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透明街の人喰い獏  作者: 葉里ノイ


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78-利用


 夜の内に喫茶店に戻って来た獏と灰色海月は休憩室に入り、ソファで眠ったままの鵺に目を遣る。黒色海栗も少し離れて椅子に凭れ掛かりながら床に座り込んで眠っていた。

 眠くなった蜃もソファの一つを占拠している。スナック菓子の袋は空になっていた。

 蒲牢(ほろう)も微睡んでいたが、獏が入って来るとぼんやりと顔を上げた。

「ごめん蒲牢、起こしちゃった?」

「……いや……起きてた」

 そう言うが今にも瞼が閉じそうだ。

贔屓(ひき)は?」

「すぐ戻って来ると思う」

 返事をしながら、喫茶店のドアが開く音が聞こえた。戸締まりをしてすぐに休憩室へ来る。

「獏、通報しておいたよ。朝にはニュースになるだろうな」

 休憩室を見渡しながら、声量を抑えて話す。人間も獣も皆眠る時間だ。

「ありがとう贔屓」

 獏を騙した男は無事に警察の手に渡った。獏の腹の虫は収まっていないが、無惨に殺されなかっただけ良かったと思えば良い。

 贔屓はぐっすりと眠る蜃に毛布を掛け直し、照明のスイッチに手を遣る。

「遅くなってしまったな。獏、消すよ。蒲牢も先に寝ていれば良かったのに」

「いいよ。おやすみ」

 蒲牢の瞼はもう完全に下りて返事はなかった。贔屓が帰って来て安心したようだ。ソファが足りないので、獏は壁を背に座る。

 カーテンも閉められているので、明かりが消えると何も見えない。獏も光から闇に目が慣れるまではよく見えていない。夜行性ではあるが、皆と同じように寝ることにした。


 翌朝はまた贔屓が一番に目を覚まし、カーテンを開けて皆を起こした。蒲牢はすぐに起きるが、蜃は毛布を掴みながらなかなか目を開けない。変転人達はもう少し寝かせてあげようと声は掛けないが、獏も目を覚まさないので怪訝に動物面を覗き込む。

「……獏も寝起きが悪い時があるのか。それとも昨晩のあれが疲れたのか?」

 随分動き回っていたので、病み上がりのような今は疲労も大きいだろう。

「そんなに大変だったのか?」

 自分の毛布を畳み、蒲牢も獏を見る。もう暫く起きないだろう。化生前の椒図も寝坊をする時はそんな感じで眠っていた。

「ニュースになっているから見てみるか?」

 贔屓は携帯端末を取り出し、ニュース記事を表示して蒲牢に手渡す。簡潔な記事だったが、十五年前に行方不明になっていた当時の中学生が白骨化して見つかり、犯人の当時の同級生である男が逮捕されたと書かれていた。

「その犯人が獏にその罪を着せようとした。獏は穴を掘ったり警察に追い掛けられたり散々だったよ」

「……それは大変だったな。この人間はちゃんと制裁されるのか?」

「人間の法律にはあまり詳しくないんだが……埋めた当時は未成年だから十四歳以上なら保護と更生が目的の少年法が適用されるが、今は成人しているからな。ちゃんと裁かれるはずだ。どの程度の罰が与えられるかはわからないが、獏が満足しそうな死刑は無いかもな」

 人間の法律は複雑だ。蒲牢は眉を寄せつつ首を傾ぐ。獣にはそもそも成人と言う年齢が無い。

 あまり理解できずに携帯端末を贔屓へ返していると、からんと小気味良い音が聞こえた。店主が出勤したようだ。

「夜の間に客が増えたことをマスターに話さないと。朝食も用意するから蒲牢は待っていてくれ」

「あの緑のやつ……」

「緑? ……クリームソーダか?」

「それ。それも飲みたい」

「わかった。注文しておく」

「俺も喫茶店に住みたいな……」

「僕も住んでいるわけじゃないが」

 休憩室を出る贔屓を見送り、蒲牢はまだ起きない蜃と獏を見た。まだ眠いなら寝かせておこう。こういう風景は死ぬ前のことを思い出す。ここに鴟吻(しふん)はいないが、贔屓は朝餉の準備に母屋へ行き、他の兄弟達はぎりぎりの時間まで眠っていた。蒲牢と狴犴はその中で一足先に起きて、穏やかに眠る兄弟達を見ていた。

(懐かしいけど淋しいな……)

 目が覚める直前までまた化生前の悪夢を見た。夢なら何回かに一度くらい救われても良いのに。

「っくしゅ」

 毛布に包まりながら小さくくしゃみをする蜃に目を向け、畳んだ毛布を被せてやる。人間の街はまだ残暑がありこの部屋も冷房を少し入れているが、蜃には寒いのだ。気温をあまり気にしない獣は多いが、全てがそうではない。暑さが苦手な者も寒さが苦手な者もいる。蜃は後者だろう。

 蒲牢は逆に暑さが少し苦手なので、冷房を切られると困る。現代の夏の気温は高過ぎるのだ。

 ソファに戻り、ゆっくりと贔屓を待つ。ぼんやりとしていると悪夢を思い出してしまうが、することが特にない。

 空の菓子袋に視線を向けて大人しくしていると、少し時間が掛かったが贔屓は皆を呼びに戻って来た。

「人数が増えたから作るのに時間が――何だその毛布の塊は?」

「蜃」

 頭まで毛布を被せられ微塵も体が見えなくなっている。

「……朝食ができたんだが、店の方で食べるか?」

「食べる」

 贔屓に付いて休憩室を出ようとし、ふと引き返した。頭は何処だったかと毛布を探り、蜃の炎色の頭を掘り起こす。

「寝てると君の分も食べるよ」

「――!」

 耳元で囁くと、がばりと蜃が飛び起きた。

「……? 何か今……聞き捨てならない言葉が聞こえたような……」

「蜃、朝食の時間だよ」

 まだ状況を理解できていないが、寝惚けながら乱れた赤い髪を束ね直して毛布から這い出る。蒲牢は蜃を人間の食べ物に興味がある同志だと認識している。喰いっ逸れるのは可哀想だ。

 灰色海月と黒色海栗にも声を掛け、灰色海月は獏が起きないことを気に掛けつつも贔屓達に続き休憩室を出た。獏は疲れてベッドに突っ伏すことが以前からあったので、骨を見たショックだろうかと考える。灰色海月もあの骨は衝撃的だったが、元は骨の無い海月だったからか、骨という物がどうもぴんと来ない。今の人間の体には骨があることは知っているが、見る機会の無い物なのだから想像が難しい。

 ぞろぞろと店内へ入ると、先客が反対側の壁際の席にちょこんと座っていた。贔屓が皆を呼びに行った時には誰もいなかったのだが、皆を呼ぶ僅かな時間に来店したようだ。ドアのベルの音は聞こえなかったが、そっと開けるとベルを揺らさず入ることは可能である。それよりもその全身の色の方が気になった。

「白……」

 やや乱れた長い髪も服も白い。全身が白かった。

「変転人か?」

 蒲牢は贔屓に小声で尋ねるが、贔屓も首を捻る。

「ここに来られるなら獣ではないが……変転人としても僕は見たことがない。少なくともここの常連じゃない」

 白い人物は幼い少女の姿で、床に足が届いていない。そして何故かメニューを逆様に見ている。暫く見詰めた後、投げ遣り気味に彼女はテーブルにメニューを倒した。

 少女は逆様のメニューを掴み、ずかずかと贔屓達に接近しメニューを突き出す。

「読める言語を書くべきなの」

 全て日本語で書いてあるのだが、どうやら読めないらしい。贔屓はくるりとメニューを回し上下を正してやる。

「今話してる日本語と同じなんですが」

 人間の振りをする贔屓を白い少女は睨むように凝視した。

 背丈は鵺と同じくらいか少し低いだろうかと贔屓は考える。

「日本語……? そんなもの教わってない」

「読めないなら僕が読み上げましょうか?」

「……そんなことをしに来たのではないの」

 ふんと首を振り、白い掌に指を添えようとする。贔屓ははっとし掌に触れる前にその手を掴んだ。

「っ!?」

「何を出す気だ……? この中で暴れることは許さない」

 店主に背を向けて死角を作り、軽い脳震盪を起こすように素速く手を突き落とした。少女はぐらりと意識が傾き、贔屓の腕に倒れ込む。姿が幼い少女だろうと、油断はできない。

「蒲牢、外に放り出してきてくれるか? 僕が行くべきなんだが、ここで人間の振りができなくなるのは避けたい」

「わかった」

 贔屓から少女を受け取り、店主に声を掛けられない内に店を出る。全く朝から悩みの種を増やさないでほしいものだ。

「さあ、席に座って。マスターとサンドイッチを作ったんだ。持って来るよ」

 何事も無かったかのように贔屓はぱんと一つ手を叩き、カウンターへ大皿を取りに行く。

「あのお嬢さんもまた来てくれたんだね」

 何も気付かずに手元の作業をしながら、店主はにこにこと嬉しそうだ。

「マスターの料理が美味しいからですよ」

 サンドイッチを積んだ大皿を席に運び、折り返し飲み物の載った盆を運ぶ。

 蒲牢と蜃にはクリームソーダを置き、喜ぶ蜃を店主はカウンターからにこにこと窺っている。その内に蒲牢も戻って来てテーブルの上を見、足取り軽く席に座った。

「ありがとう蒲牢。あの子は途中で目を覚ましたか?」

「寝たままだった。何だったんだろうな、あれ」

「……ここで人間の振りをするのも潮時なのかもしれないな」

「贔屓……」

「今はその前に、朝食だな。皆、遠慮無く食べてくれ」

 大皿に盛られた大量のサンドイッチに最初に手を伸ばしたのは蜃だった。それを皮切りに皆一斉に手を伸ばす。

 蒲牢は同じ飲み物が置かれた蜃を一瞥し、ふと不思議に思った。

「蜃は寒いのが苦手なのに冷たいアイスは食べられるんだな」

「ん? んー……」

 口の中の物を飲み込み、ストローを咥えながら返事をする。

「……寒いと冷たいは別」

「別か……?」

「冷蔵庫には入れないが、冷蔵庫の中の物は食べられる。それと同じだ」

「全身が寒くなるのが駄目……? 冬はどうしてるんだ?」

「動き回ってるとそこまで気にならないが、立ち止まると寒いな。でも防寒すれば割と平気だ」

 寒さに対しては蜃は人間の感覚に近いのだろう。蒲牢は冬でもマフラーなど巻かなくても平気だが、蜃はそうではないのだ。

「凍れば死んでしまいそうだな……」

「怖いこと言うな」

 頬張ったサンドイッチで咳き込みそうになる。凍った経験はないが気を付けようと蜃は身震いした。話しているだけで寒くなりそうだ。話題を変えようと贔屓へ視線を移す。

「それより、さっきの白いのは変転人だったのか?」

「おそらく……。文字が読めないなら、比較的最近人の姿を与えられたんだろう」

「宵街は閉じられてるのに? 服を着てるってことは、宵街には行ってるだろ?」

「そこまで最近かはわからないな。それに服なら人間の街でも調達可能だ」

「……また狴犴が差し向けてきたのか……?」

 蜃はうんざりと表情を曇らせる。黒所属の洋種山牛蒡が街に来た時、もう差し向けられる白はいないのだと思ったのだが、まだいるらしい。……いや新しく作ったのかもしれない。

 街に来た白花曼珠沙華は狴犴をかなり慕っていた。罪悪を嫌う白と罪を裁く統治者の相性は良いのだろう。先程の少女は最近変転人となったのならそこまで信頼を得ていないだろうが、偶々訪れて偶々出会っただけでは掌から武器を出すはずがない。何か命令をされているのは確かだ。

窮奇(きゅうき)饕餮(とうてつ)に比べると実害は少なそうだが」

「変転人には負けないが、こう頻繁だとな。窮奇の前にもこっちには変転人が二人も差し向けられてる」

「そうだったのか。それだけ狴犴も手を焼いているのか……。獣に対して変転人を送り込むなら一度に複数送り込む方が勝算があると思うが、蜃の話を聞く限りどうやら数を集められないようだな。そんなに人員不足なのか……。椒図が味方をしたのもわかる気がする」

「は……?」

「椒図には狴犴が劣勢に見えたんだろう。それを見ない振りはできなかった。もし狴犴に操られたわけではないなら、こう考えるのが自然だ」

「つまり、同情か……?」

「あまり憶測で心中を慮りたくはないが、君から聞いた椒図の話では、饕餮のような天真爛漫ではないと感じた」

「それはそうだが」

 贔屓の言っていることは筋が通っている。だが記憶が無いとは言え椒図が自らの意志で狴犴についてしまったことは、やはり頭の隅では信じたくないことだった。

 もくもくと口を動かし、それぞれ考えるように黙ってサンドイッチを掴んだ。一番わからないのは狴犴の思考だ。贔屓も狴犴を庇いながら話しているが、一人の変転人を巡ってこうも躍起に始末を差し向ける思考が理解できない。

「……このままでは獏の分が無くなりそうだな。少し取り分けておこうか」

「あいつ少食だから一切れでいいぞ」

「さすがに一切れは少なくないか?」

「私が取り分けます」

 この中では一番獏と付き合いの長い灰色海月が揚々と挙手をし、小皿を受け取った。

「では任せよう」

 異なる具材のサンドイッチを一つずつ抓み、四切れを皿に載せた。蜃は四切れは多いと言いながらまだ口に運んでいる。怪我を癒すためでもあるが、小柄な体躯だが蜃はよく食べる。

「持って行ってきます」

 意気込んで休憩室に向かう灰色海月を贔屓は呼び止めようとしたが、やめておいた。休憩室から出て来ないならまだ寝ているはずだ。後で持って行けば良いと思っていたのだが、灰色海月が表情が乏しくもあまりに楽しそうだったので止められなかった。どうやら獏は随分と彼女に気に入られているらしい。

 灰色海月が休憩室のドアをそっと開けると、獏はまだ壁に凭れて眠っていた。机に皿を置き、その前に蹲み込んで獏の様子を窺う。

「まだ起きませんか……? あまり睡眠が長いと……睡眠が長い動物は何でしょう……ナマケモノ? コアラでしょうか? コアラになるんですか?」

「…………ん……」

 小さく身動ぎ、動物面を被った顔を逸らす。少し漏れた声は迷惑そうに聞こえた。それに少し違和感を覚えた。

「少し失礼をしてもいいですか?」

 返事が無いので軽く頭を下げ、指先で少しだけ面を持ち上げる。面で隠れた頬はほんのりと上気して赤く、眉を寄せていた。

「大変です……!」

 面を戻し、足早に店へ戻る。入った時の上機嫌さが一転して狼狽する灰色海月に贔屓も怪訝な顔をした。

「獏は起きたか?」

「熱が出てるみたいで……苦しそうです」

「それで起きなかったのか……。わかった。氷を持って行こう」

 面を被っていて顔が見えず気が付かなかった。

 サンドイッチを平らげ満足した蜃もクリームソーダを啜りながら訝しげに顔を向ける。

「また熱か?」

「個人差にしても少し長い気はするが……自分の力に順応するのにここまで時間が掛かるのは珍しい」

「…………」

 カウンターへ氷を貰いに行く贔屓と灰色海月の背を見ながら、蜃は目を細める。『自分の力に順応』と言うなら、おそらく見世物小屋の件で増幅した方の力への順応が遅れているのだろう。増幅した力は元々の獏の力ではない。時間を掛けて増幅した力が烙印で封じられ、そして半解除されて一気に戻り、体が途惑っているのだろう。

「もう一回烙印で封じればいいんじゃないか?」

「獏がそれを望むなら、だな。生憎僕は烙印を持っていないが」

 水を入れたコップと袋に入れた氷を手に二人は休憩室へ戻って行く。残された三人は目で追いつつそれぞれ飲み物を啜った。

 贔屓から昨晩の出来事を少し聞いていた蒲牢はストローでアイスを突きつつぽつりと漏らす。

「昨晩は大変だったみたいだし、その反動だろうな」

「大変だったのか?」

「人間に嵌められたらしい」

「はは、馬鹿だろ」

 蜃は笑いながら御機嫌だ。獏が痛い目を見て嬉しそうだ。

「狡猾な人間もいるってことだ。気を付けないとな」

 神妙に頷いているとからんと強めにドアのベルが鳴り、反射的にそちらへ目を向ける。近所の常連客かと思ったが、見覚えのある幼い白い少女だった。

「……もっと遠くに捨てて来いよ」

「どれだけ遠くても傘で一瞬で戻って来られるから」

 白の少女は店内を見渡し、三人の座る席へ歩み寄って数歩手前で止まった。手を掴まれないよう学習して距離を取ったようだ。

「さっきの奴は何処に行ったの?」

「留守だ」

 本当は休憩室にいるが、留守ということにしておいた。人間として暮らしたい贔屓をわざわざ連れ出す必要はない。

「君は誰だ? 何しにここに来た? 喫茶店の利用なら、空いてる席は幾らでもあるけど」

「喫茶店……軽食屋なの。それはどうでもいいの。私はお前達を殺す……殴る? ために来たの」

 穏便には済まないようだ。蒲牢は立ち上がり、カウンターに背を向けて幼い白の少女の顎を掴んで壁に押し付けた。

「誰かの命令か?」

「立ち上がれないようにボコボコにしろ……なら、殺す手前?」

「答えろ」

「きゅうき……? へいかん……? 違う?」

「誰の命令か把握してないのか? 生まれたばかりでまだ言葉を理解してないのか? 何でこんな未熟な……」

 腹に衝撃が走り、蒲牢は口を閉じた。変転人は手を先に封じなければならない。そのことはわかっていたが、掌を腹に翳し直接武器を叩き込む変転人がいるとは思わなかった。

「ぐ……」

 腹に刺さった棘のある鉄球を引き戻され、血が滲む。片手で腹を押さえながら、白の少女の顎を掴んだまま早足で店を出た。店内で暴れてはいけない。あの人間の店主の前で闇を見せてはいけない。その一心で蒲牢は血が流れるのも構わず飛び出した。

 白い服に赤が滲んだことに蜃は気付いた。饕餮を組み敷いていた蒲牢は強いはずだ。変転人相手に負けるはずがない。きっと油断したのだ。

「……おい海栗、一応贔屓に知らせろ。蒲牢が無色に傷を負わされた」

「わかった」

 彼女が立ち上がるのを確認し、蜃も外へ出る。直前で振り返り「しょっ、食後の散歩に行ってくる!」店主に慌てて声を投げた。店主はにこにこと「気を付けて行ってらっしゃい」返事をする。幸い店主からは蒲牢の血が見えなかったようだ。

 ドアを開けると、点々と曲がり角まで血痕が続いていた。杖を召喚し、地面を蹴って角を曲がる。だが周囲には誰もいなかった。

(血痕も無い……ってことは、場所を移した? ……いや、白い奴の狙いが贔屓なら、場所を移しても蒲牢を置いて傘ですぐ戻るはず。ってことは……)

 もう一度周囲を確認し、近くの家の塀に跳び乗る。傷がまだ少し痛むが、構っていられない。

 屋根の上まで跳び、周囲を見渡す。推測通り、目立つ白い姿が見えた。人目を避けるために屋根に上がったのだ。腹の傷を抱えながらよく跳んだものだと感心する。

 屋根から屋根へ跳び、二人の許へ急ぐ。白の少女は間棒で掌を押さえ付けられ、仰向けに組み敷かれていた。手負いとは言えさすが獣だ。蒲牢は呼吸を鎮めながら冷静に対処している。

「大丈夫か!? 油断するから……」

「……うん。油断と言うか、ちゃんと話したかったんだけど……手を出されたら取り押さえるしかない」

 蜃は蒲牢の腹を覗き込む。跳び回った所為だろう、白い服がぐっしょりと真っ赤だ。喋るのも辛いはずだ。蜃は蹲んで膝を突き、蒲牢の代わりに詰問する。

「おい白いの。とりあえずまずは名前だ。名乗れよ」

 蒲牢は顎を掴んでいた手を緩め、話せるようにする。白の少女は吐き捨てるように舌打ちした。幼い顔に不釣り合いだが、あどけなさが微笑ましくも見えてくる。

「名乗るならそっちからなの」

「生意気だな……わかってて襲ったんじゃないのか」

「名前は聞いてない」

 確かに蜃の名前は窮奇に知られていないが、蒲牢なら知っているだろう。名前と姿が一致していないのか。蜃が蒲牢に目を遣ると、彼は頷いた。

「……俺は蒲牢」

「そっちは?」

「君一人の名前に対して教えるのは一人でいいだろ。これ以上駄々を捏ねるなら腕を一本切り落とすぞ」

 大人しく名乗ると増長するだろう。蜃は杖を白い腕に当てて脅す。

 少女は見極めようと警戒し、真かはったりか……考えようとしてやめた。こいつらは知らない人間などどうなろうと構わないだろう。そういう目をしている。

「……白実柘榴(シロミザクロ)。もしくは水晶柘榴。どっちでもいい」

 初めて聞く名前だった。尤も変転人の知り合いが多いわけでもないが。蒲牢と目を合わせるが、どちらもその名に覚えはなかった。

「文字が読めなかったり理解力が乏しかったり……生まれたての赤ん坊か?」

「答える義務はないの」

「自分の状況わかってるか? すぐにでも殺される格好をしてるぞ?」

「殺したいなら殺せなの。生に執着はないの」

「腕を切り落とされるのは嫌がった癖に」

「欠けて生きるなら死んだ方がいいの。折角人間になった意味がない」

「極端だな……。やっぱり最近生まれたみたいだな。生後何日だ?」

 ふいと顔を逸らし、白実柘榴は口を噤んだ。感情が稀薄な生まれたばかりの変転人との会話が一番骨が折れるかもしれない。拷問をしたとしてもあらゆるものを理解しておらず徒労となるだろう。


「――蒲牢、代わろう」


 掴む手の力ではなく突然体中が重くなったことに白実柘榴は瞬時に気付いた。蒲牢が手を離し上から降りても重さが変わらない。起き上がることができず屋根に貼り付けられているようだった。

「……?」

「動けない程度に重くした」

 とんと屋根に降り立った少年を見上げる。フードを被った鉛色の髪に赤褐色の瞳、裾の長い外套がふわりと翻る。

 人間の振りをしていた時に着ていた上着ではなかった。蜃も初めて見た。どうやら人間の振りを悟られないよう獣として羽織って来たようだ。

「……似合わないか? 久し振りに着たんだが」

「久し振りに見た」

「思ったより怪我が酷いな。下がっていろ」

 腹を押さえる蒲牢を下がらせ、贔屓は前に出る。

 白実柘榴は頭も碌に動かせず、何故動けないのかわからず唇を噛んだ。

「何か聞き出したか?」

 状況を確認しながら冷静に尋ねる。

 動くことができないならと蜃も杖を引いた。

「名前なら。白実柘榴、もしくは水晶柘榴、だと。窮奇か狴犴の命令で来たらしい。まだ生まれたてで理解できてないことが多過ぎて、まともな答えが返ってこない」

「そうなのか」

 贔屓は蹲んで膝を突き、彼女の様子を窺う。

「おそらくだが、人の姿を与えたのは狴犴じゃないな。窮奇の方か?」

「……! 白黒の頭の……?」

「ああ、窮奇だ。存在感のある木は消失すると目立つからな。あまり変転人にはしないんだ。明確に規則は設けていないが。白い柘榴は珍しい……庭にでも生えていたか?」

 白実柘榴の表情がはっきりと変化した。生まれたばかりではっきりと表情を作る変転人は稀だ。

「帰りたい……」

 ぽつりと漏れた声は力無く、縋るようでもあった。

「生えていた場所にか?」

 白実柘榴は贔屓を見上げ、花のような澄んだ瞳が陰るように白い睫毛を伏せた。

「帰してやったら、もう襲わないか?」

「場所がわかるの?」

 贔屓が頷くと、白実柘榴は目を逸らした。考えているらしい。まだ生まれたばかりで交渉の意味も理解していないかもしれない。窮奇からの命令も、聞いてはいるが何故聞くのか理解していないだろう。

「生まれてから何日経っている?」

「……三日」

 今度は素直に答えた。やはり日が浅い。これでは文字が読めなくて当然だ。

「三日で武器を生成し扱えるとは優秀だな」

「……煩い奴がいて、塀の上から実でも投げ付けてやろうと思ったの。頭の角にでも刺さればいいと思って。でもまだ時期じゃなかったから、花を投げるしかできなかった。それで、こんな格好にされた。意味がわからない」

「目を着けられたんだな」

「もう少しで今年も実ができたのに。実があったら皮ごと食べさせるのに」

「毒があると知っていたから変転人にしたんだろう」

 柘榴の実は食べられるが、皮や根には毒がある。毒があれば無色の変転人が出来上がる。

「へんてん……そう言えばそんなことも言って……。足りないから作るとか……」

 やはり動かせる変転人の数が足りていないのだと蜃は合点が行く。急遽作ったは良いが、何も教える時間がなかったのだ。ある程度の時間を掛けて教育しないと無色と言えどもこの有様だ。すぐに武器が生成できてしまったことで早熟だと判断を誤ったのだろう。

「実を付けるまでに何年も掛かったんだろう? 木も相当育って目立っていたんだろうな」

 寄り添いながら会話を続けていると、ひらりと一枚の紙切れが落ちて来た。それを抓み、書かれていることを確認する。鴟吻だ。贔屓が『場所がわかる』と頷いた時から千里眼で探っていた。その回答だ。

「蒲牢は戻っていてくれ。下に黒色海栗を待たせてある」

「……わかった」

 贔屓は杖を振り、白実柘榴に掛けた加重を解く。一瞬前までの重みが嘘のように体を起こせるようになった白実柘榴は不思議そうに腕を動かした。

「これが獣の力だ。武器を持っていても人間は敵わない。覚えておくといい」

「…………」

 白実柘榴は贔屓とは目を合わせず立ち上がる。獣と言ってもまだ理解していないかもしれない。窮奇が人の姿を与えたなら、あの性格なら最低限のことも教えていないのではないだろうか。人の姿を与えたまま放置する獣は多いので、窮奇が特別と言うわけではないが。

「君の帰りたい場所に行こう」

 屋根から降りる蒲牢を見届け、贔屓はくるりと杖を回した。彼女はただ利用されているだけだ。生まれたばかりの変転人を責めることはできない。帰りたい場所があるなら帰らせてやるべきだ。

 先程と景色は似ているが、一瞬の内に来たことのない住宅街に降り立つ。周囲の様子は鴟吻の落とした紙に書かれており、丁度人がいないことは知っていた。

「あ……」

 見覚えのある景色に白実柘榴は走り出し、一軒の家の前で立ち止まる。ぐるりと塀に囲まれ、背の低い古い門が閉まっていた。塀の向こうにはこぢんまりと古い家が立っている。

 気持ちが逸りながら門に手を掛けるが、動かなかった。

「鍵が掛かってる……いつもは開いてるのに」

 考える間も無く後ろに下がって助走を付けて跳び、白実柘榴は門に足を掛けながら塀を登る。がしゃんと大きな音が鳴り、贔屓の方が途惑ってしまった。自分の家なのだろうが、今は人の姿をしているのだからそういう侵入の仕方は目立つ。言ってくれれば担いで塀を跳び越えたのに。

 庭へ跳び降りる彼女に続き、贔屓と何となく付いて来た蜃も塀を跳び越える。庭に統一感はなく、雑多に草木が生えていた。土の上に降り立ち見渡すと、白実柘榴が塀に向かって俯いていた。

 白実柘榴は掘り返されたような穴の前に立っていた。そこに生えていたのだろう。近くに淡く色付いた花が一つ落ちていた。彼女の果実はよく知られる赤ではなく透き通った水晶の細石のように白いが、それはもう実ることはない。

「木が無い……」

「木は君だから」

 物思いに見下ろし、じっと穴を見詰める。まだ上手く理解できないようだ。

 背後でふと物音がし、三人は振り返る。硝子戸が開けられ、呆然と立つ老夫婦がいた。

「戻って来たのか! 泥棒め!」

「!」

 我に返った老年の男は拳を振り上げ、裸足のまま庭へ降りた。どう説明したものかと贔屓は蜃と共に距離を取る。穴の前に立っていた白実柘榴は警戒などしておらず、胸座を掴まれて目を瞬いた。

「柘榴を何処に遣ったんだ! 返せ!」

 漸く理解した白実柘榴は首を振りつつもどう説明すれば良いのか言葉が出なかった。自分がそうだと言ってもあまりに荒唐無稽だ。信じてもらえない。

 狼狽える白い少女に、老年の女も靴を履いて庭へ降りてくる。戻って来てはいけなかったのだと思い始めた時、女は男の肩に手を置いた。

「この白い子……水晶柘榴じゃないかしら?」

「ボケたのか婆さん!」

「ボケてないわ。だってこんなに綺麗な……あの水晶柘榴と同じ色をしてるのよ? それにこの子達がどうやってあの木を掘り起こすの?」

「それは……」

 三人いるとは言え、幼い少女と小柄な少女と一見細身の少年では大きく育った木を掘り起こし運び出すのは不可能だろう。大人の力が必要だ。

「だが木が人になるわけがないだろ」

「ねえ、貴方はどう? ずっとここにいたなら、私達のことがわかる?」

 老年の男の言い分は聞き流し、女は困惑する白実柘榴へ一歩近付いた。贔屓と蜃は暫く見守ることにした。

「私は……」

 一度俯き、何を言えば認めてもらえるのだろうかと考える。ここに植えられてからのことは人の姿となった今でも確かに覚えている。だが簡単に手に入るような情報では認めてもらえないはずだ。この老夫婦しか知らないようなことを思い出さなければならない。

「……お爺さんが二ヶ月ほど前、キラキラした物を庭に埋めたの」

「ん!?」

「……キラキラした物? それは何処?」

 老年の男の顔が一瞬で青褪めたが、女にはまだ何なのか答えが出ていないようだ。

 白実柘榴は庭の奥へ行き、地面に並べてあった小さな植木鉢を幾つか退けた。

「この下なの」

 指を差した土を見て、老年の女は縁の下に置いてあったスコップを拾った。土は軟らかく、すぐに光る物が掘り出された。

「…………」

「そのキラキラなの。何かはわからないけど……」

「これはブローチよ。無くしたと思ってたんだけど……少し壊れてるわね」

 土塗れのブローチを白実柘榴へ見せる。小さなキラキラがたくさん嵌め込まれていたが、幾つか欠けていた。裏には細い針が一本付いており、これがブローチという物らしいと彼女は名前を覚える。

「お爺さん……どうしてこれを埋めたのかしら?」

「いや、それは……」

 老年の女は男の腕を引き、家の中へ入っていった。硝子戸をぴしゃりと閉め、カーテンも閉めてしまう。

「……?」

 白実柘榴には行動の意図がわからなかったが、贔屓と蜃は苦笑いをした。戸は閉められたが怒鳴り付ける声は漏れ聞こえた。

「ブローチは何に使う物なの?」

 何も知らない白実柘榴の質問に、贔屓が答える。

「主に服に付ける装飾品だ」

「そうなの? 何で埋めるの?」

「推測だが、あのお爺さんがうっかり壊してしまったんだろう。それを隠そうとして埋めた」

「……言ってはいけないことだったの?」


「そんなことはないわ」


 カーテンと硝子戸が開き、にこやかな笑顔で老年の女が出て来た。背後の老年の男はげっそりと疲れ果てている。

「このキラキラは硝子で安物なのよ。気に入ってたんだけど、壊したなら正直に壊したと言ってくれれば、こんな土塗れになることはなかったわね」

 笑っているが怒っている。感情がまだ理解できなくても白実柘榴は直感的にそう思った。

「でもこれで貴方が水晶柘榴だとわかったわ。まるで御伽噺ね」

 認めてはもらえたが、この先どうするかは全く考えていない。白実柘榴は視線を彷徨わせながら贔屓を振り向く。人の姿を与えられて宵街に連れて行かれ、そこには白実柘榴のような変転人が大勢棲んでいると聞かされた。ならば戻るべきなのだろうか。

 彼女が何を問いたいか、贔屓も察する。どの変転人も宵街へ連れて行かれると途惑うものだ。今までいた場所とは全く違う景色に困惑する。人の姿を与えられた直後はまだ脳の働きも鈍くぼんやりとすることが多い。だが白実柘榴はもう思考ができている。

「何処に棲むのも自由にするといい。何かわからないことがあれば、宵街もいつでも歓迎してくれる。何でも訊くといい」

「……そうなの? 私は人間……でいいの?」

「ああ、人間だ。但し外見の成長はあまり無い」

「ここで住めるの? ……あ、住みたいわけじゃなくて」

 白実柘榴は失言だったと俯く。今は木ではないのだ。庭の片隅で立っているだけではない。家の中に居場所など図々しいのではないかと考え直す。

 だが老年の女は笑いながら彼女の手を握った。

「またここに居てくれるの? 住みたいわけじゃないなんて、水臭いこと言わないで。貴方の部屋も作りましょう。水晶柘榴とお話できるなんて夢のようだわ。ねえお爺さん」

「あ、ああ……そうだな。ブローチは黙っていてほしかったが」

「お爺さん」

「……すまん」

 老年の男はもう完全に頭が上がらなくなっている。

「……えっと、貴方達は……」

 白実柘榴を木と認めたなら、贔屓と蜃はその友達とも言えない。何と説明するべきかこちらも悩む。何も思い浮かばず蜃は贔屓を見ると、彼は目の色だけ静かに人間の色に変えた。

「僕達は迷子の彼女を連れて来ただけです。再会できて良かったです」

「あら、そうなの? なのに御構いもせずにねぇ。この子はお爺さんとの水晶婚式の時に植えたのよ。戻って来てくれて良かったわ」

「警察に出した届けは取り消しておかんとな」

「そうだったわね。御茶を用意するから、貴方達も休んでいってくださいね」

 老年の女が家へ入ると、男も肩身が狭く付いて行った。残された三人は顔を見合わせ、蜃は贔屓の袖を引いた。

「……おい、水晶婚式って何だ?」

「結婚して十五年目の御祝いのことだよ」

「へぇ……十五年……。じゃあ結構長くここにいるんだな、柘榴」

 自分がどういう理由で買われ植えられたのか、白実柘榴は知らなかった。それを知れたのだから、人間になって悪いことばかりでもないのだろう。

「僕達はこのまま帰るが、獣には気を付けるようにな。見た目で判断するのは難しい獣もいるが、人間では敵わない力を持つ獣は多い」

「窮奇……って奴はもう来ないの?」

「来たとしても君には傘がある。離脱すればいい。だがあれは一度使うと暫し充填時間が必要だ。それは覚えておくといい」

「お前はあの軽食屋に住んでるの?」

「住んでない」

 贔屓は顔を逸らし、蜃を促す。あまり話し込んでいては老夫婦が戻って来てしまう。

「お前は色が違うけど顔は同じなの。隠そうとしてもわかる。私の意識を奪った奴なの」

「……では隠しておいてくれ。僕は平穏に暮らしたいんだ」

 それは白実柘榴も望むことだった。突然現れた変な頭の獣に何だかよくわからない命令をされるより、ここで平穏でいたい。

「ここまで連れて来てもらったから、それは守る。でも腹に一発入れたことは謝らないの」

「構わない。蒲牢も謝らせたいとは思っていないはずだ」

 贔屓は白実柘榴から距離を取り、杖を翳す。

「……ああそうだ。文字を覚えると便利だよ。メニューも読めるようになる」

 杖をくるりと回し、贔屓と蜃は姿を消す。傘と言い本当に不思議だ。メニューも読めるようにとは、また喫茶店に行っても良いと言いたかったのだろうか。人間が食べる食べ物は遠目に少し見ていたが、様々な色形があり理解できなかった。

(人間は経口摂取するもの……すぐには慣れないの)

 何を話せば良いのかわからないが、庭に突っ立っていては木と同じだ。白実柘榴は初めて家の中へ入り、最初に靴を脱ぐことを教わった。



 喫茶店へと戻った贔屓は髪の色も黒く戻し、外套を脱いで店内に入った。客は誰もいなかった。店主に挨拶をすると、カップが複数載った盆を渡された。後に蜃が付いて行くと店主は相変わらずにこにこと笑顔を向ける。

 休憩室では手当てを終えた蒲牢が血の滲んだ外套を羽織って座っていた。腹に巻いた包帯にも少し血が滲んでいる。

 店を出る前に贔屓がソファに運んだ獏はまだ横になっているが目は覚めているようだ。氷を載せるために動物面を外しているので顔がよく見える。まだ頬が仄かに赤い。タオルを巻いた氷を少しずらし、獏は部屋に入って来た二人を無言で見上げた。

「蒲牢、怪我の具合はどうだ?」

 机に盆を置き、蒲牢の前に珈琲を置く。

「内臓には届いてないから平気だ」

「平気と言うほど軽傷でもなかった気がするが」

「それより白い奴はどうなった?」

「獏の善行のようなことをした気分だよ。元いた家に送り届けて、受け入れてもらえたから住むそうだ。まだ理解していないことは多いが、悪い子ではなさそうだよ」

「……そう。怖がらせたのかな。腹のことは不問にする。内臓が出てないし」

「出たら獣と言えど死ぬだろ。あまり油断するなよ」

 カップを傾け、蒲牢は安心したように珈琲を飲んだ。

 贔屓と蜃が戻るまで獏は蒲牢に白実柘榴のことを聞いていたが、あんな怪我を負わされても遣り返さないとは不思議な奴だ。蒲牢の歳なら獣でも立派な大人と言える。これが大人の対応という奴なのかもしれない。

「獏にも心配されたから気を付ける。獏も熱があるのに起き上がって来るから」

「……蒲牢が遣られるなんて、想像できなかったから」

 タオルで顔を覆い、獏は目を逸らしてしまう。どんな強い獣が現れたのかと肝を冷やすのは当然だ。まさか変転人に遣られたとは思わない。会って間も無い頃の白花苧環と言い白は躊躇が無いようだ。

「これ、獏が止血してくれたんだ。熱があるから苦戦してたけど、こんなこともできるなんて凄いよな」

「褒めても何も出ないよ」

「照れてる」

「照れてない。わざわざ言うことじゃない」

 頬を膨らす表情が豊かな獏を少し羨ましいと思いつつ、蒲牢は無表情で珈琲を飲む。

「獏の分のココアもあるから、起き上がれそうなら飲んでくれ」

 自分の珈琲を手に取り、贔屓もソファに座る。穏やかに何も起こらず過ごしていたのに最近は怪我人も多く、場所を移すことも考えた方が良いかもしれない。居心地の良い喫茶店だったのだが、目を着けられては店主にも迷惑だ。

「……熱が下がったら今度こそ出て行く。鵺は目が覚めるまで見ててもらっていい?」

「構わないが……獏は発熱し易いようだから、宵街で解熱薬を貰えればいいんだがな」

「宵街か……」

「ああ。獣に効く解熱薬がある。人間の薬は獣には効き難いからな」

「……そっか」

 本来は便利なはずの宵街が、閉じられていると他の者達にも不便を被りそうだ。

「新しい変転人は宵街が閉じられてると放置されちゃうのかな……」

「白い柘榴は生後三日だと言ってたぞ」

 蜃は机からカップを掴み、匂いを嗅いでココアだと認め安心して飲んだ。

「三日? 三日前ってもう宵街は閉じてなかった?」

「蒲牢みたいに力の薄い所を見つけたんじゃないか?」

「そんな簡単に見つかるものなの? ……まあいいや。行けるなら好都合だよね」

「椒図に会いに行くのか!? 俺も行く!」

「先に薬でもいいかな……何が起こるかわからないし……」

「それはいいが……。発熱ダダ漏れ馬鹿力は大変だな」

「…………」

 もう何も言うまいと獏もゆっくりと起き上がりココアのカップを手に取った。灰色海月が体を支えようと椅子を立つが、手で制する。暫く横になっていて熱も落ち着いてきた。

「スミレさんに店を任せきりだし、そろそろ街にも一度戻らないとね。子猫も気になるし」

「子猫……?」

「うん。拾ったんだ。椒図も気に掛けてたみたいだから、元気にしてあげないと」

「……俺も見る」

 本当に椒図に関することは何でも喰い付いてくる。元々蜃も猫は好きなようだが。悪夢に取り憑かれていた黒猫も蜃によく懐いていた。もしかしたら蜃が黒猫を可愛がっていたことを何処かで覚えていて、化生した椒図は子猫に興味を示したのかもしれない。

 贔屓に会いすぐに戻るつもりだったが、随分と時間が経ってしまった。烙印の解除がこんなに厄介なものだとは思わなかった。面倒な獣も彷徨いていることだ、そろそろ離脱した方が良いだろう。


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