87-夢の悪魔
透明な街の半壊した古物店の中で、獏は宵街で起こったことを灰色海月達に話した。浅葱斑と花魄のこと、狴犴と椒図のこと、そして悪夢に襲われたことを。狴犴と蒲牢は目を覚まさないが、治療をして命は無事であること、蜃と饕餮を交えて神隠しなど情報の共有も行ったと話した。
狴犴に命令されこの街に来た洋種山牛蒡はこの急展開に付いていけなかったが、狴犴の意識が無いなら判断を仰ぐこともできない。大人しく待機を続けることにした。
宵街に出現した悪夢については仮説を出すことしかできないが、これ以上は踏み込めなさそうだ。あれが本当にこの街の端に蠢く悪夢の群れを従えていたのか、喋る悪夢はもういない。
先代の残影の力も微弱なものとなり悪夢を抑えきれないので街の端に光の杭を打ち込んだが、あれは悪夢を阻む壁ではなく、ここから出るなという威嚇の杭だ。抑え付けられていたのではなく、喋る悪夢に従って大人しくしていたのなら通用するはずだ。言うことを聞くという『思考』ができるのなら。
杭は獏が街から去っても少しは機能するが、あまり長時間は持たない。遠距離で力を使い続けることはできないのだ。饕餮と窮奇と共に宵街へ戻らなかったのはこのためでもある。
狴犴は悪夢に襲われる前から過労で入院していた。回復にはかなり時間が掛かるだろう。意識が無いのなら、烙印に首輪を掛けなくても咎められることはない。暫くは好きに動けそうだ。
破壊された古物店の二階については、奥に位置する物置部屋は無事だった。元々天井に穴が空いていた獏の部屋は屋根の殆どが落ち、床にも倒頭穴が空いてベッドも埋まり休む所ではない部屋になっている。階下の天井を突き抜けなかったのは不幸中の幸いだろう。
灰色海月の部屋は屋根と壁が少し壊れているが、ベッドは無事だ。黒葉菫と洋種山牛蒡は取り急ぎそちらの部屋の瓦礫の撤去を進めていた。普通の人間程度の力しかない二人には重い瓦礫は動かせず難航していたらしい。獏が手伝うことで漸くゆっくり休めそうな部屋になった。天井と壁の風通しは良いが。
預けていた子猫も元気になり、何だかんだ黒猫も様子を覗きに来る。隙間の多い店なので子猫は木箱から出せないが、黒猫の目が届き易いように床へ下ろした。偶に木箱の中で一緒に眠っている。灰色海月は子猫をマレーバク柄だと親しんでいるが、頭と尾が黒いだけで果たしてそうと言えるのかは定かではない。
机上には紅茶のカップと切り分けられたクグロフが置かれ、獏はカップを傾け一息吐いた。説明を終えた後に街を回り、他の端の数カ所にも光の杭を打った。この街の悪夢の気配は感知できないが、杭を越えられれば気付くことができる。ただ、常に力を使用している状態になるので、体力の消耗が激しい。街の大きさは徐々に小さくなっているとは言え全ての端に打ち込むと体力が持たないので、そこは抑えている。烙印が完全に解除されればもう少し余裕ができるのだが。
「……あの、願い事の手紙はどうしますか?」
「ん? 何か来てる?」
アイシングを施し雪山のようになったクグロフから顔を上げ、灰色海月は思い出したように言った。
「一通来てました」
獏の前に手紙を置き、返事を待つ。宛名の文字は小さくて力無く、拙い子供の字だった。
獏は封を切り手紙に目を通す。封を切ったからと言って必ず受理しないといけないわけではない。
「…………」
面倒なことなら放置するつもりだったが、獏は困ったように苦笑した。
「ここに来て真っ当な願い事が届くなんて」
「真っ当……? 受けますか?」
「あくまを食べてほしい、って書いてるけど、子供の字だし間違えたのかな。悪魔じゃなくて悪夢だよね、きっと」
今までは獏でなくても良いような恋愛相談や人生相談などの願い事を叶えてきたが、はっきりと悪夢を食べてほしいと願い事が届いたのは初めてだった。悪夢絡みの願い事は今までもあったが、差出人は悪夢だと認識して投函したわけではない。獏に願い事をするならこれ以上ない正しい願い事だ。力を使い続け消耗する今、食事するのも良いだろう。
「連れて来ますか?」
「いや、いい。僕から行く。この手紙の差出人が悪夢を見る本人だったら、この街にこれ以上悪夢を持ち込んでほしくないからね。狴犴も寝てるし、首輪無しで行こう。――ふふ、首が軽くていい」
街の端の杭は何とか数時間程度持たせるように気合いを入れる。数時間もあれば悪夢の処理は終わるだろう。狴犴が寝ている間は律儀に首輪なんて肩の凝る物を付ける必要はない。首輪なんて付ければ杭も維持できない。
「私も行っていいですか?」
「え? 当然来てくれると思ってたんだけど……何で確認なんて?」
「危険だからだとか……また置いて行かれるのかと」
「まあ確かにこれは善行と言うより獏としての義務だけど、僕一人じゃ街から出られないからね」
「? 一人で街から出たことがありましたよね?」
「烙印の半解除で変になったみたいで……今の僕は首輪が無くても転送ができないんだ。……いや罪人なんだから自力で転送できないのが本来のあるべき姿なのかも」
「では私が必要と言うことですね。頑張ります」
途端に灰色海月は遣る気を出し、灰色の傘を掌から抜いた。何やら妙な状況になってきたが、灰色海月は今も変わらず獏の監視役なのだ。
獏が立ち上がると階段を下りる音がし、二人分の空のティーカップと皿を持った黒葉菫と目が合った。
灰色海月の傘が目に留まり、黒葉菫は獏に尋ねる。
「何処か行くんですか?」
「うん。手紙の差出人に会いにね。悪夢を食べてほしいって願い事だから、僕が行かないと。また少し留守を任せることになるけど、端の悪夢はこっちに来られないように圧を掛けてるから大丈夫……かな?」
「わかりました。ウニと鵺が戻って来るかもしれないので、留守番しておきます」
「鵺も順調に回復してるみたいだけど、まだあんまり自由には動けないみたい。でもひょっこり戻って来たらよろしくね」
鵺は贔屓のいる喫茶店で傷の回復に勤しみ、黒色海栗はそれに付き添っている。完治するまでは危険から離れていてほしいものだ。
「もし万一、何か襲って来ることがあったら逃げてね。ここには守るものなんて何もないんだから」
「はい。今度は猫も連れて行きます」
「懐かれた?」
「……いえ……懐きませんが、子猫なら……」
無色の変転人は毒がある故かやはり懐きそうにないようだ。獏は苦笑し、蹲んで黒猫達を撫でて店を出た。危険な中に置き去りにされてしまった時は、獏が助けに行けば良い。黒葉菫が危ない目に遭う必要はない。
頭を下げる黒葉菫に見送られながら灰色の傘をくるりと回して降り立った場所は、住宅街の中にある古いアパートの屋根の上だった。疾うに陽は落ちて空は暗く、星が出ている。透明な街はいつでも夜なので時間の感覚が麻痺してしまうが、人間の街も今は夜のようだ。
「夜か……もしかしたら子供はもう寝ちゃったかな」
手紙の思念を辿り、灰色海月は足下を指差す。
「この下です」
獏は灰色海月の手を取り、音を立てずにトタン屋根を回り込んでベランダへ降り立った。ベランダの石の床には亀裂が入っていたが、着地で割れたわけではない。
窓にはカーテンが掛かっているが、隙間が開いていた。中を覗くと明かりは消えており、真ん中に座卓がある。誰もいない。人差し指と親指で輪を作って部屋へ向けると、人の気配はした。
「子供だけ……かな?」
鍵を開けて土足で部屋へ入り、気配のする引き戸を開けた。音を立てずに開けたが、下から大きな瞳が見上げていた。
「!」
小学生くらいだろうか、布団に横になった幼い少女が目を真ん丸にして瞬きも忘れて固まっている。
「……ごめん、驚かせちゃったね。獏に手紙を出したのは君かな?」
手紙を見せると、少女はがばりと布団を蹴り上げて起き上がった。
「ばっ、ばばばく……!」
「落ち着いて。もう一人が起きちゃう」
口元に人差し指を当てると、少女は慌てて口を噤んだ。少女の布団の向こうに更に小さな男の子がすやすやと眠っている。
少女は黙ったまま男の子を指差し、ぶんぶんと振った。何か訴えようとしている。
獏は少女を手招き、部屋を移した。引き戸を閉めて座卓の前に座らせる。
「……さて。これで話せるね。手紙を出したのは君みたいだけど、悪夢を見たのは君かな?」
話せるとは言っても小声だ。隣の部屋とは戸一枚しか隔てる物がない。普通の声量で話せば起こしてしまうかもしれない。
少女はぶんぶんと頭を横に振り、もう一度戸の向こうを指差した。
「悪夢じゃなくて、悪魔ですっ。弟に取り憑いてて」
「え? 悪魔で合ってるの?」
てっきり字を間違えたのだと思っていたが、悪魔で間違いないらしい。悪魔祓いとなると獏の専門ではない。
「まあ確かに、君からも寝てる子からも靄は出てなかったけど……」
「もや?」
「悪夢を見ると黒い靄が発生するんだ。大抵は目覚めて暫くすれば徐々に消えるから心配しなくていいんだけど」
「悪夢じゃなくて悪魔です」
真っ直ぐに純粋な瞳を向けられ、獏もとりあえず頷いておく。
「……ああ、そうだね」
本当に悪魔が関係しているのなら関わりたくない所だが、もう現場に来てしまった。事情を聞いて悪魔ではないことを祈ることにする。
複雑な心境の袖が後ろから引かれ、獏は振り向く。灰色海月は獏の耳元に口を寄せ、更に小声で話し掛けた。
「悪夢だと大きくなって襲ってこないですか?」
「悪夢なら何でも襲い掛かってくるわけじゃないよ。正常な状態だと当人が悪夢を消化できるから問題ない。消化できずに悪夢が育ち襲ってくる異常な状態は稀だと思ってくれればいいよ。じゃないと僕一人じゃそんなに多くの悪夢を処理できないからね」
「……あの街が異常なことがわかりました」
「そうなんだよ。だから先代の獏を責めるのはおかしいんだよ」
小声で話していると、少女はこくりと頭を揺らす。眠いようだ。あまり夜更かしをさせられない。
「じゃあ君に少し訊きたいことがあるから、もう少しだけ起きてられるかな?」
少女ははっとし、姿勢を正した。妖しいマレーバクの面に視線を固定する。
「大丈夫です」
「まず最初に気になったんだけど、家には君と弟しかいないの?」
「ママはお仕事です。パパは……いません」
パパについては少し間があった。離婚にしろ死別にしろ幼い少女には辛いことだろう。触れないことにする。
「そっか。じゃあ弟についてだけど。どうして悪魔が憑いてると思ったの?」
「それは……」
「あああああああああ!」
静寂を切り裂くように突如悲鳴が上がり、三人はびくりと硬直した。戸の向こうからだ。
「何……? まさか悪夢が」
「悪魔です! 夜に突然暴れ出すんです!」
「……」
獏が戸を開け放つと、幼い弟は泣き喚きながら突進してきた。
「危ない!」
畳に滑って転びそうになる体を咄嗟に支える。
「わあああああん!」
「悪魔が……大変……悪魔を食べてください!」
「これは……」
男の子は腕を振り、獏の動物面の鼻を打つ。獏に痛みは無いが、固い面を打った彼の小さな手が赤くなる。
「説明は後にしよう」
獏は面を外し、目を隠す余裕も無く口付けた。黒い靄を喰らい堪能しながら口を離すと、男の子はくたりと力を失い静かになった。見守っていた少女はごくりと唾を呑み、上目遣いでそろそろと獏の金色の双眸に目を遣った。
「……悪魔、いなくなった……?」
「まずその誤解を解かないとね」
「誤解……?」
「これは悪魔じゃなくて、悪夢の一種だよ。睡眠時驚愕症だね」
「?」
少女はぽかんと獏を見上げ、首を傾げた。
「ちょっと難しかったかな? こうして眠ってる時に喚いたり暴れたりする病気なんだけど」
「病気……お医者さんに行くんですか?」
「できるのは相談程度だと思うけど、普通の人間だとそうかな」
「……獏だと違う?」
「そうそう。君はお目が高いね。獏ならこうして悪夢を食べれば、一発で静まる」
戯けるように微笑むが、少女は不安そうだ。
「治った?」
「それはどうかなぁ……」
眠った小さな体を抱き上げ、布団に戻しておく。暴れたことは起きても覚えていないだろう。何せ眠っているのだから。
戸を閉め、再び座卓の前に座って膝を抱える。
「今晩はもう何も起こらないから、君も安心して寝るといいよ。眠いでしょ? 続きは明日話そう」
「気になって寝れないです!」
「あれ? ……じゃあ、僕が付いててあげるから。手も握っててあげようか? ママが帰って来たら通報されそうだからそれまでに帰るけど」
「…………」
面を被り直し、獏は困惑した。無理矢理眠らせることは可能だが、それをすると怖がらせてしまうかもしれない。
「僕が付いてるんだから、安心してもらわないと獏の尊厳に関わるんだけどな」
灰色海月は後ろから獏の袖を引き、小声で耳打ちする。
「治ってないと言ったからではないでしょうか?」
「えっ」
治っていないのなら、今晩は何も起こらないと言っても信じられないらしい。獏は少し考え、少女を抱き上げた。不安でも睡魔には抗えないようで少女に抵抗はない。
「さっき大人しくさせたのを見たでしょ? 君が心配することなんてないよ。だから――」
赤子をあやすように揺らしながら布団に運ぶ途中で寝息を立て始めたことに気付き、獏は苦笑いした。
「……寝ちゃったんだけど」
子守歌でも歌おうかと思ったのだが、必要なかったようだ。余程眠かったらしい。
布団に少女を寝かせ、約束したので見張りとして暫くは壁を背に膝を抱えた。
「もう少し警戒してもいいと思うんだけど、子供ってあんまり僕を警戒しないよね。このお面、そんなにフレンドリーかなぁ」
「子供には良い人が見破れるんじゃないでしょうか」
灰色海月も畳に座り、子供達を見下ろした。
「僕は良い人じゃないけど」
「一つ訊いてもいいですか?」
何もすることがないので、子供達のママが帰るまで会話で時間を潰す。
「ん? いいよ」
「……狴犴がもしこのまま目覚めなかったら、貴方は牢から出て行きますか?」
「目覚めるとは思うけど……そうだね。ずっとあそこにいる必要はないもんね」
「その時は……監視役ももう必要ないですよね」
「そうだねぇ……晴れて自由の身だ」
「私は御役御免で……もう貴方の傍にはいられないですよね……」
灰色海月は静かに俯き、心情を吐露した。獏が烙印を半解除してもらってからずっと考えていたことだった。今はただ罪人と監視役と言うだけで、それ以上の関係ではない。その役がなくなれば、人の姿を与えられた時に置いて行かれたように、また離れてしまう。
獏は灰色海月の方は見ずに、表情の見えない動物面で間を開けて言う。
「……僕の傍にいても、良いことなんてないからね」
「…………」
「でも猫達はどうにかしてあげないとね。宵街で飼ってもらえるかなぁ。……あ、椒図が子猫を気に掛けてたし、椒図に相談してみようかな」
灰色海月は何も言わず、ぼんやりと灰色のブーツの先を見下ろす。獏は灰色海月より猫達の方が心配のようだ。それは理解できるが、何だか腑に落ちなかった。だがそれ以上は何も言えなかった。
子供達のママは夜が明ける頃に漸く帰宅し、子供達はそれまで一度も目を覚ますことはなかった。
滞在する時間が長くなってしまったので、灰色の傘で急いで透明な街に戻る。何とか端の杭が消える前に戻れた。自分の気合いもなかなかのものだと獏は自分を褒めた。ただ座っているだけだったので力の消耗が少なかったのが幸いしたようだ。
依頼者の少女には学校から帰宅する頃にもう一度話を聞きに行く。
「お疲れ様です」
店に戻ると黒葉菫と洋種山牛蒡が奥に座っていた。
「ただいま。少し休んだらまた行くね。依頼の続きだから」
「わかりました。この街では食事の必要はないと思うんですが、子猫にミルクをあげてました」
「大きくなってほしいし、いいと思う。世話を任せきりで悪いね」
「いえ、大丈夫です。何だかんだ可愛いです」
「ふふ。それは良かった」
黒猫は遠くから見詰めるだけで懐かないが、子猫は嫌がらず触らせてもらえるからか黒葉菫と洋種山牛蒡はよく構っていた。構ってもらっているとも言う。
獏はそれを見ながら座らずに忙しなく常夜燈を用意する。
「また外に出るんですか?」
「うん。ちょっと端の見回りにね。遠目に見るだけだから、一人で行ってくる」
少しくらい休んで行けば良いのにと呼び止めようとしたが、灰色海月の口からは何も言えなかった。先程の会話がまだ蟠っている。
獏は背を向けながら軽く手を振り店を出て行った。数時間の留守で光の杭に異常が出ていないか念のために確認するのだ。
「罪人も忙しいのね」
子猫を構いながら洋種山牛蒡はドアへ目を遣る。
灰色海月は台所へ行き、三人分の紅茶と切ったクグロフを盛った大皿を真ん中に置いて座った。
「……スミレさん、相談があるんですが、いいですか?」
「俺に? いいけど……」
「じゃ、私は席を外した方がいい?」
「居ても構わないです」
居る許可は貰えたが黒葉菫にと切り出されたので、洋種山牛蒡は膝に子猫を置いて少し椅子を下げた。
黒葉菫は獏に頼りにされている、と灰色海月は感じている。そんな彼に相談をするのは気が乗らないが、同じ変転人であり、その中でも一番付き合いの長い黒葉菫が一番話し易かった。相談には打って付けだろう。
「嫌われてる人に、傍にいたいと言うのは迷惑ですか?」
灰色海月に以前戦い方を教えたことのある黒葉菫は、またそういう戦闘の相談だと思っていた。悪夢には手も足も出せないが、獣相手ならば多少の抵抗はできる。最近は戦闘に巻き込まれることも多い。戦い方なら以前のように少しは答えられるだろうと思った。だが想像が外れてしまい、黒葉菫はすぐに返答できなかった。『嫌われてる人』とは何だ?
「……クラゲを嫌ってる人がいるのか?」
「そうです……」
「でも傍にいたい?」
「はい」
この街にいる者達との関係しか黒葉菫は知らないが、そんな人に心当たりがなかった。
「クラゲは生まれてから獏の監視役になるまであまり日が経ってないよな?」
以前彼女は自分を零歳だと言っていた。黒葉菫が初めてこの街に来た頃を考えると彼女が生まれてからあまり経っていないはずだ。
「はい。生まれて二週間ほどだったと思います」
「早いな……。じゃあこの街に来るまで他の人とはあまり話してないよな」
「そうですね。狻猊さんと鵺さんに最低限のことを教わっただけです」
「だったら、クラゲを嫌ってる人は、俺も知ってる人か? 知ってる人なら、誰かわかった方が相談に乗りやすい」
戦い方ではないが、相談を受けてしまった以上乗らないわけにはいかなかった。感情の乏しい変転人には難しい相談だが、十歳を超える黒葉菫より灰色海月の方がより感情は乏しい。おそらく彼女は意識し始めた感情に振り回されているのだろう。
灰色海月は睫毛を伏せ、膝に置いた手を握って呟くように言った。
「……獏です」
「え?」
黒葉菫と洋種山牛蒡はきょとんと目を瞬き、紅茶を一口飲んだ。言葉を咀嚼し、俯く灰色海月を凝視する。
「嫌ってる……のか? そうは見えないが……」
「嫌ってます。私を人にして置き去りにしたり、最近も置いて行かれました。私は何も知らなくて、強くもなくて、何も役に立てないです」
「置き去りはわからないが……クラゲのことを大事にしてるんだと思ってたけど」
「違います。邪魔なだけなんです。監視役だから傍にいることを許されてるだけなんです」
「何か溜まってんね。スミレ君、ちゃんと吐き出させてあげなよ」
洋種山牛蒡は紅茶を飲みながらもう一歩椅子を下げる。
人と話すことは洋種山牛蒡の方が得意だが、指名されたのは黒葉菫だ。相談を放棄するわけにもいかず黒葉菫は困惑しながらカップを傾けた。そういう相談をされた経験が無く、言葉に迷う。安易に相手は誰かと訊くものではなかった。二人の間に深い亀裂でも入れば取り返しがつかない。
「……獏がそう言ったのか? 嫌いだとか邪魔とか」
「獏は優しいので、直接は言いません」
「優しいなら嫌ってないんじゃ?」
「嫌ってます。本当はスミレさんの方が監視役に相応しいんじゃないかと思います。……最初はスミレさんに監視役が奪われるんじゃないかと怖かったですが、今はもう……実力差が……」
そう言えばそんなこともあったと黒葉菫は思い出す。確かに最初の頃は彼女に警戒されていた。
「クラゲはまだ幼いから、あまり感情を理解できてないんじゃないか?」
「スミレ君。こういう時はまず共感よ。共感で理解して認めてるって安心させてあげるのよ。いきなり否定の正論は良くないわ」
「…………」
相談相手を代わってほしい。そう思ったが頼られたのに助けを求めては灰色海月を不安にさせるだけだ。だがここで共感してしまっては自分が監視役に相応しいと言うようなものではないのかと黒葉菫は頭を悩ませた。監視役に相応しいなど考えたこともない。
「……じゃあ、クラゲは嫌いな人がいるか?」
「蜃です」
即答されて面喰らった。先代の獏を殺し、現在の獏も殺そうとした蜃なら嫌うことにも納得だが、最近は上手く折り合いを付けているように見えていた。蜃に渡すと言う菓子も文句を言わず包んでいたのに。
「蜃に対してクラゲが抱いてた気持ちと同じ気持ちを、獏がクラゲに抱いてると思うか?」
「獏は……あまり感情を外には……」
「それは共感できない。お面を取った所は何度も見たが、表情が豊かだし……それにすぐに遣り返す……凄くわかりやすい」
「…………」
はっきりと否定された灰色海月は黙り込み、洋種山牛蒡はぽこりと軽く黒葉菫の頭に拳を落とした。
「ぁ……いや……まあ……自分の悩みとか……? は、隠してた……な?」
「スミレ君……」
下手な補足に洋種山牛蒡も苦笑いだ。
「……そ、それでも傍にいたいって相談……だよな。クラゲは監視役だし、離れることはないんじゃないか?」
「狴犴が目覚めなかったら、ここに居続ける意味はないじゃないですか……。獏も、ここから出ると言ってました」
「そうか……それでこんな相談……」
「ずっと罪人でいてほしいと思うのは、いけないことですよね」
「そうだな……」
「スミレ君、ここは否定よ。悪いことでもね。巡り巡って共感になるわ」
「難し過ぎる……」
黒葉菫は頭を抱えた。落ち着くために紅茶を一口飲み、一度深呼吸をする。洋種山牛蒡は他人事のように大皿に手を伸ばしている。
「……クラゲ、一度ちゃんと獏に言ってみたらどうだ? 引き下がるんじゃなく、気持ちをぶつけてみればいい。たぶんだけど、聞き分けが良いばかりだと後悔すると思う」
「そうそう。一人が怖いなら、私達も後ろに付いててあげるわ。私達は黒だから、罪人に罪を重ねさせ続けることも可能よ」
「それはちょっと……」
「同盟でも組む? 獏をぎゃふんと言わせる」
ぎゃふんは違うのではと思ったが、言う前にドアが開いた。
「誰をぎゃふんって?」
常夜燈を提げた黒い動物面が微笑み、洋種山牛蒡と黒葉菫は血の気が引いた。本人が不在だからと好き勝手に発言していたが、獏は獣だ。変転人が獣に好き勝手言って良いわけがない。
「いや……その……」
「ふふ。仲良く悪戯を企んでるのかな?」
「もう言ってしまおう、クラゲちゃん! 私達が付いてるわ!」
「ん?」
洋種山牛蒡に背を押され、灰色海月は反射的に立ち上がってしまった。
皆と座って菓子を突くのは珍しいと獏は思っていたが、どうやら彼女が主役のようだ。
「どうしたの?」
灰色海月は突然のことに逡巡しながら、からからに渇いた喉にぐっと紅茶を流し込んだ。
「……あの、少し……お面を取ってもらえますか?」
「え?」
表情が豊かだと言うなら面は無い方が良い。何を言っても感情が見えないよりは、見える方が良い。今度は獏が困惑し、ちらりと洋種山牛蒡を一瞥する。灰色海月と黒葉菫は獏の素顔を知っているが、洋種山牛蒡は見たことがない。そのことに気付き、黒葉菫は彼女に二階に行くよう囁いた。洋種山牛蒡は不満そうな顔をしたが、話が進まないことを理解し渋々階段を上がった。
何か理由があるらしい。獏は察し、灰色海月が言うならと素直に動物面を外した。月のような瞳が人形のような美しい相貌に浮かぶ。その表情は優しく微笑んでいた。
「……さて。辛辣に罵倒でもされるのかな?」
灰色海月はごくりと唾を呑む。その綺麗な相貌を正面から見詰めて面と向かって話すのは初めてだ。最初は何も感情が湧かなかった相貌を綺麗だと思うようになったのはいつからだっただろう。
「これからもずっと……貴方の傍にいさせてください!」
灰色の頭を勢い良く下げられ、獏はきょとんとした。頭を下げる直前、彼女の表情は明確に感情を映していた。困惑と焦燥が浮かんでいた。
「ずっと罪人でいてください!」
「ああ……さっきのか」
黒葉菫と洋種山牛蒡に相談でもしたのだろう。その結果がこれだ。獏は机まで歩み、常夜燈を置く。
「ずっと罪人でいてほしいなんて、面白いことを言うね」
くすくすと笑う獏は少し困っているようにも見えた。灰色海月はこの微細な感情に気付いただろうか。黒葉菫は黙って彼女の次の言葉を待つ。
「貴方が私を助けて、人にしたので、責任を取ってください!」
「そう言えって言われた? それに関しては僕に責任はないよ。常に同じ変転人を連れる獣がいるなら教えてほしいよ」
「……!」
宵街をあまり歩いたことのない灰色海月は黒葉菫を見、彼はゆっくりと首を振った。
「そういう獣は宵街の中では見たことがないです。狴犴がマキを傍に置くのは少し意味が違うと思うので……」
灰色海月は泣きそうな顔をするが、すぐに顔を逸らした。
「僕はクラゲさんに危ない目に遭ってほしくないだけなんだよ。リスクを冒してまで傍にいる必要はない。頼れる変転人もできたでしょ? 皆と宵街に棲む方が幸せだよ」
「かっ……勝手に私の幸せを決めないでください!」
「じゃあ、死んでもいいの? 君は悪夢に対抗する術を持たない。いつでも僕が助けられるとは限らない」
「やっぱり……私は弱くて邪魔なんですね……。助けてもらわなくても、大丈夫です」
「君だから駄目って言ってるわけじゃないよ。スミレさんが同じことを言っても同じだし。何でそこまで僕の近くにいたがるのかな……」
最後にぼそりと呟かれた言葉で、灰色海月は居た堪れなくなり灰色の髪を翻し二階へ駆け上がった。
「あ……」
ドアの閉まる大きな音がし、獏は溜息を吐いた。彼女は途中から明らかに混乱していたが、それに寄り添ってしまえば突き放す意味がなくなる。
「……どうしよう。手紙の差出人の所に行きたいんだけど、スミレさんに頼めるかな?」
「何か……不器用ですね」
「そうだね……」
獏は寂しそうに苦笑し面を被った。
黒葉菫は階段を一瞥し、手から黒い傘を抜いた。灰色海月のことは洋種山牛蒡に任せておけば大丈夫だろう。黒葉菫とはたった二歳しか違わないが、彼女の方が相談の答え方を心得ている。
「……嫌いなわけではないですよね? クラゲのこと」
「え? 嫌いだったら助けないよ」
「ですよね」
店を出て黒い傘をくるりと回すと、陽が暮れかかり星を連れた闇と紫色に滲む空があった。アパートの屋根の上で空に目を細め、足下に向かって獏は人差し指と親指で作った輪を向ける。子供達のママはもう仕事へ行ったようだ。
黒葉菫の手を掴んでベランダへ飛び降り、鍵を開けて土足で中に入る。晩御飯を食べていた少女と弟はスプーンを咥えながら振り向いた。晩御飯はカレーライスのようだ。
「ばくの王子さま!」
「王子様……? えっと、食事中にごめんね。話を聞きに来たよ」
「お姫さまの抱っこをしたので、ばくは私の王子さまです。今日はお姉ちゃんじゃないんですか?」
「うん。お兄さんでもいいかな?」
布団に運んだ時のことを言っているようだ。怪我人を運ぶ時にもその持ち方をしているので、お姫様と言われてもあまりぴんとは来なかった。黒葉菫を一瞥すると彼は頭を下げ、釣られて少女も頭を下げた。
「宿題をやってからでもいいですか?」
「いいよ。偉いね」
「算数はやったけど、国語がまだなんです。私が教科書を読むので、聞いてくれていいですか? 感想を書いてもらわないといけないんですが、弟は字があんまり……」
「そういうことなら任せて」
獏は部屋の隅に座り、ぽんぽんと隣を叩く。視線を向けられた黒葉菫も座り、膝を抱えた。
「スミレさんは字が書ける?」
「書けますが、漢字は少しだけなら。難しいのはちょっと……」
「じゃあ僕が書く方がいいかな。絵は下手だって言われたけど、字は何も言われてないから大丈夫なはず……」
白花苧環に絵が下手だと言われて衝撃を受けたことをまだよく覚えている。
「待機中に質問してもいいですか?」
「うん」
「これから何をするんですか?」
「ああそっか。言ってなかったね。あの男の子が悪夢を見るんだけど、睡眠時驚愕症っていう病気みたいでね。僕は医者じゃないから正確な診断はできないけど。人間だと様子を見守りながら落ち着くのを待つしかないみたいだけど、僕は獏だから原因を探って取り除いてあげようと思って。悪夢は正常に消化されてるんだけどね」
「病気にも詳しいんですか?」
「ううん。悪夢に関することを少しだけ。悪夢障害とかね」
「悪夢障害? 暴れる悪夢のことですか? 貴方が名付けたんですか?」
「ふふ。まさか。人間が名付けたんだよ。悪夢が怖いから眠れない、とか症状があるよ。目覚めても悪夢をはっきり覚えてるの。でもそれでも正常に消化されてれば、悪夢は外に出て暴れることはない」
「あの街は異常ですが、街の外には暴れる悪夢はあまりいないんですか?」
「うん……まあ、そうだね」
「だったらクラゲが傍にいてもあまり問題はないのでは?」
「かもね……。でも僕は僕のことがわからない。……それに、セリさんみたいなことはもう……」
食べ終わった少女が空の皿を見せながら振り向くので、獏は微笑む。
単純に悪夢が危険だからと灰色海月を遠ざけようとしているのではないのだと、黒葉菫はその動物面の横顔を一瞥し理解する。灰色海月は毒芹を例に挙げても引き下がらないだろうが、毒芹の死は獏に思いの外深い傷痕を残しているようだ。
ゆっくりと弟が食べている間に少女は隣の部屋から国語の教科書を持って来た。教科書を広げ、何を読むのか示す。
意気揚々と少女は読み始め、読めずに詰まってしまう漢字の読みを黒葉菫は横から教えてやる。小学校で習う漢字なら黒葉菫も読むことができる。
読み終わると少女はノートを開いて獏へ差し出した。上部は少女自身が書く欄のようだが、思ったよりも感想を書く場所が広い。
頭の中で言葉を纏め、渡された可愛らしいキャラクターの描かれた鉛筆で丁寧に書く。黒葉菫と少女に左右から覗き込まれ、少し書き難い。
「綺麗な字ですね。御手本みたいです」
「本当? じゃあ絵も実は上手いのかな? マキさんが適当に難癖を付けただけかも」
感想欄に絵を描き、黒葉菫が眉を寄せた。
「……すみません、何を描いたのかわかりません……悲劇?」
「そんな抽象的なものいきなり描かないよ! おかしいな、似顔絵を描いたんだけど」
誰の? と問う前に少女は黙って悲劇を消しゴムで消し去った。ノートをランドセルに仕舞い、少女は食べ終わった皿を台所へと運ぶ。
「急に無言になるほど下手ってこと……?」
「絵は封印した方が良さそうですね」
「そんなに……? マキさんより酷いこと言ってない?」
食器を洗って戻って来た少女は気を取り直して座卓の前に座った。獏も話題を切り替えざるを得ない。
「……まあいいや。長引くとまた夜更かしになっちゃうもんね」
「話は、何を話せばいいですか?」
「君の知ってることだといいんだけど……」
ちらりと弟を一瞥する。誰の話をするのかまだわかっていないようだ。弟に向かって手招く。男の子は不思議そうに床を這って来てくれた。
「君は寝てる間に声を出してることに気付いてる?」
男の子は不思議そうに首を振る。やはり覚えていない。
「じゃあ、何か夢を見てた?」
男の子は再び首を振る。これも覚えていないようだ。
「あの怯えようだと、何か怖いことがあったか見たか……だと思うんだけど、いつ頃から寝てる間に叫び出したか覚えてる?」
これは少女に向かって尋ねる。少女は考える間もなくすぐに答えた。
「パパがいなくなってから」
おそらくそれが原因だろう。この幼い子供ではそれは世界が引っ繰り返るほどの事件だったはずだ。
「会えるなら会いに行くと解決できそうだけど」
少女は突然にまりと、幼い顔に似付かわしくなく不気味に笑った。
「それは無理です」
「何か変なことでも言ったかな?」
「ううん」
「詳しく聞いてもいい?」
獏が微笑むと、少女はけたけたと笑った後すっと表情を消した。
「パパは死んだから」
弟は慌てたように立ち上がり、獏の後ろへ隠れた。
「だって皆を虐めた」
「君が遣ったの?」
「だから、ぐしゃって! 潰れた! 天罰なの! ベランダで虫みたいに潰れてた!」
「潰れてた……? 君が遣ったんじゃない……?」
獏の服を掴む小さな手が震えている。男の子を振り向き、安心させるようにゆっくりと頭を撫でた。
「……君はそれを見たんだね」
震えながら男の子はこくんと頷いた。
「泣きながら私に言いに来たから、潰される瞬間を見たのかも」
男の子は目に涙を溜める。どうやら当たりのようだ。
「その時の詳細を訊くのは酷かな……」
「私が言う。上から何かで押し潰されたみたいに潰れてた。ベランダに煙草を吸いに行って。潰れた時はわからないけど、窓とベランダが赤くなってた」
「そう……君は強いね。弟さんはその時の記憶を食べて消してあげるね。そうすればもう、眠って泣くことはなくなるから」
少女が眠っている時、黒い靄は見えなかった。つまり悪夢は見ていない。強いと言ったが、無関心なのかもしれない。少女の言い方から察するに、パパのことを嫌っていたのだろう。
獏は男の子の双眸を塞がずに動物面を外す。この怯えた状態で目を塞げば更に不安が大きくなってしまう。面を取った獏を見上げ、男の子は泣くのも忘れてその相貌に見入った。
「君はその怖い出来事を忘れたい? もう思い出したくないかな?」
男の子はこくんと頷き、優しく尋ねる獏を見上げる。部分的な記憶の切除をすることになるが、見なかったことになるだけだ。辻褄を合わせるために記憶を縫合しなくても問題ないだろう。あまりのショックに記憶を失ったと思われるだけだ。パパが死んだ事実だけは変えられないので、死は受け止めてもらうしかないが。それを捻じ曲げることも可能だが、周囲の人間まで記憶を弄るのは面倒だ。
静かに口付け、該当の記憶を食べる。口を離すと男の子は瞼を重そうに眠ってしまった。
「泣き疲れちゃったかな?」
「それでもう大丈夫なんですか?」
少女は先程の不気味な笑みをすっかりと消して心配そうに覗き込む。眉間に皺も寄せず穏やかに眠る弟の顔を見て一先ず安心した。
「うん。これでもう暴れることはないよ。パパがどんな風に死んだか綺麗さっぱり忘れてるから、この子の前で具体的な話はしないようにね。また怖がって悪夢を見るようになったら可哀想でしょ?」
「わかりました……」
男の子を抱え上げ、獏は隣の部屋へ運ぶ。敷かれている布団に寝かせ、静かに戸を閉めた。
「これで君の願い事は叶ったけど、もう少し訊いてもいいかな?」
「何ですか?」
少女の前に蹲み、獏は動物面を被り直す。
「君も思い出すのが辛かったら答えなくてもいいからね。……パパの死体を見て、何か気付いたことはある? 変な傷があったとか、物が落ちてたとか」
小学生の少女にこんなことを訊くのは躊躇われたが、訊ける相手はこの少女しかいない。悪夢にも見ないほど無関心な彼女ならば、悪いようにはならないだろう。
少女もまたけろりと、全く気にした風もなく話してくれた。
「血がいっぱいで……ベランダに罅が入った。警察の人が、あ……し? って言ってた」
「圧死かな。犯人の目星は付いてるのかな?」
「ううん。重い物が落ちてきた跡もないし、ふかいだって」
「確かに不可解だね。……うん。ありがとう。今日はゆっくりお休み」
微笑んで少女の頭を撫でると、はにかむように顔を伏せた。
「おやすみ……ありがとう王子さま」
黒葉菫を促し、獏はベランダへ出てカーテンをきちりと閉めた。足元の罅に目を落とし、蹲んで指でなぞる。
「石の床に罅が入る圧力……」
見上げると汚れたトタンの屋根が空を遮っている。
「落下物があれば、この屋根も破壊されるはず……」
柵から下を覗いて目を細めるが、眼下のコンクリートには罅が入っておらず土にも異常はない。土には雑草が生えているのでその奥までは見えないが、特に気になる物は落ちていない。
「何だろ……獣かな。圧力を掛けるって言うと贔屓の力を思い出すけど」
「贔屓の力……ですか」
「あ、病院に行く前のことはあんまり話してないよね。後で詳しく話すよ」
「そんなに丁寧に話してもらわなくてもいいですよ。獣に雑用を頼まれる時も説明はあまりされないので。詳細を話さなくても指示通りに動く、便利な道具というだけです」
何気なく出された言葉だったが、その言葉はとても無機質だった。
「さっきは省いちゃったけど、黒色蟹さんに会ったことも話すね。蜃の付き人みたいになっちゃってるんだけど」
「レオ先輩に会ったんですか? それは少し気になりますが……」
「でしょ? じゃあ戻ろう」
黒い傘を開く黒葉菫を、ふふと笑いながら見る。同じ黒の変転人ならば興味を示すと思ったのだ。遠慮なのか弁えようとしているのか『便利な道具』という言い方に寂しさを覚えた。ならば道具と考えられないほど話してやろうと思った。
「では戻ります」
この獣は本当に感情が豊かで、よく気が付くと黒葉菫は思う。気を遣われたことに彼は気付いていた。これほど気が回る獏が毒芹の件があったとは言え灰色海月の心情に配慮しないはずがない。不器用だとは言ったが、黒葉菫には気付けないような事情がまだあるのかもしれない。黒葉菫はくるりと黒い傘を回しながら、成り行きを見守ることにした。




