85-情報共有
宵街の病院を利用する者は少なく、自力で治療や回復を試みる獣が殆どだ。なので獣よりも変転人が怪我をして利用することが多い。
病室は四階分備わっているが、患者で埋まることはない。故に少しばかり騒いでも問題は無いが、故意に騒ぐのは躊躇われる。
そんな静かな空間で突然廊下が騒々しく、喧しくドアが開け放たれた。
「まさかここで会えるとはな! ――あっ、ごめんなさい!」
蜃の病室で状況を整理していた獏と贔屓は、ノックも無い来客に振り向く。勢い良く病室に入って来たのは頭に羊角を生やした少女――饕餮だった。目が合った贔屓の顔を見て素早く謝った。後退り、背後にいた牛角の窮奇にぶつかる。
「饕餮……」
「ごっ、ごめんなさい! 違う! ……べ、別に、何もしようとしてないよ……?」
誤魔化そうと口笛を吹く仕草をするが、音が出ていない。
「まだ何も言っていないんだが。饕餮も見舞いか?」
「……え?」
「狴犴に言われて動いてたんだろ? 狴犴は向かいの部屋にいるが、まだ目覚めていない」
饕餮はぽかんと口を開け、二つに束ねたふわふわの白髪を揺らして後ろを振り向く。窮奇も言葉の意味が理解できず怪訝な顔をした。
「わ、我は、宵街に入れるようになったから、狴犴に報告に来ただけで……。科刑所にいるんじゃないの? 目覚めてないって何? 寝坊か?」
「狴犴は奇襲を受けて重傷だ」
「は!? 一体誰が……」
贔屓が説明しようとするが、獏に肩を叩かれた。悪夢の説明をするなら獏が適任だ。
「悪夢、って言ったら、君は理解できる?」
「! ま、まあ……一応……」
「へぇ。やっぱりわかるんだね。神隠しを誘導した君なら知ってて当然だよね」
見透かしたように微笑み首を傾ける獏に、饕餮は一瞬言葉に詰まった。
「お……お前……何で…………記憶があるのか?」
「無いよ。無いから憶測も混じるけど。蜃を唆したんだよね? 僕の先代も……なのかな?」
「…………」
「今回のことは君にも関係がある。神隠しが事の橋渡しをしたからね」
「ど、どういうこと……?」
狴犴が病院にいるらしいこともだが、さっぱり意味がわからず饕餮は目を瞬きながら混乱する。また蜃を襲ってやろうと来ただけの彼女は、現状が理解できない。勿論窮奇も同じだ。
「蜃が創った街に誘われた悪夢が時間の停滞する街の中で保存されて、暴れたみたいだから。その悪夢は元を辿れば贔屓が宵街を統治してた頃の罪人だそうだけど――君が斬ったそうだね」
「え……? 何の話……まさか、鴟吻を襲った奴か!? 我が……斬ったからか……? それで? 今度は狴犴が……?」
「少し違う。斬る前にそいつから生まれた悪夢は独立してた。ただ、それを現代まで残したのは、君が唆した神隠しの所為だよ」
「……! い……言ってる意味がよく……。……あっ! 我を惑わそうという作戦だな!? 言いたいことがあるならもっと要点を纏めるべきだな!」
「もっと詳しく経緯を話すとなると長くなるよ」
「饕餮、僕もその神隠しとやらのことを知りたいんだが」
「!」
饕餮は獏と贔屓に板挟みにされ、困惑を顔に貼り付けて交互に見ながら後退った。
「今回の件の発端は僕だ。饕餮が責任を負う必要は無い。だが神隠しが何なのか僕は知らない。話してくれるか?」
饕餮は更に後退り、窮奇にぶつかった。
「……オレもさっぱり話がわからんが、吹き飛ばすか? 饕餮」
戯けて手を上げようとした窮奇よりも早く、贔屓は杖を召喚し二人に加重した。
「っ!」
二人は立てなくなり、床に手を突く。
「病院を吹き飛ばそうとするな」
「ちっ……只の冗談だろ……」
「怪我人はまだ目覚めないし、時間は幾らでもある。理解できるほど獏と饕餮からゆっくり話を聞こうじゃないか」
体を起こすこともできず床に貼り付き眉を顰める饕餮と窮奇を見下ろす赤褐色の双眸は、罪人に向けられるような冷淡なものではなく憐憫を帯びていた。
饕餮が贔屓を恐れるのは、過去に酷い仕打ちを受けたとか痛め付けられたとかそういうことではなく、単純に彼の力を恐れているからだ。贔屓の能力である加重はただ相手に重力を加算するだけのものではない。生者に対しては相手と同じように自らにも加重されるのだ。同等の重みを共に背負う、これが彼の能力だ。なのに贔屓自身は平然と立っている。贔屓が力持ちなのはこの能力の副産物のようなものだ。この圧倒的な差を見せつけられて恐れない者はいないだろう。どの程度の加重に贔屓が耐えられるのかは饕餮も知らないが、相手の肉体が潰れても贔屓は平然と立っていそうな気がして恐ろしくて彼には逆らえない。
窮奇もまた贔屓自身にも加重されていることを知っているが、窮奇は恐れよりも足掻こうとする。見下ろす贔屓を睨み上げる度胸だけは感心する。
「饕餮は以前、狴犴と契約をしていると言ったな。そのことも話せるか?」
「……き、窮奇……とりあえずお前は何もするな。肋骨が折れる……」
「お前に話す気があるなら別に何もしねぇよ」
「狴犴が意識不明なら……別にいい」
大人しくしてくれることに偽りはなさそうだと判断し、贔屓は加重を解いた。妹を傷付ける気は毛頭無いので加減はしていたが、饕餮と窮奇は苦しそうに圧迫されていた体を起こし肩で息をする。
呼吸を整えて二人は立ち上がり、饕餮は窮奇の服を掴んで前に立たせた。
「……とりあえずお前は前にいろ」
「オレを盾にするな。――いや、待て」
前を向いた窮奇は開いたカーテンの向こうで眠る赤髪の少女を見つけて息を呑んだ。
「オレの嫁じゃないか……」
「何言ってるの? 窮奇」
「お前の言ってた蜃ってこいつか!? そういや名前は知らなかったな……」
贔屓を押し退け、窮奇はベッドに駆け寄る。前にいろとは言ったが前過ぎると思いながら服を掴み直そうとするが届かず、饕餮はその場から動けなかった。
危害を加えるなら再び加重する所だが、そんな素振りはなかったので贔屓は場所を譲った。
「そいつが蜃だが、嫁って何? いつの間に娶ったの?」
「見ろよ饕餮。滅茶苦茶、可愛い! だからオレの嫁にする」
眠る蜃を指差し、窮奇は振り向く。まるで素敵な玩具を見つけた子供のようだ。
「お前が勝手に言ってるだけか」
饕餮は呆れるが、少し引っ掛かり贔屓に尋ねる。
「蜃は何で病院で寝てるの? 我達の他に刺客がいるのか?」
そのことに関して詳しいのは獏だ。贔屓が目を遣ると、意思を汲み取る。
「直接じゃないけど、悪夢の奇襲で起こった事故だよ。さっき言った悪夢のね。傷は無いからもうすぐ目覚めるだろうって」
新たな傷は無いかもしれないが、窮奇の付けた傷はまだ微かでも残っている。その傷痕の気配を追って饕餮と窮奇はここへ来たのだ。どういう事故かは二人は知らないが、相手が悪夢なら獏がいるのにこんな結果になるのは腑に落ちない。
「じゃあオレが目覚めさせてやるよ。こんな時のために、目覚めさせ方を知ってるんだ」
「叩き起こすの?」
「キスで目覚めるらしい」
真面目な顔をしているので冗談では無いだろうが、饕餮は溜息を吐いた。
「童話か? あれは虚構だぞ。……おい聞け」
話を聞かずに窮奇は眠る蜃に顔を寄せる。もし偶然にも目覚めれば最悪の目覚めだと思いながら、饕餮は止めない。何故なら、本当に目覚めたらちょっと面白い、と思ってしまったからだ。
獏と贔屓は止めようと考えるが、本当に目覚めるなら目覚めても良いのでは? と考え直した。人間の間では恋愛感情を伴うその行為に意味があることは知っているが、生殖機能の無い獣には恋愛感情を伴わないそれに大した意味は無いと思っている。頬へのキスが只の挨拶でもあるように、場所が違っても大差ないだろうと。獏の方は口付けて食事をするため、それ以上の意味で見たくないとも思っている。
すっかり視界の外の空気になっている黒色蟹もよく理解していなかったが、獣のすることなので見守ることにした。
止める者がいない中、唇が触れ合いそうになる寸前、跳ねるように蜃が勢い良く頭を振り上げた。
「――ああっ! だ!?」
互いに額を押さえて蹲る。
「蜃! 大丈夫……?」
「結構な勢いで起きたな……」
獏と贔屓も歩み寄り、蜃の額を確認する。割れてはいないようだ。こんなことで傷を作ってはラクタヴィージャに笑われてしまう。
「何か……悪寒がして目が覚めた……。俺……どうなったんだ?」
「椒図の攻撃が当たったんだけど、蒲牢が解いてくれたんだよ」
「そうなのか……後で礼を言っておくか……。蒲牢は何処だ?」
「蒲牢はその後悪夢に遣られて……向かいの病室で眠ってる」
「悪夢……そうだ悪夢だ! 椒図は!?」
寝起きでまだ思考が惚けていた蜃ははっと椒図の姿を思い出し、近くにあった獏の腕を掴んだ。
「椒図も向かいの病室にいるけど、軽傷だから起きてるよ。でも色々あってまだ混乱してるみたいだから、もう少し落ち着くのを待った方がいいかも。悪夢は僕が食べたから、そっちの心配はいらないよ」
「そうか……じゃあ椒図に会うのは後にする……」
本当は今すぐにでも会いたかったが、混乱しているのなら情報を増やさない方が良いだろう。今の椒図は蜃のいる病室ではなく、向かいの病室にいることを選んだ。蜃が行っても何の気休めにもならないだろう。
同じように額を押さえて蹲りつつも会話が進められていくのを眺め、窮奇は体を起こした。
「おい、オレを無視するな。オレが起こしたんだぞ」
「!」
漸く窮奇の存在に気付いた蜃は暫しきょとんとするが獏と贔屓の服を掴み、狭いベッドの上で後退した。
「なっ、何でこいつがここに!? 逃げた方がいい!」
「照れてるのか? 可愛い……」
「言葉が通じない……」
「安心しろ。別に危害を加えるつもりはねぇよ。寝起きは喉が渇くだろ? 水か? 腹が減ったなら人間を捕まえてくるか? 何人喰う?」
パァンと小気味良い音が病室に鳴り響いた。饕餮に頭を叩かれ、窮奇は不満げに彼女に顔を向けた。
「……何だよ饕餮。折角嫁が起きて燥いでんのによ」
「馬鹿か? 誰でも人間を喰うと思うな」
「ああそうか……人間を喰わないタイプか。まあそれはいい。オレは料理は全くできないが、人間の所には完成された料理が幾らでもあるからな! 何でも持って来てやれる。嫁は何もしなくていい。オレが世話する。それが嫁」
「ペットか? 確かにチワワっぽいが」
「誰がチワワだ」
二人の遣り取りに、蜃は口を挟みながら困惑と警戒を混ぜたチワワのような顔で獏と贔屓を見上げた。変な奴に目を着けられたものだ。
贔屓は菓子折で饕餮と窮奇の頭を軽く叩いて下がらせる。
「蜃の内臓は今弱っているんだ。固形物は食べさせてはいけないとラクタに言われている。下手な物は持って来るな、窮奇」
「あ? そうなのか? 医者が言ってるなら仕方ねーな」
「贔屓、その箱は何?」
「……蜃に持って来たカステラだが」
「くれ」
饕餮は人間を食べるが、雑食なので人間以外も食べる。遠慮無く手を差し出した。
対照的に窮奇は肉食で人間が主食であり、他の肉でさえ余程餓えている時ではないと食べない。勿論カステラなんて物は食べない。
「食べたら話してくれるか?」
「……こうなったのは、我が原因なんだろ? ……悪夢関係は獏がいれば万事解決と思ってたのに、獏が弱い所為でこっちに皺寄せが来てるのは癪だけどね!?」
カステラの効果なのかしおらしくなったかと思えば獏に擦り付けようとし、獏の頬は引き攣った。
「先代のことは僕は詳しく知らないけど、あの街の中で好き放題に人間を食べたんでしょ? あそこで発生した悪夢は人為的と言っていい。そんな想定外の悪夢を量産して獏一人に丸投げする方が可笑しいよね」
「すっ、好き放題って程じゃないぞ! 想定外にも対処できない特権持ちの獣は迷惑だな!」
饕餮は指を当てて目元を下げ、舌を出して煽る。その額を贔屓に指で弾かれ、がくんと背中が仰け反った。
「……本気で弾いた……」
「本気なら壁まで飛ぶが」
「冗談なのかわからない……」
「言い合うのはそこまでにして、蜃が起きたんだから神隠しとやらの話を聞かせてくれ」
どういう話の流れかは知らないが『神隠し』と言われて蜃はびくりと硬直した。何故贔屓がその言葉を知っているのか、眉を寄せて獏と饕餮を見る。
成り行きを説明する者はいなかったが、獏は、ふ、と不敵に笑った。
「神隠しを犯した人達はもう全員化生した。その時の罪を覚えていようがいまいが、別人となった今それを問われることはない……。なら、全部話しても問題ないんじゃない? 蜃」
獏も椒図も化生し、あの頃の記憶はもう無い。記憶を継いで化生した蜃だけがあの惨劇を覚えている。蜃にあの時の話をしろと言っているのだと、時間は掛かったが理解した。眠っている間に話をする流れになっていたようだ。窮奇のキスで目覚めさせられる寸前だった蜃はそんなことは露知らず、もう少し眠っていれば良かったと思ってしまった。
「俺が何で……」
「今回襲って来た悪夢と神隠しが関係あるんだ。だから贔屓が知りたがってる。君も発端が何か知りたいでしょ? そこは贔屓にも話してもらおう」
贔屓に笑いかけると、彼は苦笑した。確かに糸が繋がっているなら必要な情報だ。だが自分も話さねばならないとは、少々気は引けた。狴犴との大喧嘩の発端とも言える事件を話すのは。
「少し長くなるな。先にラクタに蜃が目覚めたことを伝えてくる。それから話そう」
「うん。椒図にも聞いててほしいけど……本人に訊いてみるよ。聞きたいって言えば、連れて来る」
「全く関係の無い窮奇は帰ってくれても構わないが」
「何でだよ。ここまで聞いたら気になるだろ。饕餮が何かこそこそ遣ってることは知ってたしな」
贔屓と獏が出て行くと見張りも無く、饕餮は病院を去ることができたが、それはしなかった。壁際に置いてあった椅子を運び、ベッドから少し距離を取って座る。何が何だかわからないが、神隠しの何かが原因で狴犴と蒲牢が襲われることになったらしい。饕餮は自身が悪いとは思っていないが、状況だけは知っておきたかった。彼女の発想や行動は突飛だが、兄弟が傷付く所は見たくないのだ。先日蜃を襲った時に突発的に蒲牢と贔屓と戦うことになったが、あれは成り行きであり仕方のないことだった。
彼女の意思を汲み取り、全く関係の無い窮奇も椅子を置いてどっかと座った。脚を組んで蜃を見ると、すぐに目を逸らされた。照れている、と窮奇は思った。
静かに見守っていた黒色蟹は漸く蜃の目が覚めて話す機会が訪れたので、獏と贔屓が戻らない内に確認を取る。二人が戻って来たら話が長くなり、会話を挟む暇がないだろう。
「尋ねたいんですが、僕の仕事は継続中ですか?」
突然話し掛けられた蜃はきょとんとし、そう言えば仕事を頼んでいたと思い出す。
「変転人の相手……って奴だよな。あれはもういい。椒図もすぐそこにいるみたいだからな。眠りこけてて悪かったな」
「ではもう帰宅しますね。獣同士の深刻な話に部外者が居るのは良くないと思うので」
「……ああ、そう――いや、もう少し居てくれ……あいつが何をするかわからない」
今は大人しくしているが窮奇がまだ部屋に居ることを思い出し、蜃は黒色蟹の袖を引いた。饕餮が居るので二人きりではないが、この空間に一人で待ちたくなかった。
「居るだけが仕事ですか? 抑止力になるとは思えませんが……」
「居るだけでいい。目が覚めた瞬間に頭突きを喰らう状況が全くわからない……」
戦闘になったとしても変転人の黒色蟹では窮奇に敵わない。できることと言えば精々蜃を連れて逃げることくらいだろう。それで良い。逃げるだけで充分だ。
蜃が勢い良く起き上がったために衝突したのだが、当人は窮奇に頭突きを喰らわされたと思っている。口付けようとしたと真実を言っても意味がわからないだろうが。
待つ間も窮奇は蜃を凝視し、蜃は居心地が悪いことこの上なかった。疲れた体で何故こうも緊迫感を味わわなければならないのかとベッドの上で最大限に距離を取る。傷が無いからと言って体調が良いわけではないのに。
時間は随分と掛かったように思えたが、向かいの病室へ行った獏はすぐに戻って来た。杖を提げた浮かない顔の椒図を連れていた。蜃は椒図に話し掛けようと腰を浮かしたが、勢い込んでも椒図を混乱させるだけだ。今は状況を整理する方が先だ。椒図はもう逃げないはずだ。慌てなくていい、と蜃は焦りを募らせながら自分に言い聞かせた。
蜃の胸中を表情で察し、獏も何も言わなかった。椒図のために椅子を置き、向かいの病室から持って来た座布団を敷いて座るよう促す。椅子が足りないので、獏は壁に背を預けて立った。
「椒図!」
そっとしておこうとした蜃と獏の胸中は知らず、饕餮が大きな声を上げた。元を辿れば、化生した椒図を捜すよう狴犴に言われていたのだから、ここに椒図がいれば驚くだろう。
椒図はびくりと杖を構えて後退した。
「そんなに警戒しなくていいぞ、椒図。我は饕餮だ」
「饕餮……姉……?」
「そうよ。だから杖を仕舞っていいぞ」
「これは……」
「んん? ……そうか窮奇に警戒してるのか。それはしょうがないね。窮奇は我の腐れ縁だ」
からからと笑う饕餮とは対照的に、椒図は杖を握ったまま警戒を弛めない。饕餮とは姉弟とは言え初対面だ。途惑っていることが誰の目から見ても明らかだった。
窮奇は白黒の頭を傾け、椒図の顔を覗き込むように凝視する。
「……これが椒図? よくわかったな饕餮」
「姉弟だからね。何となくわかった。この暗い感じは、前世の最初の頃に似てる」
「似てるのか? ってことは完全な別人でもないのか。化生が早過ぎるし、新しい肉体が間に合わなかったのかもな――なんて」
未熟だと言われていた椒図は杖を握り締めて目を伏せた。心身共に未熟に化生したらしい。どうしてそんなに早く化生してしまったのか、椒図の方が聞きたい。少なくとも狴犴は、椒図がいなければあんなに一方的に悪夢とやらに遣られることはなかっただろう――そこまで考えて椒図は顔を上げた。ベッドに座る赤髪の少女と目が合う。この少女もまた椒図の未熟さの犠牲となった。
「……蜃……だったか? 僕が未熟な所為で殺しそうになってすまない……体は大丈夫か?」
「!」
まだ話し掛けないつもりでいた蜃は咄嗟に言葉が浮かばず詰まってしまった。名前は獏が伝えたのだろう、それでも蜃を認識していることに途惑いと嬉しさが込み上げる。
「だ……大丈夫だ。何ともない……」
やっとそれだけ言うが、言いたいことはもっとある。あるのにまだ少しも打ち解けていない椒図にあれこれと畳み掛けるわけにはいかない。ここで距離を取られればお終いだ。
「そうか……あれで生きてるのか……」
「蒲牢が君の力を解いたからだよ」
不思議そうな椒図に獏が補足する。椒図は目を丸くし、獏を見た。動物面に隠れて顔が見えない。
「殺してしまったと思った……。既視感のような感覚があって、こんなことが前にもあったような気がして怖かった」
ゆっくりと探るように紡がれた言葉に、蜃は身を乗り出した。
「それ……記憶があるのか!? それは前世に……俺に話してくれたことだ。凄く……辛かったって……」
「記憶……? いや、ぼんやりとした感覚があるだけで、何かを覚えてるわけじゃない」
「……そうなのか?」
「それはどんな話だ?」
「あ……」
話しても良いものか蜃は迷った。そのことを気にして閉じ籠っていた椒図に戻ってしまうことを蜃は望まない。それなら知らない方が平穏でいられるはずだ。誤って親切な人間の命を閉じて殺してしまったなどと。だが椒図は今、知らないことに不安を覚えている。話すか話さないかどちらが正しいのか、蜃には結論が出せなかった。
「……話せないことならいい。殺し掛けた相手と話すのも不快だろうからな」
「ちがっ……」
否定しようとした瞬間、病室のドアが開いた。水差しとコップを持った贔屓だ。蜃は布団を握り、機会を失ってしまった言葉を呑み込む。
「ラクタが回復効果のある水を作ってくれた。内臓を労る軽めの薬だと言っていた」
透明な水差しの中には、何やら白い花と花弁が浮いている。薬と言われると苦そうだ。
その水を注いだコップを蜃は躊躇いながらも受け取る。恐る恐る一口飲むと、予想に反して仄かに甘かった。
「贔屓ぃ、タイミングが最悪だったぞ」
にやにやと笑う饕餮に、贔屓は怪訝な顔をする。
「……ん? 何かあったか?」
「いやぁ何でもない。早く話を済ませよう。誰から話すんだ?」
まだにやにやとしつつ脚を組み、饕餮は促す。誰からと言うなら、一番最初の出来事は贔屓と狴犴の確執だ。それを皮切りに皆は順に話すことになった。
「あの醜態をあまり広めたくないんだが……僕から話そう」
贔屓が宵街を統治していた頃、刑期を定めて釈放したある罪人が報復を企てた。鴟吻がその標的となった。饕餮と贔屓がそれを跡形も無く処理したが、罪人の扱いについて贔屓と意見を違った狴犴との溝は塞ぎきれない程に広がってしまった。
時を経て窮奇の影響を受けて人間を食べ始めた饕餮は、狴犴の目に留まらないよう人間を捕まえて隔離し家畜のように増やそうと画策した。だが一人では実現できず、他の獣を利用することにした。椒図を通して存在を知った丁度使えそうな蜃を唆し、悪夢を警戒し獏も誘った。
饕餮の提案した悪戯に乗った蜃は椒図と共に神隠しを計画した。饕餮に利用されているとも知らずに。饕餮の目論見通りに子を成す人間はいなかったが、こんなにたくさんいるならと饕餮は度々人間を喰った。それを目撃した人間はいないと饕餮は言うが、その辺りから悪夢が急激に広まることとなった。獏一人では悪夢の処理が追い付かず、やがて瓦解した。
神隠しの街は現在は化生した獏の牢として使用されている。その街の端には腐った悪夢が蠢き、人間を誘い込んだり喰ったりしていた。端から動けないのは先代の獏の最期の力によるものだったがその力も弱まり、一部の悪夢が再び自由に動き出せるようになった。悪夢も存在を保てる時間は有限だが、神隠しの街は椒図の力により時間が停止している。その中で悪夢は朽ちることなく保存されていた。
今回の件ではその中の悪夢が宵街へ行く獏達に憑いて来たと見ている。神隠しの街の悪夢は腐っているが故に獏でも感知することが難しく、病院に現れた悪夢も感知できなかったのが根拠だ。その悪夢は『殺す』『潰す』と喋り、何度も贔屓の名を呟いていた。そのことから贔屓を訪ね、最初の事件で始末した罪人が浮上することになった。
順にそれぞれが語り、糸が繋がったことを歯噛みした。全てに少しずつ誤算があった。
皆口を噤み、それぞれの話を咀嚼する。簡略化した部分もあるが、大凡は把握できた。
「……質問があるんだけど、いいかな?」
最初に疑問を口にしたのは獏だった。それぞれの問題に答えられる者が今は揃っている。疑問の穴を埋めるのは今しかない。
「質問会か。いいだろう」
「饕餮になんだけど」
「我か? 聞いてやらないこともない」
何を訊かれるのか想像できず、饕餮は少し目が泳いだ。責められるのではないかと落ち着かない。計画を思い付いた時はこんなことになるとは予想できなかったのだ。結果が最悪過ぎる。
「饕餮は先代の獏を蜃に会わせたそうだけど、悪夢が出るかもしれないなんて獏以外じゃなかなか思い付かないことだよ。獏以外には靄も見えないし。悪夢を知ってたの?」
「ああ……そのことか。偶々だが、その先代が黒いのを食べてる所を見たんだ。それを食べられた人間は憑き物が落ちたようにすっきりした顔をしてた。きっとそれが悪夢なんだろうと直感的に思ったの」
「でもそれだけなら、悪夢が危険な物かわからないよね?」
「……悪夢か断定はできないが、宵街で変転人を襲ってる黒いのを見掛けたの。何なのかよくわからなかったが、襲うなら悪い奴だろ? 始末してやろうと近付いたらすぐに逃げて行った」
「それはいつ?」
「狴犴が宵街の統治を始めてすぐだったはず。街が暗くなってまだ慣れてなかった頃だから覚えてる」
「それが今回の悪夢だった可能性はあるね」
「! 我が逃したからか……?」
「そうだったとしても仕方ないよ。獏以外じゃ処理できないから」
「だが始末できなかったのも我、神隠しを提案したのも我……」
「反省してるなら、一度神隠しの街に来て端の悪夢でも見てみる? まだたくさんいるよ」
にこりと微笑む獏を饕餮は顔を顰めながら一瞥した。
「お前……さては滅茶苦茶性格が悪いな?」
「僕からも質問をしていいか? 饕餮」
会話が一段落したので贔屓も小さく手を挙げた。
「何で我ばかり!」
饕餮は身を引き、暇そうな窮奇にぶつかった。
「僕と獏は既に話していたからな。饕餮とはこれが初めてだ」
「そ、そうか……」
「狴犴と契約していると言っていたな? そのことを聞きたい」
「それは……悪夢と関係無くないか?」
「関係無くても知りたい。印でも刻まれているのか?」
「印は……無いが」
ぼそぼそと俯きながら饕餮は椅子を下げ、窮奇はその椅子の脚に足を掛けて止めた。契約の話なら窮奇にも関係がある。説明する役を擦り付けられたくなかった。
「饕餮。贔屓にも公認されればもう怖いものはないぜ」
「されるか馬鹿!」
「狴犴は認めてくれただろ」
「狴犴は何か……最近おかしかったからな」
「狴犴がおかしいと言えば、饕餮は無罪放免だろ。あいつは今寝てるんだし」
「贔屓の前で堂々と言うな! それにお前も同罪だからな!」
仲違いさせるために質問したわけではないんだがと思いながら、贔屓は苦笑し二人の肩を叩いた。二人はびくりと口を閉じ、贔屓を見上げる。また加重されたかと全身が強張ってしまった。
「僕はもう宵街の統治者ではない。罪と言われてもどうこうする気はない」
二人は互いに顔を見合わせる。それなら言っても問題ないのではと恐る恐る結論を出した。二人は根は素直だった。
「……狴犴が、椒図を捜すのを手伝ってほしいと言ってきてな、交換条件で変転人を喰ってみたいと言ったんだ。ちょっ、ちょっとした冗談のつもりだったんだからね!?」
「その条件を呑んだのか……」
「四凶を動かせと言われたから、おかしいと思ったんだが……。窮奇はこの通り呼んだが、後の二人とはもう疎遠だし、声を掛けなかった」
ぼそぼそと呟くように話す饕餮の言葉に、獏は「四凶?」と小首を傾ぐ。これには贔屓が答えてくれた。
「饕餮が連んでいるチーム名だよ。僕も後の二人とは会ったことがないんだが、相当な悪さをしていて人間に恐れられていた。だが四凶は饕餮を除く三人は人間が主食のため、食べるならと殺しを容認していたんだ」
「そう。人間に恐れられ過ぎるのも面倒臭くて、自然と縁が切れたの。……まあ我の話はいいだろ。面倒臭いし」
「饕餮は最後に加入したらしいが、この通りの性格だからな」
腐れ縁とはそういうことかと獏は納得した。疎遠になっていない窮奇とは馬が合うようだ。
「それで、この前は何で話してくれなかったんだ?」
話は変わるがどのみち嫌な話には変わりないと思いながら、訥々と饕餮は不満そうに答える。質問会と言うよりこれはもう拷問に近い。
「だって……狴犴がそんなこと言ってないと言えば、我が一方的に悪いことになるよね……? 地下牢に入れられるかもしれない……」
「その時は僕が弁護しよう。兄弟が地下牢で一生を過ごすのは見たくないからな」
椒図が地下牢にいたことを贔屓は知らなかったが、知らないまま地下牢に収容され続ける未来もあったはずだ。知らなくても兄弟がそのような場所に放り込まれているのは気分の良いものではない。加えて今はもう一つ理由がある。地下牢でもし絶望し自害したとしても、龍生九子は化生できないのだ。
「蒲牢も狴犴も生きてくれていて良かった。饕餮も、死なないように気を付けろ」
「縁起でもないことを言うな……」
「覇下が化生していないことは知っているな?」
「は? 知ってるが……」
「推測の域だが、兄弟の順が入れ替わる化生はしないらしい。覇下より下の兄弟が全員死ななければ、覇下は化生しない可能性が高い」
「え……」
饕餮は目を見張り、呆然と立ち上がった。
「じゃあ覇下は、下の三人が死ぬのをずっと待ってるの……?」
「答えに辿り着けるかはわからないが、鴟吻に母親を捜してもらっている。一筋縄では行かないだろうが、見つかり次第、話をしようと思う」
「は……母親……? 何それ……そんなのがいるの? 一筋縄じゃ行かないって……危険ってこと? いやいや……贔屓が一人で行くのは危ないよ……。贔屓がもし死んだら、兄弟全員が死なないと化生しないってことだろ? そんな無茶な」
「もしかしたら優しい母かもしれないよ?」
「む……一筋縄では行かないと言った癖に……。優しい母なら兄弟達の様子を見に来ないか……? 我は会ったことないぞ。そもそも母体から産まれた覚えも無い……」
「饕餮に真理を突かれるとは」
「我は阿呆ではないからな」
困惑していた饕餮だったがふふんと胸を張り、得意気に踏ん反り返った。暇な窮奇は薬水を少しずつ飲む蜃を無言で眺め、それに気付いた蜃はびくりと腹に力を入れてしまい切なく虫が鳴いた。
「腹が減ったのか? 可愛いな……人間が駄目なら何肉がいいんだ? 猪か? 熊か?」
「水を飲んだら軟らかい物なら食べていいと言っていたな。柘榴が礼にと持って来たカステラを食べるか?」
「白実柘榴か? あいつ良い奴だな」
取り合ってもらえなかった窮奇は不満げに唇を尖らせた。同時に聞き覚えのある名前が出て来てはっとする。
「あの白い柘榴、生きてるのか? 贔屓と蒲牢に嗾けたら即死だと思ってたぜ」
「理由も聞かず殺すことはない。適当な命令で送り込むな。大分混乱していたよ」
「説明も面倒臭いしそもそも人を使うのは苦手なんだ。新しい変転人を作れって言われたから作ったけど、自分より弱い奴に何ができるんだよ。……ああ、非常食か?」
けらけらと笑う窮奇に贔屓は手を上げ、窮奇は冗談だと言いながら手を払った。本気ではないにしても、変転人のいる前で言うことではない。一言も発さないが、黒色蟹がベッドの横に無表情で座っている。
「変転人には冗談では済まないことを覚えておけ」
窮奇は舌打ちし、黒色蟹を一瞥する。変転人がそこにいることくらい知っている。
何やら口論の渦中に引き摺り出されていることに黒色蟹も気付き、ここで初めて口を開いた。
「僕のことは気にしないでください。それに獣と言えど毒物である無色を食べれば、只では済まないと思います」
「…………」
「……我、無色少し味見した……」
窮奇よりも饕餮が警戒してしまった。ほんの少しではあるが、彼女は白花苧環の指を齧ってしまった。
「不味かったのは、毒があったからか……?」
「腹でも下したか?」
「いや……平気だった。指を少し齧っただけだからかも……」
「何でも喰う饕餮が不味いって言うんなら、無色は不味いんだな。不味いならオレも喰わねー」
「有色は美味かった……」
ぽこん、と軽く菓子折で叩かれ、饕餮は頭を押さえた。贔屓は箱からカステラを取り出し、蜃と饕餮に一つずつ渡す。
「饕餮も窮奇も、変転人は食べるな。狴犴にも目が覚めたら言っておく」
「我は謝らないぞ」
袋を引き裂き、饕餮は豪快にカステラに齧り付いた。蜃は体を思い遣り、小動物のように少しずつ齧る。
「美味い」
嬉しそうに頬張る姿に、窮奇は目を奪われた。
「可愛い……。カステラ集めよう……」
椒図も先程受け取ったカステラを見下ろし、二人に倣って袋を開けた。指で突くと柔らかく沈み、抓むと簡単に千切れる。一口頬張ると、ふわりと甘い味がした。
皆が話していたことを理解するのは椒図にはまだ難しかったが、どうやら神隠しとやらに係わっていたようだ。蜃と共に、と言うことは二人はそこそこ良い仲だったのだろう。化生したので当然だが、何も覚えていない。蜃は何も話し掛けてこないが、椒図が命を閉じようとしたことで距離を取っているのだろう。近くにいれば危険だと、一度力を見れば誰でも思うはずだ。化生前にどんな関係だったにしろ、亀裂が入ったものを無理に戻そうとも思わなかった。記憶が無いのだから、執着は無い。
同じ物を食べているのに、蜃と椒図はぼんやりと違う味を感じていた。




