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透明街の人喰い獏  作者: 葉里ノイ


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74/124

74-隠れ家


 静かな透明の街の古物店で、獏はそわそわと落ち着かなかった。洋種山牛蒡から贔屓の居場所を聞き出し、いつでも捜しに行ける準備は整った。なのに宵街へ行った蒲牢が一向に戻って来ない。

(まさか、もう……?)

 洋種山牛蒡は噂語りを休憩し紅茶を飲んでいる。板挟みの黒葉菫もやっと解放されたとカップを傾けながら疲れた顔で一休みしている。

 二人の様子を確認し、獏は洋種山牛蒡の前で菓子作りをして良いものか悩み台所の前で置物のように立っている灰色海月を手招いた。すぐに獏の傍らへ身を屈めた彼女の耳元に手を添える。

「宵街が閉じてるか確認してもらっていいかな?」

「はい。わかりました」

 灰色海月は灰色のスカートを翻して店を出、灰色の傘をくるりと回してすぐに獏の許へ戻る。その間洋種山牛蒡が横目で見詰めていたが、彼女の行動を咎めることはなかった。店を出てはいけない対象を罪人のみに絞ったようだ。灰色海月が団子の袋を持ち帰った時は店の外からドアを開けたので、その時は呼び止められたが。あの時は、自分は特別なのだと胸を張って言った。きっと灰色海月は特別だと認識を改めたのだろう。

 再び獏の傍らに身を屈め、結果を報告する。

「宵街に行けませんでした。閉じてると思います」

「そう……ありがとう。蒲牢は出られなくなったみたいだね。狴犴は口が上手いのか、椒図を取られちゃったね……。記憶が無く知らない人だらけで誰も信用できないなら、同じ立場だったら僕だって自分の目で見ることを選ぶ。椒図は責められない」

「これからどうしますか?」

「蒲牢が戻れないんじゃ、待ってても仕方無いかな。僕達だけで贔屓(ひき)の所に行ってみよう」

 灰色海月に先に二階へ上がるよう指示し、獏は黒葉菫の耳元にも囁く。

「椒図が宵街を閉じたみたいだから、僕とクラゲさんで贔屓の所に行ってみる。もし蒲牢が戻って来たら伝えて」

 黒葉菫はカップを下ろして頷く。洋種山牛蒡は不思議そうに見ているが、店から出ないのならそれ以上の口出しはしないようだ。

 立ち上がり階段を上がろうとする獏を目で追う洋種山牛蒡に、ふと思い付いたことを言ってみる。

「ヨウさん。宵街が閉じたから、君への命令も撤回されたよ」

「!?」

 きょとんとした後、洋種山牛蒡は黒い傘を掌から引き抜きながら早足でドアへ向かった。ドアを開け放したままで開いた傘をくるくると回し、焦った様子で戻って来る。

「本当に戻れないわ……どういうこと?」

「だから、命令は撤回」

 かくんと首を傾け、獏はくすくすと笑いながら階段を上がった。何だか不気味なその仕草に、洋種山牛蒡は呆然としながら背筋が寒くなってしまった。

 わざと命令撤回などと混乱させるような虚言を吐いたと黒葉菫はすぐに気付いたが、何も知らない洋種山牛蒡には宵街が閉じるなんて状況は理解できないだろう。

 宵街が閉じて椒図が狴犴の味方をしたことがわかったが、それを只の不利とせず利用し、洋種山牛蒡と狴犴の繋がりを絶った。元より狴犴の命令もよく理解しておらず黒葉菫という知人もいたことで緊張感がなかったが、これで背後を気にすることはなくなっただろう。彼女がここで狴犴に有利な情報を得たとしても、それを報せる手段はない。

 二階へ上がった獏は、部屋の中で灰色の傘を手に待つ灰色海月の許へ向かった。灰色海月は傘をぶつけないよう確認しながらくるりと回す。宵街が閉じているのだから首輪を付ける必要もない。

 二人は転瞬の間に部屋の中から人間の街の屋根へ移動する。時は夕刻で空が薄らと彩度を落としている。閑静な住宅街のようで、夕食の支度をする家々から良い香りがした。

 傘を仕舞う灰色海月の手を取り、誰もいないことを確認し獏は屋根から飛び降りた。屋根の上からだと目的の店の看板を見落としてしまう。

「……さて。問題はここからだね。はっきりと噂があるのに誰にも見つけられない店。この辺りのはずだけど、街灯も少ないし夜目の利く僕が見つけないとね」

「本当にお店はあるんでしょうか?」

「何かはありそうな気がするけどね……」

 辺りをぐるりと見渡し、小さな看板も見落とさないようゆっくりと歩き出す。

「雨音……アマオト……」

 洋種山牛蒡に教えてもらった店名を呟く。『雨音という名前の店』、とだけ聞いた。何の店かは残念ながらわからないが、店なら人の出入りがあるはずだ。

 ぐるりと周辺を一周し、元の場所に戻る。住宅街が広がるだけで、店と思しき建物は一軒も見つからなかった。

「看板を出さない隠れ家的な店なのかな……? 覗き窓で見ながら歩いてみよ」

 親指と人差し指で輪を作り、左右の家々へ向けながらもう一周した。それでも客や店員のような感情は見えず、店らしき建物は見つからなかった。

「確かにこれは……誰も見つけられないのがわかるね。本当にこの辺りなのかな? もう少し範囲を広げてみた方がいいのかな」

 きょろきょろとする獏の後ろを黙って付いて歩いていた灰色海月は怪訝に首を傾げた。

「私は夜目が利きませんが、一ついいでしょうか?」

「うん。何かあった?」

「そちらの道には行かないんでしょうか?」

 灰色海月の指差した先へ目を遣り、獏は目を丸くした。

「え……?」

 住宅が連なっていたそこに突如として道が現れた。周辺を二周もしたのに全く気付かなかった。

「こんな所に路地なんてあった……?」

 路地の入口には街灯もあり、暗くて見えなかったとは思えない。そもそも空はまだ真っ暗ではない。夜目の利かない灰色海月が見つけられたのだから、獏に見えないはずがない。

「最初からありました。全く見向きもしないので、わざと避けてるのかと思いました」

「全然気付かなかった。何なんだろう……何か細工してあるのかな? 危険な気配は感じないし、行ってみよ」

 暗い路地の奥へ進むと、左右の家の小さな庭から伸びる木々の葉がトンネルのように出口を覆っていた。その先は家が立っている。トンネルを潜った先に街灯が立っており、左右へ目を遣ると片側が行き止まりになっていた。その突き当たりにひっそりと『喫茶雨音』と書かれた看板が立っている。

「これだ……」

 見つけてしまえば何ということはない。路地の奥という目立たない場所に立っているが、誰にも見つけられない程ではない。最初に道さえ見つけられれば、だが。

 どうやら古い店のようで、住宅街の中では目立つ煉瓦造りの趣のある建物だった。何処となく獏の古物店にも似た造りで親しみを感じられる。

 窓に明かりが見えるので重いドアを開けると、からんと小気味良いベルの音が鳴った。温かみのある落ち着いた橙色の照明の中に、年季の入ったテーブルと椅子が並んでいる。席数は少なく、すぐに全てを見渡せる。客は誰もいない。奥には重厚なカウンターがあり、老年の男が一人で豆を碾いていた。

「いらっしゃい。もうすぐ店を閉めようと思っていた所で」

 おそらく店主だろう。獏の面を見ても臆することなくくしゃりと笑う。

「閉店時間ですか?」

「六時が閉店ですね」

「すみません、閉店間際に」

 獏は時計など持っていないが、壁に古い時計が掛けてあった。あと十分程で六時だ。

「いいんですよ。お客さんがいるなら開けておくので。お好きな席へどうぞ」

 飲食をしに来たわけではないのだが、飲食をせずに座るわけにもいかない。カウンターの席へ座ろうかと考え、思い直して窓際のテーブル席に座った。出入口に近い席の方が良いだろう。店主が贔屓なら話が早いが、洋種山牛蒡の話によれば客として訪れていると考えた方が良い。店主なら『度々現れる』という言い方はおかしい。

 四角いテーブルの端に立てられているメニューを手に取り、灰色海月にも見えるよう広げて置く。

「純喫茶だね。飲み物でも注文しよう」

「純喫茶……? 普通の喫茶店ではないんですか?」

「お酒を取り扱ってない喫茶店のことだよ」

「そうなんですね。……プリンがありますが、飲み物ですか?」

「本当に気に入ってるねぇ。いいよ、プリンでも。閉店時間みたいだし贔屓は今日はもう現れないかもしれないけど、店主に少し話を聞いてみよう。贔屓が常連客ならきっと知ってるはず」

 店主を一瞥すると、変わらず豆を碾いている。客は誰もいないのに、珈琲を注文しろと言いたいのだろうか。

「このプリン……アラモード? というのは何ですか? 普通のプリンとは別に書いてますが」

「それはね……何だっけ、プリンのパフェみたいな物だったかな?」

「パフェ……」

 通常のプリンにするかアラモードにするかメニューと睨めっこを始めた灰色海月を微笑ましく見守る。ここ最近は本当に様々なことが起こり、獏も疲れていた。少しくらい休んでも罰は当たらないだろう。一人で生きてきた獏にとって、毒芹や白花苧環、椒図の死は相当応えていた。種を遺したり化生したりするとは言え記憶も無く別人となるのだから、普通の人間と等しく死は重いものだ。慣れないその重さに、思考力も鈍くなる。

「御注文は――、げっ」

 気怠そうな声に振り向いた獏は、声を掛けてきた店員の姿を見て呆然と口が開いてしまった。

「み、見るな!」

 店員は長いスカートを翻し、近くにあった椅子を盾に座り込んだ。

 一瞬だったが、その姿は衝撃的なものだった。裾の長い黒いスカートにフリルの付いた白いエプロンドレスは英国のメイドのようで、赤い髪は束ねて纏められフリルとリボンの付いた白いキャップが被せられていた。

「……蜃……だよね?」

 散々女扱いを嫌がっていた蜃の可愛らしい格好に見間違いではないかと目を疑うが、椅子を盾に青褪める姿は肯定と取って良いだろう。

「ち、違う! これはマスターの趣味……いやそれも違う……人を雇うほど客が来ないのに制服を作って箪笥に放り込んでた服を着てほしいと頼まれて……! 手当てしてもらったし食べ物も貰ったし断り切れず……!」

 名前を呼んだだけで蜃は勝手に説明してくれた。内情はわかったが、最後の一言が気になった。

「手当て? 怪我でもしたの?」

「いや、だから……見るな……見ないでくれ……」

 これでは話ができない。獏は黙考し、余計に騒がしくなりそうな気もしたが話題を変えることにした。

「蜃、椒図が見つかったよ」

「!」

 思った通り、椒図の話題だと喰い付いてきた。蜃は椅子から顔を出し、ガタガタとその椅子を獏の近くへ引っ張って座った。

「宇宙人を探しに行ってたんじゃ……」

「うん。緑の髪の宇宙人だよ。空想に耽る子供だと、緑の髪の人をそう表現することもあるってこと」

「嘘だろ……俺の方が無駄骨だったってことか」

 苦々しげに項垂れる蜃を気の毒にも思うが、椒図が見つかって万事上手く行っているわけでもない。

「それで、椒図は何処だ? ここには来てないのか? というか何で君はここに……」

「不測の事態でね、椒図は宵街に行っちゃった」

「は……? 狴犴に利用されないように先に見つけたのに!?」

「死から化生の期間が短かった所為で、感情が未熟らしい。人の気持ちが理解できないみたいなんだ。現状は説明したけど、何処まで理解したかは……。自分の目で確かめるって宵街に行ったけど、宵街を閉じたみたいだし、つまりそういうことだよ」

 友達である蜃がいてくれれば、とは言わなかった。言ってしまうと蜃を責めることになってしまう。

 話の途中で口を出したい気持ちを我慢して黙って最後まで聞いていた蜃は愕然とした。記憶を継いでいないどころか感情も未熟であることに、何を言えば良いのか思い浮かばなかった。椒図は自分の意思で宵街へ行ってしまった。捜し出して見つけてしまえば味方になってくれると高を括っていた。

「それでも……椒図を止めてほしかった」

「うん……止められなかったことは謝るよ。……でも、宵街の中には螭と蒲牢がいる。動いてくれるならいいけど」

「あいつらは信用していいのか?」

「…………」

 獏はメニューに釘付けになっている灰色海月を見遣り、無言で椅子に背を預けた。

 獏も次の手を思案している最中のようだと、蜃は床に目を落とし言葉を呑み込んだ。動物面を被り表情は見えないが、何処かぼんやりと虚ろだ。

「……注文、あれば聞くが」

 焦る気持ちはあるが、まだ少し時間が必要なようだ。店主の視線もちらちらと背中に刺さるので、蜃は仕事をすることにした。

「じゃあ、ほっとするような物」

「ホット珈琲か?」

「僕が駄洒落を言ったみたいにしないで」

 漸く決めたのか灰色海月も顔を上げ、蜃の存在に気付いて口をぼんやりと開けた。

「……このプリンアラモードと言う物を」

「言いたいことがあるなら言えよ」

「似合ってます」

「くっ、一番嫌なことを……」

 さっさと立ち上がり、蜃はカウンターへ注文を伝えに行く。

 灰色海月は不思議そうに獏に目を向ける。メニューに集中して何も聞こえていなかったらしい彼女に、蜃が勝手に話していた説明を聞かせた。

 程無くして蜃は注文を載せた盆を右手に持ち戻って来る。盆をテーブルに置き、右手のみで注文品を並べた。脚の高い皿にプリンや果物やクリームが盛り付けられた物を灰色海月の前へ、獏の前には甘い香りが漂うティーカップを置いた。

「プリンアラモードとココアだ。注文はこれでいいな?」

「アラモードはとても綺麗なんですね」

「ありがとう、蜃。……左手はどうかしたの?」

「……」

 蜃は一度目を逸らし、溜息を吐いた。

「獣に遣られた。椒図を捜す奴を殺せとか言われてたみたいだな。獏なら殺すなと言われてたようだから、言ったのは狴犴だろ。この前、ビルの窓が割れたことがあっただろ? たぶんそれを遣った奴だ」

「え……さっき言ってた手当てって、それ?」

 獏の方はそういう刺客と鉢合わせることはなかったので、狴犴は何も行動していないのだと思っていた。蜃が鉢合わせたからこそ獏の方に来なかったとも言える。もう一度蜃の全身を確認するが、長いスカートに隠れ怪我がどの程度だったのか見ることはできなかった。あの時の願い事の契約者を殺した獣と同じなら、軽傷では済まないだろう。

「……あんまりじろじろ見るな。動けるようにはなったから気にするな」

「動けないほど負傷したってことだよね?」

「だから気にするな。……まあ、君も気を付けておけ。角の生えた男だ」

 さっさと飲めとでも言うようにひらひらと右手を振って盆を拾う。盆を掲げて歩く姿は無理でもしているのか違和感はないが、左手は一切使おうとしなかった。カウンターへ行く前に獏の後ろへ回り、誰もいない奥に視線を向ける。

「――ヒナ、捜してる人が見つかったから、もう捜さなくていい。ありがとな」

 誰もいないはずの店内で何に話し掛けたのか、獏は振り向く。蜃の視線の先――店の隅の席に少年が一人、携帯端末を手に座っていた。誰かがいることに全く気付かなかった。気配が無い。

「誰……?」

「ああ、こいつはヒナ。俺の手当てをしてくれた人間だ」

「人間……? 本当に?」

「何言ってるんだ? 人間が持つ小型の機械を持ってるだろ」

 確かに髪の色も目の色も人間のようだ。ヒナと言う少年は獏の視線を感じ、愛想良く微笑んだ。

 蜃はカウンターに盆を置き、戻って来てもう一度椅子に座る。

「椒図のこと、もう少し聞いてもいいか? 化生して、どんな感じになってた? 性別とか……」

「…………」

 ヒナのことは気になるが、蜃も放ってはおけない。椒図と一番仲が良く気に掛けていた蜃には少しでも多く椒図の情報を与えてやりたい。それに、動けない程の蜃を見捨てず手当てをしたヒナには少なくとも敵意はないだろう。

「椒図は男だったよ。良かったね、女性として生きる覚悟が無駄になって」

「この格好で言われると複雑なんだが……」

「外見の年齢は君や僕と同じくらいだったよ。身長も少し低くなってたかな。髪も短くなってて、前に束ねてた髪留めは必要ないんじゃないかな」

 蜃は絵本を読んでもらう幼子のように興味津々で、先を促すように大きな瞳を丸くする。死から生へ認識が移行する感覚があった。新しい容姿を聞き、少しの懐かしさもあった。蜃が初めて会った時の椒図は髪が短かったのだ。

「じゃあ俺の前髪の方の髪留めをあげようか――」

 赤い髪に手を遣り、蜃ははっとした。いつからだろうか、そこにあるはずの髪留めが無くなっていた。髪を押さえたまま立ち上がり、ヒナに焦燥をぶつける。

「ヒナ! 俺の髪留めは……」

「髪留め?」

「前髪に付けてた髪留めだ」

「……僕が貴方を見つけた時にはもう髪留めは付けてませんでしたよ」

「は……」

 きっとあの獣の起こした風の所為だ。あの強風で髪留めが飛ばされたのだ。

「探してくる!」

 あれは椒図が付けてくれた物なのだ。無くすわけにはいかない。長いスカートをたくし上げ、蜃は慌てて店を飛び出した。

 走るにはまだ体が痛むのだろう、一瞬歯を食い縛ったことに獏は気付いた。追うべきか迷うが、もう飛ぶか転送で行ってしまっただろう。本気で飛ばれると足では追い付けない。

 代わりに背後を振り向き、珈琲を飲むヒナを見た。一度認識できると、もう見失わない。

「ヒナ……だっけ。……君は人間?」

 ヒナはゆっくりとカップを置き、黒い動物面を見詰めた。

「人間ですよ」

 妖しい面にも動じず、ヒナは笑った。随分と落ち着いた人間だ。

「変な答えだね。『何言ってるんだ?』なんて言わないの?」

「皆が同じことは言いませんよ」

「手当てしたんだってね。獣の手当ては特殊なのに。動けない程の獣を自力で手当てできる人間がいるとは思えないんだけど」

「…………」


「君が、贔屓だね」


 その名を口にした瞬間、明確に空気が変わった。ヒナは口元に薄らと笑みを浮かべ、目を閉じる。再び開いた瞳は人間とは異なる赤褐色に変化していた。

「マスターがいるから髪はこのままでいいかな。僕に会いに来た獣は君が初めてだ。よく辿り着いたな」

「道が認識できなかったのは君の所為なんだね」

「獣には見えないようにしているだけだ。全てを対象にすると人間の客が来られなくなるから人間は除外しているんだが、その穴を突いて変転人を連れて来たのは君が初めてだ」

 獏には認識できず灰色海月だけが道を見つけられたのはそういう理由だったのかと納得した。それを見越して灰色海月を連れて来たわけではないが、結果として運が良かったようだ。

 噂は立つが誰にも見つけられない絡繰はこれが理由だろう。変転人には見ることができるのだから、変転人から噂が立ったのだ。

 人間ではない獣では幾ら捜しても見つけられない。宵街を統治し人望もあった贔屓が危険だなんて考えもなく、獣達は単独で彼を捜した。

(そうか……噂を流した大本は贔屓だ。ここまで巧妙に隠れられるなら変転人にも噂を流されるはずがない。狴犴より慕われてる元統治者が完全に消息を絶つと治安に係わる。定期的に変転人を利用して噂を流してる……噂を流した元を特定されないように)

(はぐ)らかしても良かったんだが、椒図や蒲牢の名前が聞こえてきたからな。懐かしくなってね」

「話が早くて良かった。君には話があって来たんだ」

「話を聞くのはいいが、さっき出て行ったあの子はここに戻って来られないが、いいのか?」

「一度認識したら見えるんじゃないの?」

「そんなこと言ったか?」

 どうやら蜃を迎えに行かないといけないらしい。ココアが冷めてしまうが、仕方無く獏は立ち上がる。贔屓を逃がしてしまうかもしれないが、負傷している蜃を放り出しておくことはできない。

「客は座っているといい。僕が行く。心配しなくても戻って来るよ。あの子の服を繕っている途中だし、マスターに迷惑も掛けられない」

 贔屓は瞬きをし、目の色を元に戻す。残っていた珈琲を飲み干して立ち上がった。

「マスター。あの子が迷子になるといけないので、迎えに行ってきます。それと、珈琲のおかわりもお願いします」

「ああ、行ってらっしゃい。気を付けて」

 カウンターに空のカップを置いて店主に頭を下げる。店主が豆を碾いていたのは彼のためだったのだ。

 贔屓は獏の横を通り過ぎる瞬間、耳元に囁く。

「……マスターは僕を獣だと知らない。余計な波風を立てないなら話を聞いてあげよう」

 獏の肩を叩き、贔屓は店を出た。軽く叩かれただけだったが、鉛でも載せられたかのように肩が重くなった。獏は重みに耐えきれずすとんと椅子に座り、その瞬間に重みは消えた。



 店を飛び出した蜃は痛む体に鞭打ちながら何とか杖を召喚し、巨大な竜巻に襲われたあの場所へ転送した。

 そこは住宅街の真ん中にぽっかりと穴が空いたように、竜巻に根刮ぎ飛ばされ明かり一つ無く暗く沈んでいた。飛ばされた瓦礫は道を塞ぐ物は殆ど取り除かれていたが、家に落ちた物はまだそのまま痛ましく残っていた。電柱も折れ、近隣の家々には暫く明かりが点らないことだろう。

 自分が飛ばされた路地へ辿り着き、少ない明かりの中で必死に小さな髪留めを探す。もう陽も落ち物陰は黒くよく見えなかったが、杖を振り光を出しながら地面を這うようにどんな隙間も隈無く探した。

「無い……」

 もっと遠くへ飛ばされたのかもしれない。ゴミだと思われ捨てられてしまったかもしれない。瓦礫に潰されたかもしれない――。

 見つけたと思ってもそれは只の石ころで、路地を奥へ進んでも欠片すら見つからなかった。

(屋根の上に飛ばされたのかもしれない……)

 上も探さねばと顔を上げて後ろを振り向き、そこに足があることにびくりと硬直した。いつから背後に立たれていたのか、蜃は見下ろす人影を恐る恐る見上げた。

「ぁ……」

 髪留めを探すことに必死で気配に全く気付かなかった。手が届くほどの距離に接近させることを許してしまった。

 夜を背に立っていたのは、巨大な竜巻を起こし蜃を殺そうとした獣少年だった。白黒の髪とそこに生えた牛のような角は間違えようがない。

 手元を照らす光を消し、蜃は杖を構えた。立ち上がろうとし、長いスカートの裾を踏み尻餅を突いてしまう。衝撃で傷にも響き、歯を喰い縛った。

「可愛い……」

 獣少年は杖を出さず、ぽつりと呟いた。上手く聞き取れず蜃は眉を寄せた。

 スカートの裾を払い、蜃は杖を構え直しながら後退する。この距離でまたあの規模の竜巻を起こされれば今度こそ死んでしまう。

「驚いたな。生きてるとは思わなかった」

「……」

「遣り過ぎだって言われて、仕留めた証拠に死体か肉片を探してたんだけど」

 後退る蜃との距離を一瞬で詰め、獣少年は蹲んで蜃の杖を握った。

「離せ!」

「そう警戒するなよ。生きてるなら遣り過ぎってことはないよな。いいことだ。でも生きてるとは……」

 杖を引き寄せ、じっと観察するように蜃の顔を凝視する。獣少年に杖を召喚する気配はないが、召喚と同時に力を出力していた彼には先んじて杖を握る必要はないだろう。

「可愛い……」

「……は?」

 今度ははっきりと聞こえた。突然何を言い出すのかと、蜃は険しい表情をする。

「ここで何してたんだ? オレを捜してたのか? 残念ながら地面には埋まってないぞ」

「……」

 彼が何を言っているのか蜃は理解できず言葉が出て来なかった。

「まあいいか。向こうでこれを拾ったんだ。よく見えてなかったけど、たぶんお前が髪に付けてた奴だよな?」

 ごそごそとポケットを漁り、蜃が必死に探していた髪留めを抓み出した。道理で見つからないはずだ。獣少年に拾われていたらしい。

「それ……!」

 反射的に手を伸ばしてしまい、髪留めを掴んでしまった。獣少年は一瞬呆気に取られるもすぐにその手を握り返した。

「結婚するか?」

「何でだよ!」

 獣少年の手を振り払って髪留めを引ったくり、スカートをたくし上げて後方へ跳ぶ。跳ぶと傷が痛んで顔を顰める。獣少年が何を言っているのか理解できず混乱する。

「可愛い顔に傷が付かなくて良かったな」

「……付いたが治ったんだ。さっきから何を言ってるんだ君は」

「この前は一瞬しか顔が見えなかったからな。こんなに可愛い子だとは」

「不快な奴だな……」

「可愛いから殺さないでおいてやる」

「…………」

 目元がぴくぴくと痙攣しそうになりながら、蜃はもう数歩後退した。この獣は危険だ。

「今度遣り過ぎたら地下牢にぶち込むって言われたしな。ま、丁度いい――」

 蜃と出会えて上機嫌な獣少年は腰に手を当てながら、ふと空気の重みを感じた。

「……ん?」

 蜃の杖の変換石は光っていない。それを視認した瞬間、一気に体が重くなった。

「な……何だこれ……」

 立つことができなくなり地面に手を突くが、体を支えることができず地面に貼り付いてしまう。突然天井に押し付けられたような気分だった。

 何が起こったのかはわからないが身動きが取れないらしいと察し、蜃は好機だと狭い路地を走り獣少年を跳び越えた。スカートだろうが知ったことではない。

「何で男物のパンツなんだよ!」

「当たり前だろが!」

「何で当たり前なんだよ!」

 地面に這い蹲っても叫ぶことはできるらしい。叫ぶ獣少年に叫び返しながら蜃は脱兎の如く逃げた。目的の髪留めは見つかったのだ。長居は無用だ。

 蜃は明かりのない暗い竜巻の跡地を振り返りながら走り、勢い良く何かにぶつかった。前方の注意を怠っていた。瓦礫のような硬い感触ではない。転ばないように体を支えられ、勢いを吸収される。

「……大丈夫ですか? まだ走るのは控えた方がいいですよ」

「ヒナ……?」

「髪留めは見つかりましたか? もう暗いので迎えに来ました」

「お……おう……」

 もう一度振り返り獣少年が追って来ないことを確認し、握り締めていた杖を背に隠しながら仕舞った。

「う……」

 獣少年から逃れられたことに安心すると、忘れていた痛みが体を駆け巡った。内臓を抉るような損傷は無いが、全身切り刻まれてスカートの中はまだ傷だらけだ。獣少年も跳び越えた瞬間に脚の包帯には気付いただろう。パンツは見えたのだから。

「肩を貸しましょうか?」

「いや、いい……」

 奪い取った髪留めを見下ろし、欠けていないことに安堵する。髪留めを大切に握り締め、強がろうと背筋を伸ばし少し蹌踉めいた。ヒナは手を出しかけたが、傷を庇いながら歩く蜃を見守ることにした。

 からんと小気味良い音を立てて店へ戻ると獏と灰色海月のテーブルの上は綺麗に片付けられており、店主は帰り支度をしていた。

「ああヒナ君。戻って来たね。お客さんはヒナ君の知り合いと言うから、私は先に帰るよ。後は任せていいかい?」

「はい。お疲れ様です、マスター」

「珈琲も淹れておいたよ」

 店主はくしゃりと笑い、皆を残して店を出る。

 ヒナは慣れた手付きでレースのカーテンを閉め、ドアの鍵を締めた。

「君はここに住んでるの?」

「まさか。怪我人の介抱をするために、今だけ泊めてもらっているだけだ。だから店の物には触るなよ」

 ヒナが敬語ではないことに蜃は違和感を覚えたが、性格の悪い獏に敬語を使う必要はないなと納得もした。

「蜃……と呼ばれていたか。名前をまだ聞いてなかったな。盗み聞きするつもりはなかったが、椒図と仲が良いんだろうと思えた」

「え……?」

「初めまして――と言うことにしようか」

 ふわりと空気が変わり、ヒナの髪は黒から鉛色に、瞬きで瞳は赤褐色に変化した。

「ヒナ……?」

 状況が理解できない蜃に、獏が説明する。

「彼は人間じゃなく獣……椒図の兄の贔屓だよ」

「獣……!? でも、人間の持つ機械……」

 贔屓は近くの椅子を引き、徐ろに座った。

「僕は人間として生きることを選んだ。だから人間の持つ機械も持っている。溶け込むのは最初は苦労したが、何とかやってるよ」

「本当に……獣……? 椒図の兄……」

「混乱させてしまってすまないな。そっちの君、話は手短に頼むよ」

 困惑する蜃に説明を加える気は無く、贔屓は獏に向き直った。

 獏は一度深呼吸し、目的を話し出す。人望があると洋種山牛蒡が言っていたが、確かに纏う空気は柔らかいが何処となく威圧感がある。気を抜くと喰われてしまいそうだ。

 だが贔屓には全く利点の無い烙印の解除をどうやって遣らせるか、じっくり考える時間はなかった。

「蒲牢から君のことを聞いた。手短と言うなら単刀直入に言うよ。烙印の解除印はまだ持ってる?」

「解除印?」

 予想外の言葉だったのだろう、贔屓は小首を傾ぐ。

「てっきり宵街に戻れと言われるのかと思っていたが。狴犴は解除印を無くしたのか?」

「無くし……いや、そうじゃなくて……うん……やっぱり最初から話そう。手短過ぎて理解してもらえなさそうだ」

「話が長くなるのか? ……まあいい。一晩なら付き合おう」

「そこまで長くするつもりはないけど、一晩なんて言うならちゃんと名乗っておくよ」

 獏は一度立ち上がり、胸に手を当て大仰に頭を垂れた。白花苧環の真似だ。

「改めまして、僕は罪人の獏だ」

 隠しておくこともできたが、正直に罪人と名乗った。贔屓の前で嘘を吐くのは躊躇われた。威圧感の所為だろう。

 罪人と聞いても贔屓は表情を変えない。畏怖も軽蔑もない。人間としての生活が長くても鈍ってはいないようだ。

「成程、罪人が自ら烙印を解除してもらいに来たわけか。狴犴が無くしたと話に乗ることもできたのに、正直だな」

「話に乗るのが楽なら乗るけど、乗った所で君はすぐ嘘だって見破るでしょ? だったら嘘を吐かない方が信用を得られると思う」

「そうだな。罪人が信用できないのは僕も狴犴と同じだ。君がどうやってここに来たのか、正直に話してくれるなら詮索の手間が省ける」

 罪人になった経緯までは話さなくても良いだろう。獏は最近の狴犴の動向と白花苧環のことを話した。贔屓は一切口を挟むことなく黙って耳を傾ける。椒図の死と化生については淋しそうな目をしたが、最後まで静聴していた。

「――これで理解してもらえたかな?」

「大凡は、かな。君は白花苧環を狴犴の手から救い出したい。狴犴は白花苧環を手放したくない。椒図は狴犴の味方をして、それで宵街が閉じられてしまった。行動するためには烙印が邪魔……というわけか」

「うん。それでいい」

 贔屓は一口珈琲を飲んで腕を組み、暫し黙考した。

「何故地下牢から出されているのかは今は置いておこう。結論から言う。できないわけではないが、僕はそれをしたくない」

「理由を聞いてもいい?」

「ああ。今宵街を統治しているのは狴犴だ。それに口を出すことも手を出すことも、僕はしたくない。狴犴は良くやっているよ。全て任せて半年もしない内に()を上げるかと思えば、一年経っても十年経っても一人で頑張っていた。もう何百年も一人で。実は隠れて様子を見に行ったことがあるんだ。涼しい顔をしていたが、あれを続けることはできないと思った」

「できない……? どういうこと?」

「人間の言葉に例えるなら、過労か。獣と言えど不休で働き続けていつまで体が持つか。白花苧環は狴犴を手伝っていたんじゃないか? 負担が減らせるなら白花苧環は狴犴の手にある方がいい。椒図もそう考えたんだろう」

「…………」

「だが君の言う通り、狴犴の遣り方は良くない。それも理解できる。白花苧環を殺した理由は直接狴犴から聞く方がいいだろうな」

「やっぱり兄弟だね……君も狴犴の味方をするわけだ」

 贔屓は困ったように笑い、大人しく話を聞いている蜃に目を遣った。

「蜃はどう思う? 君は兄弟ではないから、客観的に見られるかな?」

 突然話を振られた蜃は視線を浴び、目を伏せた。今は獏の許にいるが、元々蜃は獏を殺そうとしていた。今は椒図のことがあるため味方をしているだけだ。

「……俺は、別に……苧環のことはそこまで……。椒図が無事ならそれでいい」

「椒図とそんなに仲が良いのか?」

「友達……」

 椒図が化生しまだ顔も合わせない内に友達と言って良いのか逡巡したが、これからきちんと話して友達になるのだから良いだろう。

「そうか。僕は化生前の椒図には会わなかったからな。椒図の話を少し聞きたい。思い出話をするなら、食べながらの方がいいか? そろそろ蜃のお腹が鳴りそうだ」

「煩い」

「マスターが作り置いてくれているカレーがあるから。食べてもいいと言われている」

 贔屓は静かに立ち上がり、カウンターの中へ入った。

 只の客だと思っていたが、どうやらヒナは随分と信用されているらしい。只の客に閉店後の店を貸すことはしないだろう。

 人数分の皿に御飯とカレーを装い、冷蔵庫から真っ赤な福神漬けを取り出す。物の位置もしっかりと把握している。今日が初めてというわけではなさそうだ。

 それぞれの前にカレーライスの器と水を入れたコップを置き、贔屓も珈琲のカップを持って席につく。

「甘口だから蜃も食べられるはずだ」

「おい余計なこと言うな」

 腹が鳴りそうだったので、蜃はむっとしつつもスプーンを手に取る。カレーライスは食べたことがなかったが、贔屓の一言の所為で構えてしまった。端を少し掬って恐る恐る口に入れると、少しだけ刺激はあったが食べられる味だった。

「美味い」

「蜃の感想はいつもそれだ」

 笑いながら贔屓もスプーンを手に取る。介抱されている間に随分打ち解けたようだ。二人の様子を見ながら獏も少しの躊躇と共にスプーンを持つ。

 椒図の話をする間、蜃はとても楽しそうだった。宵街には行ってしまったが化生した椒図が見つかり多少は安心しているのだろう。神隠しのことまでうっかり話してしまいそうになり慌てて口を噤む場面もあったが、贔屓は追及しなかった。神隠しの話をしなければ獏との関係が語れないのだが、罪の話を贔屓に聞かせるのは躊躇われる。贔屓が統治していた頃の罪人は釈放されていたのだからある程度は罪に寛容だろうが、そこまで包み隠さず話す必要はない。沈黙は嘘吐きではない。

「本当に椒図とは仲が良いんだな。椒図は家から出ないと聞いていたんだが、連れ出す人がいて良かった」

「でも俺が連れ出さなければ、椒図はこんなことには……」

 蜃の見えない傷に触れてしまったようだ。贔屓は話を切るようにテーブルを見渡し、それぞれの食べ終わった皿をカウンターへ運ぶ。

「わざわざ来てもらって手土産も無く帰るのは詰まらないよな。焦っているようだし、烙印を見てあげるよ」

 解除印の話を切り出した時から、獏が焦っていることに贔屓は気付いていた。贔屓が宵街の元統治者である所為だろう、獏から緊張と焦燥が滲み出ていた。気が急く余り先を急いだ言葉は怯えているようでもあった。少しは気分が紛れるだろうかと蜃に話を振ったが、思いの外蜃と椒図の仲が良いことに微笑ましくなってしまった。

「……見るだけ?」

「罪人に対して随分な譲歩だと思うんだが?」

「…………」

 紙で拭き取ってから皿を洗う贔屓を遠目に見ながら、獏は水を飲んだ。隣で置物のように大人しくしている灰色海月は手伝った方が良いのだろうかとそわそわしているが、店の物に触るなと言われた手前動けない。

「僕も獏の話で気になったことがあるから」

「交換条件?」

「そういうつもりじゃないが。何故蒲牢が君の味方をするのかわからなくて」

「僕が悪夢を食べられるからだよ。蒲牢が悪夢を食べてほしいって」

「蒲牢からそんな話は聞いたことがなかったんだがな……宵街を出て行ってからなのか。獣が悪夢なんて、相当だろ?」

 皿を拭いて棚に戻し、贔屓は皆を手招いた。いつまでも店の明かりを点けておくわけにはいかない。

 水の入ったコップを持って休憩室に招き、毛布を敷いたソファには蜃が座った。机には黒い布の塊が置かれている。繕っていると言う蜃の服だろう。裁縫道具も傍らに置かれていた。

 獏も空いているソファに座り、机にコップを置く。灰色海月は傍らに立ち、座りはしない。

「先に烙印を見よう」

 獏は言われた通り襟の釦を開けた。贔屓はその前に蹲み、露わになった烙印を指でなぞる。

「ああ……成程。それで蒲牢は僕に……」

「?」

「これは狴犴の使う烙印じゃない。僕が使っていた烙印だ。捨てたと思っていたが、まだ持っていたのか。少し改造してあるが……。これなら狴犴に背くことにはならないと考えたか……」

 ぶつぶつと呟きながら烙印に触れる。喉元に手を当てられるのはあまり良い気分ではないのだが、解除印のためだと獏は耐えた。

「君は特殊な扱いを受けているようだな。あの狴犴が寛容な……。あまり気は乗らないが、交換条件と言うならこれを条件としよう」

 無造作にポケットに手を突っ込み、透明な短い棒を取り出す。それは獏が求めていた、喉から手が出るほど欲している物だった。

「これが烙印の解除印だ。狴犴の話を聞いてくれるなら、解除してあげよう」

「……え?」

 何を条件にされたのかすぐに理解できなかった。

「話を聞く……? 受け入れろってこと……?」

「少し違うが、あいつの話も聞いてやってほしい」

「話を聞かないのはあっちだと思うけど。今一番会いたくない奴だし、話をしようなんて言ったら絶対詮索される。烙印を解除したいなんて、絶対拒否される」

「否定はしないが、狴犴も自分の考えは持っている。話を聞かない人と言うのは自分の考えを押し付けるだけで、相手が正論を言っていようと聞く耳を持たないが、狴犴は相手の話を咀嚼した上で納得できないことだけを否定する」

「……結局否定してない?」

 否定の過程は違うが、罪人の言葉などどのみち否定されるだろう。そう思ったが、確かに狴犴とは対話をしていない。罪人とそれを裁く立場の者とで、交わる所がなかった。

「詮索されたら僕の名前を出すといい。その上でどんな判断を下すか楽しみだ」

「僕は全然楽しくないんだけど」

 贔屓は口元にだけ笑みを浮かべ、胸中を探らせない。人望があると言うことで話を聞いてくれるし人当たりも悪くはないが、彼自身の中身が見えない。指で輪を作り覗こうと考えてしまうが、握って抑えた。呑まれないよう獏は強気な態度を取っているが、思考が見えてこないことが怖い。この元統治者は喰えない。

「……蜃。寝る前に一つだけ」

 腹が一杯になりうとうとと瞼が下り始めていた蜃は目を擦り、頭を振った。怪我の回復を急ぐためだろう休息に正直な体だ。

「蜃を襲った獣は窮奇(きゅうき)だ。あいつは気紛れで気が短い。突き掛かられたら逃げるのが賢明だな」

「知り合いなのか?」

「知り合いと言う程ではないが、妹の悪友だ」

「妹? ……どれだ?」

饕餮(とうてつ)なんだが、わかるか?」

 蜃は顔を顰めながら頷いた。

「窮奇に協力を仰いだのは、狴犴も相当追い詰められていたんだろう。兄としては少し心配だ」

 烙印から手を離し、解除印に視線を落とす。

 その言葉に獏は違和感を覚えた。話の辻褄が合わない気がする。

「心配なら君が宵街に戻ればいいのに」

「……。確執とでも言うのか……蒲牢から何も聞かなかったのか?」

「決別……だとか言ってたけど」

「……そうか。話していないなら僕からも話さなくていいだろう。獏も隠していることがあるだろう?」

「……」

「狴犴の統治する今の宵街は寂れている。僕は狴犴が正しいとは思わない」

 その言葉は、彼は狴犴の味方ではないと言っているようだった。先程の否定の話は体験談だったのかもしれない。感情の籠もらない目が虚空を冷たく見詰める。

 真面目に話している前で、蜃は飽きたのか横になって眠ってしまった。蜃の寝顔だけは平和だ。

「罪人が狴犴を気に掛けるなんて笑い話でしかないんだけど。それに宵街は閉じられちゃったんだから、行くこともできないよ」

「閉じられた宵街は蒲牢が何とかしてくれるだろ? 蒲牢は優秀だからな」

「だったら蒲牢に狴犴を何とかしてって言えばいいのに」

「あいつは……時々とても思い詰めた顔をする。荷を背負わせたくない」

「それで兄弟じゃない僕に頼むの?」

 それでは押し付けられているだけではないかと獏はむっと口を尖らせる。

「僕の獏のイメージだと罪を犯すような力は無いと思っていた。君は特別なんだろう。さっき言った条件が見合わないと言うなら、それでもいい。烙印は解除されない。それだけだ」

「足下を見るね……」

「ああそうだ、先にもう一つ言っておこう。僕が解除印を捺したとしても、完全に解除されるわけじゃない」

「…………」

「半分解除できれば良い方だろ。烙印には捺印した人の力が加わるからな。どんな鍵穴にもそれに合った鍵が必要だ」

「……理屈はわかる」

「時間があるなら幾らでも考えてくれればいい。そう緊張するな。取って喰ったりはしない。僕は君が考えている間に蜃の服を仕上げるよ」

 そう言うと机上の黒い塊を手に取り、針山から針を抜く。ソファに深く腰掛けて脚を組み、贔屓は手元に集中した。

 贔屓に気圧されて強がっていることに気付かれている。獏は俯き、それ以上は何も言えなかった。

 考えると言っても、答えは一つしかない。解除印を捺してもらうために来たのだから、捺してもらうしかない。

(狴犴は追い詰められてる……?)

 それでも、白花苧環を殺したことはどんな理由があっても許せるものではない。

「……クラゲさんもいつでも寝てくれていいからね。帰る時は起こしてあげるから」

「はい」

 返事はするが、灰色海月は寝ようとしない。少なくとも獏が眠らないと寝ようとしない。起こすと言っても、また置いて行かれるかもしれないと警戒している。

 壁に掛けられた時計を見るともうすぐ日付が変わってしまう時間だった。仕方無く獏はソファに横になり、眠る振りをした。面を被っているので目を開けているかどうかなんてわからないだろう。灰色海月は暫く獏を見下ろした後、近くにあった椅子に座った。

 服を繕う贔屓の手元を眺めていると眠くなりそうだった。慣れていないのか偶に針で指を突いているが、眉を顰めるだけで手は止めない。人間として生きるなど、獏には考えられないことだった。そんなことをすれば毎日嫌悪感に襲われることだろう。仮にそんな感情が無かったとしても、圧倒的に長命な獣は人間の中では浮いてしまう。

「……獏は寝ないのか? それとも明かりを点けていると眠れないか?」

 面を被ってじっと動かずにいたのにあっさりと見破る。しかも手元から目を離さずにだ。

「僕は夜行性だし」

「そうなのか」

「君は寝ないの?」

「後少しで終わるんだ。終わったら寝る」

「……君達って変な兄弟だよね」

「ん? 何だ藪から棒に」

 贔屓は少しだけ顔を上げ、横になっている獏を一瞥する。

「もし今の自分が死んだ上での化生だったら……って考えたことない?」

「……蒲牢か? 昔そんなことを訊かれた。もし死んだ上での化生だとしたら……僕は長子じゃないのかもな」

「…………」

 何気無い言葉だったが、獏には引っ掛かった。

「君は長子なんだよね……?」

「ああ、そうだよ」

「蒲牢は兄弟の順番について、何か言ってた?」

「順番? 特に覚えはないが……そう言えば昔は僕のことを偶に兄様と呼んでいたな。僕は構わないんだが、いつも慌てて訂正していた」

「同じなんだ……」

「ん?」

 獏はがばりと起き上がり、思い付いた一つの仮説に身震いした。

「兄弟の順番が同じなんだ……」

「?」

 贔屓は静かに糸を切り、針山に針を刺す。獏の言っていることがわからなかった。

 贔屓は口元に手を遣り黙考する。『順番が同じ』とは、今の生だけでは言えない言葉だ。獏は龍生九子が死んだ上での化生だと言いたいのだと推測する。それを考えると、心当たりのようなものはあった。

「……蒲牢は妙に必死に兄弟を集めようとしていた。僕と鴟吻(しふん)を見つけた蒲牢は、最初は殆ど離れようとしなかった。弟とはそういうものなんだと思っていたが、蒲牢は何かを知っている……?」

「あ……」

 贔屓の推測を聞き獏は口を噤んだ。蒲牢は化生前の記憶を兄弟に話していない。それを獏が軽い気持ちで話して良いわけがない。つい思い付いた衝撃を口に出してしまった。

 獏は静かに再び横になり、無言で目を閉じた。

「…………」

「……何故突然寝た振りを?」

 繕った服を畳んで置き、贔屓は獏の動物面を小突いた。それでも獏は寝た振りを決め込んだ。

「寝るなら明かりを消すが……」

 起き上がる気配がないので、贔屓は仕方無く立ち上がった。明かりを消しながら「夜行性なのに」と呟く。

 うっかり口にしてしまった彼ら兄弟のことは一旦横に置き、贔屓の出した条件をどう処理するか狸寝入りを続けながら獏は考える。こんなことなら贔屓のことをもっと詳しく蒲牢から聞いておけば良かった。


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