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透明街の人喰い獏  作者: 葉里ノイ


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86-蠢く聲


 変わらず薄暗い空の下、箱が積まれたような石の病院の中で、蒲牢と狴犴は目覚める気配もなく眠り続けていた。

 蜃はその間に順調に回復して何でも食べられるように、そして自由に動ける程になった。だが命を閉じる力を受けた患者が病院に来るのは初めてで、慎重に経過を観察するためまだ退院はさせてもらえない。最近は蜃も怪我が多かったので休める時にゆっくり休ませてもらえるのはありがたいことだったが、窮奇が人間の街で野生の動物を狩ってきて差し出すことは心底やめてほしいと思っていた。病室が血腥くなるのだ。饕餮はそれを面白がっているが。

 皆が集まって情報の共有をして以来、椒図は蜃とは話さず蒲牢と狴犴の病室に閉じ籠っている。椒図の傷はもう治っているので心配ないが、気持ちの整理はまだついていない。

 黒色蟹は蜃の言い付けを守り、椅子に無言で座っている。獣は暫く食事を抜いても死ぬことはないが、普通の人間に近い変転人はそうではない。数日なら抜いても構わないが、それは食事ができない緊急事態でのみだ。なので黒色蟹は食事のために時折席を外し、それ以外は病室にいた。

 そんな黒色蟹とあまり動かない獏が蜃の病室にいることが多かった。

 獏は面を被っているので黙っていると起きているのか寝ているのかわからないが、久し振りにぽつりと口を開く。

「一度街に戻ろうと思うんだけど、蜃はまだここにいた方がいいよね」

「海月達か?」

「うん。病院にまた悪夢が出て来る様子もないし、街の悪夢も気になって」

「体がどうこうより、椒図がいるなら俺はここにいる」

「わかった。転送はアサギさんに頼んでみようかな」

「烙印を解除しても転送できないのか?」

「みたいだね。解除される前は首輪無しならできてたんだけど……半解除する代わりに転送はできないよう弄られたのかな」

 そのことを贔屓に尋ねたいとは思っているが、贔屓はラクタヴィージャに捕まり思い出話に花を咲かせている。詳細を話さず数百年も宵街を離れていたのだ、話すことは山ほどあるだろう。

 浅葱斑は花畑で白花苧環を監視している。花魄(かはく)に充電を頼んだ白花苧環が今どんな状態なのかも確認しておきたい。獏は席を立ち、ドアを開けようと手を伸ばす。その先で突然自動ドアのように勢い良く開き、びくりと後退した。

「蜃! 鴉を捕まえてきたぞ!」

「え? うわああああ!」

 何度目だろうか仕留めてきた獲物を突き出し、牛角頭が意気揚々と病室に飛び込んできた。

「喰うと元気が出るぞ」

「喰わないって言ってるだろ!」

「何でだ? 人間じゃないぞ? 鳥肉だぞ?」

「百歩譲って喰うとしても生肉をそのまま喰わないって言ってるだろ! 何度言ったらわかるんだ! この鳥頭!」

「鴉は初めてなのに……」

「種類の問題じゃない!」

 この遣り取りももう何度目だろうかと獏も苦笑する。蜃を好意的に見ていることには口を挟まないが、何度も嫌がる物を持って来るのはどうかと思う。窮奇は人間を主食とし食べる時もわざわざ火を通さない。食事が肉食動物に近い。人間に近い蜃の食事を理解するには時間が掛かりそうだ。

 このままでは蜃も窮奇も不憫だ。出て行く前に獏は助け船を出す。

「カステラを探してたんじゃなかったっけ?」

 食事は理解できずとも、嫌がる仕草はわかる。窮奇は仕留めた鴉を渋々下げた。

「饕餮に訊いたら、店に売ってるって言われた。オレは人間の金なんて持ってない。料理もできない。作り方もわからない。じゃあ狩るしかねーだろ」

 料理ができないと以前も言っていたが、あの時は確か何でも用意すると言っていたはずだ。金のことは考えていなかったらしい。

「成程……。作る方なら、もしかしたらクラゲさんが知ってるかも」

「作る方かよ……。そのクラゲってのは誰だ?」

「君が前に人間の街で飛んで来た時に見たと思うけど、一瞬だったからね。灰色の変転人だよ」

「灰色……いつだ? 目に入ってねぇな。そいつは鴉喰うか?」

「代金みたいに出さないでよ。普通の人は食べないよ」

 灰色海月に興味を示したなら丁度良いと、蜃も横から口を挟む。

「おい獏、そいつも連れて行け。そいつがいるとおちおち休めない」

 最初は殺そうとしてきた窮奇が何故こんなに好意的に接してくるのか蜃にはさっぱり理解できない。殺そうとするよりは良いかもしれないが、理由のわからない好意など気持ちが悪いだけだ。

 嫌がる仕草はわかるが、こういう時は照れていると窮奇は解釈する。

「何処か行くのか? 獏。いなくなってくれるとオレが蜃とゆっくり話せるんだが」

「神隠しに使った街にね。クラゲさん達に待ってもらってるから」

「ああ例の悪夢がいる所か」

 蜃に鳥頭と言われようと、本当に鳥頭ではない。人並みの記憶力はある。暇だと思いながら情報共有の場にいたが、会話は聞いていたし覚えている。


「――我も街の端とやらを見てみるか!」


 続いて唐突に騒々しく駆け込んできたのは饕餮だった。ここは病院だと忘れているのか、病院だと理解した上で騒ぐのか。

「行くのか?」

「我の提案がこうなったわけだしね。悪夢を取っ捕まえて誰の所為で暴れたかはっきりさせてやる」

 意気込む饕餮に悪夢の知識を先に教えた方が良さそうだ。饕餮では悪夢を捕まえることができない。喫茶店の辺りで獏達が饕餮に襲われた時、彼女は刀を振っていた。刀では悪夢は斬れない。

「安心しろ獏。我は無色は食べない。毒物は不味いと白いあいつでわかったしね」

 饕餮はその後に浅葱斑を食べようとしていたが、それは黙っておくことにした。

「……謝ってほしい相手がいないから僕からは言わないけど、食べなくても少しでも傷付けることがあったら容赦しないからね」

「我は窮奇みたいに短気じゃないから安心しろ」

「おい、オレは別に短気じゃねぇ。気に入らないことがあるからキレるだけだ」

 窮奇が会話に加わるとややこしくなりそうだ。ここでまた立ち止まって長話をするつもりはない。

「わかったよ。じゃあ饕餮が転送して」

「よしきた! 何か作ってるかなー、あの灰色」

 杖を召喚し御機嫌な饕餮に、目的はそれかと獏は腑に落ちた。彼女は白花苧環の死に現れていたが、タイミングが良過ぎたのだ。蜃も奇襲前によく獏を観察していたようだし、饕餮もまた度々様子を窺っていたのだろう。獏と灰色海月が善行で出掛けている間に菓子の一つくらい抓んでいたのかもしれない。

 白花苧環の様子を見に行くつもりでいたが、饕餮と窮奇を花畑へ連れて行けばまた浅葱斑が怯え説明に時間が掛かる。彼には後でまた会いに行くことにする。

 饕餮は杖を召喚し、窮奇は仕留めてきた鴉を見下ろして考えた後、床に捨てた。置いて行くなと蜃は叫んだが、言葉の途中で三人の姿は消えた。

 饕餮と窮奇を灰色海月達に会わせるのは気が乗らないが、饕餮の言うように最初の提案からの末路を彼女に見せておきたい。二度と同じことを繰り返さないためにも、神隠しの成れの果てをその目に焼き付けておいてほしかった。

 窮奇はついでだが、蜃の名前を出しておけば言うことは聞くだろう。それにおそらく、窮奇の力なら悪夢にも通じる。窮奇の能力は風を操ることだ。切ることはできないだろうが、風なら悪夢にも効くはずだ。

 視界に広がった夜の煉瓦の街を、初めて訪れた窮奇はぐるりと見渡した。

「今……蜃が、置いて行くなって言ってたか? 連れて来た方が良かったか? オレと離れたくないってことだよな?」

「お前、阿呆だな? とりあえず街を見ろ」

 何故罵倒されたのか窮奇にはわからなかったが、言われた通りに街を見た。黒い空が頭上に広がり、石畳の上に煉瓦の建物が並んでいる。所々に街灯が立っているが、霧の所為で見通しは悪い。

「……この規模を蜃が創ったのか」

「我が見込んだからな。今は創れなさそうだが」

 規格外の風を生み出す窮奇でも、街一つ創り出す力には息を呑む。

「所々壊れてるのは、脆いからか? それともこういう形?」

「元は壊れてなかったぞ。人が住める程の強度もある」

「へえ……」

 窮奇の視線を追うように獏も視線を巡らせ、はたと一点で止まった。

「何で……」

 拠点としていた古物店の二階が半壊していた。元々天井の一部に穴は空いていたが、路上から部屋の中が覗けるほど壊れてはいなかった。

 獏は二人を置いて店へ駆け出し、ドアを開け放つ。二人は怪訝そうに歩いて後を追った。

「誰かいる!?」

 留守の間に何者かの奇襲があったのだ。店には灰色海月と黒葉菫、そして洋種山牛蒡がいる。宵街は危険だからと置いて行ったのに、この街で何かあっては悔やんでも悔やみきれない。


「……帰ってきましたか?」


 ひょこりと台所から顔を出した灰色に、獏の動きはぴたりと止まった。

「クラゲ……さん?」

 特に何か起こった風もなく、彼女はいつものように机の前に出る。怪我をしている様子はない。

「どうかしましたか? そんな狐に抓まれたような……いえ、バク科バク属のマレーバクは狐に抓まれる大きさでは……」

「クラゲさん」

「はい」

 聞き慣れた文言に妙な安心感を抱くと共に遮ると、彼女はぴたりと素直に口を閉じた。

「二階で何かあった……?」

「そのことですか」

 まさか二階が半壊していることに気付いていないのではと疑ったが、どうやら認知はしているようだ。その上で大したことはない風に言う。知り合いの仕業なのだろうか。うっかり半壊させる状況がわからない。

「悪夢……だと思います。黒い塊が襲って来ました。スミレさんが悪夢だと言ってました」

「! 何で……襲うなって言ったのに……」

 頭を垂れて喋る悪夢にそう言ったはずだ。やはり悪夢の戯言など信じるべきではなかったのだ。言葉を話す知能は従順とは限らない。

「その悪夢は何か言ってた? スミレさんは?」

「何も言ってないと思いますが……すぐに離脱したので、気付かなかっただけかもしれません。スミレさんは、ヨウさんと一緒に二階にいます。片付けをしてます」

「皆無事なんだね」

 漸く安心した。三人が無事ならそれで良い。拠点が全壊しようと、代わりの建物は幾らでもある。

「三人で離脱したんですが、猫を置いて来てしまったので、戻って来たんです。その時にはもう悪夢はいなくなっていて、戻っても来ないので私達もそのままここにいます」

「また襲って来るかもしれないんだから逃げててほしかったけど。戻って来るなんて危な過ぎる」

「ですが、貴方に猫のことを頼まれてるので」

 机上の木箱の陰から黒猫が顔を覗かせ、一つ鳴いた。木箱の中の子猫が気になり傍にいるのだろう。子猫のことを頼んだのは獏だ。それで彼女を咎めるのは御門違いだ。ともあれ猫達も無事で良かった。

「おお、猫だ!」

 後から店に入ってきた饕餮も木箱の陰から覗く金色の瞳の黒い塊に気付き、棚を蹴り獏を跳び越え机の前に着地する。黒猫は驚いて机から飛び降り逃げてしまうが、饕餮は木箱の中の子猫を見つけて嬉しそうに拾い上げた。体は白いが頭と尾が黒い。

「牛柄の猫か? 可愛いな!」

「マレーバク柄です」

「どんな柄だっけ? そいつ」

 灰色海月が柄について熱弁を始めてしまったので、獏は改めて周囲を見回した。壊されたのは二階だけで、一階は無傷のようだ。棚の中は少し位置が変わっている物もあり、衝撃で落下したのだろうと推測する。位置の変わっている物を確認し、衝撃の大きさを知る。

「なあ、さっきから気になってるんだが、この……何だ? 芳香剤?」

 くしゃみでも出そうな顔をしながら窮奇は鼻に手を遣る。人間の肉を好む彼には確かに嗅ぎ慣れない匂いだろう。

「クラゲさんが何か御菓子を焼いてるのかもしれないね」

「これが……?」

 部屋が狭く換気もしていないのですぐに匂いが充満してしまうのだ。灰色海月は話題に出されたことに気付き、台所から両手に載るくらいの大きさの黄金色に焼けた王冠の形をした菓子を持ち出した。中央には穴が空き、側面には等間隔に溝が刻まれている。

「何か作ってないと落ち着かなくて……クグロフを焼きました」

「……? カステラか?」

「いえ。色は似てますが。これは中に干し葡萄を入れました」

 理解できなかった窮奇は灰色海月の無表情を見た後、獏へと視線を向けた。確かに色は似ているが名前と形が違う。何なんだこれは、と目で訴える。

「食べてみるのが早いけど、君は食べないよね。蜃なら喜んで食べると思うよ」

「よし、これを貰おう!」

 即座に理解し、窮奇は勢い良くクグロフを指差した。カステラではなくても蜃が喜ぶなら何であろうと問題ない。

 今度は灰色海月が理解できず、獏に目を向ける。獏が連れて来た者なので平常心を保って接していたが、やはり平常ではいられなかった。

「彼は窮奇。翼を生やして飛んでたのは覚えてる?」

「はい……。その……仲良くなったんですか?」

「仲良くって程ではないけど、色々あってね……。蜃に食べさせてあげたいから、一つ包んでもらえるかな?」

「……わかりました」

「その間に僕達は街の端に行って来る。二人に悪夢を見せてあげるんだ」

 常夜燈を用意する獏に、灰色海月は不安だ。宵街で何があったのか、忙しなく街の端へ行く獏へ尋ねる隙は無かった。

「大丈夫なんですか?」

「うん。大丈夫だよ」

 端に行くといつも気分が悪くなって帰ることに対してなのか、饕餮と窮奇がいることに対してなのか、どちらにしても心配しないように獏は気休めに微笑む。

 饕餮も興味を移し、子猫を置いてクグロフを覗き込んだ。

「真ん中に穴が空いてる……知ってるぞ、穴が空いてるのはドーナツだ」

「これはクグロフです」

「知らん」

 言うや否や饕餮はクグロフを毟り、口に放り込む。蜃のために包むと言っていたのを聞いていなかったようだ。

「おい饕餮! これは蜃の分だ! 手を出すな」

「少し欠けたくらいで騒ぐなよ。蜃に渡す前に味見は必要よ? 美味いぞ」

 言いつつもう一度毟って食べる。

「味見で喰い尽くす気か!?」

「まだ焼いてあるので……」

 喧嘩が始まるのかとハラハラとしながら、灰色海月は台所からもう一つクグロフを持って来る。いつも通り一気に何個も焼いていて良かった。

 二人が騒いでいると声を聞き付け階段からそろりと覗く影があった。黒葉菫と洋種山牛蒡が覗いている。警戒する黒葉菫と獏の目が合う。

「スミレさん! 無事で良かった」

「……あの、これは一体?」

「宵街で色々あってね……。詳しいことは後で話すよ。とりあえず、椒図とも会えたしアサギさんの無事も確認できてる」

「アサギ、見つかったんですか? それは朗報です」

 警戒が安堵へ変わる。強張っていた彼の顔が少し解れた。

「今から街の端に行って悪夢を見てくるから、もう少し留守番よろしくね」

「はい。二階を歩けるようにしておきます」

「それは大変そうだけど……」

 獏は争う饕餮と窮奇の腕を掴み、引き摺るように店を出る。饕餮は結局毟った残りも掴んで持って来てしまった。二個目が存在するならこれは全て自分の物、と言いたいようだ。

「端まで走って行くけど、二人は飛ぶ?」

「我は飛ぶ」

「あ? 獏は飛べないのか? 仕方ねぇ、ちゃっちゃと済ませたいからオレが掴んで行ってやるよ」

「君の飛行って翼が生えるの?」

「生える。何だよ、杖で飛んでほしいのか? オレには無理だ」

「そうじゃないけど、翼が生えて飛ぶ獣は初めて見たから」

「まあ確かに邪魔だけどな」

 杖を召喚し、窮奇は背に鴉のような黒い翼を生やした。夜には目立たないが、昼間に飛ぶと目立つことこの上ない。明るい場所では翼を白くすることも可能だが、それでも目立つ。それに不便なことに細い道では羽撃くことができない。広げた途端に壁に擦ってしまうのだ。

 窮奇は翼を大きく振り、ふわりと浮き立つ。獏の脇を抱え、翼が当たらない屋根の上まで上昇する。足が何も無い空を掻く。

「……あれ? 杖は?」

 先程まで彼が握っていた杖が見当たらず、獏は地面を見下ろす。まさか地面に忘れたのか。

「翼が生えれば杖なんていらねーよ」

「杖無しで飛べるの?」

「でかくて邪魔なだけじゃメリットがないだろ。褒めるなら蜃の前で褒めてくれや」

 全く杖を必要としない獏とはまた異なるが、少しでも杖を使わない場面のある獣は初めてだ。翼に飛行する力を蓄えているのだろうが、様々な獣と知り合っていけばいずれ杖を必要としない獣にも会えそうな気がしてくる。

 饕餮は杖に腰掛けて空を飛び、獏と高さを合わせる。あまり窮奇に近付くと翼が当たり叩き落とされてしまうため、そこまで高度は上げない。

「端とやらは何処にあるんだ?」

「じゃあ……」

 獏の指差した方へ暫く飛ぶと、建物の無い闇が前方に広がっていた。窮奇は屋根に獏を下ろして翼を生やしたまま畳む。その傍らに饕餮も飛び降りた。

「何かいるな」

「あれが悪夢か?」

 饕餮が杖で闇を指すと、反応するように闇が蠢いた。二人には何も聴こえないようだが、獏には変わらず不快な肉塊の聲が聴こえる。これが悪夢だから、獏にしか聴こえないのだ。

「腐って変質した悪夢だけどね……」

「我が昔ここで見た時はこんなごちゃごちゃしてなかったよ。一つ一つ独立した個体だった」

「混ざり合って変になったみたいだね」

「それが腐敗か」

 獏と饕餮の会話に耳を傾けるが、窮奇には目前のこれが何なのかまだ理解できない。悪夢と言われても雑然としていて、例えるならゴミ溜まりのようだった。

「あれがこんな風になるとはねぇ……。お前は喰わないの?」

「腐ってて食べられないと思ってたけど、宵街に現れた悪夢は美味しかったんだよね。だったらこの悪夢も美味しいのかも……でも悪夢によるかもしれない……」

「我は食べられる物なら食べようと思ってるが、これは食べたいとは思わないな」

「……ここに立ってるだけじゃ反応無いみたいだし、話し掛けてみるね」

 饕餮は一歩下がり、それに倣って窮奇も下がった。この蠢くよくわからない物と会話でもすると言うのか。窮奇にはさっぱり理解できない。会話ができるのなら、これは生物なのだろうか。

 獏は懐からハートの杖を取り出して構える。烙印が半解除されたとは言え、この街の中では杖しか使えない。この街を知らない贔屓ではこの街に紐付けられた烙印の制限を解くことはできないのだ。

 悪夢と会話など忌々しいだけだが、宵街に現れた悪夢のことはこの悪夢に訊くしかない。

 ちらりと眼下の石畳を一瞥し、先代の獏が言っていた根だか菌糸だかを確認する。ゆっくりとだが黒い筋の侵蝕が進んでいるように見える。迂闊に足を下ろせない。

 窮奇も獏の視線に気付き、眼下に目を遣り眉を寄せる。獏ほど夜目は利かないが、その黒い筋は目に入った。

(何だあれ……)

「……幾つか聞きたいことがある。君はもう襲わないって言ったよね? 僕の店を襲撃したのは何故?」

 獏が口を開き始めたので窮奇もそちらへ意識を向けるが、ここは何とも不可解な場所だと思った。

 声を掛けられても悪夢は人の形を作ることも触手を出すこともなく、静かに蠢くだけで反応が無かった。

「……? 黙秘するってこと?」

 やはり何の反応も無い。

「……じゃあもう一つ。僕達に憑いて宵街へ行った悪夢について聞きたい。あれは何?」

 これにも反応が無い。まるで最初から喋ることができなかったとでも言うように、無機物のように反応が無かった。

「……まさか、あの喋ってた悪夢が宵街で暴れた奴……? 他に喋れる悪夢がいない……? だったらここで話し掛けても答えが返って来ないのか……」

 それなら辻褄が合う部分もある。あの喋る悪夢が襲撃しない約束をしたのなら、いなくなってしまえばこの悪夢達を抑えるものがない。

「あの悪夢が聞き分けが良かったのは、外に出ようと企んでたから……?」

 毒芹(ドクゼリ)のような例は稀だと思っていたが、宿主の人格が悪夢に憑いていたと考えるのが自然だ。悪夢自体にそこまでの思考力や知能があるとは、やはり考えられない。贔屓の名を叫んでいた悪夢は獏を彼と勘違いしているようにも見えたが、獏が面で顔を隠しているため判別できなかったのだろう。途中で面は弾き飛ばされたが、そもそも悪夢に目のようなものは見当たらない。龍生九子の兄弟達を痛め付けて現れるのは長子である贔屓だと確信していたのかもしれない。

「喋れる悪夢はもういないの? 喋れなくても、意思があったり……」

 何を言ってるんだろうと、言葉の途中で虚しくなった。悪夢に対話を試みるなど馬鹿げている。稀有な例がそう何度もあっては堪らない。

「獏ー、何も起こらないし暇になってきた」

 興味の薄れてしまった饕餮は蹲んで欠伸を漏らしている。何か起こることを期待されても困るのだが。

「そうだね……何も起こらないのが一番だけど」

 踵を返そうとすると、まるで呼び止めるようにか細い聲が聴こえた。


『――囲め 囲め』


 声が届いたのか期待に応えたのか、脳に響くように聴こえた聲にはっとし獏は顔を上げる。

『籠の中の鳥』

 最初に街の端に来た時にも聴こえた、童歌に似た言葉だ。これは悪夢が喋っているわけではなく、獏の脳に直接流れ込んでくる思念の残滓だ。饕餮と窮奇に目を遣っても、何も聴こえている様子はない。

「……君達には何も聞こえない?」

「は?」

「何か聞こえるの?」

 二人は耳を澄ませるが、特に何も耳に入らない。口を閉じるとしんと静まり返るだけだった。

 やはり獏以外に聴こえるものではないようだ。悪夢の思念が直接流れ込むのは不快でしかなく、もやもやと気分が悪くなる。これまで通り、あまり長居をすべきではない。

『夜明けの番に』

「ここを離れる」

 聲は途切れず思考が散漫になるが、意識が落ちることはない。気分は最悪だが。そう何度も悪夢の前で気を失って堪るかと、意地でも意識を繋ぎ止める。

「何もしないのか? 悪夢が美味いなら、我なら一息に食べ尽くしてやる所だが」

「この量は饕餮でも喰いきれないだろ」

『吊るか噛むか潰そうか』

 悪夢の聲が童歌から外れたことに気付き、獏は警戒した。神隠しで連れて来られた人間の中には子供もいただろう。子供の悪夢なら童歌をなぞることもあるだろうと大して気にしていなかったが、様子がおかしい。

『うしろの正面――』

 ざわりと寒気がし、獏は背後を振り返った。いつの間に背後に回られたのか、黒い塊が空を覆うようにそそり立ち、ばらりと散けて触手が襲う。

「ここから離れて!」

 杖を翳し、光の槍を触手へ打ち込む。

 すぐには飛べない体勢で蹲んでいた饕餮の腰を掴み、窮奇は翼を広げて舞い上がる。直後に触手が屋根を貫いた。

 獏も屋根を蹴って後退する。触手は光の槍に貫かれながらも更に細く散け、三人のいた屋根に次々と突き刺さった。

「おいおいおい、何も気配を感じなかったぞ!?」

「悪夢め、遂に本性を現したか!」

「本性!? 悪夢の本性って何だ?」

「知らん」

「適当言うなよ饕餮!」

 飛び上がる窮奇を追い、悪夢も上空へ触手を伸ばす。翼は大きいがその大きさに慣れている窮奇は、少しでも翼に触れようものなら簡単についと躱す。獏は襲い掛かる触手を避けながら窮奇の方へ杖を向けるが、彼の動きが不規則で素速く捉えきれない。

「は――ははっ! 悪夢でもオレの速さには追い付けだっいた!」

「どうした窮奇!? 頭が飛んだか!?」

「飛んでない……けど、何かに頭をぶつけた……」

「何も無い空だぞ?」

「駄目だ、この辺りに何か……壁みたいなのがある」

 触手を寸前で避けると、触手も空を穿つように空中で止まった。

「まさか空の端……?」

 街に端があるなら、上空に端があってもおかしくない。この街は蜃が別空間に創った物だ。空間は有限であり、謂わば透明な箱に街が入っている状態だ。無限に続く街を創ることはできないはずだ。それは幾らなんでも力が規格外過ぎる。

「獏! 空に天井があるぞ!」

「空に逃げられないなら、端から離れて!」

 触手が縦横無尽に飛び回り、獏は自分の身を守るだけで精一杯だ。悪夢の数が多くて対処しきれない。

「饕餮、離すぞ」

「いいよ」

 饕餮は杖を回し、窮奇は手を離す。饕餮が杖に乗ったことを確認し、窮奇は杖を召喚した。

「少しくらい街を壊してもいいよなぁ!?」

 背に翼が生えているため、飛びながら力を使えるのが窮奇の強みだ。返事は聞かず、窮奇は杖を振ると同時に風を巻き起こした。

「無風で澱んで気持ち悪い街だぜ……吹き飛ばせ、疾風(はやて)

 杖の変換石が光り、空気を押し潰すように突風が触手を襲う。細い触手は呆気なく風に煽られ、端の闇へ押し戻された。

「……ん? 吹き飛ぶが……切れないのか」

 端に押し戻された悪夢に獏は光の壁を張り、端の際に光の杭を打ち込みながら窮奇を促し屋根を跳ぶ。饕餮も杖の先を店の方へ向けて飛んだ。窮奇は首を傾げつつも羽撃き、二人に続く。

「おい獏、あいつ切れないのか?」

「悪夢に触れられるのは獏だけだから。風で煽られはするけど、傷は付けられない。君の風が本当に風だけなら傷を付けられたかもしれないけどね」

「只の風じゃねーからな。面倒くせぇんだな、悪夢って奴は……」

「今まではあの悪夢を攻撃すると蜃にも影響が現れて負傷するから何もできなかったけど、繋がりを断ち切っても数が厄介だね……」

「は!? 蜃も攻撃を受けるってことか!?」

「今は大丈夫だよ。繋がりを断ったから」

「それは安心だな。病院で蜃が吹き飛んだかと焦ったぜ」

「蜃にもう少し神隠しのことを聞いておきたいな……」

「この前の質問会では満足できなかったの? 我が教えてやろうか? 何が聞きたいんだ?」

 屋根を跳びながら獏は背後を振り返る。悪夢は追って来ていない。先代の残影が消えた今もまだ多少は力が残っているのだろう。端から内側に入り込み易くはなっているようだが、弱い悪夢は留められているらしい。

「饕餮はそんなに神隠しに詳しいの? 蜃に提案して放置してたんじゃないの?」

「毎日ではないが、様子は見に行ってたぞ。何せ我の腹に入るものだからね」

「……ああそう……。じゃあ、子供の数は覚えてる? 大体でいいから」

「子供? 大人より子供の方が攫い易いから、結構いた気はするが。半分くらいかな」

「思ったより子供が多いね。だったら端にいる悪夢は子供が動かしてるのかも……」

 急いだのであっと言う間に店へ着き、饕餮と窮奇も地面に足を下ろす。

「子供だったら何かあるの?」

 窮奇は落ち着いた二人の会話を聞きながら翼を消し、肩をぐるりと回す。悪夢の脅威は去ったようだ。大きな翼は肩が凝る。

「悪夢は子供の方が見易いんだよね。単純に夢を見るレム睡眠の時間が大人より長いから、相対的に悪夢も見易い。未熟ゆえに消化しきれないことも多い。こんな街に閉じ込められて人喰いの獣までいて、悪夢の温床だよね。端に大人の悪夢もいると思うけど、それを覆うほど子供の悪夢が多く前面に出て暴れてる。まるで助けを求めるように」

「……あの触手は助けを求めて伸ばされた手なの?」

「さあ……そこまでは何とも」

「獏も適当だなぁ……」

 街の様子は見ていても、攫った状況までは饕餮にはわからない。やはり蜃に尋ねるのが一番だろう。

「そうだ。前も言ったが、我はこの街の中では喰ってないぞ」

「え? それって贔屓の前だったから嘘を吐いたんじゃないの?」

「違う! 街の中ではゆっくりと喰えないだろ。蜃に見つかるかもしれないんだから」

 頬を膨らます饕餮の言い分を信じるなら、街の中では誰も人を喰う姿を見ていないことになる。それだとこんなに悪夢が溢れる辻褄が合わなくなる。偶然精神的に弱い人間が集められたと考えるべきなのだろうか。どうにも引っ掛かる。

 思考が纏まらないまま獏はドアを開け、甘い香りのする店内へ入る。この香りを嗅ぐと安心する。疲れた手で机に常夜燈を置き、出しっぱなしの簡素な椅子に座った。机の陰にいた黒猫が獏に気付き、木箱の傍らへ跳び乗る。

「おかえりなさい」

 紙の包みを持ち、灰色海月も台所から顔を出した。

「生きて戻って来て良かったです」

「端から意識がちゃんとある状態で戻ったのは初めてだっけ……?」

「初めてではないですが、殆どくたばってました。クグロフを包んでおいたので、置いておきますね」

 机に置こうとした包みの底へ手を遣り、窮奇がひょいと持って行く。置くと饕餮がまた抓み喰いしそうな気がしたのだ。

「見舞いだってしれっと渡せばクールで格好いいか?」

「どうでもいいわ。言ってる時点で格好良くないぞ」

 鼻で笑う饕餮に窮奇は舌打ちした。

「善は急げだ。オレは先に病院に戻る」

「我も戻ろうかな。獏も戻るんだろ?」

「僕はもう少しここにいるよ。……二階も見ておきたいし。蒲牢が目覚める頃には戻るよ」

「いつ目が覚めるかわかるの?」

「……わからないけど。でも体に埋めた……臓肥桃? あれは僕も埋められたことがあるから、あの時くらい……まあ目覚めるならだけど、まだ時間は掛かるかなぁ」

「その言い方だと、結構掛かるみたいね。よし、病院に戻って蜃の見舞いを喰うか」

「蜃のだって言ってんだろ鳥頭」

 騒ぎながら饕餮と窮奇は店を出て行く。仲が良いのか悪いのか、体力が有り余っているようだ。

 獏は机に頬杖を突き、傍らに立つ灰色海月をふと見上げてぎょっとした。

「クラゲさん……顔色悪いよ?」

「あの……今、病院と……見舞いとか、蒲牢さんが目覚めるとか……何があったんですか?」

「……そうだね。その話をしないとね。スミレさんも呼んでこよう」

 おろおろと顔を真っ青にする灰色海月は灰色のスカートを抓み上げ、階段を駆け上がった。何も知らずに突然見舞いやら臓肥桃やらと聞けば顔色は一変するだろう。

 何から説明しようか考えながら、獏は擦り寄る黒猫をそっと撫でた。その温もりは数少ない癒しだった。


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