88-挑発
窮奇が蜃の病室に置いて行った屍骸の処理は黒色蟹に任せ、彼はその足で食事を摂って来ると言い病室を出た。ぽつんと一人残った蜃は特にすることもなく、ベッドに横になって時間を潰すしかなかった。
(……暇だ)
獏と饕餮と窮奇は神隠しの街へ行った。窮奇が去って静かで平和だが、平和とは暇なのだ。蜃はもう自由に動いて良い体ではあるが、慎重なラクタヴィージャはまだ経過を観察すると言っている。命を閉じられて病院に運ばれる前例はないかもしれないが、そう起こるものでもない。今後のためにそんなに観察しなくても良いのにと思ってしまう。
あまりに暇で目を閉じかけた時、静かにドアが開いた。誰か戻って来たのかと目を開け、蜃は反射的に飛び起きた。
「……そのままでいい。起こしてすまない」
「やっ……別に寝てたわけじゃない……少し横になってただけで……暇だったから……」
まさか向こうから来てくれるとは思わなかった。化生して少し幼くなった椒図はドアを閉め、ベッドの傍らに立つ。
「な……何かあったか……? 目を覚ましたとか……」
予想だにしなかった状況にしどろもどろになってしまう。蒲牢と狴犴のいる病室から動こうとしなかった椒図が部屋を出るとは、彼らが目を覚ましたのかもしれない。その割には随分と落ち着いているが。蜃の方が途惑ってしまう。
「目は覚ましてない。まだ掛かると思う」
「そ、そうか……」
記憶が無くても椒図とまた友達になると豪語していたが、いざ対面すると何を話せば良いのか思い付かなかった。蜃にも記憶が無い方がまだ話せたかもしれない。蜃の記憶にある椒図は彼が死ぬ前のものだ。今目の前にいる椒図を全く別の者と考えないと、誰と話しているのかわからなくなる。死ぬ前の椒図の性格や思考が今もそのまま当て嵌まるとは限らない。同じなのは名前と髪の色だけだ。
「……改めて謝りに来た」
「!」
「他人の命を軽率に閉じようとしたことは、許されることじゃない」
「そっ……それは……悪夢のことを知らなかった……椒図の所為じゃ……ない……」
『知らない』。その言葉が胸の奥に深く突き刺さった。この椒図は何も知らない。そのことを改めて思い知り、俯いた顔から無意識にぱたりと滴が落ちた。
「!」
椒図は手を伸ばそうとし、指先が躊躇した。涙を拭おうとしたのだろうか、この手は。手を見下ろすが、答えなんて書いていなかった。
「……椒図、これ」
枕元に畳んで置かれていた服のポケットから小袋を取り出し、俯いたまま椒図に差し出す。
「これは……?」
「前の……椒図が作って使ってた金平糖……。力が使えない時に使うために、椒図の力を籠めた物だ。あと一つ残ってる。化生してても使えるかはわからないが……君が持ってる方がいい。俺はどうせ使えないし……」
「……わかった。貰っておく」
渡された小袋を覗くと小さな突起が幾つも生えた赤い粒が一つ、奥に見えた。今の椒図は金平糖が何なのかも知らなかった。
「化生する前は、僕とお前はどんな仲だったんだ?」
「!」
椒図は椅子を退け、床に膝を突いた。俯く蜃の顔を覗き込もうとしたわけではないが、蜃は顔を逸らしてしまう。尋ねられるほど『知らない』事実が深く突き刺さる。尋ねることは知ろうとしてくれている証明なのに。
「友達……」
「神隠しというものをしたそうだが、それについて詳しく聞きたい。それがどんなことであっても共に行ったことなら、もっと詳しく知れると思う。蜃のことを」
「椒図……」
「泣かせてしまってすまない。蜃は笑ってる方が可愛いよ」
「!?」
涙ぐむ瞳を丸くし、蜃は慌てて拭った。そうだ。この椒図は『知らない』のだ。
「お……俺は男だ! 女じゃないからな!?」
少女の姿をしていた先代の獏にも椒図はこのように『可愛い』と言ったことがある。女の子相手には自然とこういう言葉が出るらしい。そんなことだけ性格を継がなくても良いのに。
「……え?」
椒図は目を見開き、まだ薄らと涙が残る蜃の肩を両手で掴んだ。今までで一番、感情が表に出た。
「え!?」
「体は女だが……中身は男だから……」
「どういう……ことだ……?」
「俺も化生してるが、記憶を継いでるんだ。化生前は男だった。椒図のことも全部覚えてる」
「何だろう……。何となく懐かしい……感じがする……」
それは嘗て彼が言った言葉だった。地下牢で椒図に再会した時に言った言葉だ。偶然出て来た言葉にしろ、繋がりを感じる言葉が出て来たことに蜃は無意識に立ち上がろうとした。不安定なベッドの上で体勢を崩し、蹌踉めいて倒れそうになる。
「あっ……」
椒図も立ち上がり、倒れる蜃を支える。椒図も少し身長が低くなったが、小柄な蜃は軽く簡単に受け止められた。
「友達と聞いてはいたが、てっきり元カノなのかと……」
「椒図だ……」
再会した時と同じ言葉が出たことに、蜃の大きな瞳が滲む。『可愛い』と言ったことだけではなく、記憶が無くても思考は同じなのだ。
あの時の言葉は冗談だと蜃は気付いていたが、記憶の無い今は本気で言ったのだろう。
二人は呆然とし、背後で開いたドアの音にもすぐに気付くことができなかった。ドアを開けた窮奇の手からぽとりと包みが落ちる。
「お……オレだってその胸揉んだことないのに!」
「い――いきなり何言ってるんだ君は!」
「先を越された……」
「揉まれてない! 揉まれてないからな!」
椒図に寄り掛かる形で掴まりながら蜃は弁明する。
先を越されたと言うことは揉む気があるのかと、背を向けたまま椒図は困惑した。
「だってそんな抱き締め合って……」
「事故だ事故! 俺が急に立ったから、ふらついて……何で君に説明しないといけないんだ!」
開いたドアの脇に身を潜めながら饕餮が声を殺して笑っている。震える白い髪が見えていた。
「窮奇ぃ、抱擁なんて人間にとっては挨拶みたいなものだぞ。一々気にするな。腹が苦しい」
「そうなのか? そうなのか人間……いやこいつらは人間じゃ……」
人間の行動に驚愕しつつも窮奇はぱんと一度手を打ち、勢い良く腕を開いた。
「よし、オレにも来い!」
「行くわけないだろ!」
只の支えとして身を乗り出そうとする蜃を支えきれず、椒図は蜃をベッドに座らせた。あまり乗り出されると胸に顔を埋めることになる。幾ら男だと言われても体が女性なら安易に触れるわけにはいかない。
「窮奇、いつまでも阿呆やってないで、目的を思い出せ」
床に転がった包みを拾い、饕餮は窮奇の頭に軽くぶつけた。窮奇もはっと思い出す。
「そうだ蜃! 見舞いだ」
「……また動物の死骸か?」
顔を顰める蜃の前に包みを突き出す。仄かに甘い香りがし、蜃は首を傾げた。
「これはク……何だ、何だっけ……あ、カステラの仲間だ!」
「仲間……?」
首を捻りつつも包みを受け取る。どうやら屍骸ではないらしい。それでも警戒しながら包みを開く。中にあったのは冠のような焼菓子だった。カステラの仲間と表現したことにも頷ける色をしている。
「灰色はクグロフと言ってたぞ」
「あー、そうだクグロフだ。……ってオレが用意したことにしとけよ饕餮!」
「ああ海月か。じゃあ安心だな」
灰色海月の作る菓子は美味しい。彼女は蜃に最初は指のように細長いケーキを寄越してきたが、まさか丸々一ホールが届く日が来るとは。そのまま齧り付くには少し大きいが齧り付こうとし、少し考えて杖を召喚した。力を使いナイフを作り出す。適当に切り分けるとナイフは霧散する。
「椒図にもやる」
包み紙をベッドへ置き、蜃は膝を抱えて一欠片頬張る。
「美味い」
椒図はクグロフを見下ろし、窮奇を一瞥した。彼はこの世の全てを憎むような軽蔑するような目を椒図に向けていた。こんなに見詰められて手を伸ばせるわけがない。代わりに欲しそうな顔をしていた饕餮がさっと手を伸ばして素速く一欠片口に放り込んだ。
「お前はさっき丸々一個喰っただろ!? どれだけ喰ったら気が済むんだ!? 体の十割、胃か!?」
「お前は今、胃と喋ってるのか?」
何を言われても饕餮は動じない。窮奇の遇い方を心得ている。饕餮は甘い指先を舐め、挑発するように笑った。
屍骸の処理と食事を済ませて戻ってきた黒色蟹は、また騒々しくなったベッドの片隅の椅子に無言で腰掛けた。獣の騒ぎには首を突っ込まない。椒図がこちらの部屋に来ているのは珍しいと思ったが、それよりも彼の死んだような顔に少しの感情が浮かんでいることの方が驚いた。
椒図がクグロフに手を伸ばさないことを不思議に思いながらも、まだ化生したばかりで食べ物をよくわかっていないのだろうと蜃は無理に勧めることはしなかった。代わりにずっと座ってもらっている黒色蟹に一欠片差し出す。黒色蟹は獣に従順なので、少しの躊躇いはあったがそれを受け取った。食事をして来た所だがそれくらいの胃の空きはある。
「暇なのに引き留めて悪いな」
「いえ。それが仕事なら脱皮した皮のように動かず座ってます」
「脱皮……」
変転人は元が人間ではない所為か時折不思議な言い回しをする。確かに脱いだ皮は動かないが。
窮奇の視線に耐え兼ねた椒図はベッドから一歩下がった。
「人が増えたし、話はまた後にするよ、蜃」
「え? 俺は別に構わないが……」
「オレも別に構わないぜ。疚しいことがないならオレの前でも話せるはずだ」
「君は何様なんだ……」
神隠しの話をするなら、この中では窮奇にだけは全く関係がない。
「神隠しに何の関係もないだろ君は」
呆れて溜息を吐く蜃に、窮奇ではなく饕餮が喰い付いた。
「なんだ神隠しの話をするのか? そう言えば獏も蜃にその話を聞きたいと言ってたな」
「獏が? 他に何か言うことあったか……?」
「どうやら齟齬があるらしい。我も少し気になる」
「齟齬? 獏は記憶が無いのに?」
「我はあの街で人を喰ってないと言ったら、不思議そうにされた」
蜃も眉を顰め、思い出すように視線を落とした。
「まさか、あれのことか……?」
「あれ?」
「悪夢の所為だと思ってたんだが……そう言えば早い段階で変死体が見つかったことがあったんだ」
「人間同士が争ったの?」
「俺は手を下した現場は見てないからな。何とも言えない。だが人間だとしたら、殺した方法がわからない。まるで潰されたような……」
「じゃあ、詳しく話してみろ。暇だったら獏に伝言をしてやってもいい。面白そうだ」
「伝言? 暫く街にいるのか? あいつ」
饕餮と窮奇は戻って来たが、獏は戻って来ていない。街にいる変転人達と悪夢の様子を見るだけだと思っていたが、何かあったのだろうか。
饕餮は腕を組み、一拍置いてから言った。
「悪夢が言うことを聞かないみたい。変転人を連れて離脱するか、安全が確認できるまで離れられないんじゃない?」
「端から悪夢が出て来るってことか? あんな街いつでも放棄すればいいのに……あいつ罪人の癖に真面目だな。罪人は牢にいるものだとか思ってるのか」
蒲牢が剥離の印で繋がりを断ったため、蜃としては半分解放された気分なのだが。街が大規模に破壊された場合、蜃にも影響が現れる可能性があるかもしれないことについては獏には関係のないことだ。狴犴が倒れた今、獏は街に執着する必要はない。
「俺だったらすぐに脱獄するのにな……」
何も危険が無い街なら居心地は案外良いのかもしれない。悪いようには作っていないのだから。だが危険が蔓延る中で得られる居心地とは何なのだ。
そんなことを考えても時間の無駄かと溜息を吐きながらクグロフに手を伸ばそうとし、唐突に部屋に響いた大きな鈍い音に手が止まった。その場の全員が思考を中断された。
「何だ……?」
音のした方向――窓を見ると、硝子にべたりと赤い軌跡を引きながら何かが落ちていった。
「血……?」
窓は開けることができず、外を確認することができない。
「狴犴と蒲牢の部屋を見てくる」
「外を見てきます。いいですか?」
異様な事態に椒図はすぐに部屋を出、蜃は状況を理解できないまま黒色蟹に頷いた。
饕餮と窮奇もこれには大人しくしていられない。窓に付着した赤は血液だ。宵街での死傷は贔屓が禁じており、狴犴もそれを継いでいる。饕餮は変転人を殺したが、それは狴犴の許可があるので棚に上げておく。
「窓を割る方が早いが、ラクタに怒られそうだからね」
「直せばいいだけだろ」
「その辺の家ならいいが、病院は壊すもんじゃないぞ窮奇。我はラクタに報せてくる」
饕餮も部屋を飛び出し、残された窮奇は蜃を見た。こんな状況だが二人きりで残されたことに蜃は警戒した。
「オレは……嫁を守ればいいのか?」
「君に守ってもらわなくてもいい……」
警戒をしていないのか窮奇は躊躇なく窓へ近付く。
「……おい、近付くと危ない……」
手を突いた窓の向こうで嘲るように、また何かが赤い滴を散らしながら落ちていった。
「……屋上か」
とんと壁を蹴り、窮奇は開け放されたドアから一気に廊下へ飛び出す。
「ちっ」
上に何かがいるなら一人では危険だ。悪夢がまた現れたのかもしれない。蜃も病室を飛び出し、杖を召喚する。体は鈍っているし靴を履く余裕も無いが、体調は良好だ。
「蜃は待ってろ! 吹き飛ばすかもしれねぇ!」
「……」
窮奇の力を思い出し、蜃は足を止めた。確かにいない方が何も気にせずに力を使える。窮奇の力の規模だと一人の方が良いだろうと思い直し、蜃は杖を仕舞って病室に戻った。窮奇の能力なら悪夢だろうと大抵のものなら吹き飛ばせるはずだ。あれをもう一度受けて巻き添えを喰うのは御免だ。
狴犴と蒲牢の病室へ足を入れた椒図は窓を見る。こちらの窓は綺麗なままで、何も異常はなかった。
ベッドに駆け寄り、二人の様子も確認する。こちらも変わりない。こちらは少し変わっていてほしかったが。相変わらず目覚める気配は無い。
何が起こっているのかわからない中で動けない二人を放っておくわけにはいかない。椒図はドアを一瞥し、暫く様子を見ることにした。
命令無く自主的に行動することはあまりないのだが、これには嫌な予感がした。
黒色蟹は階段を飛び降り、受付の前を走って外に出る。受付で話をしていたラクタヴィージャと贔屓は何事かと怪訝に振り向く。
「使いパシリでも頼まれたかな? それでも病院は走るものじゃないけど」
蜃の病室の位置を頭の中で当て嵌め、石壁に沿って回り込む。茂みに隠れた蔦に足を取られそうになるが、鋏の片割れを生成し切り裂く。
少し石壁から離れて見上げると、窓に赤い線が引かれているのが見えた。片割れで茂みを分け、刃に何かが当たる。
「…………」
それは腕だった。獣か人間かは判別できない。少し潰れていて、断面は引き千切ったように見えた。
(あの音だと、窓に叩き付けたのか)
血の付着した窓を見上げ、その延長線上の上を見る。そこには空しかなかった。
(屋上から狙って叩き付けても、あれほど大きな音は出せないはず。あんな真横から叩き付けたような音は……。変転人は飛べない。飛べる獣の仕業か?)
蜃のいる病室を狙ったのか、偶々あの病室だったのか。悪戯だとしても質が悪い。
千切れた腕を回収し判断を仰ごうと視線を落としかけた時、宵の空に投げ出された物が視界の端に入った。
「っ……!」
その場から跳び退き、一瞬前まで立っていた場所にぼとりと何かが降ってきた。空を見上げるが人影は見えなかった。
上空を警戒しながら刃で茂みを分ける。落ちてきた物はブーツだった。刃の先で動かすと重く、中身が入っていた。
(サイズから察すると男……?)
また何か落ちてくるかもしれない。黒色蟹は腕だけを拾い、素速くその場を離れた。
床を蹴り、壁を走るように階段を飛び降りた饕餮は受付で怪訝な顔をするラクタヴィージャと贔屓を見つけて急ブレーキを掛けた。
「騒々しいな」
「病院では走らないでよ。まさか鬼ごっこなんてしてないでしょうね?」
二人の呑気な台詞に欠伸が出そうだ。
「ラクタ、贔屓。挑発だぞ」
「挑発?」
「蜃の部屋の窓に人の腕が叩き付けられた」
「人の腕……?」
選りに選って傷を癒す病院に何て物を叩き付けるのかとラクタヴィージャは困惑と呆れの混ざった溜息を吐いた。
「それだけだと病院への挑発か蜃への挑発かわからないな。そもそもそれは挑発か? 事故の可能性も」
「贔屓! 贔屓は頭が回るのに勘は働かないな! どっちへの挑発かは確かにわからないが、これが単なる事故なわけないだろう。蜃の部屋は最上階だぞ? 上空からどうなったら事故で腕が飛んで来るんだ。事故で落ちたんなら全身揃ってるだろ。狙って投げたに決まってる」
「……また悪夢か?」
「それは知らん」
勘が働かないのは確かにあるだろう。勘が働けば鴟吻が報復を受けた時に、何らかの先手を打つことができたはずだ。可能性を平等に考えると時間が掛かる。可能性は平等ではないのだ。
先刻飛び出して行った黒色蟹が片刃を手に戻り、逆の手に握っていた物に三人はそれぞれ眉を顰めた。
「……あれか? 饕餮」
「だろうね」
黒色蟹は片刃を仕舞い、受付のカウンターに袖に包まれた千切れた腕を置いた。カルテの整理をしていた姫女苑は顔を上げ、ヒッと息を呑んだ。
「落ちてきた腕です」
「さすがレオは仕事が早いね」
ラクタヴィージャは早速腕を手に取り、潰れた断面を確認する。
「調べてる時に足も降ってきました。ブーツを履いたままでした。目視で二十七、八センチ、おそらく男です」
「うん。そっちは後で見に行くとしよう」
淡々と話しているが何が起こっているのだと姫女苑は口を挟むこともできず息を殺した。黒色蟹は無色の中では最年長だということは姫女苑も知っている。その仕事ぶりを目の前で見るのは初めてだが、確かに獣に重宝されるのがわかった。死体の部品を素手で持つのも抵抗がないようだ。
断面に指を入れて調べていたラクタヴィージャは手に付いた血を拭いながら口を開く。
「ざっと見た感じだと有色の変転人だと思う。有色が一番筋肉量が少ないし、獣はもっと骨太だからね。死後時間が経過してるようだけど……鮮度を保つよう細工されてる? 個体差があるから、もっと明確にするにはちゃんと見てみないとだけど、見る方がいい? それとも、屋上に行く?」
「ラクタは見ていてくれ。上には僕が行こう。万一にも医者を怪我させるわけにはいかないからな」
「私だって戦えるんだけどな」
苦笑しながらラクタヴィージャは大人しく頷く。杖を召喚して幼い少女の分身体を作り出し、外に転がっている足を拾いに行かせた。
壁を蹴り、直線の先にある壁でまた跳び、皆とは逆に窮奇は上へ向かう。屋上まではたった一階分の距離だ。煽った犯人を捕らえてみせる。
杖を召喚し屋上のドアを開け放つと、そこには誰もいなかった。
「……隠れてんのか?」
背に黒い翼を生やし、飛んで周囲を見渡す。片腕と足を失っている死体は転がっているが、切断した割に出血量は少ない。別の場所で先に切断したか死んで時間が経って血が涸れているのだろう。そして生きている人影は見当たらなかった。
「おいおいおい……まさか逃げたのか? 興醒めじゃねーか」
ドアの上に降り立ち、杖を翳す。隠れられそうな石の陰はあまりないが、相手が小さな獣の場合は幾らでも隠れられる。
「引き摺り出せ――廻風」
何処に隠れようとどんな隙間にいようと、窮奇の風で引き摺り出せないものはない。杖を振り、同時に幾つもの小さな風を巻き起こす。
隅に溜まっていた砂塵が巻き上がるが、転がり出てくる者はなかった。
「チッ……離脱してるか……」
病院に喧嘩を売ったのならどうでも良いのだが、蜃に喧嘩を売ったのなら一発ぶちかまさないと気が済まない。
苛立ちながら周囲に意識を向けて視線を巡らし、その頭に岩をぶつけられたような衝撃が走った。
「!?」
振り向く暇も無く窮奇は床に叩き落とされた。屋上に叩き付けられる寸前、風を起こして衝撃を和らげ床を転がる。
(何だ……? 贔屓みたいに重い攻撃……)
這い蹲ったまま周囲を警戒する。やはり誰もいない。
(舐めやがって……!)
起き上がろうとした時、勢い良くドアが開いた。反射的に杖を振り、ドアが吹き飛ぶ。
「寝惚けて力を使うな!」
素速く跳び退いた饕餮と贔屓は離れて着地した。
「寝てねぇ!」
手を突き、くるりと立ち上がる。杖を握ったまま周囲を見渡し、窮奇は喰って掛かった。
「それより贔屓じゃねぇだろうな!?」
「何がだ?」
「オレを地面に叩き落とした奴だ! お前みたいな圧を感じた」
「いや、僕は何もしていない。今ここに駆け付けた所だからな」
「お前はいけ好かねーからな」
舌打ちし、窮奇は死体へ歩み寄る。死体は吹き飛ばさないように注意したのだ。
「降ってきたのはこいつだよな」
頭部を軽く蹴ると、既に割れていて凹んだ。
「有色か? なら食べても……」
贔屓の後ろから飛び出した饕餮は言葉を途中で切り、目を逸らした。
「あ? どうした饕餮」
饕餮は辺りを調べる贔屓を一瞥し、早足で窮奇へ向かった。額が当たるほどに近付き、襟元を掴む。
「窮奇! これは我が隠しておいた非常食だ! 狴犴に一人なら食べて良しと言われたが、調子に乗って余計に殺してしまった! どっ、どうしよう……贔屓にバレる……」
鮮度を保つ細工がされているとラクタヴィージャが言っていたが、確かに饕餮はそれをした。後で食べようと細工をしたのだ。保つと言っても全く鮮度が落ちないわけではないが、腐敗は遅れさせられる。
「何で病院の屋上に隠すんだよ」
「滅多に来る奴がいないからに決まってるだろ!」
「喰って証拠隠滅するか……?」
「一緒に喰ってくれるか……?」
「まあ……人間なら喰うけど」
二人は蹲み、死体に手を伸ばした。
「脳天をぶっ刺したんだが、幸い潰れててわからないよね?」
「わかってねぇな饕餮は。脳味噌と内臓が美味いのに、頭を貫くなよ」
砕けた頭蓋骨の欠片を避けていて背後の気配に気付かなかった。手元に影が落ちたことで二人ははっと顔を上げた。
「……君達の好物だとは知っているが、食べるのはもう少し待ってくれるか?」
「たっ、食べていいのか!?」
「死んでしまった者までは止めないよ。死体を分解する微生物は咎められないだろ?」
暗に微生物だと言われた気がしたが、饕餮は安堵した。
贔屓は窮奇に向き直る。
「窮奇、先に聞いておきたいことがある」
「何だよ」
「ここに一番に駆け付けたのは君だ。状況を聞かせてほしい」
聞かせろと言われても大した情報は無いが、窮奇は立ち上がりながら素直に答えた。
「オレが来た時には誰もいなかった。すぐに風で引き摺り出してやろうと思ったが、屋上を隅々まで撫でたけど誰も出て来なかった。もう離脱したんだと思ったら頭をぶん殴られたみたいに……そしたらお前らが来たんだ」
「……成程。誰もいなかったのか」
贔屓は口元に手を遣り、窮奇を一瞥する。
「……ん!? オレを疑ってんじゃねーだろうな!?」
「疑ってないよ。君は蜃の病室で皆といたんだろ? ……屋上にいないのに離脱していたわけではない……とすると」
走り出した贔屓を饕餮と窮奇は顔を見合わせた後に慌てて追った。
屋上の端まで行き、獏が吹き飛ばした病室の大穴に飛び込む。
「……うん。真新しい血痕がある。ここに潜伏していたんだろう。今はもう離脱しているだろうが」
窓諸共壁が破壊された病室は簡単に潜り込める。天井は無事なので、ここの有様を失念していた。ここなら屋上の定義から外れる。屋上を隈無く探しても見つからないはずだ。
「――くそ! 遣られた……!」
窮奇は残った壁を殴り苦虫を噛む。
「竜巻で吹き飛ばせば良かった!」
「竜巻を起こさなかった理性を褒めようと思ったんだが」
「……病院を吹き飛ばしたら、蜃も吹き飛ぶからな」
一度蜃を吹き飛ばしたことは棚に上げ、窮奇はぼそぼそとぼやいた。
「……しかし、目的がわからないな。腕は窓に叩き付けられ、足は上から落としただけ……。確実に気付かせて誘き出した……? 一体何のために?」
「狴犴と蒲牢なら大丈夫だぞ。椒図が見に行ったからね」
「相手の能力がわからない以上、安心はできないが……病室に行こう」
瓦礫を踏んで廊下に出、三人は反対側の端まで駆け足で戻った。それほど広い病院ではないので、端から端まですぐに辿り着く。
二つの病室のドアは開けられたままで、狴犴と蒲牢は眠ったままだった。向かいの蜃の病室を覗くと椒図の背中があった。
「……椒図?」
立ち尽くす椒図の体越しに覗いたベッドの上には誰もおらず、切り分けられた焼菓子が床に散乱していた。
呆然としながら、背を向けたまま椒図はぽつりと呟く。
「狙いは蜃だったんだ……」
動かない椒図を押し退け、窮奇はベッドに駆け寄った。乱れたベッドの上には点々と血痕があった。
「し……」
握っていた杖の変換石が光り、窮奇の双眸が紅く染まっていく。
「阿呆――!」
饕餮は思い切り窮奇の頬を殴り、衝撃で彼の体は床を転がり壁に叩き付けられた。
「病院を吹っ飛ばそうとするな! 落ち着け!」
床に押さえ付けて大人しくさせようと杖を握っていた贔屓は唖然とした。鼻を打ったようで、体を起こす窮奇の鼻からぱたぱたと血が落ちる。
「オレの嫁を攫った奴……ぶっ殺す」
「落ち着けと言ってるだろ!」
駄目押しのように容赦無くもう一度頭を叩く饕餮を止めた方が良いのではと贔屓は杖を上げかけたが、二人は喧嘩にはならなかった。
「冷静になって頭を回さんと嫁は見つけられんぞ! お前が吹っ飛ばしたいのは病院じゃなく、攫った奴だろ!?」
「……そんなバカスカ叩くな……オレは冷静だ。でも頭脳担当でもねぇ……」
もう一発叩きそうな饕餮の手を払い、窮奇は睨むように贔屓を見上げた。
「誘拐犯を殺すのはオレの役だからな」
「……できる限りの知恵は出そう」
杖を仕舞い、贔屓は赤褐色の双眸を細めた。蜃が自主的に病室の外へ出たなら、近くにいた椒図が気付くはずだ。その椒図はただ立ち尽くしているだけだった。蜃は攫われたのか逃げるために転送で離脱したのか、それはまだ結論を出せない。
現時点で大きな手掛りは無いが、喫茶雨音の店長にも気に入られ、椒図とも友達だと言う蜃を見捨てるわけにはいかない。
争った形跡はあるがベッドの上の血痕は僅かだ。この時点では重傷だけは負わされていない。それだけは不幸中の幸いだった。




