奇も歯に何かが挟まったような微妙な顔をする。
「檮杌は只の馬鹿だが、渾沌は……頭が固い。でも頭は悪くない」
「窮奇よりは確実に頭が良いぞ。比べ物にならないくらい。故に本心が見えず信用はできん。あいつが薬なんて出してきたら怪しくて堪らんわ」
こちらはこちらで散々な言われようだが、人物像の輪郭は見えてきた。知っている者から見れば信用できないようだが、知らない者から見れば印象も変わるだろう。
「……まあでも、犯人が四凶だと言うなら、我らが尻拭いをしないとね?」
「そうだな。蜃を攫った罰は受けてもらわねーとな」
怒りを抑えきれずに殺気が駄々漏れになる二人を贔屓はまだ宥めておく。今すぐにでも飛び出して行ってしまいそうな二人を抑え、他に何か話すことはあるかと蒲牢に目を遣る。
蒲牢は少し考え、首を振った。
「ラクタから聞いた情報はこれだけ。寝てる間に目紛しく状況が変わってて追い着くのが大変だけど……何とか理解できてるか?」
「ああ。目覚めたばかりですまないな。蒲牢の御陰で大分進展した。ラクタにも礼を言っておく」
「手分けして捜すことになるみたいだけど、手伝えなくてごめん。まだ完治してなくて」
「それはいい。蒲牢は自分の体を第一に考えてくれればいい」
「……狴犴が目覚めたら話は聞いておくよ」
「ああ。――椒図も、蒲牢と狴犴を頼むよ」
椒図は自由に動けるのに、病院に残るよう指示された。疑われているから見張りのある病院で待機していろと言われているような気がして、贔屓はそんなことを言うような人ではないと心の中で否定はするが複雑な気持ちだ。
大事な話は終わったので蒲牢は枕元の紙袋を開け、木皿に傾けた。一つは銀箔がキラキラと輝く雪のような四角い物が山になり、もう一つはどすんと重そうに丸い物が転がった。
「……二種類?」
相談を始めた贔屓達を前に、不思議そうに蒲牢は椒図を見上げる。甘い香りがするので菓子ということはわかるが、初めて見る物だった。
「甘い物と言ったら、その球体を最初に出されて、考え直して四角のを渡された」
「……?」
「丸いのがシロップに漬けたドーナツで、グラブジャムンと言ってた。四角いのはココナッツのバルフィって」
「……穴が無いのにドーナツ?」
ドーナツは知っているが、それは中央に穴が空いている菓子だったはずだ。不思議そうに丸いグラブジャムンを抓み上げる。シロップに漬けているだけあって確かにしっとりと濡れている。美味しそうに焼けた色だ。
「んっ……!?」
よく噛んでと言われたので小さく一口齧り、蒲牢は腰を折った。
「蒲牢? まさか傷に……!」
焦る椒図の声が聞こえ、贔屓達も振り返った。これ以上まだ何か起こるのかと緊張が走る。
「あ……甘い……とてつもなく……」
想像以上の甘さが襲い、蒲牢は驚いてしまったようだった。
「あー! ずるいぞ蒲牢! 我も行く前に腹を満たす!」
「蒲牢が甘い物って言うから甘い物を出してくれたんだが……」
甘過ぎて普通の病院では絶対に出されない菓子だろう。蒲牢の手から饕餮も食べ掛けのグラブジャムンを齧り「あまぁ!」ふるふると震えながら叫んだ。だが饕餮は気に入ったようで、蒲牢が食べないのならと平らげた。指まで齧られそうになり蒲牢は慌てて手を引く。
こちらはどうだろうと蒲牢はおっかなびっくりもう一つの菓子バルフィを抓み、警戒しながら端を少し齧った。
「甘い……けど美味しい……」
こちらも甘いが、グラブジャムン程ではない。ミルクの味がして口の中で溶けるようだった。饕餮も木皿に山となるバルフィを一つ抓み「あまぁ!」美味しそうに食べた。
「ラクタは兎に角甘い物が好きだからな……。グラブジャムンは確か、世界一甘いドーナツだそうだ。僕も一つ貰っていいか? 頭を回さないと」
贔屓までバルフィを抓み出すので、獏も頭を動かすために一つ貰った。確かにとても甘い。こちらでも甘いのだから、グラブジャムンの甘さは相当なものなのだろう。
「……オレも喰った方がいいか? 頭が良くなるなら……」
「良くなるわけではないけどな。窮奇が喰うと気が狂いそうなほど甘いぞ」
「……やめとく」
手を伸ばしかけたが、思い直して引っ込めた。人間の肉を主食とする窮奇は人工的な甘い物が苦手だ。上手く消化できるかもわからない。蜃が甘い菓子を美味しそうに頬張っていた時も何が美味しいのか理解できなかったが、蜃が美味しいと思うなら美味しいのだろうと無理矢理納得していた。先に何でも食べる饕餮がいたため、ある程度は慣れている。
「では僕と獏は科刑所へ行ってくる」
「……やっぱり君が来るの?」
「監視としてこの上ないだろう?」
「代理とは言え統治者自らって……罪人としては息が詰まるね」
「今まで通り接してくれて構わないよ」
贔屓に背中を押され、獏は渋々病室を出た。椒図は病院に待機で、饕餮と窮奇が四凶の尻拭いとなると、残るのは贔屓だけだ。饕餮と窮奇に処理を丸投げするわけではないが、対象はすぐには見つからないだろう。この数日人間の街で檮杌の痕跡を探したが、真新しい死体などは見つからなかった。
二人が出て行くと窮奇はどっかと蒲牢のベッドに腰を下ろし、腕と脚を組む。
「……饕餮と窮奇はまだ行かないのか?」
怪訝に小首を傾ぐ蒲牢の問いには、抓んでいたバルフィを口に放り込んで饕餮が答えた。
「檮杌が犯人と仮定しても、居場所がわからん! 人間の街で手掛りを探したが、獣なんて転送ですぐ移動できるからな! だがこうも痕跡を残さないとなると、もし檮杌なら絶対に誰かと一緒にいる!」
「おう! 蒲牢も考えろ!」
「……それ、贔屓に言った方が良かったんじゃ……」
呼び戻そうにも贔屓と獏はもう病院を出ただろう。蒲牢は呆れながら薬水を飲む。
「蒲牢も頭良いよね? ね!?」
「会ったことすらないんだけど……」
寝起きの頭で何処まで思考できるかわからないが、遣るしかないようだ。
「じゃあまず、情報を整理していいか? 椒図の視点だけじゃなく、二人の視点も聞いておきたい」
「よし! 話すぞ窮奇!」
椒図も壁際に椅子を置き、黙って座る。疑われるだけではなく自分も考えなければと、三人と共にもう一度状況を整理した。




