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透明街の人喰い獏  作者: 葉里ノイ


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82-遠い記憶


 獏が花畑に入ってからも蜃は暫く悩んだ。薄暗い宵の中で影が掛かったように心も暗く沈みそうだった。

 病院に現れた椒図に会いたい。そのことだけで頭が一杯になる。

(……ああもう! 駄目だ! 気になってしょうがない!)

 自制しようにも衝動は抑えられなかった。今までと何も変わらない。何度怒られても今度こそ上手くいくのではないかと期待ばかり抱いてしまう。

 蜃は明かりの無い街灯を振り向かずに来た道を引き返した。足に絡まろうとする蔦を蹴り、石壁に囲まれた薄暗い路地を走る。蒲牢は椒図は怪我をしていないと言っていたが、本当に怪我がないとは限らない。ラクタヴィージャが口裏を合わせて口を噤んだ可能性もある。もし負傷しているならそれはきっと狴犴に遣られたのだ。ならば助けたい。最期まで助けてもらうばかりだった椒図を今度は助けたい。

「――っうわ!?」

 夢中で走っていた蜃はそれに気付くのが遅れた。ぽっかりと空いた石壁から突如巨大な鋏が飛び出し、蜃は仰け反って転ぶように地面を滑った。顔面の真上を鋭い刃が通過し肝を冷やす。

「すみません」

 何やら聞き覚えのある謝罪が石壁の穴から聞こえ、蜃は仰向けのまま顔を向けた。

 大きな鋏を引き、癖のある褐色髪の青年も見覚えがある獣にはっとする。

「さっきの……」

 蜃は手を突き足で反動を付けて起き上がり、念のために少し距離を取った。

「何度もすみません」

「いや……その……それは? ここで何をしてるんだ……?」

 文房具としての鋏の何倍あるのだろうか、両手で抱える程の大きな黒い鋏の先を地面に下ろす青年に確認をする。先程は逃がしてもらえたが二度目は無いと攻撃してくるなら、相手にしている暇は無いが追われても厄介だ。椒図に会いに行くのだから、懸念は摘んでおきたい。

 長身の青年は小柄な蜃から見ると存在するだけで威圧感がある。青年は蜃に向き直り、表情を変えない。

「この鋏のことですか?」

「鋏……だよな、やっぱり……」

「はい。これは僕の武器です。ここは僕の家なので、花の手入れをしようと鋏を出しました」

 視線を落とすので、蜃も彼の足元を見る。長方形の植木鉢が置かれ、花が咲いていた。咲ききって枯れた花があり、これを切り取ろうとしたようだ。

「……鋏が大き過ぎるだろ……」

「慣れてるので大丈夫です。ここは普段人通りが無いので、注意を怠りました」

 軽く頭を下げるが表情は変わらない。蜃は瞬きをしながら黙考する。本当に只それだけなら、気に掛けることはないだろう。只の花の手入れなら平和なものだ。

「そうか、じゃあいいんだ」

「重ね重ねすみませんでした」

「……それ、武器なんだよな?」

 そのまま立ち去ろうとしたが、ふと使えるかもしれないと考え直した。表情が変わらないので感情の乏しい若い変転人だろうが、武器が何だか強そうだ。獣相手では敵わないだろうが、病院に乗り込んでもし邪魔な変転人がいればそのくらいは引き受けられるだろう。狴犴は獏の所へも何度も変転人を送り込んでいる。椒図の近くにも変転人が控えている可能性はある。もし獣相手でも盾くらいにはなるはずだ。化生して力が弱くなった蜃には盾がいてくれるだけでもありがたい。それにこの青年は黒所属だ。正義にも悪にもなってくれる。

「武器です。通常はこう、二つに割って使います」

 鋏の柄を両手に持ち、中央の捩子部分を外して分解して見せた。合わせると大きな鋏だが、分けると片刃の剣のようだった。

「君を雇えるか?」

「……可能です。予約が無いので」

「予約?」

 変転人を使うのは初めてだが、予約制らしい。

「よく仕事を頼まれるので、予約を一件のみ受け付けてます。大半は雑用ですが。今は宵街から出られない所為か丁度暇ができました」

「そうなのか……意外と忙しいんだな。何で宵街から出られないのか知ってるか?」

「いえ。把握してません」

 宵街が閉じている原因は知れていないらしい。椒図は大々的に閉じたわけではなさそうだ。

「仕事内容を聞かせてもらってもいいですか?」

 青年は淡々としていて、こういう遣り取りにも慣れているようだ。どう命令するか蜃の方が途惑ってしまう。

「……お、おう、そうだな。俺の邪魔……敵対する変転人がいれば、相手をしてほしい。後は臨機応変に……」

「変転人の相手ですか。戦闘ですよね?」

「同じ変転人と遣り合うのは駄目か?」

「……いえ。あまり無い仕事だと思っただけです」

 獣同士では戦うことは珍しくないが、変転人同士ではあまり無いようだ。獏の所で変転人達を見ていたが、確かに同じ色同士では交流も多く仲が良かった。それを失念していた。かなり酷な仕事を頼んでしまったようだ。

 いざと言う時に後込みされては逆に枷となってしまう。撤回しようかと逡巡し、その躊躇を感じ取ったのか青年は表情を変えずに承諾した。

「頼まれた仕事は遂行します。私情は挟みません。それで信頼されてるようなので」

「若いから感情が育ってないのか……君が平気ならいいが……。そうだ、名前は?」

「そんなに若くはないですが。黒色蟹(くろいろカニ)と言います。元は埋扇蟹(ウモレオウギガニ)という名前なので、そっちで呼ばれますが」

「蟹……それで鋏か!」

 物凄く腑に落ちた。

「はは、蟹は食べ物だと思ってた」

「そうですね。人間は蟹を食べますね。でも僕を食べると死にますね。喰う奴は殺します」

 無感動に鋏を掌に仕舞いながら、無表情で物騒なことを言う。こいつを食べると死ぬそうだが、こいつは感情が死んでいる。

「そんなに若くないと言ってたが、その感情の乏しさは若いだろ」

「……聞いた話では、無色の中では最年長らしいです」

「さっ……!?」

 どうやら大変な当たり籤を引いてしまったらしい。感情と表情が豊かなあの浅葱斑よりも年上のようだ。最年長ならば経験は豊富なはずだ。偶然とは言えこの選択は正解だ。獏も彼は気配を消すのが上手いと言っていた。その言葉に偽りはない。だからこそ引っ張り凧で予約制なのだ。味方として不足はない。

「確認なんですが、僕の仕事は変転人の相手だけですか? 貴方を守る、ではなく」

「もし獣を相手にするなら君じゃ荷が重いだろ。自分の身は自分で守る。庇われるのはもう……いい」

 あの透明な街で悪夢に襲われた時の椒図の顔が脳裏に焼き付いて離れない。もうあんな惨めな思いは御免だった。

「そうですか。わかりました。では御伴します」

 守ってほしい、と言えば獣相手でも戦うのだろうか。その疑問は口にせず、蜃は意を決して再び病院へと向かった。

 獏の言った通り黒色蟹は背後から来ていることを知っていても気配が稀薄だった。確かに気配の消し方が上手い。最年長は伊達ではないようだ。

「……実は他の仕事があって、いきなり襲ってくるのとかは無しだからな」

「矛盾する仕事は受けません。貴方を守れと言われれば、守ることにも支障は無いです」

 何故変転人の相手をするのかなど詳細を伏せていても黒色蟹は何も問おうとしなかった。これが獣に従順な変転人の姿なのだ。どれほどの危険があるのかも問わない。故に短命だ。

 彼の言葉が本当なら言う通り信頼は厚そうだ。淡々としているが、長く生きているなら自分で危険を避けられる強さはあるのだろう。

 茂みの中で立ち止まり、病院の付近に誰もいないか確認する。黒色蟹は病院の石壁を見上げるだけで、何も質問はしなかった。

「おい、蟹。最近、緑の髪の獣を見たか?」

「いえ。記憶にある分では見てないです」

「……椒図って獣なんだが、そいつには何をされても絶対手を出すな」

「わかりました」

「手じゃないからって足とか武器とか出すのも駄目だからな」

「はい。僕はそんなに物分かりが悪くありません」

「お、おう」

 手違いで椒図を攻撃しないよう念入りに言い聞かせ、正面から病院に一歩踏み込んだ。窓は各病室にあるが、開かないのだ。硝子がぴちりと嵌め込まれていて、それを割るわけにもいかない。そして病院の中から外へ転送は可能だが、外から中へはできないようになっている。入る時は正面から受付の前を通れと言うことだ。

 フードを目深に引き下げ、蜃は待合室を見渡した。壁があるので受付の前まで行かないと全体は見えないが、声や気配は無い。今は誰もいないようだ。

 病院自体に用があるわけではないので、どう潜入するか口実を考え立ち尽くしてしまう。暫く動きを止めていても黒色蟹は背後に控えたままで何も言うことはなかった。

「……おい、蟹」

「はい」

「君、病院に用はあるか?」

「ありません」

「じゃあ知り合いが入院してるとか……」

「してません」

「そうか……」

 中へ入る口実が浮かばない。怪我をしている振りをすれば治療をすると言われるだろう。蜃の負傷は完治していないが、治療はもう必要ない。それに診察室に連行されると椒図を捜せない。

「どうやって中に入ろう……」

「僕が入院しましょうか?」

「怖……。何を言い出すんだ君は。自傷を提案するな」

「わかりました」

(何だこいつ怖いんだが……。獣の命令は何でも聞くのか? それが信頼? 死ねと言えば死ぬのか? 言葉に気を付けよう……)

 茶でも飲むかと尋ねるように真顔でとんでもないことを言い出す黒色蟹に変な警戒心が湧いてしまった。変転人は人になって暫くは感情が乏しいが、年月を経るとまた感情が乏しくなるのだろうか。この変転人が最年長と言われるほど長く生きていることが疑問になってきた。

 黒色蟹は置いておき、受付の方を見る。カルテでも見ているのだろうか、受付の変転人は先程から手元に目を落としている。有色の変転人なら気配を察知するなど器用なことはできないだろう。

「……よし。姿勢を低くして、見つからないよう階段まで行くぞ。気配は消しておけ」

「わかりました」

 気配を消せとは言うが、病院に入る前から消している。蔦の這う壁へ背を貼り付け、受付のカウンターへ頭を出さないように屈む。小柄な蜃はどうということはないが、長身の黒色蟹は腰が辛そうだ。それでも眉一つ動かさず無表情を崩さない。

 音を立てないように受付を通過し、階段の陰へ滑り込む。後は誰とも擦れ違わないようにすれば良いだけだ。宵街に監視カメラなんて物は無い。昇降機も無いのだから。

(来たはいいが、もし椒図がいるとして廊下じゃないよな? どの病室だ……? 片っ端から開けて医者と鉢合わせると面倒だな)

 階段を上がり、手近な病室の前に立つ。誰かがここで入院しているとしても、名前が貼り出されることはない。獣同士のいざこざが原因で病院に運ばれた場合、負傷し抵抗できない状態で相手に襲われる可能性を危惧してそこは徹底している。誰かがいるのかすら外からではわからない。

 そっとドアを開けて隙間から中を覗くが、ベッドにはカーテンの囲いがあり中が見えない。人がいてもいなくても同じようにカーテンは閉まっている。これでは中に椒図がいたとしても気付けない。

「誰かを捜してるんですか? 椒図……ですか?」

 ドアを閉めると、囁くように小声で黒色蟹が尋ねる。こそこそとしてばかりで目的がわからず途惑っているのだろう。表情には全く出ないが。

「その緑の髪の男……」

 それしか情報が無く、蜃は俯く。黒色蟹も呆れていることだろう。変転人の上に立っている獣がこんなに頼りないのかと。

 考えながら壁に手を突くと、立っているだけでは気付かない程度の微かな振動を感じた。

「……?」

 耳を澄ませると、上の階で不自然な物音が聞こえた。

 手を離して階段から上階を見上げる。断続的に物音がするが、一つ上の階でもなさそうだ。

「上に行ってみる」

「はい」

 黒色蟹の耳には聞こえないのだろうか。獣の方が感覚が鋭敏なので、彼に聞こえない程度の音なら大したことはないのだろう。だが手掛りが無い今、少しでも違和感を覚えれば向かうべきだ。

 最上階である四階に着き、廊下を見渡す。石壁に囲まれた廊下には誰もいなかった。

「どの部屋から……」

 椅子を倒した音が響き、はっとドアへ目を向ける。一番端の病室だ。蜃は杖を召喚しながら走り、黒色蟹はまだ武器を引き抜かないまでも警戒した。

 静かにドアを開けるべきなのだが、そうは言っていられない音が平常心を掻き乱し、蜃は勢い良くドアを開けた。椅子を引き摺るならともかく、倒すことはそうあるものではない

「!」

 真っ先に目に飛び込んできたのは、腕を長く伸ばした黒い人型の塊だった。それが緑髪の少年の首を絞めて持ち上げている。


「――椒図!」


 無意識にその名前を叫んでいた。顔も見たことがないのに、化生前とは違うのに、それは椒図だと無意識に感じた。

「っ……!」

 長い触手で首を絞め上げられ足が空を掻く。蜃が病室に入ると触手は力を緩め、その隙に椒図は鍵のような形の杖を振った。

 この黒い塊に蜃は見覚えがある。――悪夢だ。透明な街の端で見た人型の奴と似ている。蜃が知らないだけで、人型も珍しくないのかもしれない。まさか宵街にまで現れるとは思ってもみなかったが、獣も変転人も眠れば夢を見るのだから悪夢を見ることもある。

 椒図の振った杖は黒い塊を擦り抜けた。間違い無く悪夢だ。だが今の椒図には悪夢と戦った時の記憶が無い。

「椒図! それは――」


「閉じろ」


 触れることができない。

 そう言おうとした声は迫り上がってきた物によって塞がれた。悪夢を擦り抜けた攻撃は蜃を襲い、血を吐いて床に崩れた。

 触手は何が起こったのか理解できない椒図を壁に投げ付け、悪夢は逃げるように黒い靄となり開いたドアからするりと外へ滑り出て行った。

 椒図は眉を顰め咳き込みながら身を起こし、床に血を吐いて倒れた見知らぬ人物を見る。フードを被っているため顔は見えない。

 黒色蟹は周囲を警戒しながら蜃の傍らに膝を突く。変転人の相手をと頼まれたが対象が部屋の中にいない。ならばこの倒れた獣を優先しても良いはずだ。臨機応変に、と言われたのだから間違ってはいない。

「大丈夫ですか?」

「…………」

 蜃は声が出せないほど意識が遠退き、何も思考できないでいた。

 それを立ち上がりながら椒図は見下ろし、自身の杖を見た。自分の力でこうなったと認識することに少し時間が掛かった。

「ぁ……」

 乾いた音を立てて杖が落ちる。同時にそれは消え、椒図は後退った。

「ああ……」

 壁に背がぶつかり、指先が震える。それは動揺だった。

「あああああ!」

 壁に背を擦りながら部屋の隅へ蹌踉めき、髪を掻き毟るように頭を抱えた。

 蜃の体が心配だが椒図の様子も気に掛かる。黒色蟹は椒図を見上げて武器を抜こうか考えるが、椒図には何をされても手を出すなと言われている。先程名前を呼んでいたこの獣が蜃の捜していた椒図のはずだ。

「な……何なんだこれは……僕は……僕は違う……こんな……こんなことを望んでない……違う……僕じゃない!」

 ふらふらと目を見開いて頭を押さえながら病室を出ようとする椒図の様子が不可解で、黒色蟹は黙考した末に靴底で強くドアを蹴った。椒図に手を出すなと言われているが、これは椒図に手を出しているわけではない。ドアを蹴っただけだ。屁理屈ではない。

 椒図はぴくりと止まり、手の陰から黒い青年を見詰める。指の間から覗くその目は微かに紅が差していた。

「ヒート状態の所、失礼します。これは何をしたんですか?」

「……」

「理由を聞く権利はありませんが、この人の意識が落ちてしまったので、命令が聞けません」

 椒図は倒れて動かない蜃を見下ろす。もう意識が落ちたらしいと彼の言葉で知る。

「死ぬ……」

 ぽつりと譫言のように呟いた。

「こんなことは初めてなのに……既にある胸を掻き毟りたくなるような感情は何なんだ……。同じことを以前にも……いやそんなはずはない……!」

「後悔、困惑、混乱、焦燥が見えます」

「お前に何が……」

 椒図は再び杖を召喚し、黒色蟹に向けた。

 黒色蟹は蜃を守れとは命令されていない。そして椒図には手を出すなと言われた。掌から片刃を抜いて構える。これは自分の身を守るための威嚇だ。

「何がわかるんだ!」

 杖を振ると同時に出入口から何かが飛び、杖に当たった。ナイフが刺さったのだと認めた時には、白い足が黒色蟹の刃の側面を蹴り飛ばしていた。


「まっ、待ってマキさん! 急に動きが速い!」


 首に蔦を巻いた白い変転人は足を下ろし、距離を取る黒色蟹を虚ろな目で観察する。

「変転人……」

 変転人の相手をしろ。それが蜃の命令だ。この白の相手をすれば良いのだと黒色蟹はもう片方の刃も抜いて構えた。

「ちょっと待って! マキさん!」

 病室に駆け込んできた黒い動物面を被った見知らぬ者は、黒色蟹と先程衝突した獣だ。獣の相手は命令されていない。黒色蟹は動物面は無視することにした。

 白い少年は後方に跳び退き、嫋やかな身の熟しで体を捻って椒図の杖を蹴りナイフを引き抜く。杖は床を滑って再び消えた。

 小型のナイフを構え、白い少年は姿勢を低くして黒色蟹に向かって床を蹴る。

「マキさんてば! 本当に人の話を聞かないよね!」

 もう一人銀色の青年が病室に駆け込み、叫ぶ動物面の腕を引く。これも変転人ではない。耳にわかりやすく杖をぶら下げている。杖を使うのは獣だけだ。

「蜃が先だ。何があったんだ?」

「っ! 蜃! 意識はある!?」

 床に倒れた獣に駆け寄り、動物面で顔は見えないが感情が手に取るようにわかる。焦燥と心配と不安が見えた。黒色蟹は小さなナイフ一本で翻弄する白い少年を往なし、一瞥だけくれる。

「……その緑の獣に遣られました。意識はありません。死ぬそうです」

 動物面と銀色は黒色蟹を一瞥し、銀色は手に杖を召喚した。

「それはかなり不味い状態だ。獏、下がって。苧環もこっちには来るな」

 銀色の目が紅く染まり、杖に取り付けられた変換石が光る。

「――椒図の力を剥離しろ」

 印はともかく、通常、他の獣の掛けた力を剥離することはできない。椒図の力が未熟ゆえに印で綻ばせることが可能なのだ。それが今は救いだった。

 空中に刻まれた印が光り、部屋が光に包まれた。銀色は蹌踉めき、獏に支えられる。

 光に目が眩み一瞬動きが止まった黒色蟹の隙を白い少年は逃さない。体内生成した自分の武器でもないほんの小さなナイフ一本で鋏の片割れが弾かれ、奥のベッドを囲うカーテンを掠り壁に突き立った。間髪を容れず白い足が振り上げられ、寸前で黒色蟹はもう片割れで蹴りを防ぐ。脳まで揺れそうな重い一撃に後退ってしまう。

「そうか……君が苧環か」

「だからもう! マキさん! 勝手に喧嘩売らないで!」

 獏は攻撃の止んだ一瞬の隙に白花苧環の腕を引き、引き摺るように黒色蟹と距離を取った。白花苧環は濁った目で黒色蟹を無言で凝視する。

 白花苧環の腕を掴んだまま蹲み、獏は蜃の脈を確かめる。安心したような空気を感じた。どうやら死んではいないらしい。

 銀色も膝を突き、こちらは腹を押さえながら肩で息をする。

「蒲牢、大丈夫? もう無理をしないで」

 蒲牢は力が抜けたようにとんと獏の肩に頭を擡げた。徐々に目から色が引いていく。

「蒲牢……?」

「……獣なのに知らないんですか? ヒートの所為です」

 壁から片割れの刃を抜きながら、黒色蟹は無感動にぼやいた。

「ヒート……?」

 変転人の相手をと命令されたが、黒色蟹は一旦手を止めることにした。どうにも状況が呑み込めず、観察することにした。

「暫く埃を被っていた力や、体に負担を掛けるような大きな力を使用した時などに起こる現象です。負荷が掛かり、目が紅くなると発熱します。沸騰してるとでも言うんでしょうか。体が限界だと訴えるサインとも言います」

「そうなんだ……教えてくれてありがとう。……君は? マキさんがいきなり襲ってごめんね。それとも先に何かした?」

 目が紅くなると聞き、蒲牢の目が紅く染まっていたことを獏は思い出した。浅葱斑に剥離の印を使った時は疲弊するだけだったが、続け様にもう一度行うのは無理があったのだ。

「苧環が何もしなくても僕から攻撃しました。変転人の相手をする命令なので」

 黒色蟹が両手の片刃を構えると、腕を掴まれながらも白花苧環はナイフを構えようとする。

「マキさん、ナイフを下げて。話ができない」

 下げないが、白花苧環は動きを止める。一応言うことを聞く気はあるらしい。話をするのならばと黒色蟹も構えたまま動きを止めた。床に倒れた赤い髪の獣の少女は蜃と言うらしい。今までの様子から推察するに、獏と蒲牢とは仲間のようだ。

「僕は黒色蟹、埋扇蟹です。只の雇われた変転人です」

「雇われたって、誰に?」

 黒色蟹は床に倒れてまだ意識が回復しない蜃に視線を落とす。

「……蜃に? 君とはさっきぶつかったよね。病院に行く途中でまた会ったの?」

「そうだと思います」

「これはどういう状況なのか説明できる?」

 ぶつかった動物面の印象が強かったが、その背後に蒲牢とフードを被った蜃がいた。逸れたのか一時の別行動だったのか、仲間なら話しても良いだろう。

「黒い奇妙な何かが先にいました。抵抗するために緑の獣が力をヒート状態で……」

 そこまで言い、黒色蟹は口を噤んだ。先にいた黒いものが何なのかわからず、椒図の力もわからない。その状態で何が説明できるのか、わからなくなった。

 獏は振り向き、部屋の隅で顔を蒼白にしている椒図に気付く。壁に手を突きながら体を引き摺るようにドアへ向かおうとし、立ち止まって全身で息をしていた。

「椒図! 君もヒートって……」

「触るな!」

 獏が手を伸ばそうとすると、椒図は弱々しく腕を振った。

「……椒図は怪我してるの? 黒い何かって……」

「僕に近付くな! 出て行け!」

 奇妙な言葉だった。自ら出て行こうとしていたのに、突然出て行けと言う。この病室に留まろうとしている。一体何があるのだろうかと病室を見渡し、ベッドを囲う白いカーテンが切れていることに気付いた。先程白花苧環が黒色蟹の刃を弾いた時だ。何て切れ味の良い刃なのだろう。

 獏の位置からでは死角となり中が見えず、白花苧環の腕を掴んだままカーテンを回り込む。黒色蟹に自然と接近することになるが、彼もまた警戒をして距離を一定に保った。

 切れたカーテンからベッドを覗いた獏は静かに目を見開いた。


「狴犴……?」


 固く目を閉ざした金髪の青年がベッドに横たわっていた。椒図がここに留まろうとしたのはこのためだと悟った。この状態で眠る狴犴一人を置いて行くことはできないだろう。

 獏がもう一度椒図に目を遣ると、彼は苦しそうに俯き、時折こちらを睨む。

「……椒図、これはどういう」

 理解できない状況を尋ねようとするが、掴んでいた白い腕に力が籠もる。白花苧環が躊躇いも無く狴犴へナイフを投擲した。

「!」

 ナイフは見えない何かに弾かれたように空中で跳ねた。白花苧環は床に落ちたナイフを目で追う。まさか彼が狴犴を襲うとは思わず獏は握った腕を引いてベッドと距離を取った。

(花魄は、死体の記憶は直前の数日しかないって言ってた。殺されたことは覚えてる……? 狴犴に殺されたことだけ覚えてるなら、恨みだけが残ってる……?)

 白花苧環はナイフを拾おうと腰を屈めるが、獏に腕を掴まれ届かなかった。

「何故……宵街にいるんだ」

 必死に呼吸を整え、椒図は獏を睨み付けながら口を開いた。杖を召喚するので、獏も懐へ手を忍ばせておく。傷を付ける気はないが、誰かが傷付くのなら防がねばならない。

「君はまだ未熟みたいだから。宵街を閉じても力に(むら)がある。その薄い所を突いた」

「……未熟……? ……ここに来て何をするつもりだ」

「目的は色々あるけど、狴犴と……話せるなら、少しくらいならって思ってたんだけど……」

 烙印を半解除してくれた贔屓への礼のつもりで、嫌々だが機会があれば狴犴と少し対話をしてみようかと考えていたのだが、まさか入院しているとは思わなかった。狴犴の体は布団を被り何処を怪我しているのか見えないが、細い点滴の管が覗いている。見る限り首から上には負傷はないが眉間に微かに皺が寄っていた。

「話……? 話をすることなんてない。全員ここから出て行け!」

 杖の先が動き、獏は懐からハートの杖を抜いた。光の針が飛び、椒図の杖を弾く。

(一気に人が来て気が立ってる……蒲牢も蜃も心配だし、一旦出た方がいいよね……)

 椒図は壁に手を突き体を支えながら、もう一度杖を構えた。

(狴犴は寝てるし、杖を使わなくても問題無いか)

 警戒する椒図を宥めることはできないだろう。少しでも落ち着かせるために獏は杖を懐に仕舞う。

「安心して、椒図。僕達は君に危害を加えない。少し混乱してるみたいだから、僕達は出て行くよ」

 獏は優しく微笑み、出入口に向けて手を翳した。少し乱暴だが、椒図の精神状態を考えるとあまり時間は掛けられない。触れずに物を動かす力を使い、力を抑えつつ蒲牢と蜃を抓み出す。怪我人を放ることはできないので床を引き摺ったが、蒲牢は驚いて目を丸くした。抵抗の無い者なら力で服を掴んで動かすことが可能だ。獏も白花苧環の腕を引きながら落ちたナイフを浮かせて拾い、病室から飛び出す。黒色蟹を一瞥すると意思を汲み取り、彼も大人しく病室を出た。彼を雇った蜃が廊下へ放り出されたので追っただけかもしれないが。

 白花苧環を先に廊下へ出し、最後に獏は顔を覗かせる。

「椒図もゆっくり休んで。君の友達の蜃はこっちで面倒を見るから」

 ドアが閉まり誰もいなくなると、椒図は呆然と膝を突いた。

「あ……あ……」

 誰かはわからない。蜃と呼ばれていた少女の命を閉じかけた。何処からか現れた得体の知れない黒い何かを始末するために力を使ったのに、その後ろにいた彼女に当たった。あの黒いのが避けたのか、それとも獏の言ったように未熟だからなのか。命を閉じかけたことに体の奥底から絶望的な闇が湧き上がり、椒図を呑み込もうとしていた。蒲牢がいなければ少女の命は閉じられていただろう。獣だから足掻けたのかもしれない。足掻いたことですぐには閉じられず、即死を免れたのだろう。

 以前なんて無いのに、以前にもこんなことがあったような気がした。

 少女が倒れた時、言い知れぬ恐怖が全身を支配し、凍えるように寒くなった。

「し……ん……? 違う……それは知らない……もっと別の何かが……」

 縋るように杖を握り締め、部屋の隅に蹲る。

「あああああああ!」



 絶叫と何かがぶつかるような鈍い音が聞こえ、廊下に出た皆は病室を振り返る。確認のために獏はドアに手を掛けるが、やはり開かなかった。椒図の力で閉じられている。

「……病院からも出た方がいいんだろうけど、蒲牢と蜃は診てもらわなくちゃ。……ね、カニさん。蜃を運んでくれる? 受付まで戻って、ラクタヴィージャ……だっけ? 診てもらおう」

「はい。僕も命令を受けられないので、目が覚めるまでは先の命令と矛盾しない限り従います」

 倒れたままの蜃をひょいと抱え上げ、黒色蟹は先に歩き出す。獏は蒲牢を抱えようと手を伸ばすが、彼は首を振って自力で立ち上がった。疲弊して壁に手を突きながらでも、手を借りるつもりはないようだ。

「……マキさんにナイフは返すけど、仕舞っておいてよ。いきなり飛び出さないこと。わかった?」

 白花苧環は廊下の先を見詰めたまま首を微動だにさせないが、ナイフを渡すと大人しく手を下げた。とりあえず言うことを聞いてくれるようだ。

「カニさん」

 蜃を運びながら黒色蟹は振り向く。獏は白花苧環の腕を引きながら歩調を合わせた。

「さっきはマキさんがごめんね。君も戦い慣れてるみたいで良かったよ」

 黒色蟹は白花苧環を一瞥し、顔を前方に戻す。

「苧環は自分の武器を使ってなかったので。それに顔色が悪いので、体調が悪いんじゃないですか?」

「あ、ああ……そうだね」

 生きていると思っていればそういう見方になる。これは死体だと伝えた方が良いのか悩むが、今はまだこの青年のことをよく知らない。保留にしておくことにした。

「君は黒だよね。スミレさんかウニさんは知ってる?」

「黒葉菫と黒色海栗ですか?」

「うん。知ってるみたいだね」

「時間のある時に面倒を見たことがあります。黒色海栗とは同じ海の生物だったので、話をすることも多いです」

「そっか。それならちょっと安心したよ。警戒ばかりじゃ疲れるからね」

 待合室へ着くと受付の変転人がすぐに立ち上がり、暖簾を潜って奥の部屋へ駆け込んだ。獏と蒲牢が病院へ駆け込んだ時に呼び止められたのだが、丁度ラクタヴィージャが席を外しており、受付の変転人はその場から離れられず追い掛けられることはなかった。

 今度は奥の部屋からラクタヴィージャを連れて来る。

「ゆっくり休憩もできやしない……」

 マグカップを手に、ラクタヴィージャはぐったりとする蒲牢と蜃に目を遣る。

「……蒲牢、すっかり患者らしくなって」

「俺は後でいい……。先に蜃を診てほしい」

 マグカップをカウンターへ置き、ラクタヴィージャはひょいと跳び越えた。黒色蟹に抱えられる蜃のフードを脱がし、瞼をそっと抉じ開ける。

「気絶? 何があったの?」

 蒲牢は獏へ目を遣る。疲弊する蒲牢にはもう説明する体力は無い。

「椒図の力のことはわかる?」

「ええ。わかるわよ。全部ではないけど」

「椒図に遣られたんだ。それで、蒲牢が椒図の力を剥がした」

「……そうなのね。穏やかそうに見えるけど、危険な状態よ。著しく生命力が低下してるわ。早く回復させてあげないと。――ヒメ、蒲牢に点滴を打ってあげて。その間に私は蜃の治療をするわ。レオ、そのまま蜃を連れて来て」

「はい。わかりました」

 ラクタヴィージャは黒色蟹を手招き、廊下の奥へ行く。彼はレオと呼ばれているらしい。

 受付を任されていた変転人はカウンターに置かれたマグカップを下げ、出入口とは逆の方向を手で指す。

「隣のドアから中に入ってください」

 獏が代わりにドアを開け、言われた通りに蒲牢の背中を押す。診察室なのか、小さな部屋には机と椅子、そして簡易なベッドが一脚置かれていた。

「横になってください」

 蒲牢は上着を脱ぎ、袖を捲ってベッドに横になる。点滴の経験があるのか、言われる前に準備している。

「注射は嫌だな……食べたら治るのに……」

「折角病院にいるので、治療を受けてください」

「……君の名前、初めて聞いた」

「そうですか? そのまま喋って気を紛らしておいてくださいね。私は姫女苑(ヒメジョオン)です」

「っ……」

「獣様が注射が苦手だなんて、可笑しな話ですよね」

「獣だって好き好んで怪我してるわけじゃない……」

「そちらの無色の方も点滴しますか?」

「マキさんはいいよ」

「顔色が悪いですが」

「事情が複雑だから全部は説明できないけど、マキさんはもう……生きてないから」

「! ……それは失礼しました」

 動物面で顔は見えないが、声色が沈んだことに姫女苑は気付いた。気を利かせたつもりが裏目に出てしまった。ラクタヴィージャが指示しなかったのだから、変転人が出しゃばることではなかったのだと姫女苑は睫毛を伏せる。

 獏は端に置いてあった長椅子に座り、白花苧環の腕を引く。彼は座らなかったが、傍らには立ってくれた。

「蜃様の治療は時間が掛かると思いますので、蒲牢様も寝ていてください。治療の順番が来れば起こします」

「……獏、少し寝ていいか?」

「勿論。椒図も暫く一人になりたいだろうし、気にせず眠って」

「狴犴は……。前に科刑所に行った時、暫く待っても狴犴は戻って来なかった。もしかしたらあの時にはもう病院に……」

 話しながらゆっくりと瞼が下り、蒲牢はすぐに眠った。こんな時くらい悪夢を見ないことを祈るばかりだ。

 狴犴の名前が出た時、姫女苑はぴくりと反応した。見逃しそうなほど些細だったが、彼女は何か知っていると確信する。病院に椒図がいることを知らないとラクタヴィージャは言っていたようだが、知っていて閉口したのだと悟った。

 眠る蒲牢の状態を確認する姫女苑の手が空いた時に突いてみようと思いながら、獏は壁に背を預けて肩の力を抜いた。理由は不明だが統治者が眠っているのなら、罪人としては緊張が解けると言うものだ。


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