77-落とし穴
好きな食べ物がある日突然食べられなくなったとしたらどうだろう。獏にとって悪夢が食べられないことは死活問題で、餌を眼前に吊られるも届かない小動物の気分だった。
喫茶店の小さな休憩室で膝を抱えながら、贔屓が買ってきた肉まんを頬張りつつ落ち込む。動物面は外したままなので、しゅんと落ち込むわかりやすい表情を見て皆も同情した。
食べ物に興味津々の蒲牢と蜃がいるため贔屓は結局全員分の肉まんを買うことになり、順に皆に配った。
「……この海月の笠のような物は何ですか?」
「肉まんだよ。中に肉が入っている饅頭だ」
どうやら灰色海月は肉まんを食べたことがないらしい。贔屓は手渡しながら説明をした。
大きくて白くて丸くて熱い。初めて見る食べ物を灰色海月は暫く見詰めた。
「肉ですか? バク科バク属のマレーバクがそんな物を食べて大丈夫なんですか?」
「んっ……僕は雑食だから。そもそも鉄屑を食べる動物はいないよ……」
肉まんを口に入れたまま獏は噎せそうになった。マレーバクは草食動物だが、獏はそうではない。
「好みを聞いた方が良かったな」
「大体の物は食べられるはずだからいいよ、気を遣わなくても。これも美味しい」
苦笑しながら会話を聞いていた贔屓にまで揶揄われてしまった。無言で肉まんを置いて立ち上がり休憩室を出る灰色海月を目で追いつつ獏はもう一口肉まんを齧る。少しだけ目を合わせたので、小さく頷いておく。
口直しを頬張り、獏の体調も大分良くなった。熱もすぐに下がるが、暫くは熱が出やすい状態が続きそうだ。早く体を慣らさねば、悪夢にも舐められてしまう。
「……贔屓、コンビニにはこういう食べ物がたくさんあるのか? 外から遠目に見たことはあるけど、何が売ってあるのか知らなかった」
「食べ物に限らず色々売っているから便利だよ。夜遅くでも開いているし、夜中なら人間も少なく蒲牢も入りやすいんじゃないか?」
「そうだったのか……夜は寝てるから知らなかった」
人間に扮している贔屓はどれだけ人間がいようと気にしないが、銀髪銀眼の蒲牢は目立つため人間の街では動きにくい。染髪の流行りなどない昔よりは動けるようになったが。
獏は肉まんをもくもくと食べ、当然のように行っているがよく考えれば不自然な現象について贔屓に尋ねた。
「……ねえ贔屓。君が髪と目の色を一瞬で変えることができるのって変身なの?」
「変身?」
贔屓はきょとんとした後、ふっと笑い出した。贔屓にとってはあまりに日常的なことで、疑問に思われるとは想像したこともなかった。
「そうか……確かに不思議か? これは殻を被っているだけだ」
目の前で髪を鉛色に、目を赤褐色に変化させる。杖は何処にも見当たらないのにだ。
「僕の力の一つは、殻を作ること。この場所が獣に見つからないようにしている仕掛けも殻によるものだ。常に発動しているから、杖も常に出しっぱなしだ」
「え? でも杖なんて何処にも……」
贔屓は襟の中に指を入れ、紐を手繰り寄せた。先に小さな細長い棒がぶら下がっている。
「蒲牢の耳飾りの杖と似た物だと思ってくれればいい。この大きさだとあまり大掛かりなことはできないが」
蒲牢は三本の杖を使い分ける。贔屓の杖も一本ではないようだ。獏は元々杖を持っていなかったので杖を使用する獣の事情は知らないが、何本も持つことは珍しいことではないのかもしれない。
贔屓は自分の力の一つを『殻』と言った。殻は中身を閉じる物であり、椒図の力と似ていると感じたことも間違いではないのだと納得した。
「変身みたいなことなら、俺もできる」
ぺろりと肉まんを平らげた蜃も便乗して得意気に胸を張った。
「ああ、蜃気楼で?」
「本体と側をぴったり合わせないといけないから難しいが、この場の全員を丸坊主にしてやることもできる」
「へぇ、やめてよ」
「どうにか体を男にできないか試したことがあるんだ。静止状態なら何とかできたんだが、動くと駄目だった。動きに合わせるのが難し過ぎる。だから止まってくれてれば丸坊主にできる」
「やるなら君の頭だけにしてね」
大真面目な蜃と淡々と拒否する獏の会話を贔屓は笑いを堪えながら聞き、蒲牢は不安になって自分の髪に触れた。生えていて良かった。
獏が最後の一口を放り込む頃に休憩室のドアが開いた。ゆっくりと肉まんを食べてからでも良いのに、少し齧っただけで手紙を拾いに行っていた灰色海月だ。肉まんは熱くてすぐには食べられなかったらしい。
蒲牢の悪夢が食べられない以上、他の方法で食事をしなければならない。悪夢と同等の食事ができる機会と言えば願い事を叶える善行しかない。
「肉まんは美味しいけど、甘い物が欲しいなぁ」
「好みがわからなかったから、チョコレート菓子とスナック菓子なら買ってあるが」
「気が利き過ぎる」
小箱に入ったチョコレート菓子を手渡され、早速開けてみる。小さな球状のチョコレートがころころと出て来た。一粒食べてみると、どうやらチョコレートの中にピーナッツが入っているようだ。
蒲牢も便乗して贔屓の袖を引き、表情には出ないがスナック菓子を貰って上機嫌になった。
「蒲牢は本当に食べるようになったな……以前は寧ろ少食なくらいじゃなかったか?」
「……暇潰しがこうなった」
「すまない……」
「いいよ。人間の食べ物は面白くて美味しい。この何かよくわからないスナック菓子とかいう物も」
決別の後は宵街を去って皆別々の場所へ行き、途端に何もすることがなく蒲牢は途方に暮れることになった。その持て余した時間の中で人間の食べる物に興味を示したのは、化生前の記憶も手伝ってのことだ。母龍から逃げ出し人間の町へ行き食べたことのない物を食べる。叶わなかった夢と言っても良い。饕餮は記憶を継いでいないが、喰い意地の張った所はもしかしたら化生前のその最後の望みも原因の一つなのかもしれない。
獏は灰色海月から手紙を受け取り、小箱を振って彼女の手にもチョコレート菓子を幾つか転がせる。
「肉まんもチョコレートもちゃんと味がするし、悪夢の味だけ変になっちゃったのかな……」
溜息を吐きながら手紙を見下ろす。細長い茶封筒だ。この封筒だと願い事はおそらく恋愛関係ではない。恋愛関係の願い事は可愛らしい絵が描かれた封筒に入っていることが多い。
「今日は一通だけ?」
手紙が投函される頻度は斑がある。少なくても不思議ではない。茶封筒を開けてみると、探し物を見つけてほしいと言う願い事が書かれていた。
「これしかないし、この願い事を受けるよ」
「わかりました。ここに連れて来ていいですか?」
「……それは駄目かな」
ここに隠れている贔屓には迷惑な話だろう。だが彼をちらりと見ると、予想に反して首を縦に振った。
「構わないよ。道がわからないよう殻を被せておく。狴犴が科した善行とやらは僕も気になるからな。一度見てみたい」
「じゃあクラゲさん、贔屓のお許しも出たし、連れて来てくれるかな?」
「わかりました」
灰色の頭を下げ、灰色海月はもう一度休憩室を出ていく。
「人数が多いと差出人が畏縮するかもしれないから、少し隠れててくれる?」
「ああ、そうだな。鵺のソファを少し離してカーテンでも引こうか」
「カーテンも出せるの?」
「いや、そこは蜃に任せよう」
コンビニのビニル袋からもう一つスナック菓子を取り出し、蜃の前へ差し出した。蜃はすぐに受け取り親指を立てる。蜃本人は気付いていないが、すっかり餌付けされている。
部屋の奥へ下がるためにまずはソファを移動させる。獏は物を少し軽くすることができるが、その補助なく贔屓は涼しい顔で二人掛けのソファを持ち上げるので獏と蜃は驚いてしまった。案外軽いのかもしれないと蜃もソファを持ち上げようとしたが、少し引き摺っただけだった。中身は男でも小柄な少女の体では男性ほど力が出ないのだろう。贔屓は肘掛けに蜃が引っ掛かったままでも軽々と持ち上げた。贔屓は単純に力持ち過ぎる。
「贔屓の力を見ると大体の人は怖がる。単純にしてわかりやすい、抗えない圧倒的な力の差。獏はよく顔に出るな。怯えなくても贔屓は優しいよ」
「…………」
彼が力持ちだと知っている蒲牢は手伝うことはせず、部屋の端で大人しくスナック菓子を抱え観察している。獏はそんなに顔に出ているのかと自分の頬を軽く抓った。確かに肩に鉛を載せられたように座らされたあの時から、言い知れぬ恐怖は感じていた。
蜃がカーテンを出力すると部屋は狭くなったが、ソファと獏以外の獣達の姿は上手く隠せた。
贔屓はカーテンの向こうに残したソファに腰を下ろす獏に気になっていたことを尋ねる。
「どんな願い事なのか先に手紙で確認するのか?」
「うん。人間に願い事の手紙を投函してもらって、それを確認してクラゲさんに差出人を連れて来てもらうよ」
「狴犴が選ぶわけではないんだな」
「僕がどんな願い事を叶えてるか、狴犴は知らないと思うよ。願い事に関係無く人間に危害を加えるとお仕置きされるけど」
「願い事に関係無く、か……。今回はどんな願い事なんだ?」
つまり人間側が望めば、危害を加えても構わないと言うわけだ。なかなか獣らしい放任振りだ。
「今回は探し物だね。普段よくあるのは恋愛関係とか仕事とかだけど」
「恋愛相談もするのか? 凄いな。僕は経験が無くて助言なんてできないな」
「僕も無いよ」
「無いのに恋愛相談を……?」
「うん。僕は代価を貰えればいいだけだし」
何という風もなく微笑みながら、獏は黒い動物面を被り直した。本当に差出人の願い事は叶っているのだろうかと贔屓は苦笑する。
「願い事を叶えられなくてもお仕置きはされないよ。だから大丈夫」
「そこは寛容なんだな」
休憩室のドアが開くと贔屓は口を閉じ、遮ったカーテンの向こうへ耳を欹てた。
灰色海月に連れられ入ってきた依頼者は若い男で、きちりと皺一つ無いスーツを着用していた。一見すると真面目そうな雰囲気だ。部屋に入るや御丁寧に一礼する。まるで面接でも始めるかのようだった。
「お前が獏か?」
「そうだよ」
ソファに腰掛ける妖しい動物面を蔑むように見下ろす。外見は真面目そうだが、中身は高圧的なようだ。
「本当に願い事を叶えられるのか? 胡散臭い占い師のように見えるんだが」
「酷い言われようだね。信じて手紙を出したんじゃないの? 胡散臭い噂を聞いて」
男はじろじろと部屋の中を見渡し、奥の大きなカーテンに眉を顰める。
「噂と少し違う気がするんだが。誰もいない街に連れて行かれると聞いていたが、周辺の住宅には人が住んでいた」
「ああ……そっか。それは確かに。今はちょっとね、出張中と言うか」
「出張……僕と同じか」
警戒は解かずに、男はソファに座った。椅子や机はあの街にある物より高価だ。簡素な硬い椅子ではないことだけは喜んでほしい。
「信じる信じないは勝手だけど、折角来てもらったし話は聞くよ」
灰色海月はティーポットで紅茶を淹れ、二人の前へ置く。男は関心が無いようでカップに見向きもしない。
「……では話すとしよう」
飲む気配のない男の前で手本を見せるように獏は紅茶を一口飲み、先を促す。
「タイムカプセルを見つけてほしい」
「タイムカプセル……?」
静聴しようと思った矢先、聞き慣れない言葉が飛び出し獏は首を傾いだ。
「何だ知らないのか。タイムカプセルとは、多くが子供の頃に未来への自分に向けて手紙や思い入れのある物などを箱に入れて埋めて、何年後か、大人になった時にでも掘り起こして箱を開け懐かしむ……そういう物だ」
「初めて聞いたよ。でも何で埋めるの? 家に置いておけばいいのに」
「ただ家に置いておくだけでは、ふと開けてしまうこともあるだろう。それに箱を埋め、それをまた掘り起こす方がイベント性がある」
「へぇ……そうなんだ」
人間の行動はよくわからないと思いながら、適当に相槌を打っておく。この場にいる依頼者の男以外の心中は皆同じだった。
「そのタイムカプセルを埋めた場所がわからないから、見つけてほしいってお願い?」
「そうだ」
埋めなければ良いのに。男以外の全員がそう思った。
「僕も最近まで忘れてたんだが、出張で近くまで来てふと思い出したんだ。友達と一緒に埋めたあれはどうなったかと」
「その友達は場所を覚えてないの?」
「連絡手段がない」
「縁が切れてるんだね……」
紅茶を飲み、獏は考える。何年も前に埋めた物を見つけるのは想像より難しそうだ。最近埋めた物なら土を掘った跡がすぐにわかるが、何年も経っていればそれは期待できない。生き物を探せと言われる方がまだ楽だ。無機物の箱では気配を辿れない。
「大凡の場所はわかるんでしょ? 近くまで来た、って言うんだから」
「小学校の裏にある雑木林の中だ。近々整備して公園にする計画があると小耳に挟んだ」
「成程ね。業者に掘り起こされる前に回収したいわけか」
「見つけられるか?」
「まずは現場を見てからかな。見つけられるよう努力するよ。代価は成功報酬だから、もし見つからなかったら貰わないけど……頑張るよ」
「代価のことは知っている。心を差し出すんだろう?」
「うん。そんな大袈裟に考えなくてもいいからね。君の心の柔らかい所をほんの少しだけだから」
獏は微笑み、鼻で笑う男に紅茶を勧める。
「では早速行こう」
カップに見向きもせずに立ち上がるので、獏はとんと机を指で叩いた。気が急く気持ちはわかるが、飲んでもらわなければ刻印ができない。これは善行における儀式のようなものだ。逃がすわけにはいかない。
「随分急ぐね。外はもう真っ暗だと思うけど」
「出張で来ただけだと言っただろ。日中は仕事だ。夜しか手が空かない」
「それは御苦労様……。でも紅茶でも飲んで一服するのも、仕事の効率を上げる良い方法だよ」
「こんな胡散臭い場所で怪しい物など飲めるか」
尤もな意見だ。なかなか飲もうとしない依頼者はこれまでもいたが、この男は特に頑固そうだ。
「君……こんな所まで獏に縋りに来るのに、冷静だね?」
ぴし、と空気が凍り付く。巫山戯た動物面で顔は隠れているのに、その奥にある双眸が透けて見えるようだった。まるで金縛りにでも遭ったように男の体が硬直した。高圧的な態度を取る男にも威圧感は有効のようだ。
男は獏から目を逸らすように自分のカップに視線を落とした。
「別に一服盛ってなんてないし、そんなに警戒しなくても君達人間がよく飲む紅茶と同じだよ。ね、クラゲさん?」
「こちらはダージリンティーです」
「だってさ」
「砂糖やミルクなど必要なら用意しますが」
「いや、いい……」
根負けしたのか威圧感に耐えられなくなったのか、男は渋々紅茶を飲んだ。本当によくある紅茶の味だった。紅茶はあまり飲まないが、悪くない味だった。
「一服できた? それじゃあ行こうか」
にこやかに外に出るよう促し、灰色海月は男を連れて部屋を出る。獏は振り返り、カーテンの端から顔を覗かせた。
「贔屓も付いて来るの?」
「ああ。最後まで見たい。大丈夫だ、邪魔にならないよう隠れている」
「わかった。何か今までにないタイプなんだよね……浮かれた感じがないと言うか」
あまり待たせるのは悪い。獏も急ぎ灰色海月を追って店を出、贔屓も気配を消して付いて行く。蒲牢は蜃と共に大人しく菓子を抱えて店で待つことにした。
外に出ると灰色海月は灰色の傘をくるりと回し、景色は一変する。
街灯はあるが人のいない夜の学校は不気味だ。日中は明るい大きな窓の列が今は真っ黒だからだろうか。その校舎の裏には男が言ったように雑木林があった。思ったよりも広そうだ。雑木林の中には明かりは無く、生い茂る葉で月明かりもあまり届いていない。これは難航しそうだ。
「この雑木林のどの辺りに埋めたか、どの程度当たりが付いてるの?」
「端の方ではないことだけは確かだ」
「ほぼわからないってことだね……」
「僕も一応その辺を探す」
男はごそごそと懐中電灯を取り出し、地面を照らして歩き出した。一応手伝ってくれるらしい。
「クラゲさん、常夜燈を出してくれる?」
「はい」
傘を掌に仕舞い、筒状の常夜燈を取り出す。軽く振ると周囲が明るくなるが、懐中電灯ほどではない。獏も灰色海月を連れて歩き出し、地面を注意深く観察する。
「……何か引っ掛かるんだよね」
「落ち葉ですか?」
「足元じゃなくて。あの男、何か変だよ」
「そうですか?」
「出張に来てふと思い出したなんて言ってたけど、わざわざ懐中電灯を買ったのかな……」
男が歩いて行った方向を見ると、ちらちらと懐中電灯の光が見える。今は烙印の解除で力が不安定になっているため指の輪で覗くことも躊躇われたが、不可解な点を解消するには見るしかない。意を決して親指と人差し指で輪を作り男を覗く。
「……?」
男の中はまるでこの雑木林のように暗く、感情が薄かった。
「何かわかりましたか?」
「嘘は吐いてないみたい……だけど、落ち葉の数を数えてる……?」
「?」
「タイムカプセルを探してるのに、そのことを考えないなんて変だよね。でも嘘は吐いてない……」
「落ち葉が好きなんでしょうか」
「さあ……」
嘘を吐いていないならタイムカプセルは何処かに埋まっているはずだ。まだあまり散っていない少ない落ち葉を踏みながら目を動かす。
手当たり次第掘ってみようかと考え始めた時、視界に自棄に人工的な物が飛び込んできた。
「クラゲさん、あの辺りを照らしてみてくれる?」
獏が指差す方へ常夜燈を翳すと、木の根元に小さく白いバツ印が書き込まれていた。
「目印を付けてたのに忘れたのでしょうか?」
蹲んでバツ印を確認する獏に常夜燈を近付ける。
「……これはそんなに古い物じゃないね。チョークか……その辺に落ちてる石かな? 風雨に晒されて何年も残る物じゃないよ」
「そうなんですか……」
「この件とは全く関係無い人が書いた可能性もあるけど。学校の裏だし、子供の落書きかも。でも関係無いって言い切れないから、掘ってみるね。少し下がってて」
灰色海月は獏の手に制されながら下がる。想像以上に下がらされ、不安になった。
「もしここにタイムカプセルが埋まってるとしたら、御丁寧に印を付けてくれた理由は一つ。僕に見つけてほしい、ってことだね」
「願い事なのに……ですか?」
「嘘を吐いてないなら、埋めた場所もわからないはずなんだけどね……」
手を翳し、慎重に土を掬って持ち上げる。近くに下ろすつもりが幹に叩き付けてしまったが、廃工場の時より制御できている。何とか力の感覚を取り戻しつつあるようだ。
だが暫く掘っても何も出て来なかった。
「あれ……? やっぱり只の落書きなのかな……」
首を捻っていると、近くの木の根元にも同じようにバツ印が書かれていることに気付いた。
「クラゲさん、常夜燈を貸して。ここから動かないで少し待ってて」
「え? はい……」
暗闇で一人で待たされるのは心細いが、元は暗い海の中にいたのだ。人の姿を与えられてからもう一年経ち光に慣れてしまったが、闇は怖くない。怖くないはずだ。
木々の間から常夜燈の光がちらちらと見える御陰で不安は大きくならなかったが、周囲をぐるぐると一体何をしているのかと怪訝に見守る。
戻って来た獏は灰色海月に常夜燈を返し、疲れたように溜息を吐いた。
「バツ印が何箇所かあった。もしタイムカプセルの目印として書いた物なら、はっきりと場所はわからないけど何となくこの辺り、ってことだと思う。埋めた場所がはっきりわからないなら、嘘にはならない……。仕方無い、全部掘るよ」
バツ印が何個あるのか知らないが、気合いを入れて手を翳す。近くのバツ印から順に掘り、ある程度掘って何も無いことを確認して次のバツ印を掘る。付いて来ているなら贔屓にも少しは手伝ってほしかったが、何処に隠れているのか気配は無い。喫茶店も見つけられなかったのだから、見つからなくて当然だろう。
何個目かのバツ印で漸く当たりを引き、手応えを感じた。思ったよりも穴が深い。
土と共に何か白い物を飛ばしてしまい、手を止める。
灰色海月を背後に遣り穴を覗き込むと、背中越しに彼女が息を呑んだのがわかった。獏も顔を顰め、蹲んで確認する。
穴の中にあったのは、土に塗れ汚れた子供の服と靴、そして骨だった。
「子供の頭蓋骨だね……」
その下に菓子の缶があることに気付く。
「成程ね……確かに嘘は吐いてない……」
服と骨を退け、菓子缶を拾い上げる。傾けると中の物が滑り、かしゃんと音がした。
「これがタイムカプセル……だよね。これを渡せば――」
「おい、そこで何をしている!?」
背後から眩しい光を当てられ振り向く。光を向けられ目が眩むが、人影が見えた。契約者の男ではない。
「通報があった怪しい人物か?」
光が増え、獏は察した。
「ちっ……」
舌打ちし、灰色海月を抱き上げる。
「クラゲさん、常夜燈を仕舞って」
「は、はい」
灰色海月は混乱しながらも言われた通り常夜燈を仕舞う。獏は光から逃げるように跳び退き、闇の中へ紛れた。
「待て!」
懐中電灯を振りながら人影が追って来るが、只の人間が獣の速さに勝てるはずがない。背後から幾つか、掘った穴に足を取られた叫び声も聞こえる。人影はすぐに獏の姿を見失うが、穴の中の骨に気付き騒ぎになった。
人影を撒いた獏は雑木林をぐるりと迂回し、近くの校舎の壁を跳び上がる。暗い学校の屋上に降り立ち、灰色海月を下ろした。持って来た菓子缶も置き、訝しげに蹲んで腕を組む。
「何が入ってるんだろ……」
灰色海月も雑木林の方へ一度目を遣ってから獏の傍らに蹲み、こくりと唾を呑んだ。
菓子缶の蓋に手を掛けると影が落ち、びくりと見上げる。贔屓と目が合い、驚かせてしまったと彼は苦笑した。
「嵌められたのか?」
「……うん」
素直に認めながら蓋を開く。仮に嵌められるとわかっていたとしても、引くことはなかっただろう。こちらは食事が懸かっているのだ。
蓋を開けると中には、黒い物がこびり付き錆びたナイフと壊れた古い携帯端末が入っていた。
「どう見ても凶器……」
「こんな物でも懐かしいのか?」
「さあね……。雑木林が整備されるなら掘り起こされて騒ぎになるし、その前に掘り起こして犯人役を僕に擦り付ける。名前も住所も言えない怪しい僕なら、怪しい行動をしてたら疑われて当然、ってことでしょ」
「計画的だな。この後はどうするんだ?」
獏は菓子缶を閉め、立ち上がって腰に手を当てた。嵌められてそのままにしておくわけがない。
「当然、代価は貰うよ。出張なら帰る場所はホテルかな? ホテルに着いて安心した所を襲う。僕を嵌めた報いはきっちり受けてもらうから」
「頼もしいな。いつもこんなことをしているのか?」
どうやら心配はなさそうだと笑いながら尋ねる贔屓に獏は顔が引き攣りそうになる。
「いつもじゃないよ……いつも嵌められてたら嫌だ」
「しかし本来の使い方ではなく、願い事を利用する輩の耳に獏の善行のことが伝わっているのは問題だな」
「変な人は最初からいたけどね」
「気になっていたんだが、獏は杖を使わないのかい?」
「…………」
贔屓が知る限り烙印があれば獣は杖を使えないが、今は烙印が半解除されている。全ての力を使えるわけではないが、杖を使用することは可能だ。
「穴を掘る時に杖を持っていなかっただろ? 僕のように小さな杖を隠しているのかと思ったが、罪人がそんな物を隠していれば取り上げられる。自由に行動できる間に入手したのか?」
「…………」
「……ああ、思考の邪魔はしない。黙っていよう」
獏は立ち上がる贔屓を横目で見る。これから契約者の男をどうしようかと思考しているわけではない。
「杖は……少し複雑かもね」
あまり他人に言うことではないが、烙印を半解除してくれた贔屓なら、罪人だからとすぐに狴犴に密告はしないだろう。以前はあまり気にしていなかったが、今まで出会った獣の全てが力の使用に杖が必要不可欠なので、杖を使わない自分が特殊なのだと改めた方が良い。宵街を統治していた贔屓なら獣の事情にも詳しいだろう。この機会に杖について贔屓から何か聞き出すのも良いだろう。
「複雑……?」
「僕は元々、杖を使わない獣だった。事情があって後から杖を作った」
贔屓は驚き、口元に手を遣った。窺うように首を傾けながら見上げる獏を見下ろし、聞きたいことがあるらしいとすぐに推察する。
「……杖を使わない獣は知らないが、後から杖を作る獣はいる。僕や蒲牢がそうだ。僕のこの小さな杖と、蒲牢の耳飾りの杖は後から作った物だからな」
襟に指を入れ、ペンダントになっている杖を引き抜いて見せる。後から作った杖は常に外に出したままで、体内に仕舞うことができない。
「僕が作った杖は修理中だから、今は狻猊に貸してもらった代替品しかないけど」
懐からハートの形の杖を取り出して見せると、贔屓は少し言葉に詰まった。
「……可愛い杖だな」
「僕が閉じ込められてた牢では杖が使えるんだ。と言うか杖しか使えない。外に出る時は首輪を付けられて、杖を封じられた。杖は使えなくても元々杖なんて無かったから、少し力が使える。元々杖を使わないことを狴犴は知らないって僕は思ってるんだけど……でも鵺は知ってるし、壊れた杖を修理にも出してくれた。使用を容認してるってことだよね。君は今、杖を隠していれば取り上げられるって言ったよね。僕の杖は仕舞えない。君から見れば隠し持ってるってことになる。えっと……どういうこと?」
獏は今まで地下牢に収容されたことはない。故に獏の扱いが罪人の『普通』なのだと思っていた。だから疑問など抱かなかった。だが話を聞けば聞くほど不可解な点が浮き上がってくる。獏に対する扱いは明らかに『普通』ではない。
贔屓は暫し口を閉じ、獏の疑問を咀嚼した。処遇について罪人に話しても問題は無い。
「……先に少し烙印の話をしようか。烙印は獣の力を封じる物だが、より正確に言うなら、杖を封じる物だ。体内から杖を出せないようにな。杖を使用しない獣がいると狴犴が考えなかったことは仕方が無い。そんな例は聞いたことがないからな。僕も同じだ」
「やっぱり狴犴は知らなかった? だから僕の力を封じきれなかった……?」
「タイミングの問題だな。烙印を捺した時には知っていたはずだ。だが君の力に合わせた新しい烙印はすぐに製作できる物じゃない。だが狴犴は印には得手だ。既存の烙印に少し細工を施すことはできた。だから君の力は烙印である程度は封じることができた」
事情は理解できる内容だったが、そもそも獏に捺された烙印は狴犴が使用する烙印ではなく贔屓が使用していた過去の烙印だ。
「更に複雑になった気がするよ……」
首を捻る獏に贔屓は微笑む。
「フ……そうだな。僕の推測には狴犴の考えがぽっかりと抜け落ちているからな。そこを埋めないと正解には辿り着けない。僕の意見で良ければ付け足せるが」
「参考までに聞いておくよ」
温い夜風を受け、贔屓は一度笑みを消す。獏に対する狴犴の遣り方は、贔屓が思う彼『らしくない』ものだ。
「狴犴は君にかなり甘いようだ。処遇が……悪く言えば杜撰、狴犴の視点から見れば箱庭の飼い猫か」
「飼い猫……?」
「罪人と言うより、飼われていると感じた。……先に僕と狴犴の罪人の扱いの違いを話しておいた方がいいな。時間はあるか?」
「あの男はまだ移動を続けてる。まあそんなに近くには泊まってないと思ってたけど。時間はあるよ」
契約者の男がどれほど必死に逃げようと、契約の刻印は彼の居場所を伝える。刻印の紅茶を飲んだ時点で彼はもう袋の鼠だ。
思ったよりも長い話になってしまったが、処遇について何も聞かなかった獏には良い機会だ。何故『普通』ではない特別扱いをされているのか、はっきりさせたい。
「まず僕は、全ての罪人に対して刑期を与えていた。これは軽罪と重罪を同じ扱いにしないための措置だ。今となっては温いだの優しいだの言われているが、僕はそうは思っていない。どんな重罪も刑期を終えれば釈放したが、それを狴犴は気に入らなかったようだ」
獏は黙って先を促す。贔屓の頃は刑期が存在した。それは木霊や蒲牢から聞いている。
「僕も狴犴も、地下牢では罪人の力を封じた。程度は異なるがこれは同じだ。だが僕が軽罪人も捕らえていたことに対し、狴犴は多少の軽罪は無視している。基準はあるんだろうが、狴犴が捕らえているのは重罪人だけだ」
「え……厳しいって言われてるのに、軽罪はお咎め無しなの?」
「軽罪か重罪かなんて、犯した者には判断が難しいだろう。統治者の匙加減と言えるからな。僕が地下牢に放り込んだ軽罪の例は、殺生はしていないが意味も無く人間の家を破壊したことなどだ。獣には軽い悪戯でも、人間に野宿は厳しい」
確かに狴犴はそれを罰していない。だからと言って幾らでも破壊して良いと言うわけではないだろうが、狴犴は殺生を一つの基準にしているのかもしれない。
「とにかく狴犴は彼の思う重罪人だけを捕らえ、二度と外には出さない」
「…………」
「でも君は善行などと言い、外に出ることを許されている。首輪はあるようだが、まるでペットの散歩だ。地下牢へ放り込むと、二度と出られないことに絶望し自死を選ぶ獣も少なくないと聞いている。狴犴は君を捕らえるが絶命はさせたくない――しかし手元には置きたいんだろう。それが烙印の束縛を緩めることになった。そうまでして、善行により得たものは何だ?」
贔屓は月明かりに照らされる動物面に感情の籠もらない目を細める。
問われた獏は黙り込み、善行で得られたものを考える。悪夢を食べることを禁じられ、その代替案としての役割があるのだと思っていた。捕まる前は悪夢を食べるだけで事足りていたため、わざわざ心を食べる必要はない。悪夢が見つからない時には少々食べていたが。善行を科されてから心の食べ方は上達した。悪夢の代わりの食事――これが一番大きな『得られたもの』だろう。……だが。
「…………名前……」
噂により広まった名前。それはまるで見世物小屋にいた時のように人々に広がった。
贔屓は頷く。
「獣の名は力となる。狴犴は僕と対立してから変わったと思う。力に固執すると言うか……。君の強さを見たかったんじゃないか、狴犴は」
「何それ……」
「只の獏ではないことは、少し話を聞けば誰でもわかるだろ? 更に名を広めて、力の変化を見る……そう考えたのかもしれない」
頭の中が真っ白になるようだった。力が増し只の獏ではなくなったのは人間の所為だ。人間の所為で自分は今こんな目に遭っているのかと獏は酷く混乱した。
「ばっ……馬鹿にしないでよ! 冗談じゃない! 飼われるなんて……!」
声が震えていた。これでは見世物小屋にいた時と同じではないか。
「それは僕の言い方が悪かった。謝るよ」
「…………」
配慮に欠けていたと贔屓は素直に非を認めるが、獏がここまで感情的に嫌悪するとは思わなかった。贔屓は獏が見世物小屋にいたことを知らない。苦々しく奥歯を噛む獏には罪人である以上に何か触れてはならないものがあるようだと反省をする。
「……男の動きが止まった。ホテルに着いたみたいだ。クラゲさん、行くよ」
獏は静かに凶器の入った菓子缶を拾い、呆然としていた灰色海月に目を遣る。彼女は慌てて灰色の傘を開き、くるりと回した。
「しまった、タイミングが……八つ当たりしなければいいが……」
贔屓も急いで杖を召喚し、獏を追った。通常は他者の転送を追うことはできないのだが、今は追えるよう先に紐付けてある。見えない糸を辿ると追うことができる。饕餮が窮奇の傷痕を追ったと言うのもこういう絡繰だ。彼女の場合は糸と言うより馴染みの深い気配を追ったと言った方が正しいだろう。
一瞬の内に何の変哲も無いビジネスホテルの屋上に降り立ち、菓子缶を脇に抱えた獏は下界を見下ろした。すっかり夜だが人間の街はまだまだ光が眩しく明るい。
「……廊下はカメラがあるかもしれないね。直接部屋の中へ転送は難しいかな」
獏は感情を押し殺し、冷静さを努める。善行中に平静を失い失態を演ずることは避けたい。
「狭いので難しいです」
「仕方無いね。非常口からカメラを誤魔化して行こう」
灰色海月の手を取り、非常階段へ降り立つ。ドアを少し開けて隙間から様子を窺うと、やはり監視カメラが設置されていた。手を翳し軽く弄り、堂々とドアを開ける。
手を引きながら目的の部屋まで行き、立ち止まってドアに向かって親指と人差し指で輪を作る。もう落ち葉を数えるのは止めたようだ。あれは獏を欺くためではなく、自分の気持ちを落ち着かせるためだったのだろう。
無事にホテルに戻り、安心しきってシャワーを浴びるつもりだ。良い御身分だと冷笑し手を翳して触れずに鍵を開ける。
灰色海月を後ろに下がらせ、ベッドの前で上着を脱ぐ油断した男の背中に約束のタイムカプセルを突き当てた。
「!」
男はぎょっとして振り返り、獏の姿を捉え縺れそうな足で後退った。
「なっ……何故ここに……」
「君が見つけてほしいタイムカプセルはこれだよね?」
微笑みを貼り付けながら菓子缶の蓋を開く。中身を見て男は見る見る内に青褪めた。
汚れた菓子缶をベッドに置き、獏は男に一歩近付く。
「ほら中身をよく見て確認して。これは君の願い事なんだから。君が埋めた思い出の物だよ。懐かしいよね? それと――」
手にもう一つ、雑木林から持ち出した物をよく見えるように差し出し笑みを消した。
「缶と一緒に埋めた君の友達だよ」
「ひっ……!」
おそらく指の一部だろう小さな白い骨を一本、菓子缶の蓋へ置く。
「動機や経緯はどうでもいい。僕が欲しいのは、成功報酬の代価だけ。願い事は叶ったよね?」
また一歩近付くと、男の背は壁にぶつかった。杖も傘も無い人間の逃げ場は無い。男は仕方無く頷き、反論はしなかった。この状態で逆らっても良い結果にはならない。無駄に足掻くことはしない。賢明な判断だ。
「僕に罪を押し付けて、逃げられると思ったの?」
手を伸ばすと男は壁に背を擦りながら避けようとする。部屋の出入口には灰色海月を立たせているが、そこまで逃げさせはしない。他の宿泊客の迷惑にならないよう静かに床を蹴り、逃げようとする男の首を掴んだ。そして足を払い、静かに備え付けの机に押し付ける。
「っ……!」
喉を押さえられ声を出せない男のネクタイを解き、双眸に被せる。足は踠いているが、脚を絡めて押さえ付けると大人しくなった。
黒い動物面を外し、金色の双眸で不快に見下ろす。耳元に口を寄せ、囁くように言った。
「君に冷静さは必要無い。暴かれ追い詰められ戦き苦しめ。僕を嵌めようと思ったのが運の尽きだよ、愚かな人間」
震える口に口付け、冷静さと安堵と気休めになる全ての諸々を引き摺り出す。獣を嵌めようと画策する図太い精神力で掴んでなかなか離さなかったが、腸を引き摺り出すように心を引き千切った。
「……こんなもの食べたって別に然程美味しいわけでもないんだけど」
苛立ちを抑えながら面を被り手を離すと、男は惚けてずるりと床に座り込んだ。
「聞こえてるかわからないけど、警察を呼んでおくね。雑木林に君が呼んだ人達が犯人を逃したら可哀想だもんね。人間は人間に裁かせる方が平和的だよね。ほら、僕だと殺してしまうから」
くすくすと嗤い、とんと獏は下がって灰色海月の手を取る。宵街の元統治者が見ている前で感情に任せて殺しはしない。廊下に出る間も男は惚けたまま動くことはなかった。廊下も狭いが何とか傘を回し、獏と灰色海月は離脱する。
離脱する直前に獏が虚空に向けて殺意を籠めて電話を掛けるような仕草をするので、通報を任せると言いたいらしいと贔屓は苦笑しながら引き受けた。上手く一般人を装い、惚ける男に慈悲の無い罰が下るよう言い繕っておくことにする。この程度なら罪人の善行を手伝っても良いだろう。




