76-みつけた
この日の喫茶店は後に二人ほど客が来たが、然程長居はなく少し店主と話して帰って行った。近所に住む店主の知人のようだ。
狭い店内だが贔屓はいつも隅に、蜃は休憩室とカウンター席の往復だけだ。眠くなりそうな柔らかな橙色の光に包まれ、蜃はよくうとうととする。体がまだ傷の回復を求めているのだ。
発熱した獏は休憩室で横になり、灰色海月が付いている。蒲牢も休憩室に共にいて、時折小さく歌っている。元気に動ける蒲牢に先に鴟吻が教えてくれた鵺の居場所へ確認に行ってほしかったが、久し振りに会えた贔屓とまだ離れたくないのか過去のことを考えているのか彼は動こうとしない。
獏の熱は陽が落ちる前に漸く下がり始め、微熱は残るが蹌踉めかずに歩けるようになった。
今日中に出て行くと言った蜃もフリルとリボンの付いたキャップを外し、スカートからズボンに着替えた。外套は贔屓に繕ってもらったが、中の寝間着はボロボロに破れてしまったので新しい服を貰った。黒いフードを被り、漸く蜃は落ち着く。
「似合ってたのに」
「煩い」
獏と蜃は鵺を捜しに行くため店を出るが、蒲牢はもう少し贔屓の許にいると店に残った。兄弟は皆バラバラになってしまったが、近くにいるとやはりまた化生前のように共にいたいと蒲牢は思ってしまう。
化生して間も無い頃の蒲牢は贔屓から殆ど離れなかったという言葉を思い出し、獏は思わず微笑んだ。要は寂しいのだ。
鴟吻が落とした紙切れを灰色海月に渡し、書かれている場所に転送してもらう。
灰色の傘をくるりと回して移動した場所は、陽が落ち掛かっていることもあり薄暗い場所だった。住宅街からは少し離れ、人影は無く街灯も無い。誰も足を踏み入れなくなり随分と経っているのだろう、雑草が好き放題に生い茂っていた。
「廃工場……だね」
誰もいない武骨な黒い塊が重苦しく見下ろしている。身を潜めるには打って付けだが、不気味だ。
「ここに鵺がいるのか? 結構広そうだが」
「鴟吻が言うにはここらしいけど、確かに広いね。手分けして捜した方がいいかも」
獏は夜目が利くが灰色海月はそうではない。常夜燈を取り出し辺りを照らした。手分けするのならと蜃も常夜燈を取り出す。
「付いては来たが、俺は椒図に会えればいいだけなんだが」
「椒図の力に斑があると言っても、君は閉じた宵街の力の薄い場所を見つけて抉じ開けられるの?」
「いや……」
「蒲牢は暫く贔屓の所から動きそうにないし、こっちを手伝ってよ。それとも怖い?」
「吐かせ。宵街も似たようなものだ」
「私も手分けした方がいいですか?」
二手に分かれるより三手の方が効率は良い。窺う灰色海月に獏は首を振った。
「鵺が誰かに襲われてたとして、だったらクラゲさんは一人にならない方がいい。僕に付いて来て。蜃は一人でも何とかできるよね? 腕はもう大丈夫?」
「悪夢以外ならな」
「窮奇にこっ酷く遣られたんじゃなかったっけ」
「わかってて言うな。俺はあっちの方を捜す」
「じゃあ僕はあっち」
反対側を指差し、獏と蜃は破れた柵を潜り分かれて廃工場の中へ入った。灰色海月も獏の後を追う。
色を失う空の下、明かりの無い錆びた廃工場の中は暗く足元はよく見えなかった。大きな錆びた機械に囲まれ、灰色海月はぶつかりそうになる。それに気付き、獏は彼女の手を取った。こんな所で転んではいらぬ怪我をしてしまう。
「何の工場だったんだろうね。物音はしないけど、鵺を呼んでも大丈夫かな? 隠れられてると見つけ難いし」
「呼んでみますか?」
「……余計なのが出て来たら嫌だけど、一度呼んでみようかな」
口元に手を添え、闇に向かって息を吸う。その瞬間、何かが落ちるような大きな音が響き渡った。
「!」
静寂を裂いた音は少し距離があるようだ。今いる空間の中ではなかった。
「……方向から考えると蜃かな……?」
音は一度だけで、後はまたしんと静寂が支配した。
「何かにぶつかったのかな? クラゲさんも足元に気を付けてね」
「あんな派手な音を立てるほど鈍臭くないです」
「ふふ……まだ怪我が癒えてないからね、大目に見てあげてよ」
気を取り直して鵺を呼ぼうとし、再び大きな音が響き渡り今度は眉を顰めた。
「……少し様子を見に行った方がいいかな」
灰色海月の手を引き、獏は床を蹴った。急いで来た道を引き返し、音のした方へ跳ぶ。
所々草の生える工場の中へ入り奥へ進む。錆びた機械に囲まれた通路で周囲を見渡すと、頭上から何かが降ってきた。
「!」
慌てて灰色海月を抱え床を蹴る。落ちてきたのは機械の部品のようだった。人の頭ほどある鉄の塊は、当たれば只では済まないだろう。
「蜃! 近くにいる!?」
一拍置いて、闇の中でちらりと光る物が見えた。
「……獏か? たぶん罠だ! 歩くと上から何か落ちてくる!」
「罠? もしかしたら鵺が仕掛けたのかも! そっちに行く!」
了解したと言うように闇の中で光が持ち上がった。光を頼りに蜃の許へ行き、互いに無事を確認する。
「怪我を負って戦闘を避けたいのかもしれない。でもこれだけ叫んで何も反応が無いってことは、離れた所にいるみたいだ」
「暗くて天井がよく見えなくて罠が見えないんだ。光を出して照らしてもいいんだが……御近所に心霊スポットにされるな」
「人が集まりそうなことはやめよう。音も充分問題だけど……。天井は僕も見難いけど、落ちてくるってわかってるなら、僕が落ちる途中で止めるよ」
「できるのか?」
「ふふ。烙印を半解除してもらったからね。元々物は浮かせられたし、できるよ」
得意気に工場の奥へと歩き出し、また頭上から降ってきた部品へ獏は手を翳して振った。人の頭ほどの大きさの部品は落下を止めて宙を飛び、大きな音を立てて壁に刺さった。
「ぶつかる先が床から壁に変わっただけじゃないか!」
「あれ?」
不思議そうに下ろした獏の腕を叩き、蜃は尤もなことを言った。獏は訝しげに首を捻る。
「そっと下ろしたつもりなんだけど」
「じゃあ加減ができてないんだ! このダダ漏れ馬鹿力!」
「ちゃんと遣ってるつもりなんだけど……」
「もういい。まだ熱があるんじゃないか? 対策を思い付いたから俺が遣る」
口を尖らせる獏を余所に蜃は握っていた杖を上空に振った。
「頭上に鋼鉄の網を張った。タイミング良く実体化すれば落下を止められる」
得意気な蜃に、腕を摩りながら獏は指摘する。
「罠が見えないって言ってなかった? 見えるの?」
蜃は頭を抱えた。見えなければタイミングも計れない。
「実体化させなくても透けないよね? 君の力で工場の窓と穴を塞いで、天井に光を投げればいいよ。それなら外に光が漏れない」
「……」
蜃は何も言わなかったが、素直に言われた通りに窓と穴を塞いで天井に光を投げた。明るくなった天井にはまだ幾つか部品が仕掛けられているのが見えた。その下さえ歩かなければ落ちてこないだろう。
獏が歩き出すので蜃も無言のまま付いて行った。明るくなって灰色海月も歩きやすくなった。必要の無くなった常夜燈も仕舞う。
明るくなったことで、明確に色も捉えることができた。幾ら夜目が利くと言っても色が見えるわけではない。色とは光の吸収と反射によって見えるものだ。光が無ければ全てが黒ずんでしまう。
ぐるりと見渡して赤黒い点々とした付着物を床に見つけ、屈んで見る。
「……血かな。乾いてるけど埃は被ってない。引き摺ったような跡もあるね」
「鵺か?」
「引き摺ってるから足跡はわからないなぁ……」
引き摺った跡を辿り、頭上の罠を避けながら更に奥へ歩く。壁に少し開いているドアが見えた。
「蜃がいてくれて良かったよ。歩きやすくていい」
「……」
警戒しながらドアを開けるが、罠は何も仕掛けられていなかった。喫茶店よりも狭い部屋に幾つか段ボール箱が積まれ、殆ど空の棚が並んでいる。奥にごちゃごちゃと机や段ボール箱が積まれていたが、そちらは些か不自然でバリケードのようだった。
「誰かいる? 鵺?」
呼び掛けて数秒待つと、床に這うように物陰から恐る恐る黒い頭が覗いた。
「……獏?」
馴染みのある声に獏は漸く肩の力を抜く。
「ウニさんだよね? 一人?」
「鵺も……」
頭を引っ込めるので、獏も箱を退かしながら奥へと入った。箱は殆どが空のようで軽かった。
倒れた机の脚を跨ぐと、ぐったりと床に貼り付く鵺の姿が見えた。
「鵺……!」
呼び掛けると閉じていた目を薄らと開ける。生きているようだ。
蜃は部屋を見渡し窓も穴も無いことを確認して杖を振った。外の光は消し、部屋の中を少し光量を落として照らし出す。明るくなった部屋の中で鵺の状態がはっきりと確認できた。酷い出血だった。止血はされているが床にはべたりと血を擦った跡が生々しい。
「ウニさん、何があったの? 鵺の止血はウニさんが? ウニさんは怪我はない?」
「あ……ぅ……」
矢継ぎ早に質問をされた黒色海栗は困惑するが、ゆっくりと一つずつ答えた。慌てなくても獏はそんなことで怒ったりはしないとわかっているので、落ち着いて答えることができた。
「止血は私がした……。私は脚だけだったから」
「本当に止血だけみたいだな。少しそこを退け」
獏と黒色海栗を退かし、蜃は杖を置いて小袋を取り出した。
「血染花の薬だ。輸血しないと死ぬぞ」
薬を一粒抓み、か細く息をする鵺の口に捩じ込む。嚥下する力は残っているようで、時間は掛かったが薬を何粒か呑み込んだ。
「ウニさんも脚を見せてくれるかな?」
息を呑んで見守っていた黒色海栗はすぐに黒いスカートの裾を手繰り、包帯の脚を見せた。少し血は滲んでいるが、軽傷のようだ。包帯を解き傷を確認する。完全にはまだ塞がっていなかったので、獏は手を当て改めて止血をした。
「よく頑張ったね、ウニさん。鵺も一応止血し直しておこうか」
包帯を巻き上げ、鵺を一瞥する。鵺はすぐにまた目を閉じてしまう。まだ会話はできなさそうだ。
腕や脚もだが、脇腹の負傷が特に酷い。これは回復に時間が掛かりそうだ。獏は手を翳し、傷に膜を張っていく。
「ウニさん、何があったのか話せる?」
「話せる……」
疲れたように壁に凭れ、黒色海栗はぼんやりと鵺を見た。暗い廃工場の中で不安に押し潰されそうになりながら、一人で心細くどうすべきか考えていた。獏が来てくれて漸く安堵した。
「……スミレが出掛けた後、黒い……悪夢が来た。私と鵺は隣の……苧環を置いてた家で調査してて……」
「調査?」
「苧環が攫われたから、何か情報が残されてないかって」
「そう……」
「寝てるクラゲの所に悪夢が行ったら大変だから、触れないかもしれないけど何とかしないとって、鵺が……一番酷い怪我は、私を庇ったからで……」
「あの部屋の血は鵺の血だったんだね……。どんな悪夢だった? 今まで襲って来た悪夢に似てた?」
「わからない……でも『殺せ』って言ってた」
「! 喋る悪夢……」
あの頭を垂れてきた悪夢を思い出し不快な気分になった。
黒葉菫が出掛けたのは手紙の回収のためだ。それほど時間が掛かったとは思えない。鵺と黒色海栗が襲われた直後に獏と蜃はあの街へ戻ったようだ。もしかしたら戻った時点では二人はまだ街にいたのかもしれない。
「鵺の怪我が酷いから、逃げないとと思って、鵺を抱えて下に降りようとして……でも飛び降りられなかったから、それは鵺が手伝ってくれて……それから逃げたけど、悪夢が追って来ないことに気付いて、傘を回した。クラゲは心配だったけど、逃げなきゃと思って……」
黙って話を聞く灰色海月は表情を曇らせる。自分の寝ている間にそんなことがあったとは、全く気付かなかった。何を呑気に寝ていたのだと居た堪れない。
「それで病院にも行けずここに逃げ込んだってことかな。天井の罠はウニさんが?」
黒色海栗はこくんと頷き、包帯が巻かれた脚を摩った。
「僕と入れ違いになったみたいだね。僕が街に来たから悪夢は一旦引いたのかな……。悪夢は他に何か言ってた?」
「……殺せ、殺せ、出せ、出せ、って言ってた」
「出せ……? 何か持ってたの?」
「わからない……いつもと同じ」
鵺の手当てを終え、黒色海栗の隣の壁に寄り掛かる。二人を襲った悪夢は頭を垂れた悪夢とはまた別で、端的にしか話せないのだろうか。もう少し話してくれれば、あの頭を垂れてきた悪夢の目的も推測できたかもしれないのに。
「命を差し出せ、なのかな……。『殺せ』も『出せ』も、自分に言ってるのか相手に言ってるのかわからないね……」
「考えてる所悪いが、このままここにいるのか?」
輸血したとは言え、何も無い廃工場の中で意識も朧気な鵺を放置しておけない。獏は思考を中断し、鵺の前に片膝を突く。夜は悪夢が活性化する時間だ。万一襲って来ないとも限らない。
「そうだね。安全な場所に連れて行こう。僕が抱えるよ」
小さな鵺の体を掬い上げると、彼女は顔を顰めるが疲れたように瞼を震わせるだけだった。会話より体の回復に全力を注いでいる。そうしないと危ういのだろう。
「それじゃあクラゲさん、」
灰色海月に指示を出そうとすると、工場に何度目かの大きな音が響き渡った。獏と蜃は途端に表情が険しくなる。ここに来たのは獏と蜃と灰色海月だけだ。他に罠の下を歩く者はいない。
もし人間なら落下物を避けられないだろう。一度の落下で動けなくなるはずだ。だが続けてもう一度音が鳴り、それはここに近付いていた。
「蒲牢が来てくれた――ならいいんだけど。光を消して、蜃。クラゲさんは早く傘を」
杖を振り光を消し、錆びたドアが軋みを上げながら開く。閉めると開かなくなる可能性があるため、ドアは少し開けていた。きっとそこから光が漏れていたのだろう。
「窮奇の傷痕、見ぃつけた」
そいつは蒲牢ではなかった。にまりと笑ったそいつは杖を翳し、幾本の槍を部屋の奥へ打ち付けた。
濛々と埃が舞い、収まった頃にはそこには誰もいなかった。
「逃げるな、獲物」
間髪を容れず杖をくるりと回し、そこには誰もいなくなった。
贔屓のいる喫茶店の近くにくるりと降り立った獏達は灰色海月を先頭に、視認できない道へ走った。獣に見つからないよう人間にしか視認できない道は、灰色海月にしか辿れない。黒色海栗にも見つけることは可能だが、彼女は何処へ向かっているのかまだ知らない。説明している時間は無い。
見えない道に差し掛かる手前で、背後で嫌な気配がした。地面を槍が次々と追って穿ち、蜃は実体化させた壁で防いだ。
「先に行け、獏! あいつ、窮奇の傷痕がどうのと言ってた。狙いは俺だろ」
「君だってまだ怪我が治ってない! 僕が遣る」
「発熱ダダ漏れ馬鹿力は黙ってろ」
「熱はもう下がってるよ!」
「きひひ! 逃げる相談か? 窮奇から逃げられても、我から逃げられると思うな!」
霧のように消えた壁の向こうで、二つに束ねた白髪に羊のような角が生え学帽を被った少女は不敵に笑った。
「さあ、何本刺さるかな!?」
杖をくるりと振り、無数の槍を上空へ出力する。鋒は全て獏達へ向いていた。数が多過ぎる。
「蜃、走って!」
以前螭の豪雨のような攻撃を蜃は受け止めきれなかった。この槍も雨のように降り注げば受け止められないだろう。それは獏も同じだった。獏は力があるとは言え、普段相手にするのは殆どが悪夢だ。強力な獣の攻撃とは相性が悪い。それに今は烙印を解除されたばかりで上手く扱えない。
蜃の服を掴みながら獏も光の壁を作るが、鵺を抱えたままでは上手く力を操作できない。烙印を解除しまだ間も無い所為で、光の壁は大きさと厚みが不安定になってしまう。
「いくよ――」
わざわざ御丁寧に合図までしてくれるが、抵抗する手も無く、鋒は獏達を追尾し狙いを外してくれなかった。あんな物、人間が喰らえば一溜りもない。灰色海月と黒色海栗をできるだけ遠くへ突き飛ばす。
歯を食い縛り動けない鵺を守るように背を向けたが、槍は空中で何かに阻まれたように弾かれ、勢いのまま次々と折れた。
「!」
学帽の少女は敏感に気配を察知し、杖から太い鞘に持ち替える。足を開いて柄を握り、少女には不釣り合いな太刀を素速く抜いて振るった。重い金属の音が空気を震わせる。
「饕餮……見つかって良かった」
重い刃を受け止めた間棒は少女の体を押し込み、地面を擦る。
「蒲牢……!? 何でここに……」
「先に質問に答えるのは君だ。何で宵街の変転人を殺し、食べたのか。聞かせてもらう」
「はっ……そんなこと」
感情の無い双眸を向けられ、饕餮は鼻で笑い太刀を構え直す。
「これで戦うのは久し振りね」
饕餮の双眸は徐々に赤味を帯び、姿勢を低くする。
「そう……すぐに吐いてくれないんだな」
蒲牢は饕餮が動き出す前に息を吸った。獣とは言え重い太刀を振るうには動きが鈍くなる。歌はそれよりも早く相手に届く。鼓膜を劈くような不快な歌声は一瞬だったが、饕餮の初動を止めた。蒲牢は身の丈以上の間棒を握り、地面を滑るように正面から饕餮に殴り掛かった。
動けなかったとは言え正面からの攻撃なら防げないわけがない。太刀を振り間棒を受けながら、仰け反る背中をくんと重く引かれるような感覚があった。
(蒲牢だけじゃない……!?)
後ろに倒れそうになるのを踏ん張り間棒を弾こうとするが、それは許されなかった。弾く前に間棒を引かれ、力の行き場を失い体勢を崩す。それを逃さず蒲牢は足を掛け、くるりと間棒を回し倒れる彼女の首に押し当てた。
「……っ!」
背中を打ち付けた饕餮は顔を顰め、すぐに杖に持ち替える。押さえ付ける蒲牢を槍で串刺しにしようとし、空中で弾かれ虚しく折れた。
「この感じ……贔屓か!? 何で贔屓がいるの!? 蒲牢だけなら勝てたのに!」
「贔屓が手伝わなくても俺が勝ったよ。何で変転人を食べたのか教えてくれるか? 変転人を食べてはいけないって規則を忘れたのか?」
「…………」
元の目の色に戻った饕餮は顔を逸らし、頑なに口を噤んだ。
「狴犴は知ってるようだけど、関係があるのか?」
「…………」
「睚眦の拷問の遣り方は知らないけど、俺だって拷問くらいできるよ」
「ふわふわ不思議ちゃんのお前にできるかバーカ!」
「……じゃあ歌うから、どれだけ耐えられるか見物だな」
「ひっ……! やめろあんな金切り声!」
地面に擦り付けながら必死に首を振って拒絶する饕餮の顔が、蒲牢の背中越しに覗いた者を見て陰る。蒲牢の上から覗き込んできた無感動な赤褐色の瞳に、饕餮の心身は凍り付いた。
「ご……ごめんなさい……」
間棒で饕餮を押さえたまま蒲牢は傍らに蹲んだ贔屓を一瞥した。贔屓は優しいと蒲牢は思っているが、この時の彼の顔は宵街を去った時のように冷たく、そして虚無を感じた。
「……饕餮、本当に変転人を食べたのか?」
「…………」
「饕餮が人を食べるのは知っているが、人以外も食べられるだろう? 何故変転人を食べたんだ?」
「…………」
「言えないか?」
「…………」
あまりに口を閉ざすので、違和感を覚えた。贔屓を見て怯えたのは確かだ。なのに何も話そうとしない。
「理由を聞かないとこっちも判断できないよ。何も話さずお仕置きだけされたいのか?」
目を逸らす饕餮がびくりと硬直したのがわかった。
「…………契約……」
威圧に耐えきれず冷汗を流しそうな顔でぼそりと漏らした一言に、贔屓と蒲牢は眉を寄せた。
その意味を問おうとするが、突如吹いた突風に煽られ足が浮きそうになる。間棒を押さえ付けていた蒲牢の体が浮きそうになり、その隙を突いて饕餮は蒲牢を蹴り上げた。そして空に伸ばした両腕を、黒い翼を生やした少年が鳶が獲物を攫うように掴み去った。
贔屓は蒲牢の体を支えて道の端へ引き、擦れ違い様に吹く切れ味の良い風に向かって杖を振り身を引く。
「急に体が重くなったアレはお前の所為かよ! 贔屓!」
「変転人なんか皆、非常食だ!」
「おう、もっと言ってやれ饕餮!」
「窮奇、来るのが遅いぞお前!」
「オレにじゃない! あいつらに……ああもう聞こえないか!?」
喧しく叫びながら、二人はすぐに点となり消えた。
風も止み、贔屓はすぐに目と髪の色を戻して杖を仕舞う。
「蒲牢、撤収だ。獏、蜃、早く店へ」
あの様子だと戻って来ることはないだろうが、念のため早くここから去った方が良い。獣には認識できないとは言え喫茶店の近くで姿を現してしまったことは反省した。
急ぎぞろぞろと明かりの消えた喫茶店へ行く。もう疾うに閉店時間は過ぎている。なのに鍵は開いている。蜃は出て行ったが贔屓はまだ店を借りていた。
全員が入ったことを確認し、贔屓はドアにカーテンを掛け鍵を締めた。
奥の休憩所には明かりが点いている。獏と蜃が出て行った後に少し掃除をしたのだが、贔屓は畳んだ毛布をもう一度広げ、鵺を寝かせるよう示した。
「まさか戻って来るとは思わなかったな。蒲牢がもう少し話したいと言うからマスターに場所を借りていたんだが……」
「僕もこんなすぐに戻って来るとは思わなかったよ。でも饕餮がいきなり襲って来るから、咄嗟に」
「でも丁度良かった。俺はずっと饕餮を捜してたから。饕餮に会えるかもって言われて君達の街に行ったからな」
贔屓は床に膝を突き、鵺の状態を確認する。獏の止血と蜃が輸血した御陰で顔色は少し良くなったが、回復に努めて瞼は閉じたままだ。
「……鵺がここまで遣られるとは。饕餮が遣ったのか?」
「饕餮は関係無いよ。鵺は悪夢に遣られたんだ。それはこっちの問題だよ」
「悪夢のことはわからないが……危険なものだということはよくわかった」
毛布を被せ、体を温めておく。力が抜けたようにソファに座る獏と蜃に何か飲み物でも出したい所だが、店主が帰った今は水しか出せない。
灰色海月と黒色海栗は遠慮がちに部屋の隅の椅子に座る。黒色海栗も脚を負傷しているが、歩けないほどではない。痛みを我慢して走ることもできる。変転人の治癒力だとこのままでも癒えていくだろう。
「ウニさん、落とし物を返しておくね」
獏は安心させるよう微笑んで、透明な街で彼女が落とした海色の耳飾りを差し出した。黒色海栗ははっとして自分の耳に触れる。落としたことに気付いていなかったようだ。
「ありがとう……」
受け取ってポケットに仕舞おうとし、一拍停止して思い直して耳を飾った。折角貰った物だ、自分からは見えなくなるが付けている方が良いだろう。
「襲って来たって言ってたけど、饕餮から恨みでも買ったのか?」
蒲牢も空いているソファへ腰掛け、飲みかけのカップを傾けた。店主に淹れてもらっていた珈琲だが、もうすっかり冷めてしまった。
その問いにはフードを脱ぎながら吐き捨てるように蜃が答えた。
「恨みがあるのは寧ろ俺の方だ。窮奇の傷痕を辿ったか偶然だか、急に攻撃してきて殺す気満々だった」
「窮奇の傷痕?」
蒲牢は蜃が窮奇に襲われたことを知らない。話を進めるために贔屓もソファに座り、蜃を拾った時のことを話した。
「窮奇が饕餮を助けに来た所を見て、二人は共通の目的で動いているんだろう。窮奇が蜃を仕留め損ねたと思って饕餮が来たのかもしれないな」
「饕餮に命令した奴がいるのか? 契約だとか言ってたけど……」
「窮奇を動かしているのは狴犴らしい。だから饕餮も狴犴と契約しているんだろう。どんな成り行きかは知らないが、僕と蒲牢が現れたのは想定外だろ。狴犴の指示を取るか、僕と蒲牢を取るか……あんなに頑なに話さないとなると、印を使われている可能性はあるな。食べ物にでも仕込まれたか……蒲牢も随分食べるようになったみたいだからな、念のため用心するんだよ」
「獏の所為で大喰いだと思われた……」
「僕の所為にしないでよ。無理に口に突っ込んだことはないよ」
蒲牢は冷めた珈琲を飲み干し、名残惜しそうにカップを置いた。店主がいないのでおかわりができない。
走って傷に響いたのか、蜃はふらりとソファの肘掛けに倒れる。横になりたかったが隣に獏が座っているので中途半端な体勢になってしまった。
「契約の印って、いつも獏が善行に使ってる奴か?」
「僕が使ってると言うかクラゲさんに使ってもらってるのは、そんなに拘束力はないよ。相手の居場所がわかるとか、その程度だね」
獏の善行について贔屓は知らないが、獏の説明で理解した。
「変転人が使える印なら弱い。饕餮を拘束するならその上位の拘束力を持つ契約印だろうな。だとすると契約内容を話すと何かしらの制裁があるんだろう」
「……マキさんが付けられた首輪みたいな物かな」
「首輪?」
「狴犴の思い通りにならなかったら首をちょん切る首輪の印」
「ああ……その類かもしれないな。形振り構えなくなったのか、狴犴の様子が心配だな」
贔屓は腕を組み物思いに溜息を吐いた。
暫く疲れたように皆何も言わなかったが、ふとぽつりと脚を伸ばしながら蒲牢が呟く。
「……宵街に戻るか?」
何百年も宵街から離れ人間として暮らしてきた贔屓は蒲牢を一瞥し、ふ、と口元を歪めた。
「それはないな。戻らないと狴犴と約束したんだ。今更あいつの遣ることに口出しはしない。好きにすればいい」
「…………」
決別は思いの外深く、強固なものだった。贔屓と狴犴の確執は蒲牢も止めようとはしたが、間に入ることはできなかった。贔屓の遣り方は温過ぎると言い出した狴犴の言い分は理解できたが、狴犴の遣り方は逆に厳し過ぎる。今となっては最早意地の張合いのようなものだが、当事者達の胸中は複雑だ。
皆の遣り取りをぼんやりと見ていた蜃は、ふと一つのことに気付く。
「……椒図も契約印を使われてる可能性はあるのか?」
贔屓は蜃を一瞥し、立ち上がって戸棚を開ける。
「無いとは言い切れないな。化生したての椒図は狴犴が印を使うことも知らないだろうし、幾らでも不意を衝けるはずだ」
大きなタオルを取り出し、蜃が枕にしている肘掛けにタオルを敷いてソファへ戻る。さすが長子だ。面倒見が良い。
「椒図を助けたい……」
タオルに顔を埋め、切実に呟く。血の繋がった兄弟よりも余程素直な言葉だ。
「確かに無理強いなら可哀想だが、僕はもう宵街には……」
「俺も当初の目的は果たした。饕餮に……粛清ってほどのことはできなかったけど……。後は獏に悪夢を食べてもらえればそれでいい」
「椒図の兄は薄情だな」
そう言われると心苦しい二人は目を逸らすしかなかった。
「僕は椒図を助けたいよ」
隣に座る獏は動物面の下で憂えながら微笑む。
「ダダ漏れ馬鹿力しか味方がいない……」
「すぐに力の感覚を取り戻すよ。ただ……半分とは言え烙印を解除した反動か疲労感が……」
獏もソファの背に凭れ、額に手を遣った。面に手が当たり額に触れることはできなかったが、熱はもう引いているはずだが体が怠い。善行をする内に名も広まり、また少し力が増したのかもしれない。元々は非力な獏の体にはそれは負担となっているのだろう。
「烙印で長期間力を抑え付ければ、体は烙印に順応しようとする。毎日ベッドに寝て天井を見続けていれば人間も筋肉が衰え思考も鈍るだろ? それと同じだ。それを元の状態に戻すにはやはり時間が掛かる。だが君は人間ではなく獣だから、自分の回復に必要な物はわかっているんじゃないか?」
人間に例えられても余計にわからないだけだったが、口を挟む気力は無かった。
「悪夢……」
ちらりと蒲牢を見ると、彼はすぐに視線に気付いた。
「……食べるか? 食べてもらえるなら俺はいつでもいい」
「じゃあ少し……いいかな」
重い腰を上げ、ふらりと蒲牢の許へ行く。食事が手の届く範囲にあるのは良いものだ。
蒲牢の双眸を手で覆おうとしたが、体が怠くて無性に面倒だった。獏は面を外し、そのまま蒲牢に口付けた。悪夢が化生前の記憶と結び付いているといけないと思って食べずにいたが、毎日見る同じ悪夢の数日分くらい抓み喰いをしても問題は無いだろう。
「……んっ!?」
突然口を押さえて離れた獏を蒲牢は怪訝に見上げる。金色の双眸を大きく見開き様子がおかしい。
「獏……?」
押さえた口元から滴が落ち、血かと思えばそれは赤くはなく黒かった。
「おかしい……君の悪夢……味がしない――げほっ」
口元から黒い靄が漏れる。蜃も眉を寄せて起き上がり、倒れ込むようにソファへ下がる獏のために場所を空けた。こんな獏を見たのは初めてだった。いつも美味しそうに食べていたのに、今はとても苦しそうだ。
「烙印を解除した所為か? この前、俺の悪夢を喰わせてやった時は美味しそうにしてたのに」
あの時の獏は文句ばかり言っていたが、悪夢の味は悪くはないという顔をしていた。
悪夢を食す所を見るのは初めてだが贔屓も困惑する。
「いや……食事まで影響されることはないんだが……。蒲牢の悪夢が特殊なのか? 蒲牢は大丈夫か?」
「俺は何ともない……」
「みず……」
か細く呟かれた声に耳を澄ませ、贔屓は急いで水を汲みに行った。
背中を丸めてソファに蹲る獏の小さな背を灰色海月も慌てて摩った。
「また喉に詰まりましたか? 叩きますか?」
小さく首を振る獏の肩を軽く叩き、急ぎ戻って来た贔屓は顔の前に水の入ったコップを差し出す。それを何とか飲み干し、獏はソファに倒れて肩で息をした。
「……はあ、はあ…………無理に呑み込んだけど、口直しが欲しい……気持ち悪い……」
「悪夢は用意できないが、少し待てるか? 近くのコンビニで何か買って来よう。今日はすぐ帰るつもりだったから……マスターに無断で店を漁れない」
「待つ……。たぶん……だけど、覇下が化生しないのと同じように、蒲牢の記憶も何か……変なのかも……。蒲牢の悪夢は化生前の記憶の再生だから……」
悪夢が食べられなくなった、とは考えたくなかった。だから言い訳のように理由を搾り出した。
「蒲牢、皆を頼む。すぐ戻る」
壁際に掛けていた薄手の上着を手に取り、袖を通しながら贔屓は休憩室を出る。
それを目で追いながら獏は項垂れる。贔屓には助けてもらってばかりだ。これでは狴犴の件も手伝ってくれなんて交渉すらできない。饕餮の槍の猛襲を防いだのはおそらく贔屓の力だろう。まるで空間を閉じるような防御は、椒図の力に似ているとも思った。
「獏、顔が赤い。氷を取ってくる。氷ならたぶん……触っても大丈夫だ」
「折角熱が下がったのに……」
蒲牢も急ぎ休憩室から出て行く。薄情だとは言ったがこういう所は贔屓も蒲牢も兄のようだと蜃は思った。
蜃は何もすることが思い付かず、同じく何をすれば良いのか困惑している黒色海栗の隣に静かに座った。




