75-法則
喫茶店の奥の小さな部屋の窓に掛かるカーテンを少し開けると陽光が射し込み、眠るそれぞれが小さく身動いだ。
「皆、マスターが出勤する前に起きて」
ぱんぱんと手を叩く音で、それぞれは小さく不満げな声を上げながら起き上がった。
夜行性だとか言いながらすっかり眠りこけてしまった獏は、あまりの警戒心の無さに愕然とした。贔屓の力で獣がここに来ることはないとわかっているので、それで安心してしまったのかもしれない。余程疲れていたのだろう。
ソファの上で膝を抱えながら項垂れる獏を不思議そうに見遣り、贔屓はまだ蓑虫のように毛布に包まっている蜃の肩を軽く叩く。まだ残暑のある季節で冷房を少しばかり入れているが、蜃には寒いようだ。
「朝御飯ん……?」
「もうすぐマスターが来るから、作ってもらおう」
寝惚ける蜃は自分で毛布に包まったのに何故身動きが取れないのかわからず首を捻っている。
椅子に座りながら寝ていた灰色海月も静かに目を覚まし、獏の姿を見つけて安堵した。
贔屓は戸棚の硝子に映る自分の姿を見て、忘れていたと髪と目の色を黒く戻す。
「獏はいつまでここに居るんだ?」
「君が烙印を解除してくれるまで……」
項垂れながら溜息を吐く。
罪人の心中もわからないでもないが、狴犴も随分と嫌われたものだと贔屓は苦笑する。獏は狴犴との対話をしたくないようだ。
「あまり長居してマスターに迷惑は掛けるなよ」
「わかってるよ。遣らないといけないことは解除だけじゃないんだから……」
「罪人なのに忙しいんだな」
「全部狴犴の所為だよ」
「……これは根深そうだな」
「ちょっと外の空気を吸ってくる」
「ああ、行ってらっしゃい。変転人の君、付いて行ってもらえるかい?」
「勿論です」
ふらふらと休憩室から出る獏を追い、監視役の灰色海月も頭を下げて出て行く。
毛布から脱出したがまだぼんやりとしている蜃を見ながら贔屓はソファに腰掛け、頬杖を突きながら微笑んだ。
「蜃。君は獏と一緒に行動していたんだよな?」
「うん? まあ……そうだな」
「獏の遣らないといけないこととは何だ?」
「……願い事を叶える善行? ……あ、鵺と海栗を捜すことか。あと浅葱……?」
「鵺を捜しているのか?」
「ん……部屋が血だらけで、それで鵺と海栗がいなくなったから。行方不明……。浅葱は狴犴に操られて……」
「それは穏やかじゃないな」
「ん……まあ…………おい、俺今、情報収集に使われてるか?」
「いや、大丈夫だ」
「…………」
漸く頭が覚醒した蜃は訝しむが、畳まれた黒い服を差し出されすぐに興味が移った。
「できたのか!?」
「ああ。何とか繕えた。問題が無いか一度羽織ってみてくれるか?」
「おう」
外套にそのまま袖を通し、フードを被ってみる。纏めた髪が少し引っ掛かったが、破れた穴はもう見当たらず何も問題は無かった。継ぎ接ぎがあまり見えないので、一部は布を買って新しく縫ってくれたのだろう。
「完璧だ! ありがとな。このスカートはもう脱いでいいか?」
「それはマスターに訊いてみないと。丁度来たみたいだ」
からんと小気味良い音が聞こえ、蜃は休憩室から顔を出した。店主はすぐに気付き、くしゃりと笑う。
「よく眠れたかい? モーニングはどうする?」
「ピザトーストがいい。なあマスター、このスカート脱いでも……」
話を切り出した途端に店主の眉が下がったので、蜃はぶんぶんと首を振ってドアを閉めた。
「駄目だ……飯の恩が……」
「それだけ食欲があれば傷も大分回復したんじゃないか?」
「そこそこな」
「アルバイト代わりをしてくれれば飲食代はいらないと言ってくれてるんだ、客はあまり来ないし良い仕事だろ?」
「それはまあ……。でもスカートが長過ぎて脚に絡まるんだよ」
「短い方がいいのか?」
「スカートから離れろ」
ドアに頭を当て、蜃は項垂れた。スカートが短くなると脚の包帯が丸見えになってしまう。折角獏の前では痩せ我慢をしているのだ、無駄になってはいけない。余計な心配をさせないためではなく、弱い姿を見られたくないのだ。
「まあ服も戻ったし、今日中に出て行く」
「そうか。数日賑やかで楽しかったんだがな。飲食ならいつでも来てくれるといい。マスターも喜ぶ」
「君の奢りなら来てもいい」
「そうだな……偶になら構わないよ」
獣のみでは店に来ることはできないが、獏には絡繰を話してある。あの灰色の変転人なり他の人間なり連れて来ればこの喫茶店に辿り着ける。贔屓もいつまでもこの喫茶店に通えるわけではないが、少年の容姿が成長しないことを訝しがられるまではここに居られるだろう。
毛布を畳み、贔屓は休憩室を出る。外套は一旦脱いで蜃も付いて行くと、注文したピザトーストの焼ける良い匂いがした。
「注文の物、できてるよ。ヒナ君も同じモーニングで良かったかな?」
「はい。僕の分までありがとうございます。彼女は今日帰るそうなので、後で休憩室の掃除をしますね」
「もう帰るのかい? それは寂しくなるね……」
客が来ないのでただ店の物を食べて寝るを繰り返していただけなのだが、寂しがられるとは思わなかった。蜃は自分のスカート姿を見下ろし、そんなにアルバイトが欲しかったのかと少し誤解をした。
「ヒナ君は珈琲、お嬢さんはサービスでクリームソーダを作ってあげようね」
カウンターに載せられたきらきらと光る緑色の甘い液体に、蜃は目を輝かせた。最初は弾ける炭酸に驚いたが、今ではすっかりお気に入りだ。
盆に皿を載せていると背後で小気味良いベルの音が鳴り、客でも来たかと思えば散歩に出ていた獏と灰色海月が戻って来ただけだった。
「いらっしゃい」
店主は決まり文句を言い、二人の後ろにもう一人立っていることに蜃と贔屓は気付いた。
「貴方達もモーニングを食べるかい?」
「では同じ物をお願いします」
贔屓は驚いた顔をするもすぐに返事をし、いつも座っている隅の席へ盆を運んだ。
獏は隣のテーブルにつき、背後にいた銀色の客人に席を促す。灰色海月も椅子を運んで座った。贔屓は先に出来上がっていた二つの皿をそちらのテーブルへ置く。
「贔屓……」
銀色の青年は感情の起伏が少ないながらも目を丸くした。
「まさか蒲牢を連れて来るなんてな」
宵街は閉じたと聞いたが、出ることができたようだ。やはり蒲牢は優秀だ。
髪と目の色が違っても、蒲牢は贔屓のことがすぐにわかった。何百年経っても色が変わっても忘れることはない。
追加の品を運んだ蜃は三人の前へココアを置き、贔屓のテーブルに皿を置いた。小さなテーブルなので二人ずつしか座れないため、蜃は贔屓の方の席についた。
蒲牢は物珍しそうに蜃を見上げ、ぼそりと呟く。
「少し会わない内に蜃は給仕になったのか……」
「真っ先にする話じゃないだろ。この格好は放っとけ」
「……君だけ良い物を飲む」
「贔屓に会いに来たんじゃないのかよ」
「うん」
蒲牢は自分の前に置かれたカップを見詰め、甘い香りがするこれは何だろうと首を傾げる。
自分の調子を崩さずピザトーストを食べ始めた蒲牢に贔屓も珈琲を飲みながら困惑する。感情の起伏が少ない蒲牢は、兄の贔屓であっても内心を探ることは難しい。
仕方無く獏が成り行きを話すことにした。蒲牢は久し振りに贔屓と会って、言いたいことが纏まらないのだろう。
「……僕が外の空気を吸ってたら蒲牢が迷子になっててね、拾ったんだ。宵街は閉じられたけど、化生したての椒図は未熟で、力にも斑があるらしい。閉じ方が薄い場所を見つけて何とか抉じ開けて脱出した――だよね?」
蒲牢はトーストに齧り付きながら頷く。伸びるチーズの所為で緊張感がない。
宵街では結局狴犴と椒図に会うことはできなかったが何とか脱出し、蒲牢はまず透明な街へ戻ったが獏の姿がなく、洋種山牛蒡の前で尋ねるわけにもいかず黒葉菫を捕まえて話を聞いた。贔屓を捜しに行ったと聞き、急いで人間の街に来たと言うわけだ。
獏は一旦言葉を切り、蒲牢へ向き直る。
「僕からも蒲牢に聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「……?」
「贔屓に言うと不味いかな? その……昔話とか」
「…………」
蒲牢は目を伏せた後、贔屓の方を見た。わざわざ尋ねるのだから、今生の昔話をしたいわけではないだろう。化生した話をしたい、そう言っているのだとすぐに察した。
「君達にとって、重要なことかもしれない」
蒲牢は暫し沈黙するが、重要なことだと言われると話した方が良いのではないかと思えてくる。それに贔屓になら話しても良いのではないかと、話した方が化生前の悪夢の荷が軽くなるのではないかと相談を考えたことは今までも何度かあった。
「…………必要なら」
できれば知られたくなかったが、それは自分以外にも荷を負わせてしまうのではないかと懸念があったからだ。だがどうしても言わなければならない事情があるなら、記憶を隠したことで拗れてしまうのは本意ではない。
獏は罪人だが、他人を不快にさせる揶揄はしない。短い付き合いだが獏は他人を困らせるような性格ではないと蒲牢は思う。少し躊躇いはしたが素直に承諾することにした。元よりどんな生活をしていたかなど詳細は獏に話していないが。
「君達兄弟は死んだことを知らないよね?」
「……そうだよ」
まさかそんなにずばりと直球の質問が飛んで来るとは思わず、蒲牢は噎せそうになった。一体どんな話をするのかと警戒してしまう。
「君達は兄弟が化生したことを感知できるんだから、自分はともかくその後に化生した兄弟は、存在してないのに名前を知ってるっていう妙な状態じゃなかったの?」
蒲牢は目に緊張を浮かべながら贔屓を一瞥する。贔屓は黙って耳を傾けている。
「……俺の場合は、化生する前は下の兄弟達の存在がぼんやりしてて、化生してから明瞭になった」
「…………」
「記憶を継いでなければ、存在も知らなかったんじゃないかと思う。母親の存在を知ってるのはたぶん俺だけ……」
初めて贔屓がぴくりと反応するが、黙って話を促した。
「そう……。気になってるのはここからなんだけど、兄弟の順番って化生前と後でどうなった?」
「順番……?」
「変わってれば君は混乱したんじゃない?」
蒲牢は漸く話の目的が見えた。兄弟だからだろうか、違和感を覚えることなく過ごしていた。
「……同じだ。全員、同じ順に生まれた……」
全く無いとは言い切れないが、九人が全て同じ順で化生するのは確率が低過ぎる。
「俺は第三子だけど、その後の化生順は産まれた順と同じ、順番通りだ……」
「憶測だけど、もしかして順番通りじゃないと化生できない?」
「……!」
蒲牢はハッとし、目を丸くした後に震える睫毛を伏せた。それが事実なら幼い皆が殺された時、蒲牢が死なない限り、そして蒲牢が死ぬ前に第四子の狴犴が化生していれば贔屓と鴟吻は化生しなかったことになる。突然怖くなり蒲牢は贔屓を見るが、長子の少年は冷静な目をしていた。その御陰で取り乱さずに済んだ。
黙って聞いていた蜃も何とか理解しようと言葉の意味を咀嚼する。
「じゃあ椒図は末子じゃなかったら化生しなかったのか……?」
末子が幾ら死のうが、化生で兄弟の順が変わることはない。末子は末子だ。もし椒図がもっと上の順だったなら、その下の兄弟が死なない限り化生しなかったことになる。その可能性に蜃は寒気がした。
「仮説だけど……九人全員が同じ順って確率を考えると、こっちの方が可能性が高いはず。兄弟の縛り……なのかな」
「なあ……化生しない兄弟がいたよな? あれ、何番目だ……?」
眉を顰めながら問う蜃に、蒲牢も息を呑んだ。化生しない兄弟の存在は贔屓も勿論知っている。死を感知した後、化生を一向に感知しない兄弟が一人いる。
「……覇下は第六子だ」
獏の仮説が正しければ、その下の三人が死なない限り永遠に化生しないことになる。覇下が死んだままで椒図が化生したことから、他の二人の死を待たないことも証明された。
「記憶を継いだら化生しないなんて、変だと思ったんだ……」
椒図が末子で良かったと喜ぶべきなのか、蜃は悩んだ。記憶を継いでいなくとも椒図という存在がこの世に存在してくれるなら、末子で良かったのだろう……。
静聴していた贔屓は会話が止んだことを確認し、思考しながらぽつりと問う。
「蒲牢は記憶を継いでいるんだな?」
「!」
当然問われることだろう。トーストを置き、蒲牢は初めて飲むココアで流し込んだ。緊張して味がよくわからなかった。泥水を飲んでいても気付かなかっただろう。
「構えなくても、何も責めることなんてないよ、蒲牢。兄弟全員が死んだのなら、辛い記憶なんだろう。一人でずっと耐えていたのか? 力になってやれなくて、すまなかったな」
「……!」
何故贔屓が謝るのか。蒲牢は怯えたような顔をしてふらふらと立ち上がり、贔屓の傍らに両膝を突いた。まるで罪人が赦しを請おうとしているかのようだった。
「贔屓……俺は……大変なことをした……」
「……?」
「覇下を殺したのは俺なんだ……!」
振り絞りながら出された言葉は、夢にも思わないことだった。贔屓は目を丸くし、獏と蜃も言葉を失う。突然の懺悔に困惑した。
「……顔を上げて、蒲牢。何か理由があるんだろ? 聞かせてほしい」
「…………」
ゆっくりと顔を上げた蒲牢は泣きそうに不安な顔をしていたが、涙は出ずに相変わらず感情が薄い。また俯きそうになる顔を何とか上に向け、何とか贔屓と目を合わせた。贔屓の目は冷静で、冷静過ぎて冷たく見えてしまう。無意識に責められているような錯覚が襲う。
「……覇下は……俺と同じで、記憶を継いでた。兄弟の中で一番繊細な覇下が……あの悪夢に耐えられるはずなかった」
「……」
「だから記憶を……断ち切りたかった。剥離の印を覚えて……。でも失敗した。覇下の命を……切ってしまった」
蒲牢が剥離の印を使えた理由がわかり、獏は呆然とするしかできなかった。
蜃に剥離の印を躊躇いなく使ったのは、覇下を殺してしまった後で必死に修得したからだ。次に使う時があれば、今度は失敗しないようにと。覇下を殺した罪悪感から逃れようと必死に足掻いた。
贔屓を前にして、堰を切ったように訥々と蒲牢は吐露した。覇下が母龍に呼び出されて殺される時、庇ってくれた狻猊が目の前で殺されるのを見ていたと蒲牢に話し泣き喚いていたことも。覇下は蒲牢と同じように化生したことを他の兄弟には黙っていたが、それに気付いた蒲牢には記憶を共有していた。どうやら椒図も知っていたようだが。化生して感情が抜け落ちた蒲牢は継いだ記憶に取り乱すことはなかったが、正常ならば覇下のようになっていただろう。
何も知らなかった贔屓が見た覇下は魂が抜けたように物静かで、いつも何かに怯えているようだった。まさか記憶を継いでいるとは思いもしなかった。死んだことがあるなんて考えもしなかったのだから、記憶を継いでいるなんて発想は生まれなかった。
訥々と語られた悪夢を聞き終えた贔屓は蒲牢の頭を一度撫で、真剣な顔で目を細めた。
「……鴟吻、聞いているか?」
ぽつりと漏らされた名前に、それぞれ訝しげに辺りを見回した。店の中には自分達と店主しかいない。贔屓のように認識できない者がまだいるのか。
テーブルに小さな紙切れが唐突に落ち、皆の視線はそれに固定された。贔屓は紙切れを拾い、もう一度虚空に向かって口を開く。
「どうにか母親を捜してほしい。できるか?」
これには少しの間があったが、またテーブルに紙切れが落ちた。それを拾い、皆に見えるように示す。
「鴟吻からだ」
『容姿の特徴などわかれば捜しやすいですが、やってみます。時間が掛かるかもしれないので、過度な期待はしないように』
もう一度辺りを見回すが、やはり自分達の他には誰もいない。
「……鴟吻って、姿を消せるの?」
「いや、鴟吻はここにはいない。千里眼で見ているんだ。鴟吻がよく見るから、この店が見える対象に鴟吻も加えている。一人で人間の振りをするならと出された条件だな。小さい物ならこうして転送することもできる。鴟吻は電話を持っていないからな」
要は監視されているのかと推察した。
「蒲牢、辛いことを訊いてしまうが、僕達が死んだ場所に母親はいるか?」
死んだ時のことを思い出す――いや忘れたことなどないだろう。それを掘り起こすのは辛いだろう。真剣な目をする贔屓が、困らせようとして言っているわけではないことはわかる。蒲牢は俯いて首を振った。
「……俺も気になって、化生してすぐに家があった山に行ってみた。けど家は焼き払われてて何も残ってなかった」
全ての子が死んだことでその家は必要なくなったのだ。母龍が自ら火を放ったのだろう。
「そうか。……ほら蒲牢、朝食がまだ残ってる。ちゃんと食べないと力が出ないよ」
「……うん」
これ以上は訊いても蒲牢を傷悴させるだけだ。母龍の特徴も聞いておきたかったが、一旦話を打ち切る。矢継ぎ早に質問して思い出させるのは酷だ。後でまた落ち着いてから話すことにする。
蒲牢は躊躇いがちに頷き、足取り重く自分の席に戻った。蜃も名残惜しそうに、蒲牢の前にまだ飲んでいない自分のクリームソーダを置いてやった。凄惨な悪夢を聞いて、慰めずにはいられなかった。蜃には彼に剥離の印で街との繋がりを断ってもらった恩もある。
徐ろにストローでアイスクリームを突く蒲牢に沈鬱な気持ちになりながら、贔屓は思考を止めず珈琲を飲む。その前にまた紙切れが落ち、もう見つけたのかと期待が高まったが、そうではなかった。紙切れに目を通した贔屓は、それをそのまま獏に渡した。
「何?」
「鵺の居場所だ。さっき蜃から聞いて鴟吻に見てもらった」
「いつの間に……」
獏は蜃を見るが、蜃は目を逸らしてピザトーストを咥えていた。話すなとは言っていないが、簡単に情報を流すものではない。
紙切れによると、鵺はどうやら人間の街にいるらしい。黒色海栗も共にいれば良いのだが。
「ありがとう。鴟吻にも言っておいてくれる?」
「それには及ばない。聞いているはずだからな」
「さっきから気になってたけど、千里眼って声も聞こえるの?」
「いや、盗聴器を仕掛けている」
「えっ?」
予想外の回答に獏は一瞬何を言われたのか理解できなかった。獣の能力とは全く関係無い盗聴器で声を拾っているらしい。贔屓は何でもない風に言っているが、彼が変なのか鴟吻が変なのか、やはりこの兄弟は変わった奴ばかりだ。
贔屓はごそごそと小さな透明の棒を取り出して席を立つ。ピザトーストに齧り付こうとしていた獏の傍らに膝を突き、贔屓はとんとんと自分の喉元を指差した。
「……え?」
「君が来てくれなければ蒲牢の苦しみを聞くことも、兄弟の柵に気付くこともなかった。それに感謝の意を表する。例外もいい所だが、烙印を解除してあげるよ」
「!」
「君は他の罪人とは少し違うように見える。……僕達を傷付けないだろう」
獏はピザトーストを下ろし、急いで手を拭いた。食べている場合ではない。外套の襟の釦を外し、烙印を露わにする。
「――但し、君の罪過を聞いてからだ。君だけ苦しみを吐き出さないのは公平ではないだろ? 解除印を捺すんだから、聞く権利はあるはずだ」
「…………」
襟に手を掛けたまま、獏は口を噤む。贔屓の要求は納得できる。だが灰色海月の前で言いたくはなかった。
俯く獏が灰色海月の方に一瞬意識を向けたことを贔屓は逃さなかった。
「変転人は少し席を外してもらえるかい? 五分でいい。休憩室で待っていてくれ」
「……はい」
獣の罪は変転人が聞いてはいけないのかと怪訝に思いながらも灰色海月は素直に頭を下げ、席を外した。獏の罪は良い夢まで喰い漁ってしまった暴食だ。獏の監視役なのだからそれは知っている。そう言おうとしたが、贔屓の威圧感はそれを許さなかった。
灰色海月が休憩室に入ったことを確認し、獏は緊張を和らげるために一度小さく息を吐いた。話さないと解除してもらえないなら話すしかない。それが代価なら。狴犴と対話をするよりはずっと良い。
「……表向きは、悪い夢も良い夢も見境無く食べたことによる暴食ってことになってる。クラゲさんが知ってるのもここまでだ。実際はそれに加えて、人間を大量に殺してる」
「…………」
「こんなのを聞いたら、解除してくれなくなる?」
「……いや。ただ、それ以上は話してくれないのか? 食べるために殺したわけではなさそうだが」
「僕は人間が嫌いだから。だから殺した。それだけだよ」
感情の籠もらない低い声に、どうやらこれ以上は押しても答えてくれなさそうだと贔屓は肩を竦めた。
「蜃は理由を知っているのか?」
「え? ……あー……」
突然話を振られた蜃はちらちらと獏の方を見ながら言い淀んだ。
うっかり見世物小屋のことを話してしまわなかったことに蜃は自分を褒めるが、この態度では知っていると言っているようなものだ。
獏は蜃に見世物小屋について話した覚えはないが、椒図が話したのだろうと解釈する。
蜃は自分が獏を見世物小屋に売った手前、下手に口を開くと余計なことを言ってしまいそうで何も言えなかった。獏を売ったことは言うなと椒図に言われたので、彼が化生した今もその約束は守る。
「僕はもう宵街の統治者ではないんだが……経歴があると気軽に話してはもらえないか」
残念そうに苦笑し、解除印を見下ろす。人間を嫌う獣は珍しくないが、獏はそれだけではないような気がした。この様子では狴犴にも話していないだろう。この氷は大きそうだ。
だが狴犴が獏を特別扱いしているのなら、何かは知っているはずだ。拘束を緩めているのなら、情状酌量の余地でもあるのだろう。
「……最初に言った通り、全て解除することはできないからな」
「うん。それでいい。少しでも力が戻るなら」
「あと、少し痛みがあると思う。我慢してくれ」
「烙印を捺される痛みに比べたらどうってことないでしょ」
「だといいが」
最後の贔屓の言葉が引っ掛かったが、解除されるなら痛みにも耐えられる。
普通の印鑑程度の大きさの透明な棒を烙印に当てると解除印は仄かに光を帯び、ぐるりと長い虫の足のような棘が生えた。喉元の様子など自分では見えない獏には何が起こっているのか見えていないが、はっきりと見えている蜃は思い切り顔を顰めて身を引いた。蒲牢は贔屓が宵街にいる頃に烙印の解除は何度も見ていたため見慣れているが、初見だと蜃の反応で間違いないだろう。
円形の烙印の縁に虫の足のような棘が一斉に突き刺さり、想像以上の痛みに獏は身を捩ろうとする。沈鬱な顔をしたままではいけないと蒲牢は頭を切り替えて立ち上がり、獏の体を押さえた。痛みに耐えきれず身を捩ろうとする者はあの頃も数多いた。動かれると作業が難航するので、蒲牢はよく取り押さえる役をしていた。
刺さった棘は烙印を抉り出そうとするかのように深く喰い込み、血が流れる。
「っ……!」
店主がカウンターの奥にいるので大声は上げられない。何とか声を押し殺し、跳ねそうになる体を蒲牢は無表情を崩さずに押さえ付けた。蜃は眉を寄せながらぽかんと口を開けて震えた。
烙印が仄かに光り再び光が消えると、漸く棘は全て解除印の中に消えた。
「っ……はっ……はあ……」
獏は短く喘ぐように息を吐き、朦朧としそうな意識を繋ぎ止める。烙印を捺された時は実は獏は気を失ってしまったのだが、意識があるだけあの時より痛みは少ないのだろう。だが想像以上の激痛だった。
解除印を離し、贔屓はテーブルに置かれている紙ナプキンで血を拭う。
「終わったよ。これで……」
ぱんと音がし、贔屓は振り返る。獏の前のカップが割れて中身が零れていた。
「……獏。力が漏れている。店の物を壊すな」
「ぅ……」
「そのお面を外してもいいか?」
痛む首を振るのは躊躇われたが、獏はゆっくりと首を振った。仕方無く贔屓は動物面を少しだけ下にずらし、獏の額に手を当てる。
「……やっぱり熱が出ているな。解除すると突然力が戻るから、こうして熱を出す者がいるんだ。少し休めば直に下がるが、お面を付けていては冷やせないな」
「構いません。お面を取って冷やしてください。お面より命が大切です」
贔屓は振り返り、休憩室から出る灰色海月に目を遣った。どうやら五分経ったらしい。
口を出すことは躊躇われたが、命を比べることはできない。灰色海月は獏の監視役だ。監視役が罪人を見殺しにしてはいけない。
「命というほど大事ではないが……外してもいいのか? 少し待っていろ」
随分強気な変転人だと思いながら、贔屓は店主から氷とタオルを貰って戻って来る。
獏の面を外すと苦しそうに表情を歪めていたが、人形のように整った相貌をしていることに一瞬呼吸が止まってしまった。袋に入れた氷をタオルで巻いて獏の額に当て、後は心配そうに様子を窺う灰色海月に任せた。
「いつ烙印を捺されたのか僕は知らないが……これはある程度力の強い獣にも言えることだが、長期間力を使用せず突然力を使うと体が驚いて発熱してしまう。牢にいる間は抑圧され疲弊もしているだろ? 疲れも出てしまうようだな」
「解除なんてもっと楽なものだと思ってたよ……」
「フフ……。罪人に楽なんてないよ。罪が重いほど解除も痛むようになっている」
最初に罪を訊いたのはこのためもあるのかと獏は頭が痛くなった。店の中で痛いと騒いでは店主にも迷惑だ。耐えられるだろうと判断し解除印を捺したのだ。もし声が漏れていれば即座に贔屓が獏の意識を奪っただろう。
「これで解除は半分なんでしょ? これをもう一回受けるのかと思うと……」
「狴犴の統治下なら一度も受けないのが普通じゃないか?」
「それはまあ……」
狴犴の統治下では罪人は終身刑だ。地下牢から出されることは一生無い。
「話せるなら問題無いな。力が漏れないよう気を付けて、早く朝食を済ませろ」
「うぅ……」
贔屓は割れたカップの破片を拾い、テーブルを拭く。蒲牢は自分の皿とグラスを獏から少し離した。
発熱する獏の代わりに贔屓が店主に謝るが、店主はにこにこと笑いながら新しいココアを淹れてくれた。
「僕が注意を怠った所為なので、僕がカップを弁償します」
「いやいや、構わないよ。怪我がなくて良かった。あのお嬢さんにもまたクリームソーダを入れてあげようか?」
「そうですね。喜ぶと思います」
蜃が蒲牢にグラスを譲っていたことには贔屓も勿論気付いていた。贔屓と共に宵街にいた頃の蒲牢はあまり他人と話そうとせず一人でいることが多かった。徐々に皆の前に顔を出すようにはなったが、あの頃に比べ蒲牢は明るくなったように思う。相変わらず笑うことはなく表情にあまり変化はないが、獏と蜃から良い影響を貰ったのかもしれない。
贔屓は新しいココアとクリームソーダを手に席へ戻り、蜃はグラスが戻って来て喜んだ。
蒲牢も苦しむ獏を見て沈鬱な気分どころではなくなったのか、それとも表情が乏しい所為で気付かないだけなのか、落ち着いた様子で弾ける炭酸に興味深くストローを咥えている。
「……流行り物じゃなくても美味しい物はあるんだな。何で流行ってないんだ?」
「たぶん君の知らない所で流行ってるよ」
額の氷を押さえ、まだ痛む喉に眉を顰めながら冷めかけのピザトーストを食べるか悩む獏を一瞥し、蒲牢はふむと頷いた。流行り物に気付いていないとは盲点だった。
「そうだ獏。団子はあと一箱ほどになった」
「えっ……あれ一人で食べたの? 喰い意地が凄いね……本当に太って杖から落ちるよ」
「面白いことを言う」
二人の会話を聞きながら、こんなに食欲旺盛な弟だっただろうかと贔屓は苦笑しつつ首を捻った。




