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透明街の人喰い獏  作者: 葉里ノイ


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84/124

84-帰る場所


 病院の待合室の隅で椅子に凭れながら、獏は少し傾いた視界の中でぼんやりとしていた。病院に現れた悪夢の処理をし、もう丸二日が経った。宵街の中では病院以外に行く場所もなく、獏は待合室で時間を潰す。悪夢は生物が発生させるものなので、確認のために人の多い所へ様子を見に行ったが異常はなかった。

 花魄はせっせと木霊を作り直し、蜃は閉じられた影響で未だ目覚めず、一命は取り留めたが蒲牢と狴犴も意識が無いままだ。悪夢を食べた獏だけが艶々としている。

 傍らに座っている黒色蟹は蜃の命令が聞けず、身動きが取れずにいた。白花苧環は大人しいが、時折眠そうに壁に頭を擡げている。

「無線状態のマキさんは電池で動いてるみたいだし、そろそろ充電しよっか」

 白花苧環の腕を引くと、彼はゆっくりと身を起こした。

「蜃はまだ目覚めなさそうだし、レオさんも来てくれるかな?」

「仕事ですか?」

「転送してほしいんだ。あと、僕じゃ行けない所に行きたくて」

「? ……はい。わかりました」

 受付の姫女苑に出掛ける旨を伝えて病院を出る。久し振りの外出だ。

「何処に行きますか?」

 早速黒色蟹が黒い傘を持ち出すので、獏は慌てて制した。

「先に花畑に行きたいんだ。マキさんを預かってもらおうと思って」

「そうですか。早まりました」

 黒い傘を仕舞い、表情を変えずに立つ。未だに彼の感情が読めないが、眠る蜃の命令を待つ従順さは認める所だ。

 獏は彼を促し、酸漿提灯の並ぶ石段を下って横道へ入る。徐々に黒色蟹の家に近付き、彼は納得した。道端で獏にぶつかった時も花畑に向かっていたのだと。

「レオさんは花畑に行くのは初めて?」

「いえ。行ったことがあります」

「じゃあ入り方はわかるね」

 茂みの中に隠れる消えた街灯を見つけて白花苧環の手を置く。彼を先に行かせ、獏は後から入る。

 三人が中に入ると植物の生い茂る変わらない花畑がそこにあり、小屋の方へ向かうと鍋の前で花魄の小さな体が倒れていた。伸ばした指先が液体の入った枡へ向いている。

「え……花魄!? 何があったの!?」

 周囲を見渡すが、敵らしき気配は無い。だが駆け寄りながら視線を感じ、小屋へ目を遣ると壁の陰からこちらを覗く青い頭が見えた。


「獏……?」


 不安そうに覗く頭と声は間違いようがなかった。

「アサギさん! 目が覚めたの? 何処か違和感とかない?」

 狴犴に印で操られ気絶していた浅葱斑が目覚めていて安心すると同時に、蒲牢に印を剥離してもらった体に異常がないか確認する。

「覚めた……けど、ここは何処だ……? その小さいのは獣? 急に倒れたんですけど」

「倒れた? この小さい獣は花魄だよ。君を助けてくれたんだよ」

「えっ」

 助けたということは敵ではないはずだ。浅葱斑はまだ警戒を残しながらも陰から姿を現した。

「みず、って言いながら倒れたんだけど……まさか死んだんですか? ボクが放置したから?」

「水って言ったの? この枡の中が水なのかな……」

 慌てる浅葱斑を落ち着かせながら花魄を拾い上げ、落とさないように彼女の口元を枡の中の水に近付けてみる。口元に水が一瞬触れると、びくりと小さな体が跳ねて水の中に落ちた。

「あっ……」

 ぶくぶくと沈む花魄を引き上げようと出した手は、勢い良く顔を出した彼女に遮られた。

「――生き返るー!」

 ぐったりとしていたのが嘘のように元気に足をばたつかせ、彼女は枡の端へ腕を置いた。

「助かったわ! 危うく枯れる所だった」

「落としちゃってごめんね……」

「いいのよ! 全身水に入れてくれるのが正解だから!」

 まるで風呂に浸かっているかのように寛ぐ。思いの外元気そうで安心した。話もすぐにできそうだ。

「何があったの?」

「水分補給を怠って枯れそうになってただけ……」

「そうなんだ……」

 近くの枡は何なのかと疑問だったが、鍋からあまり手が離せない彼女が水分補給のために置いた物のようだ。敵から攻撃を受けて倒れていたわけではないらしく、獏は安堵した。

「そうだ、木霊はできたの?」

「もうすぐできると思うわ。今は成形中よ」

「その様子だと目を離しててもいいみたいだね。お願いがあるんだけど、いいかな?」

「お願い? いいわよ。水に入れてくれたし」

「マキさんが何だか眠そうなんだ。たぶん花魄の力が切れかかってるんだと思うんだけど……。預かっててもらえないかな?」

 枡の中から白花苧環を見上げ、花魄は感心したように息を漏らした。

「随分持ったわね……。わかったわ。繋いでおく。ここなら狴犴も来ないし、待てるわよ。脱獄の準備ができたら戻って来てよね。……私が言うのもだけど、眠いなら眠らせてあげるのが一番だけどね」

 白花苧環は生きているように動いているが、もう疾うに空っぽの死体だ。眠らせておいた方が良いのは獏も理解できる。だが急な別れだったため、どうしても後ろ髪を引かれてしまう。もう少しだけ、と思ってしまう。

「……うん。ちょっと複雑なことになってるけど、後で話すよ。……それとアサギさん、顔が真っ青だけど大丈夫?」

 先程から浅葱斑は顔面を蒼白にして固まり、微動だにしない。蝶には夢見鳥(ゆめみどり)夢虫(ゆめむし)の異称があるが、彼の意識も夢の中に飛んでいってしまったようだ。彼の前で手を振ると、漸く少し動いた。

「ば、獏……。そ、そそそこにいる人……マキさんって言った……? 凄く似てると思ってたけど……いやボクにだけ見える幽霊なのかも……とか……」

「ああ、初めて見るとびっくりするよね。この白い人はマキさんで合ってるよ。幽霊でもない。花魄は死体を操れるんだって。君は狴犴に操られてた時のことは覚えてないの?」

「え……待ってよ、狴犴に操られてた……? ぜんっぜん記憶に無いよ! どういうことですか? 操られてたって……」

「君は狴犴に印を刻まれてたみたいで、あの街からマキさんを攫っちゃったんだよ。それで紆余曲折を経たみたいで、ここに。紆余曲折の部分は花魄の方が詳しいよ」

「苧環を攫った!? そ、それって、獏はボクのこと……」

 混乱しながら怯えて眉を下げる浅葱斑に獏は微笑んだ。

「恨まないし、怒りもしないよ。操られてただけなんだから」

「獏ぅ……!」

「印は蒲牢が引き剥がしたから安心して。僕はこれからちょっと行く所があるから……ここでマキさんを見ててよ。それとも、死体が動いてると怖い?」

 安心させるように柔らかく微笑む獏の顔は動物面で殆ど隠れているが、見える口元だけでも充分に綺麗だと浅葱斑は思う。浅葱斑は一瞬ぼんやりと惚けた後、ぶんぶんと首を横に振った。いつ印を刻まれたのか操られている間に何を仕出かしたのかもわからないが、体に傷が付いていないのだから、敵として攻撃されなかったのは確かだ。守ろうとしていた白花苧環を攫うなんて特級の罪だ。それを許してもらえて印も解いてもらった。そんな特大の恩を仇で返すわけにはいかない。死体が動くのは不気味だと思ったが、話を聞くと不思議とあまり怖くなくなった。白花苧環は喋らないが、まるで生きているかのようだった。

「ボクが見ておきます! 怖くないです!」

「ふふ。良かった。勝手に何処か行きそうだったら引き止めてね。手から武器は出せないけど、ナイフを持ってるから一応気を付けて。マキさんが死ぬ数日以内にアサギさんは顔を合わせてるから、アサギさんのことは覚えてると思うんだけど」

「ちょっと怖いこと言わないでよ獏……。ま、まあ、頑張ってみる……」

「ありがとう。花魄もいるし、大丈夫だよ」

 目覚めたばかりで心配はあったが、操られていた後遺症も無さそうで会話も問題なくできている。白花苧環をまだ少し警戒しているが、その程度なら任せておいて良いだろう。白花苧環の生前も浅葱斑は彼を少し怖がっていた。その時とあまり変わらない。

 獏は黒色蟹を促し、浅葱斑と眠そうな白花苧環に手を振って花畑を後にした。白花苧環は動こうとしたが、浅葱斑に袖を引かれて留まった。

 狴犴が入院していることは彼らにはまだ話さない。宵街の統治者が意識不明で入院していると広まれば、良からぬことを考える者もいるだろう。浅葱斑と花魄を信じていないわけではないが、不必要に混乱させることもない。これは狴犴のためではなく、状況を把握するまでは慎重になった方が良いと思ったからだ。

「――それじゃあレオさん、僕の思念を読み取って転送してくれる?」

「はい」

 黒色蟹は黒い傘を開き、面を取った獏と額を合わせた。額を合わせなくても思念は読み取れるが、合わせた方が精度が高くなる。

「……あ、そうだ。忘れてたけど、宵街ってまだ閉じてるのかな?」

「回してみます」

 くるりと黒い傘を回すと、一瞬で閑静な住宅街に現れた。どうやら椒図は宵街へ掛けた力を解いたようだ。もしくは負傷の所為で維持できなくなったか。

 人間の街はまだ明るい昼下がりだった。薄暗い宵街から明るい人間の街へ切り替わり、眩しさに目を細めながら獏は面を被る。

「えっと……この辺りに道はない?」

 周囲の家を記憶と照合しながら、手で大凡の場所を示す。獏の目ではそこにある道を見ることができない。

「道ですか? あります」

「何処?」

「指を差せばいいんですか? そこですが……」

 何だか不思議な遣り取りだと思いながら、黒色蟹は言われた通りに目の前の細い道を指差す。

「……ああ、見えた。僕には見えないんだよね。この絡繰は他言無用でね」

 口元に人差し指を立て、悪戯をした子供のように獏は笑う。最初から全て見えている黒色蟹には何が何やらだ。

 路地を進み、木々の覆う向こうへ出て行き止まりの方へ折れる。突き当たりに周囲の住宅街からは浮いた煉瓦の建物が立っていた。そこに獏はからんと小気味良い音を立てて入っていく。外の小さな看板には『喫茶雨音』と書かれていた。

 温かい落ち着いた色の照明が見下ろす店内を見渡し、隅の席へ行く。外が明るいので窓のステンドグラスがきらきらと色を落としていた。


「――贔屓」


 呼び掛けると、ぼんやりとした気配が鮮明になる。

「ああ、獏。丁度良かった。……蜃はいないのか?」

「ん? 蜃に用があったの?」

 奥のいつもの席に人間の殻を被った贔屓が座り、その対面に見覚えの無い幼い白い少女が座っていた。まるで人形のようなフリルやレースを(あしら)ったふわふわとした服を着て、頭にはボンネットを被っている。髪から靴まで白く、おそらく無色の変転人だ。

「警戒しなくても大丈夫だよ。彼女は白実柘榴(シロミザクロ)だ」

「前に家に送ったっていう……?」

「ああ。あの時御茶を断ってしまったから、改めて御礼にと菓子折を貰ってしまったんだ。蜃にも分けたいんだが、持って行ってくれるか?」

 机に置かれていた長方形の箱を開けると、一つずつ袋に入ったカステラが行儀良く並んでいた。

「うん、いいよ。でもすぐには食べられないと思う」

「それは構わない。賞味期限はまだ先だからな」

「蜃は今、意識が無いんだ」

「意識が……? 何かあったのか?」

 獏は隣の席へ座り、黒色蟹にも座るよう促す。

 カウンターの奥で豆を碾いていた店主は獏達へ目を遣り、贔屓は獏を軽く手で制して席を立った。

 少し待ち、熱いココアと珈琲を持った贔屓が戻って来る。

「黒い君は珈琲で良かったか?」

「はい。ありがとうございます。黒色蟹と言います」

「やっぱり変転人か」

 贔屓は席につき、獏に話の続きを促した。

「蜃は無事なのか? ……狴犴が遣ったのか?」

「命は大丈夫みたい。狴犴じゃなくて、椒図なんだけど……」

「椒図が?」

 意外な名を出され、贔屓は訝しげに眉を寄せた。蜃と椒図は友達だ。椒図に記憶が無いとは言え、争うような事態になるとは想像できなかった。

「悪夢に襲われて、椒図は悪夢に攻撃が通じないことを知らなくて、蜃に当たったんだ。……事故だよ」

「……それは災難だったな」

「ここに来たのは、君にその悪夢について聞きたいことがあったから」

「悪夢に関しては僕は素人だが……」

「うん。最近、色んな悪夢を見る機会があってね。前から色々いたのに気付かず食べてただけかもしれないけど。人格を取り込んだり、意思があったり……喋ったり。それでね、今回の悪夢が君の名前を呼んでるみたいだったんだ」

「僕の名前を……?」

「贔屓、って。君を怨んで、殺したい……そう言ってるみたいだった。だから、そういう怨みを買ったことがあるか聞きたくて」

 贔屓は然程考える間も無く、口の端を上げて困ったように笑った。

「それは覚えがありすぎる」

 罪人を裁いていた贔屓には、怨みを買うことは多々あった。把握しきれないほど怨みが存在するだろう。

「そっか……じゃあ特定は難しいかな。後は……潰す、って言ってたね」

「潰す?」

 今度は目を伏せ、笑みを消した。少し考え、眉を寄せる。

「……これは関係無いことかもしれないが……」

「何か心当たりがある? 何でも言ってよ。僕が判断するから」

「僕が宵街を統治していた頃に、報復を企てた罪人がいたんだ。饕餮(とうてつ)がそいつを斬り捨て、その処理を僕がした。首と胴を切断され完全に死んだ状態で、僕は力を使って圧縮して捨てたんだが……」

「潰した罪人がいたんだね」

「だが悪夢とは、睡眠時に見る夢……のことだろう? 死んで見る夢は無いんじゃないか?」

「確かにその通りだけど、死ぬ前に見た悪夢が既に独立してた可能性はある。消化されない悪夢は黒い靄みたいに漏れ出すけど、それは僕以外には見えないから君も気付かない。宿主が死んだことで完全に繋がりが絶たれて野放しになった……かな?」

「悪夢の特性は複雑なようだな……見えないんじゃどうにもできない」

「今回僕が宵街で見た悪夢は感知できなかった。僕の牢である街には僕が感知し難い腐った悪夢がいるんだけど、それが外に出たんじゃないかと思ってる。仮説だけど、君が処理した罪人から独立した悪夢が彷徨う内に他人に憑き、あの街に招かれ閉じ込められることになった……。独立した悪夢は人を襲うから、他人に憑くこともある。他人に憑いて負の感情を喰らって成長しようとしたんだろうね。それで結果が――」

 獏は一度口を閉じ、どう言うべきか考える。死人は出ていないが、被害が大き過ぎる。贔屓なら冷静さを保っていられそうだが、負傷した兄弟の多さに取り乱さないか心配だ。

「……宵街で悪夢が暴れてしまったのか? 椒図が巻き込まれたようだが……死は感知していないから無事なんだろう?」

「ああそっか、感知できるんだよね……」

「その言い方だと、覚悟して聞いた方が良さそうだな。構わない、言ってくれ」

 真剣な眼差しにはそれなりの覚悟は見えた。黙って聞いている白実柘榴の方が不安そうな顔をしている。

「生まれたばかりのザクロさんには少し重い話だけど、大丈夫?」

 まさか自分が話し掛けられるとは思っていなかった幼い白実柘榴は困惑し目を泳がせた。

「私のことは気にしなくていい……。席を外せって言うなら帰るの」

「いてくれて構わないけど、夜眠れなくなるかもしれないよ」

「そんな子供じゃないから平気なの」

 生まれて数日の変転人は子供のようなものだが、指摘すると機嫌を損ねそうなので微笑んでおいた。

「最初にその悪夢に遭遇したのは椒図で、その時のことはまだ聞けてないけど、椒図は軽傷、入院してた狴犴は全身を貫かれて重傷、助けに入った蒲牢は腹部破裂で狴犴より重傷」

「……!?」

 冷静だった目を見開き、何か言い掛けて贔屓は口を閉じた。眉を歪めて苦渋の表情をする。つい先日蒲牢に内臓が出たら死ぬ、なんて言ったばかりだ。

「狴犴が入院してたのは過労の所為らしいけど、悪夢に襲われた時は目を覚ましてたみたい。椒図も混乱してて、治療もだけど休息が必要だと思う」

「死は感知していないが……死の危険はあるのか?」

 冷静を装うが、声が強張っている。兄弟を三人同時に喪うことも考えられたのだから無理もない。

「襲われたのが病院内だったから、すぐに治療してもらえて助かったよ。蒲牢と狴犴はまだ目覚めないけど、一命は取り留めたって。僕は正直……蒲牢は死んだと思ったけど」

「そうか……」

 贔屓は表情を強張らせながら睫毛を伏せ、油断はできないが一先ず安心して良いのかと小さく溜息を吐いた。

「椒図にこれから話を聞くなら、僕も行っていいかい?」

「えっ、宵街に行くの? あんなに嫌がってたのに……」

 贔屓はカステラを一つ白実柘榴へ手渡し、箱を閉めた。白実柘榴は反射的に受け取ってしまったが、何故渡されたのかとカステラと贔屓を交互に見る。

「これを届けてくれたんだから、一つ貰ってくれ」

「……御礼の御礼……? 混乱してきたの」

「残りは僕が直接蜃に渡すよ。こうなった原因の一端は僕にあるようだからな。意地を張っている場合じゃない。兄弟が倒れたなら見舞いにくらい行くよ」

「責任って言うなら悪夢に関してはどんなことでも僕に責任があるんだけど……。喋る悪夢は珍しい……と思うんだけど、どんな人の悪夢がそういう風になるのか知っておきたかったからここに来たんだ。言葉は知能だからね、単細胞だと思ってた悪夢が人並みの言葉を喋るなんて気持ち悪いから」

「その悪夢は獏が処理してくれたんだよな?」

「うん。食べたよ。ここ最近で一番美味しかった。まるで満漢全席……ふふ」

 美味な味を思い出して笑う獏を見、白実柘榴は少し身を引いた。贔屓の兄弟の命や悪夢より獏の笑顔の方が不気味だった。

「満漢全席を食べたことはないんだけどね」

「……そうか」

 悪夢の味は贔屓には想像ができない。満漢全席も食べたことがない。とりあえず贅沢で美味だったのだろうと相槌は打っておく。

「まさかそんな昔の悪夢がまだ元気に活動してるなんてね……。あの街の悪夢は腐ってると思ってたけど、これは腐敗じゃなくて発酵……熟成なのかな」

 物憂げに獏は小さく息を吐く。

 悪夢に触れることができたなら、椒図も蒲牢も狴犴も誰も傷付かずにいられたのだろうかと考えながら、贔屓も複雑な心境だ。

「……先に会計をしてくるよ。柘榴はまだ店にいるか?」

「私も帰るの。御礼を渡しに来ただけだから」

 贔屓は席を立ち、カウンターへ向かう。獏もココアを飲み、じっと座って動かない黒色蟹を見る。

「レオさん、飲んでもいいんだよ」

「会話中は失礼かと思ったんですが」

「ふふ。気にしなくていいよ」

 漸く黒色蟹もカップを取り、珈琲を飲んだ。少し冷めていたが、それでも美味しいと感じた。

「……お前も変転人なの?」

 カステラの小袋を抱えながら、白実柘榴はカップを傾ける黒色蟹を見上げる。所属の色は違うが、最初に贔屓が彼を変転人と言っていた。

「そうですが」

「人間って……どうなの?」

「質問が漠然とし過ぎてます」

「……じゃあ……その……人間になって良かったと思うことはあるの?」

 獏は白実柘榴のことを以前贔屓から聞いていた。彼女は変転人となってまだ日が浅く、宵街で殆ど何も教わっていない状態で人間と共に暮らすことを選んだ。同じ変転人が目の前に現れて、話し掛ける機会を窺っていたのだろう。獏は甘いココアを飲みながら、灰色海月が監視役として街に来た時のことを思い出す。今では簡単な漢字なら多少は読めるようになった灰色海月だが、絵本を読み聞かせていたことを思い出して微笑ましくなった。

「良し悪しを考えたことはありませんが、この珈琲の味など、多様な味がわかるようになりました。後は色々な景色を見ることも。ただ、遣ることが増えたのは少し面倒ですね」

「遣ること?」

「自由に動ける分、色々頼まれます。単純だった世界が急に複雑になりました。御飯を自分で捕る必要がないことだけは良いのかもしれません」

「ああ……蟹は動くから。私は何を食べればいいのかもまだわからないの。お婆さんが御飯とか服を作ってはくれるけど……」

 ひらひらとした袖を抓みながら白実柘榴は黒色蟹を見上げる。人形のドレスのような服とボンネットはお婆さんが作った物のようだ。

「変転人になってまだ間も無いようですね。所属の色は違いますが、教えられることがあれば教えますよ」

「本当? 人間と一緒に住むって決めた以上は迷惑を掛けたくないんだけど、宵街って所もよくわからないし、お手上げだったの。まだ生まれて数日で、文字を読むのも難しくて……」

「僕は無色の最年長らしいので、経験ならあります。文字を読むのは優先すべきことですね。買物に文字は必須です。数字が読めれば値段がわかります」

「最年長……? じゃあ私は最年少なの……? 先生って呼んでもいい?」

「呼ばれ慣れませんが……構わないです」

 会計を終えて戻って来た贔屓は二人の遣り取りを聞きながら微笑んだ。

「友達ができたのか? 良かったな。僕が教えるより、やはり同じ立場の変転人から学ぶ方が得るものはあるからな」

「レオさんが最年長なのは僕も初耳だけど……確かに場数は踏んでる感じがした。頼れるしね」

 ココアを飲み干して獏は立ち上がり、黒色蟹も珈琲を飲み干して立ち上がった。それを見て白実柘榴も慌てて立ち上がる。

「そうだ獏、鵺に会って行くか? 目を覚ましたんだ」

 店を出る前に贔屓は思い出し、伝えておかなければと話し出す。鵺は重傷を負い、この喫茶店に運び込まれた。暫く意識が無かったが、漸く目を覚ましたのだ。

「目が覚めたんなら一先ず安心だね。会うと説明にまた時間が掛かりそうだし……今はやめておくよ。もう動けるの?」

「まだ自由に動ける程ではないが、何とか歩けるようには。黒色海栗が支えているが、無理をしないよう釘を刺している」

「じゃあ問題なさそうだね」

 二人の現状も確認できたので胸を撫で下ろす。贔屓がいてくれて助かった。

 店主に見送られながら四人は外へ出て、白実柘榴は住む家の住所を黒色蟹と共有する。歩いて行くには少し遠いので、家から喫茶店まで白実柘榴は傘を回して来ている。今の所、傘だけはわかりやすく便利だと思っている。

「贔屓に送ってもらうから、レオさんはザクロさんの先生をしててくれていいよ」

「いえ。僕も宵街に戻ります。蜃が目を覚ましてるかもしれないので、仕事がまだあるのか聞いておかないといけません」

「真面目だねぇ……椒図に会う目的は達成してるし、もう仕事はないと思うけど」

「直接聞きます」

 これが黒色蟹の信頼性だ。獣に従順であり、仕事を受けた相手を第一に考える。

 仕事と聞き、白実柘榴も納得した。

「暇な時にでも教えてもらえればいいから、私は大丈夫なの。お爺さんから辞書を貰ったし、それを見ておくの。……全然読めないけど」

 文字を読めないのに辞書を渡されても読めない。早めに教えた方が良いと思いながら、黒色蟹は黒い傘を引き抜こうと掌に指を掛ける。

「待て。僕が転送する。変転人の傘では病院から遠くなる」

「……はい。わかりました」

 転送に巻き込まれないように白実柘榴は数歩下がり、贔屓は杖を召喚した。同時に髪と目を元の獣の色へと戻し、外套をふわりと羽織った。

 くるりと杖を回し、転瞬の間に宵街へと姿を現す。酸漿提灯の照らす石段の中腹に人影は無く、贔屓は迷うことなく病院へ足を向けた。何百年訪れていなくても、主要施設の場所は覚えている。

 記憶と同じ場所に立つ病院の入口には懐かしい蔦が絡んでいる。杖を仕舞って中へ入ると、受付の姫女苑はすぐに獏と黒色蟹に気付いて頭を下げた。普通の人間程度にしか生きられない変転人では、長命の贔屓の顔を知る者はもういない。

「お早いですね、獏様」

「そう? 出掛けてる間に誰か目を覚ました?」

「常に見張ってるわけではないですが、まだだと思います。覚めれば椒図様が飛んで来ると思うので」

「椒図は大丈夫?」

「椒図様は体の傷より精神的な疲弊が大きいので何とも……。ラクタヴィージャ様が様子を見てますが」


「え!?」


 廊下の奥から上がった声に、皆はそちらに目を遣った。様子を見て戻って来たのだろう、階段の下でラクタヴィージャがあんぐりと口を開けていた。

「ひっ、贔屓!?」

 動揺しながらも駆け寄り、ラクタヴィージャは舐め回すように贔屓を見回した。時折浅黒い頬を抓りながら、夢ではないことを確認する。

「本当に贔屓……? 死体の来院より驚いたわ」

「久し振りだな、ラクタ。驚かせるつもりはなかったんだ。蒲牢と狴犴の意識が無いと聞いたから」

「御見舞い? ……そうよね。あれだけ重傷を負うとね……。蒲牢と狴犴は同じ病室に寝かせてるの。分けると椒図が部屋を行き来しないといけないから。こっちよ」

 多くは訊かず、ラクタヴィージャはまず病室へ案内した。贔屓の名前すら知らない姫女苑は終始怪訝な顔で覗き込んでいたが、こちらも説明は後だ。

 最上階へ行き、獏が吹き飛ばした病室とは逆の端へ行く。

「近付けても問題ないと判断して、蜃の病室を引越したの。向かいの部屋に蜃を寝かせてるわ」

「行ってもいいですか?」

 黒色蟹にとっては宵街の統治者よりも仕事の依頼主の方が大事だ。

「うん。後で僕達もそっちに行くね」

 黒色蟹と別れ、獏と贔屓はラクタヴィージャが開けるドアを潜った。

 ベッドを囲うカーテンには少し隙間が開いており、椒図が覗いたことを窺わせる。その椒図は部屋の隅で座布団に座り、杖を握ったまま俯いて膝を抱えていた。

「!」

 椒図も来客にすぐに気付いて立ち上がるが、軽傷と言えど椒図の傷も掠り傷ではない。蹌踉めいて壁に手を突く彼にラクタヴィージャが駆け寄る。

「無理しないで、椒図。君もベッドで休んでほしいんだから。……座布団を増やして寝てもらおうかな」

「誰だ? 狴犴と蒲牢は僕が守らないと……」

「彼は、」

「ラクタ、僕が話す」

 ラクタヴィージャを制し、贔屓は手に何も持っていないことを示して一歩前へ出た。

「初めましてだな、椒図。僕は贔屓と言う」

「贔屓……? ……長兄?」

 椒図は目を丸くする。顔は知らずとも名前は知っている。龍生九子の長子だ。脳に刻み付けるように、椒図は贔屓を凝視した。

「こんな時でないと駆け付けてやれなくてすまなかったな」

 椒図が大人しくなり、贔屓は手前のカーテンに手を掛けた。銀色の青年が置物のようにベッドに沈んでいた。

「蒲牢は腹だったな……布団を被っていると何事もなかったかのようだ」

 傍らに立ち、蒲牢の蒼白な頬に触れる。顔色は悪いが温かいことに安心した。

 次に奥のカーテンを開け、眉間に皺を寄せて眠る狴犴の姿に、贔屓は睫毛を伏せた。

「狴犴……よくここまで頑張ったな。もう少し早く音を上げると思っていたのに。僕の所為でまたこんなことを繰り返してしまった。どう償えばいいんだろうな……早く目覚めて聞かせてほしい」

 狴犴の頬にも触れる。温かい。生きている。

 どんと背中に何かがぶつかり、贔屓は振り向く。椒図が頭を押さえて贔屓の服を掴んでいた。勢い余って頭をぶつけたようだ。

「狴犴は、僕を助けるために……だからこれは僕の所為だ!」

「助けた……?」

「倒れて入院してたが、目を覚ましたんだ。僕が悪夢に突き飛ばされて窓から投げ出された時に……。僕を掴むために窓の破片が刺さって、悪夢が襲って……」

「……そうか。狴犴は椒図を助けたのか。それを聞いて安心した」

 狴犴は椒図を地下牢に入れた。罪人を終身刑にし、一生釈放しない檻に弟を入れ、冷酷無慈悲な男になったのだと思っていた。傷を負うのも厭わず椒図を助けたのなら、最初から何も変わっていないのだ。

「……贔屓、ちょっと」

 水を差さないように見ていたが、ラクタヴィージャは贔屓を手招いた。椒図も振り向く。

「私は下に戻るわ。ここにいてくれて構わないけど、騒がないように」

「ああ、わかった」

「蒲牢と狴犴には臓肥桃(ぞうひとう)を埋めたから、ゆっくり回復を待ってあげて。ただ……目覚めるかはわからないわ。特に蒲牢は損傷が酷くて……生死どちらにも傾くような状態よ。椒図は酷い全身打撲だけど幸い折れてる骨はなくて、それで動き回ってしまうけど、可能なら安静にさせておいて」

「……承知した。蜃の具合はどうだ?」

「蜃とも知り合いなの? 蜃は体表に傷は無いけど、内部器官が弱ってるわ。でもそこそこ回復したから、もうすぐ目を覚ますかもしれない。体内に最近臓肥桃を埋めた痕跡があるから、御陰で丈夫みたいね。目覚めた時のことは獏にも言ったけど、弱ってる内臓に固形物は食べさせないでね」

「丈夫なのに駄目なのか?」

「まずは慣らさないと駄目」

「そうか……」

 カステラを渡そうと思ったのだが、すぐには渡さない方が良いらしい。

「贔屓にも聞きたいことがあるけど……後にするわ。兄弟が一度にこんなことになって混乱もあるだろうし」

 ラクタヴィージャは苦笑し、静かに病室を出た。

 残された贔屓は俯く椒図をベッドの端へ座らせる。背中にぶつかったのは慌てた所為もあるだろうが、足を痛めているのだろう。

「椒図は食べてもいいんだよな? これでも食べて安静にしていろ」

 持って来た箱から袋を一つ取り出して手渡す。椒図は不思議そうに見下ろした。

「これは……?」

「カステラだ。化生したばかりだから食べたことがないかもしれないが、甘い御菓子だよ」

「御菓子……」

「蜃の様子を見て来る。暫くは宵街にいるつもりだから、何かあれば呼んでくれ」

 椒図は贔屓を見上げるが、無言で彼の背中を見送った。初めて会ったばかりの兄に何を言えば良いのか思い浮かばなかった。貰ったカステラの袋を見下ろして少し指で押すと、ふわりと柔らかかった。

 向かいの部屋へ行く贔屓に付いて行った獏は、ベッド周りのカーテンを開ける彼の背から中を覗き込む。壁際の椅子に座っていた黒色蟹も顔を上げた。蜃はまだ目覚めていないようだ。

 贔屓は先の二人に遣ったのと同じように蜃の頬にも触れ、温かいことに安心する。

「蜃に何かあればマスターも悲しむからな。……まさか怨恨がここまで断ち切れないものだとは」

 贔屓も椅子を運んで座り、膝に菓子折を置いた。蜃が目覚めるまでここで待つようだ。獏はドアの脇に背を預けて腕を組む。獏も暫くは病院にいるつもりだ。食べた悪夢の他にも潜んでいないとは限らない。これ以上病院で被害を出すわけにはいかない。気配を感じられない以上、近くで様子を窺うしかなかった。

 蜃は先の二人に比べると穏やかな寝顔で、容態が安定していることがわかる。椒図が蜃を殺すことにならなくて本当に良かった。そんな最悪な結末を見るのは御免だ。


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