83-怨詛
蒲牢に点滴を打ち、ラクタヴィージャが気に掛けていた腹の傷についても確認した姫女苑は、緊張で喉がカラカラに渇いていた。もうずっと心臓が早鐘を打っており、壊れてしまいそうだった。
「君は椒図を知ってるよね? 狴犴が入院してることも」
椅子に座り一息吐いた途端に獏に尋問をされた。患者に関することは姫女苑の独断では話せない。だがそう言ってしまうと彼が病院にいるのを認めることになる。何も言うことができず、座りながら固まることしかできなかった。
姫女苑は有色の変転人だ。獣に襲われても抵抗する武器が無い。なので普段は受付に座っていることだけが仕事なのだ。点滴や注射の打ち方はラクタヴィージャに教わっているが、分かれて患者に当たることは普段は無い。
「大丈夫? そんなに言えないことなの?」
唇を引き結んだまま目を泳がせる姫女苑を見ていると、獏は悪いことをしている気分になってきた。獏は有色と話すのは初めてだが、変転人としてではなく、普通の人間として接した方が良いのだろう。威圧感は出さないよう柔和に接しているつもりだが、動物面の所為か彼女が酷く怯えているように見える。
去るにも去れず目を回しそうな姫女苑に救世主が現れたのは、それから少し経ってのことだった。
ドアが開く音がして獏は視線を上げるがそこに頭は無く、少し視線を下げる。
「……小さい……ラクタヴィージャ?」
人間で言うと十五歳前後の少女の外見をしていたラクタヴィージャが、十歳にも満たないような背丈になっていた。ラクタヴィージャによく似ているが顔が幼い。
「もしかして、妹?」
龍生九子のように兄弟が存在する獣なのだろうかと尋ねるが、幼いラクタヴィージャは首を振った。
「私はラクタヴィージャの分身体よ。本体はまだ手が離せないから、私が様子を見に来たわ。ヒメ、蒲牢の様子はどう?」
「ら、ラクタヴィージャ様!」
「どうしたの? 何か問題があった?」
縋るように姫女苑は幼いラクタヴィージャに駆け寄り、耳元に囁いた。ラクタヴィージャは一度だけ頷き、眠っている蒲牢を一瞥し獏を見上げる。
「見てしまったなら隠せないわね。蒲牢もいることだし」
幼いラクタヴィージャは簡易な椅子に攀じ登って腰掛けた。
獣は様々な力を持つが、獏は分身体を作る獣を見るのは初めてだった。ドアを開けたり椅子に座ったり、物にも干渉している。実体であるなら相当に強力な獣だ。
「椒図と狴犴が病院にいる理由を聞きたいんだけど」
「それは蒲牢に言われて?」
「蒲牢も気にしてるから一緒に来てくれたんだと思う。僕も狴犴と少し話をしてみたいと思って」
「話? ……貴方、罪人よね? 報復でも企んでるの?」
「あれ? 首輪は外してるのに、罪人ってわかるの?」
襟を閉じ烙印も見えないはずだが、彼女は獏を罪人と確信しているようだった。
「以前に灰色海月って子が入院してたでしょう?」
獏ははっとする。白花苧環に両手を切り落とされた時だ。その時に獏の情報を話していたらしい。
「その時にそこの白花苧環と話してるのをね、少し聞いたの。お面を被った罪人の監視役をしてるって」
白花苧環も絡んでいるなら、悪いことまで吹き込まれていそうだ。その頃の彼はまだ獏への当たりも厳しかった。獏が不利になろうが良い気味だとほくそ笑むことだろう。傍らの白い彼を見上げると、無表情で虚空を見ていた。
ならばこちらも名前を借りることにする。宵街に棲む獣ならその名を聞いたことがあるはずだ。
「報復はどうだろうね。でも話を聞いてほしいって頼んだのは贔屓だよ」
「!」
想定通りラクタヴィージャの顔色が一変した。長命の獣なら元統治者の名を知らないはずがない。蒲牢が彼女を親しげに呼んでいたこともあり、兄である贔屓のことを知っている可能性は高かった。
「……贔屓に会ったの?」
「うん」
「そう……でも証拠が無いわね」
「蒲牢に聞いてみればいいよ。兄弟である蒲牢は嘘を吐く必要が無いでしょ?」
「……そうね。蒲牢なら。贔屓は元気にしてた?」
「僕は初めて会ったから以前は知らないけど、元気だよ。面倒見が良くて優しい……のかな? 長子らしいと言うか」
「フフ。それは間違いなく贔屓だわ」
ラクタヴィージャは笑い出し、少し寂しそうな顔をした。
「狴犴のことがやっと気になった、ってことかな。突然宵街のことを狴犴に丸投げして出て行くから、喧嘩でもしたのかと思ったんだけど」
ずばりその通り喧嘩が原因だが、ラクタヴィージャは理由については知らないようだ。
「君も宵街生活が長いんだね」
「そうね。ずっと病院にいたわけじゃないんだけど」
ラクタヴィージャは小さな脚を組み、机に頬杖を突いて笑う。想像以上に兄弟達とは親しいようだ。
罪人に話すのは渋られるのではないかと言葉を考えていたが、その必要も無く彼女は話してくれた。今は眠っているが蒲牢が居てくれた御陰だろう。
「贔屓の頼みなら聞いてあげたいけど、生憎狴犴は目を覚まさないわね。いつ覚めるかわからない」
「それはどういうこと? 昏睡?」
「そうね。簡潔に言うと酷い過労なんだけど、椒図の話によれば急に倒れたらしいわ。その直後に椒図が宵街を閉じたんだけど……彼も混乱してるみたいね。他に行く所も無いみたいだし、ここで様子を見てるの」
椒図が宵街を閉じてもう数日が経っている。一度も目を覚ましていないのなら、過労の認識を改めねばならない。
「でも怪我をしてるわけじゃないんだよね?」
「外傷は無いわ。蜃とはまた異なるけど、狴犴も生命力が低下してる。生命力を削って仕事をしてたみたいね。点滴で様子を見てたんだけど、最初はストローでジュースを飲むみたいに吸ってたから、唖然としたわ」
「そんなことがあるの……? 普通の点滴とは違うの?」
「普通のって、人間の所のってこと? 人間の点滴は栄養剤のような物でしょ? 獣に打つのは生命力を回復させるための特別な物よ。だから打つと命の水だと思って吸うのよ。それがあまりに酷いと尻から強めの液剤を入れてやるわ」
「へぇ……」
「狴犴が起きたら叱らないとね。まだ遣れると思ったら休めって言わないと。『まだ』と思う時点で疲れてるってことだから。貴方も気を付けてね」
「お尻からは嫌だから、肝に銘じておくよ」
話を切り、ラクタヴィージャは椅子を飛び降りて今度は白花苧環を見上げた。白花苧環は相変わらず何処か遠くの虚空を見詰めている。
「この首の蔦、花魄の仕業? 遠隔操作なんてできたのね」
医者だからか、この白花苧環は死んでいると理解しているようだ。姫女苑のように途惑う様子もない。
「蔦が切れてるのに何で動くのかわからないって花魄は言ってたよ」
「そうなの? いつもなら有線状態で力を与えられ続けるけど、この無線状態だと電池を付けられたようなものかな? 電池が切れたら動かなくなるかもね。――と」
何かに反応し、ラクタヴィージャはドアを開けた。
「蜃の治療が終わったみたいよ。まだ眠ってるからお静かに。それと狴犴の容態を話したけど、罪人を信じたわけじゃないから。患者に危害を加えるなら私が相手するわ」
それだけ伝えると、小さなラクタヴィージャは霧のように消えた。最後に見せた感情を消した冷たい目は、暴れるなら殺すと言っているようだった。彼女が信じたのは飽くまで贔屓や蒲牢だけだ。
眠っている蒲牢は姫女苑に任せ、放っておけない白花苧環を連れて獏は診察室を出る。階段の横の緩やかな坂道を上がる台車が見えた。
台車を追って二階の奥の病室へ行き、ラクタヴィージャの本体と黒色蟹が息を揃えて蜃をベッドに乗せるのを見守る。
蜃にも点滴を打ちながら、ラクタヴィージャは軽く説明をした。
「一度は全身閉じられて、解除されはしたけど全器官弱り切ってるわ。暫くは目を覚まさないと思うけど、もし覚ましたとしても何も食べさせないで。食べさせるならこっちで用意するから。獣は弱ると食べて回復しようとするから、ここにいるなら見張ってて」
「わかった」
「私は下に戻るわね。蒲牢も診ておかないと」
「うん。ありがとう」
白衣を翻して部屋を出るラクタヴィージャを見送り、眠る蜃を見下ろしている黒色蟹に目を遣る。
「君もここにいるの?」
「……そうですね。目が覚めないと命令が聞けないので」
「僕も同じ。早く目を覚ましてほしいね。君はラクタヴィージャから何か聞いた?」
「何か、とは何ですか?」
「狴犴のこととか」
黒色蟹は近くにあった簡素な椅子を運んで座る。獏も椅子を引き腰掛けた。白花苧環が飛び掛からないよう腕を掴みっぱなしだが、動き出す様子はない。それでも立ったまま座ろうとしないので、手が離せなかった。
「極度の過労で、ある程度回復するまでは目が覚めないだろうと言ってました。椒図はそれを見張ってるのだと。狴犴が倒れる前に椒図に何か言ったのかもしれませんが、狴犴の御得意の印は使用されてないそうです。椒図は困惑して気が立ってるので、刺激を与えないよう近付くなと言われました。仕事ではないですが、それは守ります」
黒色蟹がラクタヴィージャから聞いた話は、獏にも話して良いと言われていた。でなければ罪人に統治者の容態など話せるはずがない。
「そうだね。僕達も近付かないようにする。マキさんが何だか敵視しちゃってるみたいだし……。椒図に印が使われてないなら、少し安心かな」
哀れむようにベッドの上の蜃を見詰める。椒図に記憶は無いが、知らないだけでこんなことになるとは残酷だ。
「……ねえ、先に黒い奇妙な何かがいたって言ってたけど、もう少し詳しく聞かせてくれる?」
「はい。……上手く説明できるかわかりませんが」
「じゃあ頑張って察するね。大丈夫、ゆっくりでいいよ」
黒色蟹は少し目を閉じ、見たものを思い出しながら話し出した。
「……僕と蜃が病室に入った時、人のような形をした全身が黒いものがいて、腕の一本を長く伸ばして椒図の首を絞めてました。椒図は杖を振って……その黒いものを攻撃するんだと思ったんですが、蜃を攻撃しました。黒いものは……何と言うか、モヤモヤとして、煙のように逃げて行きました。その後は貴方の見た通りです」
「…………」
獏は嫌な予感がした。黒色蟹の説明は本人が心配するよりずっとわかりやすく纏められていた。彼の言葉を鵜呑みにすると、その黒いものは悪夢のように思える。
(悪夢だとしたら……化生した椒図は悪夢の特性を知らない。椒図は蜃を攻撃したんじゃなく、悪夢を攻撃しようとして擦り抜けた……)
椒図の力は物理的ではないが、悪夢には通用しないようだ。
だが病室に駆け込んだ時、悪夢の気配は感じなかった。悪夢であるなら獏が気配を感じないはずがない。もし感じられないならそれはあの透明な街にいるような腐った悪夢だ。
(まさか、街から付いて来た……? 誰かに憑いて? 僕が近くにいながら……馬鹿にするにも程がある)
黙り込んでしまった獏を見ながら、説明がわかりにくかったのではと黒色蟹に不安が過ぎる。察するのに時間を要しているのだと。
「……すみません。これ以上どう説明すればいいのかわかりません」
「……え?」
黙考してしまったために不安にさせてしまったと獏もすぐに気付いた。
「ごめん、ちょっと考え事をしてて。君の説明はわかりやすかったよ。ありがとう」
「そうですか。良かったです」
「君の見た黒い何かは悪夢かもしれない」
「悪夢……? 何かの比喩ですか?」
「そのままの意味だよ。僕は獏だから、悪夢が目に見えるんだ。その悪夢が育つと僕以外にも見えるようになるんだけど、それが君の見たものかもしれない。特徴が一致してる」
「獏……ですか」
「君の見たものが悪夢で、逃げたんだとしたら、追わないといけない。悪夢は僕にしか処理できない。野放しにすると人を襲ってしまう。君が見た椒図みたいに」
「危険なものなんですね」
「うん。一番厄介なのは、悪夢は君達に触れられるけど、君達は悪夢に触れられないこと。だから見つけても無闇に近付かないで」
「それは……厄介過ぎませんか?」
「怯えてくれるならありがたいね。無謀に突っ込んで死ぬのはあまりに虚しいから」
獏は動物面を伏せる。化生したとは言え、椒図の死は未だ脳裏に絡み付く。あんなことはもう二度と御免だ。悪夢を処理できる唯一の獣なのに、間に合わなかったなんて笑い話にすらならない。
「……獏がもっとたくさん存在すれば良かったですね」
「ん……そうだね……」
ここに灰色海月がいれば、バク科バク属のマレーバクは絶滅危惧種ですから、なんて言いそうだ。それは獣である獏とは関係が無いのだが。
* * *
冷たい石の病室の隅で椒図は小さく蹲りながら、落ち着くために腕に顔を埋めて目を閉じていた。
「…………」
気が付けばそこにいた黒い塊は突然襲って来た。煙のようでも泥のようでもあったそれは誰かの能力なのか、抵抗が全くできなかった。眠って無抵抗な狴犴にだけは近付かせてはいけないと立ち向かったが、呆気無く首を絞められ殺される所だった。黒い塊だけで手一杯なのに更に二人も病室に飛び込んできた時は苛立った。だが杖を振ったのは黒い塊に向けてであり、あのフードを被った少女が倒れたことは理解できなかった。攻撃が擦り抜けるなんて信じられなかった。獏は椒図のことを未熟だと言った。おそらく未熟ゆえの事故だったのだろう。
少女が倒れた時、酷い既視感が頭に湧いて全身が冷たくなった。以前にも自分の力で誰かを死なせてしまったような、そんな奇妙な感覚があった。
化生して獏と蒲牢に会い、そして宵街に来て狴犴と話した。椒図が現れたことに狴犴は驚いていたが、利用するとは一言も言わなかった。何故一人の変転人を奪い合っているのか尋ねたが、狴犴は答えなかった。ただ「ここに来てくれて感謝する」とだけ言っていた。
椒図から見た狴犴は何か恐ろしいことを企んでいるようには見えなかった。黙々と手元の書類に目を落としているだけで、あまり顔を上げない。部屋の中には他に誰もおらず、狴犴は独りだった。どうしてこんな風になったのか訊きたかったが、訊こうとした所で狴犴はゆっくりと椅子から崩れて床に倒れた。
椒図にはまだ宵街がどんな所なのかわからなかったが、目立つ病院が立っていることには気付いていた。慌てて狴犴を抱えて病院に運び、今に至る。
椒図が眠っていても閉じた力は解除されないので、病室を閉じて心を落ち着かせることができた。目を閉じると少し眠ってしまったが、すぐに目が覚めた。あの既視感の夢を見たからだ。
(……記憶は無いのに……一つだけ怖い感覚がある……化生前にあった出来事なのか……?)
静かな病室の中で顔を上げ、すぐにその異変に気付いた。
「!?」
白い石の床が一面黒く染まっていた。
「何だこれは……」
慌てて立ち上がり足を上げるが、吸い付くように妙に重い。精々靴底を覆う程度の黒なのに、まるで泥濘んだ沼を歩いているようだった。
原因はわからないが狴犴から離れないようにしようとベッドへゆっくり歩いてカーテンを開ける。ベッドの上にいる狴犴に影響は無く安心した。
その直後にドアを叩く音が聞こえた。びくりと振り返りドアを見詰める。音の位置が低い。
「椒図、いるわよね? 閉じてる? 開かないの。ラクタヴィージャよ。君も襲われたそうだから、診ておきたいんだけど」
知っている声で安堵した。おそらくラクタヴィージャの小さな分身体だ。彼女の声に焦りは無い。この床の黒い物は廊下には無いのだろう。ドアを開ければ、床を覆っている重油のような黒い物が流れ出して足元が軽くなるだろうか。
「少し離れて」
力を解くために杖を召喚して振ると、同時にぼこりと足元の黒が盛り上がった。
「な……」
黒い床が波打ち、沸騰しているかのようにボコボコと動き出す。
「皆にここに入らないよう言ったから、安心して――」
小さなラクタヴィージャがドアを開けると、黒い物は太い触手を突き出して彼女を襲った。
「――っ!」
触手に殴られ、小さな体は軽々と吹き飛び壁にべしゃりと潰れた。分身体は霧のように消えるが、あれを生身で喰らうと一溜りも無い。
椒図はベッドへ後退し、杖を構える。
(さっきの黒い塊と似てる気がする……でも形が違う……)
未熟で攻撃が当たらないのならと、自分とベッドの周囲を小さく閉じる。狴犴には最初から守るために盾を張っているが、盾なら狙って当てる必要は無い。これで様子を見るしかない。
「……え?」
太い触手はぐるりと勢いをつけ、椒図を目掛けて振り抜いた。そこに盾など存在していないかのように擦り抜けた。ベッドへ叩き付けられ、椒図は狴犴を下敷きにしてしまう。急いで起き上がって確認する。狴犴は無事だ。
「僕じゃ止められないのか……?」
杖を振るが、黒い物の動きを止めることはできなかった。
黒い物はのそりと太い触手をもう一本作り出し持ち上げる。ベッドの上にいては狴犴も危険だ。椒図はベッドを飛び降り、足が動かず転びそうになる。床の黒から細い触手が足に絡み付く。
「離せ!」
直接杖で払おうとしたが、それすら擦り抜ける。
(これは……僕が未熟という話ではなく、こいつに攻撃ができない!?)
そう認識した瞬間、太い触手が椒図の体を薙いだ。
「っ……!」
大きな窓に叩き付けられ、追ってもう一本触手が襲う。耐えきれなくなった硝子が砕け、椒図の体は空中へ投げ出された。
椒図は飛ぶことができない。割れ残った鋭利な硝子が見えたが、窓枠に手を伸ばした。――届かない。
割れた硝子がキラキラと光り、見上げた宵の空にそれはまるで星のようだった。
そんなどうでも良いことを思った瞬間、がくんと体が止まった。見上げると、狴犴が腕を掴んでいた。枠に残った硝子片が刺さるのも厭わずに。
「……すぐに引き上げる」
目を覚ましたことに驚き言葉が出なかったが、狴犴はまだ動いて良い体ではない。椒図は外壁の蔦を掴み、必死に攀じ登る。苦しそうに眉間に皺を寄せる狴犴を見上げ、その背後に迫る黒い触手が視界に入った。
「やめっ――」
細い触手は狴犴の背に突き立ち、それでも彼は手を離さなかった。
「はな……離して逃げろ!」
「…………」
何度も容赦無く触手が体を突き刺し、狴犴は眉を歪めながらも椒図を引き上げた。枠に残っていた邪魔な硝子片を割り、椒図の体を傷付けないように。
血を流しながら狴犴は黒い床に膝を突き、壁を支えに再び立ち上がる。小さな杖を召喚し、蠢く触手に向けて構えた。
「駄目だ狴犴! あいつに攻撃は通じない! 盾も擦り抜けるんだ!」
「……形状は異なるが、色、動き……獏に報告させた悪夢か? 獏の言葉を信じるなら、獏以外ではあれに触れることができない」
「え……? じゃあどうやって倒せば……」
「獏にしか処理できないそうだ。……だが、苧環から聞いた報告によれば、獏以外にも干渉する術はあるらしい」
太い触手は大きくうねり、二人を叩き潰そうと振り下ろされる。狴犴は椒図を抱えて壁を蹴った。壁に黒い物は広がっていない。ならば壁に触れても動きを制限されることはない。
細い触手が後を追い、狴犴は即座に小さな印を発動する。印を足場とし、床に足を付かずに触手を躱す。それでも椒図を抱えたままでは杖が振れないため、黒い物が侵蝕していないベッドへ彼を下ろした。
「太い触手は動きが鈍い。細い触手はその穴を埋めるための物か……」
「狴犴……」
「お前はまだ知らないことが多い。これから知っていけ」
小さな杖を構え、狴犴は空中に印を描く。
「印が通じるか試そう」
細い触手が一斉に襲い掛かり、印に阻まれた。
「当たった……!?」
「椒図の閉じる力は物体を阻む物。悪夢はそれを透過する。ならば物体以外なら干渉できる――か?」
足下に小さな印を発動し、足場を作ってベッドから離れる。椒図から触手の意識を逸らそうとしている――椒図はそう察した。
(当たったが、効いてない……。物体を透過するならどうやって攻撃するんだ!?)
椒図は印という物を見るのは初めてだったが、空中に描かれる記号の並んだ円形の物のことだろう。それが狴犴の力なのかと、空中を移動する彼を見て考える。
大きな印を描き触手を阻むが、圧されている。弾かれるのは狴犴の方だ。
『――コロス』
口も無いのに何処から発される聲なのか、黒い物が言葉を紡いだ。太い触手の一撃を受け、狴犴は壁に叩き付けられる。疲労と負傷で狴犴は戦える状態ではない。
「くっ……!」
(狴犴はこれを悪夢と言った……獏にしか処理できないと。獏は……僕が追い払ってしまった……)
助けを求めるなんて、自分勝手過ぎる。獏の制止を振り切って宵街に来て、ここでも拒んだ。なのに今更助けてなんて言えない。
小さな印で跳び触手を躱すが、狴犴は蹌踉めく。酷使し限界を迎えた体はまだ回復していない。そんな体で戦うのは無茶だ。
「あっ……」
細い触手に掴まれ床に投げ付けられる狴犴に、思わず椒図の喉から弱々しい声が漏れる。
(僕はどうなってもいい……でも狴犴は……関係無い……!)
杖を握り、椒図はベッドを蹴った。黒い物が流れていない廊下へ滑り込み、壁を蹴る。椒図は獏に助けられる資格は無い。だが狴犴は別だ。獏を追い払ったのは狴犴ではない。まだ病院にいるかもわからない獏に助けを乞うために椒図は走った。
階段を踊り場まで一気に飛び降り、それを繰り返して受付へ走る。滑り込むように受付のカウンターを叩いた椒図に、姫女苑はびくりと跳ねた。
「ば……獏は、いるか……?」
息を整える暇も無く、肩を上下させる。彼のあまりの焦燥ぶりに姫女苑はすぐには声が出ず、首を振るのが精一杯だった。
声を聞き付けたラクタヴィージャも奥の部屋から訝しげに顔を出す。
「こら、病院は走らないの。分身体が消えたみたいなんだけど、そっちで何かあった?」
ラクタヴィージャの分身体は消滅したことはわかってもその理由まではわからない。彼女と分身体は常に意識を共有しているわけではなく、必要な時に必要なだけ情報の共有を行う。複数の意識を常に同時に処理できないからだ。そんなことをすれば脳がパンクしてしまう。
「……悪夢って奴に、潰されて消えた」
「悪夢? 変な虫でも入り込んだ? 気配は感じなかったけど……駆除しないと」
「駄目だ。誰にも触れないらしい。今、狴犴が戦ってるが……早く獏を連れて行かないと……」
「狴犴が目を覚ましたの? あの体で戦わせるのは良くないわ」
病院にいないとわかれば長話をしているわけにはいかない。椒図は息が上がったまま出口へ足を向ける。
「椒図! 獏に人の多い所は何処か訊かれたわ。だから病院より下だって答えた。獏に用があるなら、石段を下って」
「わかった。ありがとう」
飛び出して行く椒図の背を見送り、こんこんと壁を叩く音にラクタヴィージャは振り返る。診察室は受付と繋がっている。壁の向こうがそうだ。ラクタヴィージャが顔を覗かせると、目を覚ました蒲牢が横になったまま見上げていた。
「……悪夢……って聞こえた」
「知ってるの?」
「獏じゃないと処理できない厄介な奴……。ラクタも行かない方がいい。獏が来るまで、俺が相手をする」
「貴方もその体じゃ……」
「悪夢に触れることはできないけど、俺の歌は通用したから。狴犴を見殺しにはしたくない」
「歌は腹に力を入れるから駄目よ!」
「それよりも、狴犴はきっと痛い思いをしてる」
「……」
医者として許可を出すことはできなかった。だが見捨てることもできなかった。点滴で体力は多少回復したが、腹の傷が癒えたわけではない。何を優先すべきなのか、ラクタヴィージャは頭を悩ませた。
病院から飛び出した椒図は酸漿提灯の並ぶ石段を駆け下りた。獏は人の多い所へ行ったらしいが、具体的に何処に人が集まっているのか椒図は知らない。石段に沿って駆け下りても、脇道に逸れていれば見つけることができない。
「――獏! 何処だ!?」
石段を最早何段飛ばしかもわからないほど跳び越え、脇道にも目を向ける。何事かと恐る恐る顔を覗かせる変転人はいるが、あの目立つ動物面の姿は無い。
「獏! 都合の良いことを言ってるのはわかってる! それでもっ……」
周囲を見渡していた椒図は、足元に這う蔦に気付かなかった。宵街の蔦は丈夫だ。まるで鉄線のように切れ難い。それに足を取られ、宙に投げ出された。
受け身は取るが石段の上ではすぐには止まらず、蔦を掴んで漸く落下が止まる。全身を打ち付け、何処から流れた血なのか石段にぱたりと赤い滴が落ちる。杖を支えに立ち上がろうとするが、力が抜けた。折れてはいないようだが、足を捻ったらしい。折れていないなら立てるはずだ。歯を喰い縛り、もう一度杖を石段に立てる。
「……椒図?」
脇道の陰から聞こえた声に、椒図は縋るように顔を上げた。
「獏……」
これほどまでに人に会いたかったのは初めてかもしれない。
「どうしたの、その怪我! 変な音がしたから来てみたんだけど……」
動物面の下で獏は心配そうに眉を寄せた。
「……僕のことはいい。すぐに病院に戻ってほしい」
「病院? 何かあったの? 君は今すぐ病院に行くべきだけど……レオさん、椒図を背負える?」
後に付いていた黒色蟹は頷き、椒図に手を差し出す。だが椒図は全身が痛んで手を上げる力も入らない。
黒色蟹は蹲んで背を向け、獏の手を借りながら何とか椒図を背負った。共にいた白花苧環は虚ろな目でそれを黙って見ていた。
「狴犴を助けてほしい……」
「え? 狴犴を?」
言ってから椒図は、しまった、と思う。獏と狴犴は敵対していることを思い出した。罪人の獏が科刑所の主を助けるはずがない。
「……お前にしか頼めない……」
それでも搾り出すように小さく呻かれた言葉に、獏は小首を傾げながらも黒色蟹を促し石段を上がった。
「病院には蒲牢もいたけど、わざわざ僕を捜しに来たのはどうして?」
「……わからない。でも……狴犴が悪夢だと言った。悪夢は獏にしか処理できないと……」
「! 悪夢が病院にいるの?」
「あの黒い物がそうなら……。あれは『殺す』と言った。狴犴が殺されてしまう……」
「喋る悪夢……! レオさん、僕は先に行く。ゆっくり登っていいから、椒図をラクタヴィージャまで届けて。マキさんもレオさんと一緒にいて。ね?」
「はい」
白花苧環には返事は無いが、獏はすぐに石段を蹴り病院に向かって跳んだ。あっと言う間に小さくなる。その後を白花苧環は一拍置いて追った。
「……レオ?」
「はい。黒色蟹です」
「獏はああ言ったが、急げるか? 後を追ってほしい」
「獣に……。……努力します」
変転人の足で獣に追い着けるはずはないが、要望にはできる限り答える。黒色蟹は石段を数段飛ばして駆け上がった。背中が揺れて乗り心地は最悪だろうが、急ぐことを優先する。
蒲牢が狴犴の病室に駆け付けた時、狴犴は死んだと思った。細い触手に方々から貫かれ、ぐったりと動かない。
(……いやそんなはずがない……兄弟の死は感知できるんだから)
通常の杖を召喚し、ふわりと飛ぶ。床を満たす黒い物は廊下には流出していない。ドアは開いているのにぴたりと部屋の中に収まっている。そこに足を下ろすのは躊躇われた。
耳飾りの杖の石が光り、透き通る声で拒絶を歌う。腹の傷を庇って大声は出せないが、狭い部屋の中なら声量を落としても事足りる。
触手が怯み、蒲牢を認識する。歌いながら狴犴へと飛び触手を抜こうとするが、体を引いても抜けなかった。
(触れないんじゃ触手を引っ張れない……どうやったら切れるんだろう……)
狴犴の体を無理に引っ張ると傷が深くなるだけだ。歌っている間は触手も襲って来ないが、いつまでも歌い続けられるわけではない。力の宿る蒲牢の歌は、普通に歌うよりも体力を消耗する。常に力を放出し続けている状態なのだ。
『コロス コロス コロセ コロセ』
「!?」
突然聞こえた聲に辺りを見回すが、誰もいない。聲は下から聞こえた気がした。床を見ると、黒い物がぽこぽこと沸騰したように膨らんでいた。
『コロスコロスコロス』
(悪夢が喋ってるのか……?)
まるで呪詛のように呟かれる。
(不味い……小声で歌うんじゃ、掻き消される!)
声量を上げるが、声を出すのが苦しい。獣でもない癖に、偶然だろうが歌の弱点を突かれた。歌は音が届くことで効果を発揮する。より大きな音や旋律を乱す音があれば、歌は掻き消えてしまう。
がくんと体が傾いたことで、杖に触手が絡み付いていることに気付く。下から引かれ、体勢を崩した蒲牢は黒い床に叩き付けられた。
すぐに起き上がろうとするが、床の黒は粘り着くように絡み付いてくる。体が重く、頭を上げるのが精一杯だった。
「――っ、あっ」
口を塞ぐように触手が伸びた。歌の元を断とうとしている、そう思った。口を塞がれては歌えない。
「んっ……! んうっ……!」
押し出そうとしても触手は細く、靄となり体内に入り込む。喉に手を当て吐き出そうとするが、潜り込もうとする意志に勝てない。悪夢に触れられない。煙のようだがどうやら質量はあるようで喉が圧迫され苦しい。このままでは体内で暴れられてしまう。
眉を歪めながら蒲牢は何とか杖を体の下へ潜り込ませ、力を籠めた。引き剥がすように空へ飛ぶ。触手は反動で千切れたが、靄は体内に入ったままだ。獏に初めて会った時に街で見た悪夢と同じだと思っていたのに、あの時の悪夢と動きがまるで違う。
(……駄目だ歌えない!)
これでは狴犴を助けるどころではない。口の端から何かが零れる。靄ではない。赤い。黒い床に滴が落ち、呑み込まれる。
『血 血ガ 血血血コロセコロセコロセ』
(あ……あ、あ…………)
体が内側から圧迫され、何も考えられなくなった。肉体が耐えきれず白い腹から赤い飛沫が飛び散り、蒲牢はべしゃりと床に落ちた。床の黒は溢れた赤を欲するようにうぞうぞと覆う。
一足遅れて獏が病室に辿り着いた時、腹を裂かれた蒲牢は無意識に一瞬獏を見た。
「蒲牢!」
白花曼珠沙華のように全身が木っ端微塵に飛び散らなかったのは獣だからだろう。
内臓が出たら獣でも死ぬ、と言っていた贔屓の言葉が脳裏を過ぎる。ならば腹を破裂させられた獣は――。
『ヒキヒキヒキヒキヒキヒキ』
「!?」
嗤うかのように聲を放ち始めた悪夢に、獏は眉を顰める。聲は出すが悪夢は人型ではない。床には薄く黒い靄が伸ばされ揺蕩う。この形は初めてだった。
「悪夢の気配を感じない。あの街から付いて来たの?」
『コロスコロスヒキヒキヒキシネ』
「調子に乗らないでよ、悪夢の分際で」
『コロス! ヒキ!』
「……贔屓?」
眉を寄せた瞬間、黒い触手が床から湧き上がった。疑問に思うのは後だ。蒲牢と狴犴を悪夢から引き離す方が先だ。負の感情の塊である悪夢に長時間汚染されると肉体以上に精神が壊れてしまう。
力の使用上限がある杖は使わず、獏は手を翳した。四の五の言っていられない。小さな光の針を浮かべ、少しずつ引き伸ばす。まだ完璧に操作できるほど体調は戻っていないだろう。様子を見ながら慎重に力を引き出す。蒲牢と狴犴さえ引き離せば、後はこの病室を吹き飛ばしてしまっても問題は無い。
触手は獏の様子を窺っていたが、攻撃が来ないことに安心でもしたのか一斉に触手を繰り出した。獏は廊下を蹴り、触手と床に光の針を突き立てる。
「……えっ、避けた!?」
触手には針が刺さり怯んだが、床の靄は針の当たる寸前で円く穴を空けた。避ける俊敏な悪夢は珍しい。
ベッドに着地し、光の糸で狴犴を貫く触手を切り刻む。狴犴はまだ息がある。憎らしいほど冷静で眉一つ動かさなかった狴犴が眉を顰め苦しそうに汗を滲ませていた。
「貸しの返却は釈放でどうかな――」
再びベッドを蹴って廊下へ戻り、廊下に狴犴を横たえる。
床の靄は廊下に出ないが触手は届く。獏目掛けて触手が床へ壁へと刺さり、獏は跳び退いて壁を蹴り、出入口に手を掛け病室の中へ再び入った。軋むベッドの上へ立ち、床にぐしゃりと沈む蒲牢を見下ろす。こちらは床に足を下ろして助けるしかない。
手を翳して横に振り、薄く伸ばした光の布を広げる。
(烙印半解除の限界か……あんまり大きく伸ばせないな)
布を蒲牢に被せるようにふわりと下ろすが、今度は悪夢は避けなかった。
(……うわ、嫌な悪夢だ……攻撃性の無い力を嗅ぎ分けてる。ちっ……避けてくれないと降りられないんだけど)
攻撃性の高い力の出力は今の体調だと失敗する可能性がある。なので失敗しても構わない光の布を出力したのだが、この悪夢は狡猾なようだ。
太い触手が横から殴り掛かり、獏は跳び退く。光の杭を出力し、太い触手を貫いて壁に張り付けた。触手はびちびちと跳ね、威勢が良い。
二本目の太い触手がうねり、獏を背後から襲う。悪夢の気配は感じないが別の気配を感じて振り向き、光の盾を張る。飛来したナイフを拾い、太い触手を盾で殴ってくるりと廊下へ降り立つ。
「来ちゃったんだね、マキさん……。悪夢に君の攻撃は通じないから、擦り抜けて僕に刺さる所だったよ」
ナイフを返すと、白花苧環はゆっくりと受け取った。悪夢の性質など何も覚えていないだろう。また覚えてくれれば良いのだが、死後の記憶は蓄積されない。
「どうやって床の靄を退かせよう……箒で掃く……?」
蒲牢の状態は一刻を争う。あまり悠長なことはしていられない。
「……すみません」
突然の謝罪に一瞥すると、黒色蟹も追い着いたようだ。変転人の中では足が速い方ではないだろうか。その背中には椒図を背負ったままだ。
「椒図が……ここに来たいと言って……下りてくれませんでした」
息を整えながら背中を示す。椒図の腕はがっちりと黒色蟹の首に巻き付いていた。
「……いいよ、ありがとう。来てくれて良かったかも」
獏は口の端を上げ、椒図の頭に手を遣った。まだ他の者には見えないが、獏の目には見えている。椒図から零れる黒い靄をずるりと引き出した。
何をしようとしているのかわかっているのか、病室の悪夢は細い触手を繰り出し獏を打った。獏の頭はがくんと揺れ、面を弾かれる。
「少しくらい『待て』をしてよ」
強く弾かれ面で軽く額を切ったようだ。一筋の赤が流れる。寒気のするような美しい相貌に黒色蟹は息を呑んだ。
椒図から引き抜いた靄に今度は自身の力を注入する。狴犴の意識が無い今なら、これをしても良いだろう。
「……背に腹は替えられない」
悪夢の靄を急激に成長させ、獏以外の目にも視認が可能になる。黒色蟹は警戒して数歩後退し、距離を取った。
黒い塊は人型ではないが、人間の上半身のように腕のような触手が生え、肩のような段差に獏がとんと座る。
「馬鹿と鋏は使いよう……って言いたかったんだよね、先代は……。悪夢も使えるなら使ってしまえと」
獏の座る黒い塊は触手で狭い出入口を叩き壊した。呆気無く壁が崩れる。
「蒲牢はこれ以上傷付けないで」
床の悪夢は危機を感じたのか床から触手を幾本も作り出し、獏を襲った。
『ヒキ! コロスコロスコロス! ツブス!』
「贔屓を潰す? ふふっ……悪夢なのに偉そうに!」
黒い塊を操り、獏には触手が触れないよう黒い塊に受けさせる。
「床を一掃して」
黒い塊は二本の触手を振り上げ、床に叩き付けた。床の黒は泥水が跳ねるようにびちゃりと散り、壁や天井に飛び散った。顔に掛かった黒い断片をぺろりと舐め、獏は恍惚と綻ばせる。
「……酷い怨みの悪夢だ」
黒が断片的になった床へ飛び降り、蒲牢をそっと抱き上げる。糸が切れた人形のように力無く四肢と頭をぶら下げている。息をしていない。
ぐちゃりと黒い塊が床の触手を叩き潰す音を背に廊下へ出ると、ラクタヴィージャもそこにいた。ぐったりとした椒図を背負って病院に駆け込んだ黒色蟹を追って来たのだろう。
「ラクタ、こっちもお願い。悪夢はちゃんと食べておくから心配しないで。病室は一つ無くなるかもしれないけど」
「ここじゃ治療できないから手術室に行くけど……任せていいのね?」
「うん。レオさんも連れて行っていいよ。……マキさんは何をするかわからないから置いて行って」
ラクタヴィージャは杖を召喚し、指揮棒で奏でるようにくるりと振る。霧が集まるように人型を形成し、小さな少女ではなく若い男の姿を作り出した。あの幼い少女の腕では蒲牢や狴犴を運ぶことができない。分身体の姿は自在に変えられるようだ。
走り去る彼女達を横目に獏は病室へ戻る。黒い塊は細い触手に絡み付かれ足掻いていた。
「悪夢同士は所詮こうなるか……」
獏はくるりと光の槍を並べて出力する。
「動かないでね」
悪夢を壁に張り付けるように光の槍を放ち、触手に突き立てる。
「次は――押し潰す」
伸びきった悪夢を圧縮するため、光の槌を出力し悪夢を叩き潰す。
「最後に押しの一発――あっ」
力を誤り、ベッドも巻き込み壁が派手に吹き飛んだ。
「……病室は無くなるかもって言ったし、大丈夫……だよね?」
壁や天井に飛び散った悪夢も一つに捏ねくり纏め、ぶよぶよと床の上で一つの塊となって脈動する。椒図から取り出した悪夢も共に丸めた。使役をしても、処理しないわけではない。この悪夢に口のような物は無いが、喫茶店で見ていたあれを利用することにする。指を振って光のストローを作り、悪夢の塊に勢い良く刺した。
「半解除したんだから、食べられるよね?」
蒲牢の悪夢が不味くて食べられなかったことなど今は頭に無かった。久し振りの悪夢を前に、他のことなど考えられない。待ちきれないとストローを咥えて悪夢を吸うと、喉の奥がひりひりと焼け付くような感覚があったが、以前のように痛過ぎて食べられないということはなかった。
「でも何だろう……この辛い食べ物を食べてるような感じ……苦手だ……」
だが焼け付く感覚を無視すれば堪らなく美味だった。嘸かし宿主を苦しめた悪夢だろう。時折少し異なる味がするが、そちらはおそらく椒図から抽出した悪夢だ。こちらも深く絡み付き美味だった。
「まるで悪夢のカクテル……ふふ……こういう食べ方もいいね」
爛々と吸っていると、出入口から中を覗く白花苧環の視線を感じた。凝視されると食べ難い。
「マキさん……大人しくしててくれてありがたいけど、少し横でも向いてくれる……?」
呼んではいないのだが、白花苧環は病室に入って来た。ぶち抜いた壁を見、獏へ視線を向ける。焦点は何処に合っているのかわからないが。
結局、悪夢を食べている間ずっと彼は獏と悪夢を見詰めていた。
「何だろう……死体だけど好奇心なんてあるのかな……」
光のストローを消し満足して立ち上がると、白花苧環はゆっくりと手を差し出した。
「……あ。お面」
弾かれた動物面を拾ってくれたようだ。受け取り、獏は金色の双眸を細めて微笑む。
「ありがとう、マキさん。ふふ、こういう動作はゆっくりだね」
少し背の高い白い頭に手を伸ばし、撫でてやった。まるで投げた物を取って来た犬のようだ。取って来た犬は褒めてやるべきだ。
「――ああっ痛い痛い痛い!」
素速く手を掴まれ捻り上げられた。何も言っていないのに犬扱いされたことを感じ取ったのかもしれない。こういう動作は速い。白花苧環らしい、と思った。




